選ばれし呪術師の末裔ですが、今はおとなしく王宮の下女をやっています。
かつてこの国――ブラックレイ国では、呪術と魔術は双璧を成す存在だった。
呪術師と魔術師は互いに協力し、国の発展に努めてきた。
しかしあるときから呪術は廃れ、いつしかその存在は人々に忘れ去られていった。
◇◆◇◆
「ニア・カッツェ! 本当に役立たずだな、お前は!」
大柄な男性の蹴りが、華奢な少女のわき腹にめり込む。
黒い髪をした少女――ニアは声にならない悲鳴を上げながら、小汚い絨毯の上に倒れこんだ。
「……!」
「よりによって俺が大切にしていた外套を汚しやがって。お前がいくら働いても買えない高級品なんだぞ、これは!」
そう言う男の右手には、大きな染みがついた外套が握られていた。
「ですが旦那様、それは……」
「言い訳をするんじゃねえ! 本当にクズだな、お前はッ!」
男はもう一度ニアの腹を蹴った。
ニアは胃から酸っぱい何かがこみあげてくるのを感じたが、それを吐き出してしまえばさらに男を怒らせると知っていたから、無理やり口を閉じて抑え込んだ。
思えば、ニアがこの家に引き取られてからはこのように暴行を受け続ける毎日だった。
唯一の肉親であった父と死別し、ニアは遠縁だと名乗るこの男に引き取られた。
男には妻と一人娘がおり、ニアは家に連れられるや否や持ち物を全て取り上げられ、粗末な服に着替えさせられると、家の雑事を全てこなすよう命令された。
その命令に少しでも不服そうな態度を見せれば、男の拳がニアの頬を打った。
食事は一日に一度、男の家族が残した残飯の寄せ集めだけ。寝床として用意されたのは庭の片隅にある物置小屋だった。
絨毯に倒れこんだまま、ニアは男の怒鳴り声が止むのを待った。
男の背後にある柱の陰からは、意地の悪い笑みを浮かべた少女がこちらを眺めていた。
男の一人娘だ。
ニアは知っていた。男の外套を汚したのは、本当はあの娘なのだと。
あの娘がティーポットを倒し、その中身が外套にかかったせいで外套に染みが出来たのだと。
しかしあろうことか、娘は男に、それをニアの仕業だと告げ口したのだ。
そのせいでこんなことに――とニアは痛む腹部を押さえながら、娘の方を見た。
顔中にニキビのある娘は、蔑むようにニアを見下していたまま、意地悪な笑みを浮かべ続けていた。
気が付けば男の怒鳴り声は止んでいた。
ニアは恐る恐る男を見上げた。
「……というわけだ。おい、さっさと荷物をまとめろ」
「は、え、ええと……?」
話の流れが分からなかった。
男は不機嫌そうに屈みこみ、ニアの髪を引っ張って無理やり顔を挙げさせた。
「言っただろうが。お前は明日から王宮で働くんだ」
男からは強い酒の臭いがした。
「王宮、ですか……?」
「ちょうどお前くらいのガキを欲しがってるって話でな。なんでも王宮じゃ側室たちが次々死んでるんだとよ。それを怖がった下女が次々辞めて人手不足らしいんで、ちょうどよかったのさ。お前はとんでもねえグズだったが、最後にようやく俺の役に立ったな」
ぐははは、と男は下品に笑う。
明日から王宮勤めだと言われても、ニアには全く現実感が無かった。
だが、娘に向かって、欲しいものはないか、何でも買ってやれるぞ、などと甘ったるい声で尋ねる男の姿を見て、どうやら自分が売られたのは本当らしいと認識した。
◇◆◇◆
ニアには荷物という荷物もなく、ほとんど着の身着のまま王宮へやってきた。
そして王宮の下女の衣装に着替えさせられ、再び労働の日々が始まった。
労働と言っても、これまでさんざん理不尽な暴力を振るわれてきたニアにとっては大したものではなかった。
食事も一日3食あるし、与えられた部屋は大人数が詰め込まれているという点に目を瞑れば、隙間風や虫が入ってくることもないし、ベッドさえ用意してあったし、今までの環境に比べれば天国のようだった。
そうして王宮の下女として働きはじめ、数週間が経った頃だった。
「ねえニア、知ってる? 第三王妃の噂」
ニアが炊事場で大量の食器を洗っていたとき、隣で野菜の皮を剝いていた下女がひそひそと話しかけてきた。
彼女の名はファレ。ニアと同室で暮らす下女だ。ニアと歳の近い彼女は、ニアの教育係でもあった。
「第三王妃の? あの、お世継ぎがいらっしゃる?」
「ええ。でもすぐに発熱されて、夜な夜な悪夢にうなされていらっしゃるんですって」
「悪夢……」
「そうよ。それで、せっかく生まれたお世継ぎも高熱が続いているんですって」
「ご病気なの?」
「ええ。王家おかかえのお医者様がいらしているそうだけれど、どんなお薬も効かないそうなのよ」
「大変ね」
「ニアがここへ来る前にも似たようなことがあったのよ。第二王妃と第四王妃が次々に発熱して、そのまま亡くなられてしまったの。生まれたばかりのお世継ぎもね。そのときも原因が分からなくて、みんな呪いじゃないかって」
「……呪い?」
言われてみれば、自分が下女として雇われたのはその呪い騒ぎで人手が足りなくなったからだったとニアは思い出す。
「ええ、そうよ。それで、あのスメラギ侯爵様が原因究明の任務を受けられているの」
「スメラギ侯爵?」
「……知らないの?」
「ええ」
はあ、とファレはため息をついた。
「ニアって何にも知らないのね」
「何にも知らないわけじゃないわ。知ってることだけ知ってるのよ」
「……スメラギ侯爵様は、『イケメン貴族ランキング(ファレ調べ)』堂々の1位を飾る今最も人気のある侯爵様なのよ!」
「へー、そうなの」
「ちなみに『娘を嫁にやりたい貴族ランキング(ファレ調べ)』では、残念ながら2位になっているわ」
「あらら……」
ニアにとって、イケメン貴族など特に興味はなかった。
侯爵など、一生関わることのないだろう地位の人間で、自分には関係のない話に思えたからだ。
「……あっ、見てみて。魔術師様たちよ」
炊事場の窓からは、城の脇を通っていく馬車の列が見えた。
客車には威厳なる老人たちが厳めしい表情で座っていた。
「どうして魔術師さんたちが?」
「王女の発熱の原因を調べるためよ。さすがスメラギ侯爵だわ。お医者様に分からないことでも、魔術師様ならきっとお分かりになるわよ!」
「……ええ、きっとそうね」
この炊事場の水道設備もかまどや焜炉も、照明さえもすべて魔法によって成り立っている。
ブラックレイ国の国民の暮らしは魔法で支えられていると言っても過言ではない。
そうした魔法の権威たちが集まっているのだから、解決できない問題などないはず――ファレがそう思うのも当然だった。
しかしニアは奇妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
王女たちの死は病気が原因ではない。でも、魔法でどうにかなるようなものでもない、そんな気がしていた。
◇◆◇◆
ブラックレイ国の王家では側室の制度を採用していた。
そのため、国王には第一から第五までの王妃がいた。
しかし第二王妃と第四王妃は死亡、第三王妃とその息子も高熱にうなされているのだった。
広い中庭いっぱいに干した洗濯物を取り込みながら、ニアは考える。
病気でもなく、そして魔法でもないとしたら、一体何が王妃とその子を苦しめているのだろうか……。
と、そこへ、男の子が歩いて来た。
まだ歩けるようになったばかりくらいの、小さな男の子だ。
ニアは洗濯物を取り込む手を止め、転びそうになりながら歩く男の子へ顔を向けた。
「……どこの子かしら」
男の子は立ち止り、ニアを見上げた。
綺麗な青い瞳をした男の子だ。
二人はしばらく見つめ合っていたが、不意に男の子はニアの衣服の袖を引っ張り始めた。
どうすれば良いのか分からず、ニアは固まってしまった。
「あ、あの、ええと……」
そのとき、中庭の向こうから一人の女性が駆けてきた。
「ごめんなさい、ちょっと目を離した隙に!」
女性は息を切らしながら駆け寄ってくると、慣れた手つきで男の子を抱き上げた。
きゃっ、きゃっ、と嬉しそうに声を上げる男の子。
もう、ダメよ、と男の子を叱った後で、女性はニアの方を見た。
「お仕事の邪魔をしてしまったわね。迷惑かけちゃって、本当にごめんなさいね」
「い、いえ……」
質素で動きやすそうなドレス姿のその女性を見ながら、ニアは、元気な人だな、と思った。
が。
その女性が首から提げているネックレスに気づいた瞬間、ニアは息を呑んだ。
ブラックレイ王家の紋章が刻まれたそのネックレスは、王家の人間――つまり、王妃であることを意味していた。
「もう、シャルルもお姉さんにごめんなさいしなさい!」
「あうう」
男の子は笑顔を浮かべながら、ニアの服を掴んだまま離さない。
「気に行っちゃったのかしら。ねえ?」
「そ、そうかも、しれないですね」
ニアは気が気ではなかった。
なぜなら。
このネックレスが本物なら――いや、この王宮内においてわざわざ偽物のネックレスなど着用するはずもない。目の前にいるこの女性と男の子は――。
「マリアンヌ王妃! シャルル王子! こんなところにいらしたのですか!」
王妃の侍女たちが慌てた様子で駆けてくる。
マリアンヌ王妃――例の、呪いに苛まれている第三王妃その人だ。
「少し気分が良くなったから外に出ていたのよ。そうしたらシャルルがいなくなってしまって。久しぶりに外に出られて嬉しかったのよね、きっと」
あう、と男の子――シャルル王子が答える。
王子はいつの間にかニアから手を離していた。
「だからといってご無理をなさってはいけません! さあ、お部屋へお戻りください」
「どうかしら。案外、部屋にこもっているより外へ出た方が良いかもしれないわよ。ほら、私もシャルルもこんなに元気。ね、シャルル」
王子に頬を寄せる第三王妃。
しかしそのとき、不意に王妃が激しく咳き込み始めた。
「いけません、王妃様!」
侍女の一人が王子を取り上げ、そして王妃は侍女たちに囲まれながら城内へと帰っていった。
ただ一人残されたニアは、その様子を茫然と眺めていた。
ニアの母親は、ニアが物心ついたころには病で床に臥せっていて、そしてすぐに亡くなった。
だから、ニアにはシャルル王子のように母親から抱いてもらった記憶は無かった。
「…………」
それだけが理由というわけではないだろう。
しかし、ニアは第三王妃とその幼い子を救わなければならないような気持ちになっていた。
◇◆◇◆
「はあ……」
深夜。王宮の廊下。
端正な顔に苦渋の表情を浮かべ、ため息をつく青年がいた。スメラギ侯爵である。
スメラギ侯爵は、国王から直々に第三王女の身辺警護と『呪い』の謎を解き明かす任務を受けていた。
しかし、国内外から有名な医学者や魔術師たちを集め、原因の究明にあたっても、未だ『呪い』の正体は分からないままだった。
第三王妃と王子を襲う高熱の原因――一体それが何なのか、そしてどうすればそれが解き明かされるのか。第二王妃と第四王妃が亡くなられたような痛ましい事態を、これ以上繰り返すわけにはいかなかった。
王妃と王子の容態は少しずつ悪化している。
時間に猶予があるわけではない。一刻も早く解決策を打ち出さなければ。
薄暗い廊下を通り、スメラギ侯爵は王国の資料室から持ち帰った文献を片手に自室へ戻る途中、第三王妃の部屋の前に差しかかった。
警備の兵は交代時間なのか、部屋の扉の前には誰もいなかった。
全くけしからんことだ。担当の者にはきつく言っておかなければ。
スメラギ侯爵が眉間に皴を寄せたとき、ふと、扉の前の暗がりに小さな人影があるのに気が付いた。
「……何者だ!」
侯爵が声を上げると、人影は驚いたように立ち上がり、一目散に廊下を駈け去っていった。
王宮の下女の制服を着ていた。一体何のようだったのか――あるいは、王国に仇なす者の変装か?
侯爵は先ほどの人影が佇んでいた辺りに屈みこんだ。
ちょうど扉の縁に位置するそこには、小さな傷が残っているだけだった。
「何者だったんだ、さっきの人影は……?」
そう呟きながら、侯爵は無意識のうちに自分が資料室から持ってきた書物の表紙に目をやった。
「……!」
ボロボロの表紙には、『呪術初歩』と書かれていた。
◇◆◇◆
数日後。
いつものように炊事場で食器を洗っていたニアの元に、ファレか近寄って来た。
「ねえ知ってる? 第三王妃と王子、体調がお戻りになられたそうよ」
「……あら、そうなの。それは良かったわ」
洗い物の手を止め、ニアはほっと胸を撫でおろす。
「でも、何が原因だったのかしら。王国中のお医者様や偉い魔術師の先生たちが調べても分からなかったのに」
「さあ、何かしら。不思議ね」
言いながら、ニアは再び洗い物を始める。
その様子を見て、ファレは訝しむようにニアの顔を覗き込んだ。
「もしかして何か知ってるんじゃないの?」
「ま、まさか。私なんにも知らないわよ」
「――嘘ね」
「う、嘘じゃないわよ」
「いいえ、嘘よ。あたしの目は誤魔化せないわ! こちとら『噂好きのファレさん』で通ってるんだからねっ!」
「知らないわよそんなの!?」
「さっさと白状しちゃいなさい!」
「二人とも、ずいぶん手が空いているようね」
フィレがニアに襲い掛かろうとした瞬間、下女長であるルベルが割って入って来た。
赤毛の、年長の娘で、下女たちを取りまとめる役目である下女長を務めている。
「げっ、ルベル下女長……」
ファレがしまった、という顔をする。
「仕事中にお喋りなんて、私許してないわよ。でもまあいいわ、今回は見逃してあげる。機嫌がいいのよ、私。あのスメラギ侯爵様から直々に、私たち下女へ励ましのお言葉をいただいたのだから」
「励ましのお言葉ですかっ!?」
さっきまでが嘘のように、一気にテンションが上がるファレ。
「そうよ。下女の宿舎前に飾ってあるから見てきたら?」
「いいんですか!?」
「今日だけね。いつもなら、仕事中に持ち場を離れるなんて絶対ダメなんだから」
「わーいやったーっ! 行こう、ニア!」
「え、ああ、うん……」
よく分からないままファレに手を引かれ、ニアは宿舎へ向かうこととなった。
◇◆◇◆
下女の宿舎前にある掲示板には、スメラギ侯爵からの励ましのメッセージが掲載されていた。
丁寧な文字が書かれた便箋くらいの紙は、誰が用意したのか額縁のようなものに入れられており、下女たちの人だかりができていた。
下女たちは「高貴なお方は文字もお美しいのね」「スメラギ侯爵の香水の匂いがする気がするわ」などと、口々にスメラギ侯爵を称賛している。
「ねえねえ、何と書かれているの、あれ」
ファレが背伸びをしながら掲示板を指さす。
下女の中には文字が読めない者もいる。ニアはファレの代わりに、手紙を読んだ。
「……『いつも王宮のために働いてくれてありがとう。あなたたちは王宮を彩る花です』、そう書かれているわ」
「きゃあっ、お花ですって。やだ、どうしよう、あたし」
バシバシとニアの肩を叩くファレ。
ニアはやれやれと苦笑いを浮かべた。
そのとき、ニアはスメラギ侯爵からの手紙の縁に描かれた不自然な模様を見つけた。
「……呪術」
「え?」
思わず呟いたニアの言葉に、ファレが首を傾げる。
「あ、い、いえ、なんでもないわ。あの手紙、綺麗な文字ね」
「そうなのよ! スメラギ侯爵は素敵なお方だわ!」
何とか誤魔化しながらも、ニアは手紙に書かれた模様の意味を考えていた。
◇◆◇◆
その日の夜。
ニアは第三王妃の部屋の前にやって来ていた。
緊張して、手が震えていた。
「……私からのメッセージがうまく伝わったようで何よりだ」
廊下の奥の暗がりから声が聞こえた。
ニアが顔を上げると、彫刻のように整った顔立ちをした青年がこちらへ歩いてきているのが見えた。
侯爵の衣服を身に纏っている。
この人がスメラギ侯爵なのだ、とニアは理解した。
ニアは覚悟を決め、言った。
「どうしてあなたが――呪術を扱えるのですか?」
スメラギ侯爵からの手紙に書かれた模様。
それは、呪術師が操る特殊な文字だった。
たどたどしく描かれたその文字は、『今夜第三王妃の部屋の前に来い』というメッセージを意味していた。
スメラギ侯爵は肩を竦めた。
「まあ、待て。そう焦るな。まずはこちらの質問に答えてもらおう。あの文字が解読できたということは、君は呪術を操る人間だということだな?」
「…………」
ニアは頷いた。
「そして先日、ここの扉の前で何か細工をしていたのも君だね?」
誤魔化すこともできず、ニアは再び頷いた。
スメラギ侯爵は独白するように言葉を続ける。
「いや、盲点だったよ。第三王妃とシャルル王子の容態の悪化、そして第二王妃と第四王妃の死――私はありとあらゆる手を使って原因を調べた。病気でもない、魔術でもない。もちろん毒でもない。原因を突き止めるため資料室に籠り、いくつもの文献を読み漁ったよ。そして辿り着いたんだよ。魔術と共にこの国の礎を築いたもう一つの『力』――呪術の存在にね」
「……!」
「かつてこの国には3つの偉大な呪術師の家系があった。“ゴルート”、“ディヤナ”、“カッツェ”。しかし魔術が発達するにつれ呪術は廃れていき、それら3つの家系も歴史の表舞台から姿を消した―――はずだった。そうだろう、ニア・“カッツェ”。単刀直入に訊こう。第三王妃と王子にかけられた呪術を解いたのは君だろう?」
そこまでバレているのならしかたない。
というか、ここに来てしまった時点で、隠すのが難しいということは分かり切っていた。
「ええっと……まあ、はい。王妃のお部屋に、特定の人物を弱らせる呪いがかけられていましたので、それを解呪しました」
数日前。
第三王妃、そしてシャルル王子と出会ったニアは、彼女らの言動から呪いをかけられている箇所を想
定し、夜な夜な王妃の部屋を訪れ、呪いを解消する術式を発動したのだった。
王妃が言っていた言葉、部屋の外に居れば体調が良い――それがヒントだった。
「なるほどな。『部屋自体』に『特定の人物』を『弱らせる』呪いか……。聞いただけで複雑そうな呪いだ。いつ呪術を身に着けた?」
「父から習いました。もう亡くなってしまいましたけど……」
「そうか。カッツェ家の呪術は数百年の間そうして親子へと引き継がれていったわけだな。それで、望みは?」
「……望み?」
「そうだ。王妃と王子の命を救ったのだから、当然だろう。何が望みだ? 褒美をとらせよう」
ニアは少しだけ考えた。
それから、言った。
「何もいりません」
「……何だと?」
「別にご褒美が欲しくてやったわけではありませんから。ただ、王妃と王子が元気になってくれればいいなって思っただけです」
「なるほど。その言葉、嘘はないな?」
「はい」
「―――ということでございます、第三王妃」
「ええ。話はすべて聞かせてもらったわ」
王妃の部屋の扉が開いた。
そこには、第三王妃の姿があった。その腕にはシャルル王子がいて、安らかに寝息を立てている。
「マリアンヌ王妃……!」
「中庭で洗濯物を干していた子ね。あのときはシャルルが迷惑かけちゃって、ごめんなさいね」
「め、滅相もありません」
ニアは慌てて頭を下げた。
「あなたが私たちを救ってくれたのね。ありがとう。礼を言うわ」
「と、とんでもありません。私はただ……」
「命の恩人に何もしなかったのでは、私も一人の王妃として面目が立たないわ。褒美というわけではないけれど、あなたに新しい仕事を与えることにしましょう」
「私に、新しい仕事を……?」
いったい何をさせられるのかと、ニアは覚悟した。
そんなニアを見て、マリアンヌ王妃は優しく微笑んだ。
◆◇◆◇
「……というわけで、だ」
スメラギ侯爵の執務室には、真新しい机が用意された。
その机の上には、早くも書類の山が出来ている。
「一体なんですか、この山は……」
机の前でげんなりとした表情を浮かべているのはニアだった。
着ているものは下女の制服から、品の良い衣服へと変わっていた。
「国内のあらゆる箇所から相談があった、呪術に関係すると思われる事件のリストだ。今回の第三王妃の事件を解決したことで、私は王宮における『呪術対策係』に任命された。君には私の助手としてこれらの事件の調査に当たってもらう」
「助手、ですか……!?」
「君には専用の個室と地位に応じた給与が与えられることになる。まあ、せいぜい頑張ってくれたまえ」
そう言うとスメラギ侯爵は大声で笑った。
この書類の山の一枚一枚に、ブラックレイ国内の事件がびっしりと記されているわけだ。
大変なことになったと、ニアは肩を落とした。
「私は下女として売られてきたはずなんですけど……」
「何を言う。第三王妃直々の命令だ。いわゆる出世というやつじゃないか。もっと喜びたまえ」
「確かにそうかもしれませんが……あ、そういえば」
「何だ?」
「スメラギ侯爵がどうして呪術の文字を扱えるのか、お聴きしていませんでした」
「……なあに、大したことじゃない。古い書物を読みながら書き写したというだけさ。私は呪術に関しては素人だよ」
そう言うスメラギ侯爵の片手には、『呪術初歩』の書物があった。
「しかし、ある程度の素養がなければ文字を書き写すことすらできなかったはずです。それなのに、どうして――」
「もし可能性があるとすれば……そうだな。私には亡くなった母がいるのだが、その母の姓は元々“ディヤナ”と言った」
「ディヤナ……かつての御三家と同じ名前ですね」
ニアが言うと、スメラギ侯爵はふっ、と笑みを漏らした。
「まあ、そういうわけさ。我々はめぐり合うべくしてめぐり合ったということだ」
ふむ。
しかしできればこんな山のような仕事とはめぐり合いたくなかったと、ニアは心の中で愚痴った。
「ところで君の経歴を少し調べたのだが、君が王宮へ来る前に一緒に暮らしていた者たちはどうする? 君が望めば、王宮に住まわせることも可能だが」
「ああ……あの人たちですか。私の親戚、という話でしたよね」
「親戚? いや、血縁関係はないようだぞ」
書類を捲りながら、スメラギ侯爵は言った。
「え? そうなのですか?」
「ああ。――おっと、これはひどいな。君の両親の財産をそのまま相続しているような記録がある。君の代理人として受け取ったようだな」
「…………」
ありえる話だ、とニアは思った。
「さっきの話の続きだが、どうする? 勧めておいてなんだが、私個人としては、そのような詐欺まがいの行為をするような人間とは距離を置くべきだと考えるが」
「ええと……そうですね、王宮へ売られた時点でもうあの人たちとは縁が切れたようなものですし。引き取ってもらった恩はありますが」
「それが良いだろうな。だが、こういう相手は何かと難癖をつけてくるものだ。君が出世したと聞けば放ってはおかないだろう。君に手出しができないよう、私が手を回しておこう」
ニアは一瞬ためらうような表情を見せた後、首を横に振った。
「いえ、その必要はありません。もう清算は済みましたから」
「清算?」
「はい」
ニアが頷く。
スメラギ侯爵からは見えないよう背中に隠した彼女の両手には、淡く発光する呪術の文様が描かれていた。
◆◇◆◇
「な、なんなんだよおおお、これはああああ!!?」
ところかわって、ニアを売った男の屋敷。
彼はニアを売った金と彼女の両親の遺産で家を建て替え、それなりに豪華な暮らしをしていた。
が。
その屋敷は今、炎を上げて燃えていた。
「うわあああっっ!? 消えろ! 消えてくれえええ!! 頼むからああっっ!!」
男は叫び、炎に水をかけた。
しかしそんな男の努力もむなしく炎はみるみる間に大きくなっていく。
不思議なことに、炎は何をしても消えなかった。
だから、彼とその家族は炎が彼らの財産を飲み込み灰にしていくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。
新調した外套も、娘の晴れ着も、取りそろえた高価な食器も、家財道具もすべて燃えていた。
そして炎は男たちの財産すべてを焼き尽くした後、何事もなかったかのように消えた。
男はただ茫然と、灰になった屋敷を眺めていた。
そして力なく膝をつき、呟いた。
「……まるで呪いだ」
読んでいただきありがとうございます!
連載を始めましたので、そちらもぜひ応援よろしくお願いします!
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