【ChapterⅡ】Section:4 旅立ち
一日後、今まで経験したことのない自分の感情の沈静化に苦戦しつつも、直感だけでそれを見事にこなしストレスなく眠りについた次の日、機械的に行ったのか、それとも本当に何かしらのマシンで行ったのか、採点が既に完了していた試験用紙がステラの自室の机の上に届けられていた。既に寂寥感を消し去っていた彼女は冷静に用紙を確認した。
「四百九十九問正解で──うーん、やっぱり最後だけダメだったみたい」
五百問の魔法とその関連分野の問題に対し、九十九・八パーセントの精度での正答。おそらく合格ラインには届いているだろうと平静に考える精神に対し、肉体は安堵を示すかのように軽くため息を吐き出した。自身の肉体の完全な制御も課題の一つであると認識しつつ、すべての問題を流し読みしてから再び最後の問題に着手したが、やはりというべきか、たっぷりと五分ほど考えてもわからなかった。ステラは熱力学第一法則と熱力学第二法則が通常通りに適応される宇宙にて、現代物理学的及び古典物理学的な永久機関の開発に着手するのに似た愚かな真似をするつもりがないので、彼女は大人しく諦めることにした。わからないことを解明するのが人間であるが、実際のところわからない方がよかったことも大いに存在するのだ。かつて人間が自分たちを第二領域の存在であると思い込んでいたように、無知であることこそ素晴らしいときもある。
実際のところ、この試験で正答を確信できたのはそれほど多くなく、たった百問ほどだった。もちろんそれには原因があり、その百問が専門用語についての説明を選択あるいは記述するか、逆に説明に適する用語を取り出すだけなのに対し、残りの約四百問は難解な発展問題であるからだった。前者と特に関連すると思われるものを例に挙げると、幾何学と神学の関係性について述べなさいという問題があった。通常の論理構造で考えるならばあらゆる視点から見ても全くと言っていいほど関係性は感じられないが、より高度な、より複雑な論理構造を持つ魔法の視点から考えるならば、非常に密接な関係性が浮かび上がってくる。魔法において、奇妙だが数学と哲学は本質的に同一のものとして扱われる。集合論と神智学、幾何学と形而上学、代数学と認識論など、無論例外こそあるもののこのように数学と哲学は対応しており、ベルンハルト砂漠はその具体例であった。ステラはベルンハルト砂漠の概念を基にこの問題に取り組み、演繹的な手法を活用することによって、魔法において神学は幾何学の下分野であるという答えを導き出した。
魔法は基本的に難解な形而上学で語られるような論理構造を基盤としており、必然的に人間が到達可能な論理群において最も複雑な論理であることは明白だった。歴史上これまで行われてきた試験の結果と比較しても、むしろ一問落とした程度は史上類を見ないほど優秀である──というより、最上級の才能ですら四百五十問前後が限界であるために、類を見ないどころか最も優秀である──ことの現しでしかなく、すべての段階を越えている魔術師も含めた他の魔法の学徒がこの結果を見ると、彼女の才能への嫉妬で憤死してしまう程の結果であった。
そんな少なくとも現状では知ることのできない事情を知らないステラは、呑気に次は満点を取ると決意したところで、部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえた。控えめでもノックの音に僅かなブレがあることから、完全に一定のノックを行う父ではなく母が来たと推測するが、やはり次に聞こえたのは予測通りの声だった。
「ステラ、パパから聞いたのだけど、初等段階の魔術師に認定されるための試験に合格したんでしょ?今日はお祝いをするから、準備をしなさい」
扉越しに語りかけてきたアンジェリカの言葉を聞いて、喜びを感じると共に文脈に違和感を感じたので、ステラはそのまま疑問を投げかけた。
「わかったけど、なんで準備しなきゃいけないの?」
「ええ、それはね、今日は外でお祝いをするからよ。もしかしたらあなたがそのまま外に移り住むことになるかもしれないし、ちゃんと準備しなさい。外に出ても恥ずかしくない格好は教えたわよね?」
それを聞いたとき、ステラは非常に驚いた。実はこれまでステラの生活はすべて屋敷の中で完結しており、塀を越えることは一度もなかった。それで生活に何か支障が出るというわけではないが、好奇心が強い年頃の女の子であるステラにとっていつからかそれは退屈でしかなくなっていた。それがなくなるというのだから、その驚きも当然といえるだろう。
ステラの疑問が解決されたのがわかったのか、そのまま部屋の前から去るアンジェリカの足音を聞いて、具体的な時間を聞き忘れたことに思い至った。大人しくアンジェリカのところに向かうしかないと結論付けて扉を開けると、なんと扉の目の前にアンジェリカがいた。さて、彼女は先ほど去ったはずではないのか、明らかに足音を立てながら。しかし彼女の表情を見てみると楽しそうな、いたずらっ子のような表情を隠す努力もせず晒していた。
「あら、引っかかったわね」
部屋から出てきたステラに向かって投げかけられたその言葉で、ステラは確信した。彼女は自分で遊んでいたのだと。とは言っても悪辣なことをされたわけでもない、ステラが可愛くてしょうがないという彼女の様子から悪意を持って行ったわけではないようなので、不満げな顔だけを作り出して当初の目的を完遂することにした。
「……それで、一体いつ行くの?」
「出発は十時よ。そこに間に合うようにすれば大丈夫」
そういって今度こそ伝え終えたのか、本当に彼女はその場を去った。アンジェリカが去ったのを確認して、ステラは今現在の時間を確認した。比較的規則正しい生活をしている……と自分では思っているステラは、時計の時間を見てそれに対して自信を持った。現在の時刻は七時四十二分、起床してすぐに試験結果を確認したことや、アンジェリカと会話したことなどを含めて考えるなら起床時間はおそらく七時半、大きなミスをして時間を浪費したりしなければ、十時には問題なく準備が終わる時間であった。
全身を黒色で統一したステラは十時ちょうどにエントランスに到着した。そこにはアートマンとアンジェリカが既におり、エレンは見送りに来ていたようだ。
「さて、それじゃあ出発しようか」
そういってアートマンは屋敷の外に繋がるステラには到底動かせなさそうな重厚な玄関扉を開いた。ガラス越しではない、本物の宙がそこに浮いていた。瑠璃色から始まる壮大な蒼穹のグラデーション。今日は快晴のようで、雲は大洋に浮かぶ列島のように視界の一割にも満たなかった。出かけるには最高の天気であり、だからこそこの日を選んだのだろうか。まるで祝福されているようだと感じながら、アンジェリカに連れられて道を進み門の外、つまり屋敷の敷地の外へついに出た。比較的静かな郊外に建っているからか、ステラたち以外の人間の声はまったく聞こえず、鳥の囀りと小川の音だけが周囲に木霊していた。何もかもが初めてであるので、ステラは非常にアニミズム的な体験をしていると感じていた。しかし、幼年期を終えるにつれこのような景色は慣れるだろうし、あるいは遠ざかっていくのだろう。
未来のことを考え妙なノスタルジックな気分に浸っていたステラを抽象的な世界から現実へと引き戻したのは一台の車だった。新車か、それとも丁寧に手入れがされているのか太陽光を受けて黒光りしており、大きめの普通車のそれは外観からして明らかに一般的な品ではないのは確かだった。これについての知識は保有していないが、おそらくどこかのブランドの自動車なのだろう。既に運転席近くのドアの前にはおそらく運転手だと思われる漆黒のスーツと胸にいくつかの勲章を着けた男が立っており、彼はこちらを見るなりお辞儀をした。




