全力で愛を叫ばせろ!
この世には神様など居ない。居るなら、こんな仕打ちはなさらない筈だもの。
絶望に膝をつくあたしの頭上で、酷く愉悦に満ちた声音が響いた。
「ああ、ごめんなさい……お義姉さま。悪気はなかったのです」
そう口にするのは、義理の妹であるメアリーだ。
(嘘つけ。完全に狙ってやったことだろうに)
下からキッと睨めつければ、メアリーは大袈裟に瞳を震わせた。
「やだぁ、怖いわぁ。そんな顔したって仕方がないじゃない? だって、他でもないラファエルさまがわたしのほうが良いって仰るんだもの」
メアリーの隣にはあたしの婚約者――――いや、元婚約者であるラファエルが佇んでいて、あたしのことをじっと見下ろしている。
色素の薄い金の髪に真っ白な肌、まるで氷でできた人形のような美しさを誇る彼は、男児に恵まれなかった我がラグエル家を継ぐために父が選んだ男だ。
遠縁の伯爵家の三男である彼は、我が家に婿養子に入らなければ爵位を継ぐことが出来ない。
完全なる政略結婚。
双方が納得していたし、あたし達は良好な関係が築けていると思っていた。
雲行きが怪しくなったのは、父が再婚をした頃だろう。
これまで殆ど笑うことのなかった彼が笑顔を見せるようになった。
けれど、それはあたしに対してじゃない。
血の繋がっていない、あたしの義理の妹メアリーに対してだ。
腹立たしさを押さえつつ、あたしはラファエルを見つめた。
「ねえ、ラファエル。婚約破棄だなんて、あなた本気で言ってるの? そこの猫かぶり娘が良いって、本気で?」
こんな時に良い子ぶったところで仕方がない。あたしはラファエルに向かって単刀直入に問いかける。
「ああ」
ラファエルの返事は冷たかった。あたしに対しては淡々と、けれどメアリーに対しては蕩けるような極上の笑みを浮かべる。腹立たしさを押し殺し、あたしは静かに息を吐いた。
「けれど、冷静になってよく考えてごらんなさいよ。その子と結婚したところで爵位は手に入らないのよ? 我が家の財産だってそうだわ。あなたはそんな未来を望んでいるの?」
「まぁ、お義姉さまったら……なにもご存知ないのね? お義父さまはお義姉さまでなく、わたしに全財産を継がせる気でいらっしゃるのよ? 爵位だってそう。わたしの結婚相手にと思し召しなの」
ニヤリと、メアリーが口角を上げて笑う。
あたしは思わず身を乗り出した。
「そんな……そんな馬鹿なこと、あるわけ無いでしょう⁉ どうして実の娘を差し置いて、他人の貴女に財産や爵位を与えようなんて思うのよ!」
「だけどそれが事実だもの。ねえ、お母さま」
すると、これまで黙ってその場に控えていた義理の母が薄ら笑いを湛え、あたしの前に躍り出た。
「メアリーの言うとおりよ。あの人は実の娘である貴女より、養女であるわたくしの娘を選んだの」
うっとりと目を細め、義母があたしの頬を撫でる。ゾクリと背筋が震え、あたしは思わず後ずさった。
「嘘よ……そんな筈がないでしょう? お父さまに直接確認するまで信じないわ!」
「あらあら。だけど、それは無理なお話よ。肝心のあの人は病の床に臥せっていて、言葉を話せる状態じゃないんだもの。
それに――――ほら、御覧なさい? あの人が書いた遺言状。ここにメアリーに全てを託すと、そう書いてあるでしょう? 娘である貴女が一番、彼の字を知っているんじゃなくて?」
目の前に突きつけられた一通の手紙。義母の言う通り、そこに並んでいるのはお父さまの文字のように見える。
だけど、そもそもまだお父さまは亡くなっていないし! こんなのとても信じられない。信じられる筈がない!
「手紙なんて、幾らだって偽造が出来るじゃない! 父の字を真似して書けばいいだけだもの!」
「――――うるさい子ねぇ。自分の置かれた状況をまだ分かっていないの?
貴女はもう用済みなの。要らない子なのよ。
さっさとこの家から消えてくれる? 目障りだから」
「なっ! そんなこと、できるわけ……」
けれど、周りを見渡せば、あたしの味方になってくれそうな人は一人も居ない。
幼い頃から仕えてくれていた侍女長も、執事も、みんな屋敷から居なくなってしまった。少しずつ、少しずつ、義母たちの不興を買って追い出されていき、すっかり入れ替わってしまったから。
「恨むなら、魅力のない自分自身を恨んでよね? ラファエルさまも、貴女の父親も、貴女じゃなくてわたし達を選んだと言うだけ。貴女が二人を惹きつけていられたなら、こんなことにはならなかった。全部貴女のせいでしょう?」
メアリーと義母、二人分の高笑いが耳をつんざく。
(悔しい――――悔しい!)
けれど、残念ながら言い返せる要素がなにもない。
無理やり屋敷の出口へ連れて行かれ、ピシャリと扉を締められる。
笑いたくなるほどの静寂。満天の美しい星空。あまりの情けなさに、思わずため息が漏れた。
(ここに居たって仕方がない)
現状勝算がないし、虚しいだけだもの。
だけど、あたしは絶対に諦めない。
いつかこの家に戻ってきて、メアリーや義母から何もかも奪い返してやる。
確固たる決意を胸に、あたしはクルリと踵を返した。
兎にも角にも住む場所を確保しなければ。
闇夜を一人進みつつ、寒さに身体を震わせる。
せめてもの情けなんて、あの二人には存在しなかった。着の身着のまま追い出されて、心もとないったらありゃしない。
するとその時、闇夜に溶けるようにして、重厚な外套を纏った一人の男があたしの前に現れた。
ペリドットのように明るい男の緑色の瞳が、地上の星のように輝きを放つ。ふと視線を上げれば、男の頭には、雄牛のように大きな角が二本生えており、背には漆黒の翼が生えていた。
(悪魔だ)
禍々しい雰囲気。
心臓がドクドクと鳴り響く。
息を呑むあたしの目の前に男がやってくる。
雪のように白い肌。真っ黒な長い髪の毛。悪魔だと知らなければどんな乙女も虜にできそうなほど、彼は美しい目鼻立ちをしていた。
「あんた――――あたしの魂を取りに来たの?」
神様は何処までもあたしに対して意地悪らしい。けれど、悪魔は口の端をニヤリと上げ、大きく首を横に振った。
「取りはしない。だが、売る気はないか?」
「え?」
魂を売る? 一体、どういうことだろう?
困惑しているあたしを見下ろし、悪魔はそっと目を細めた。
「命は取らない。その代わり、お前の全てを俺によこせ。
復讐したい相手がいるのだろう?」
その瞬間、あたしは思わず目を瞠った。
どうやらこの男には全てを見透かされているらしい。
ふふ、と小さく笑い声が漏れる。あたしはゆっくりと悪魔を見つめ返した。
「良いわ。あいつらに復讐できるなら、魂なんて幾らでも売ってあげる」
目に見えない意地悪な神さまに祈りを捧げるぐらいなら、目の前の悪魔に全てをくれてやる。
「契約成立だな」
彼はあたしの手を取り、尖った牙で指先を噛んだ。
「っ痛……」
プツリと皮膚が破れる音、痛みが走り、血がポタポタと零れ落ちる。悪魔がそれを舐めとれば、ポウと緑色の光が灯る。くらりと一瞬目眩が走った。
***
瞬き一つ、あたしは大きな屋敷の前に移動していた。
我がラグエル邸の数倍大きな敷地の中にそびえる石造りの建物。古めかしく重厚で、とても近寄りがたい雰囲気を醸し出している。木々がざわめき、あたりにはコウモリが飛び交う。グェーとおどろおどろしい鳴き声が何処からともなく聞こえてきて、あたしは静かに息を呑んだ。
「魔界?」
「よく見ろ愚か者め。思い切り人間界だ。人間を魔界に連れていけば、瘴気で一秒だって立っていられん。そのぐらい常識だろう?」
「いや、そんなことあたしが知るわけないじゃない」
こちとら普通の人間で、悪魔の常識なんて知るよしもないんですけど。
すると、悪魔は凶悪な笑みを浮かべ、あたしの瞳から数ミリの位置に爪を立てる。ヒッと小さな悲鳴が漏れた。
「……失礼いたしました」
「分かれば良いのだ、分かれば」
少しでも動けば目玉が抉られる状況で、下手なことが言えるはずもない。
この男、やはり危険だ。
あたしはほんの少しだけ、彼の手を取ったことを後悔し始めていた。
屋敷の扉が自動で開く。あたしは彼の後ろに続いた。
邸内はとても薄暗い。だけど、思ったよりも普通というか……荘厳で美しいという印象だ。
こんなに広い屋敷なのに、出迎える人は誰も居ない。
「一人暮らし?」
「お前の目は節穴か? よく見ろ馬鹿者」
悪魔にグイと首を横向けられ、あまりの痛みに目を瞠る。
だけどその瞬間、小さな毛玉の塊みたいな何かが、あたしの顔めがけてダイブしてきた。
「ギャッ!」
それを封切りに、空気が目に見えてモコモコと動き出す。身構えるあたしを前に、ボンと音を立てて悪魔たちが表れた。
タキシードを着た猫、三ツ首の子犬、小鬼に、小鳥サイズの白いドラゴンなどなど。
(なにこれ、全部あざとい可愛いんですけど!)
悪魔と呼ぶにはなんとも違和感のある愛らしい見た目、ラインナップだ。
もしかして、この男の趣味だろうか? 案外可愛いところもあるじゃない――――そう思っていたら、悪魔がジロリとこちらを見た。
「気をつけろ。俺の機嫌を損ねると、コイツらは容赦なく襲いかかってくるぞ」
どうやらあたしの思考を読んだらしい。悪魔の瞳がギラリと光る。
「――――でしょうね」
心の声さえ筒抜けなんて、前途多難だ。
思わずため息が漏れた。
部屋に通され、あたしは悪魔と向かい合って座る。
先程見かけた猫の小悪魔が、すぐにお茶と茶菓子を運んでくれた。見た限り普通――――人間が口にできそうではあるものの、ほんの少しだけ警戒してしまう。
悪魔はニヤリと笑みを浮かべ、それからそっと身を乗り出した。
「さて、アイナ。お前にはこれから、俺が指示した男を堕としてもらう」
自己紹介もしていないのに、男はあたしの名前を呼ぶ。
「――――指示した男ですって? 冗談言わないで。あたしは、あたしの復讐のために貴方と手を組んだんだけど」
「お前の目的など知ったことか。お前の全ては俺のもの。拒否権はない」
悪魔はそう言って、クックっと喉を鳴らして笑った。
「知ったことか、ですって? 貴方さっき『復讐したい相手がいるのだろう?』って聞いたわよね⁉ 思い切り知ってるじゃない!」
「だが、手助けしてやるとは言っていない。お前が勝手にそう勘違いしただけだ」
「なっ……!」
こんの屁理屈大魔神め! ――――いや、さすがは悪魔と言うべきか。
とはいえ、今のあたしの状況で、メアリーと義母にすぐに復讐ができるとは思えない。
既に家も財産も全てを失ってしまっているのだし、ここを追い出されたら路頭に迷ってしまうわけで。生きるためには悪魔に従うのが一番だってことは、あたしにだって分かっていた。
「分かったわ。契約した以上、言うことは聞く。
だけど、あたしは貴方の名前すら知らないわけで」
「ダミアンだ」
悪魔が笑う。あたしは思わず目を見開いた。
「ダミアン? 思ったよりも普通の名前ね。人間みたい……」
「当然だ。俺は悪魔と人間のハーフだからな。
ダミアン・アスモデウスと言えば、お前にも分かるだろうか」
「アスモデウスですって?」
アスモデウスといえば、貴族でその名を知らぬものは居ない。
とても有名な悪魔公爵だ。
とはいえ、彼に会ったことがあるものは殆どおらず、その実態は謎に包まれている。
『悪魔』だなんて――――当然比喩表現だろうと思っていたのだけど。
「なるほどね……気に入ったわ」
何故だろう。俄然やる気が湧いてきた。
微笑むあたしを見つめつつ、ダミアンは満足気に目を細めた。
***
最初の獲物は、ダミアンの領地で暮らしているトミーというしがない商人だった。
小麦色の肌に茶色の短髪。パッと見普通の好青年だ。
「アイナよ、外面に騙されるな。この男は俺に納めるべき金をちょろまかし、闇取引にも手を染めている。女遊びも激しく、碌な男ではない」
「――――それは良かった。善良な人間を堕とすのは忍びないもの」
応えつつ、あたしは小さくため息をつく。
まあ、悪いことをしている人間だから何をしても良いってわけじゃないけど、少なくとも気分は違うもの。
建物の陰に隠れつつ、あたしたちはターゲットを覗き見た。
「それで? 堕とすって具体的に何をすれば良いの?」
「相手を屈服させるためには、惚れさせるのが一番。当然口説き落とすのだ」
「は? あたしが?」
あたしは思わず笑ってしまった。
自慢じゃないけど、容姿には大して自信はない。中の上か、良くて上の下というところ。先日メアリーにも『魅力がない』と貶められたし、正直あたしには無理だと思う。
「無理じゃない、やれ! 俺が言うことは絶対だ」
ダミアンはそう言って、あたしのお尻を蹴り飛ばす。
「痛っ! ちょっと、ダミアン! ……っと」
勢い良すぎ!
あたしはいつの間にか、ターゲットであるトミーの目の前に躍り出ていた。
(どうしよう。まだ心の準備が出来てないのに!)
半ばパニックに陥りつつ、あたしは呆然と獲物を見上げる。
この人を口説く? 一体、どうやって?
何をすれば良いの? 何を言えばいいの?
いつの間にかダミアンの姿は消えているし、一体どうしたら……。
「大丈夫かい、君? このへんじゃ見ない顔だね」
戸惑うあたしに、トミーは手を差し伸べてきた。
どうやらダミアンの言う通り、この男、相当な女好きらしい。
助け起こすふりをして、ベタベタと腰を触りつつ、下心満載の顔つきをしている。下卑た笑み。だけど、商人だけあって金は持っていそうだし、顔はまあまあだから、騙される女性も多いんだろうな。
「すみません、転んでしまって……ありがとうございます。最近越してきましたの」
我ながら気持ち悪い口調。上品なふりをして、猫をかぶるのはすごく気持ち悪い。
だけどこの男、清純な女のほうが好きそうなんだもの。
ダミアンも、そうと分かっていたからあたしに白いドレスを着せたんだろうし。レースとかフリルとか、正直あんまり性に合わないんだけど。
「そうか。だったら俺がこの街を案内してあげよう。その方が色々と安心だろう?」
「まぁ、よろしいのですか? そうしていただけると、とても助かりますわ。是非、お願いいたします」
自己紹介もそこそこに、トミーと二人、街を歩く。
ダミアンが治めるこの街は明るく、とても栄えていて、王都にも引けを取らない程洗練されていた。とてもあのおどろおどろしい屋敷がある場所とは思えない。
「いい街だろう? ここの領主は悪魔公爵なんて呼ばれてるけど、経営の才能はあるんだよな」
(知ってまーす。何ならあたし、あの屋敷に住んでるんですけど)
トミーは喋りたがりらしく、聞いてもないことを次から次へと解説していく。
海外から取り寄せた危ない薬のこと、最近取引した貴族のこと。
これから更に高位貴族の得意先が増える見込みだと彼は得意げに笑う。
あたしはというと、心の中で笑いつつ、「さすがです! 知りませんでした! すごいですねぇ! センスがありますね! そうなんですね!」なんて心にもない褒め言葉を口にしていく。
それでも、トミーは気を良くしたらしく、更に張り切って色んなことを喋り始めた。
(男って案外単純なのね)
ほんの少し褒めただけで、勝手に有頂天になってくれるんだもの。この男がチョロいだけかもしれないけど、この調子でいけば、ダミアンの指令をこなすのは楽勝かもしれない。
【この程度で満足するなよ、アイナ】
その時、背後から唐突にダミアンの声が聞こえてきて、あたしは思わず目を瞠った。振り返ってみても、彼の姿は目には見えない。
「アイナさん? どうしたの?」
「いいえ。なんでもございませんわ」
どうやらトミーにはダミアンの声は聞こえていないようだ。
だけど、彼は間違いなくここに居る。あたしを見ている。
あたしは静かに目を瞑り【だったらどうすりゃ良いの?】と心のなかで呟いた。
【少し好感を持たれた程度ではダメだ。身体に心、財産に名誉、家族や友人に至るまで――――相手の持っているもの全てを己に差し出させろ】
【そんな……そんなこと言ったって……】
【考えろ、アイナ。もっと真剣に、本気を出して考えろ。
トミーが何を、どんな言葉を求めているのか。
欲望を引き出せ。愛に溺れさせろ。心酔させ、己の前に跪かせろ! 全力で愛を叫ばせるのだ】
ダミアンの言葉に目を見開く。
それは雷に打たれたかのような気分だった。
(この男が何を求めているか……)
全神経を研ぎ澄ませ、あたしはトミーのことを見つめる。
彼が今、一番何を求めているのか――――ダミアンが言いたいことが、なんとなく分かった気がした。
「――――ねぇ、わたくし、貴方のことをもっともっと知りたいわ。だって、トミーさまはわたくしが出会った人間の中で、一番素敵な人なんですもの」
甘えるように見上げれば、トミーの瞳の色が一気に変わる。
「本当に?」
「ええ。本当はひと目見た瞬間から、わたくしはトミーさまの虜でしたの。
貴方は優しくて、とても頼りがいがあって。
その瞳――――見ているだけでゾクゾクしちゃう。小麦色の肌も、わたくしの肌と並べると、とても素敵なんでしょうね」
スルリとトミーの顎を撫でれば、彼はニヤリと微笑んだ。
あたしのことを抱き寄せながら「俺も君が好きだよ」なんて言葉を囁いている。
ダミアンの言葉――――全力で愛を叫ばせるのは、この男には無理だ。
トミーは己への愛情がとても強い。相手との愛に溺れるよりも、溺れている相手を見るのが好きなタイプだ。
俺を見て。俺を認めて。俺を愛して――――ならば、彼の欲しているものを与えてやろうじゃないか。
長期戦でじっくりと堕とすという手法もあるだろうけど、この男にそれだけの時間と手間をかけるのは勿体ない。
【アイナ、上出来だ。この男を我が屋敷に誘い入れろ】
【――――了解】
彼の描いた筋書きと、あたしの描いた筋書きはどうやら同じらしい。思考が似てるんだろうか? 確認の手間が省けてとても助かる。
「トミーさま、今からわたくしの家に来てくださいますか?」
「ええ、もちろん」
「嬉しい……!」
飛び切りの笑顔を浮かべ、あたしは彼の頬にそっと口づける。
手を繋ぎ、互いに上っ面の愛を囁きながら街を抜け、郊外を歩く。
やがてあたし達はダミアンの屋敷に辿り着いた。
「…………あれ?」
と、ようやくここでトミーの目が覚めたらしい。あたしはゆっくりと目を細めた。
「アイナさん、どうしてここで立ち止まるのですか?」
ここじゃない。
ここである筈がない――――彼の瞳は困惑を隠せずに揺れている。
「まぁ、トミーさまったら。この先に家などございませんわ。トミーさまならご存知でしょう?」
ダミアンの屋敷の裏手には、暗く広大な森が広がっている。あたしの目的地がここだって、少し考えたら分かる筈なんだけど、下半身でしか物が考えられなくなっていたのかしら? そう思うと笑えてくる。
「さぁ、家に上がってください。わたくしに貴方のことをもっと教えて?」
「い、いえ……俺はこの家に上がるわけには…………」
ダミアンは余程恐れられているらしい。彼は可哀想なほどにブルブルと震えている。
悪事を働いていなければ――――或いはさっさとこの街から出ていけば――――ダミアンに目を付けられなかっただろうに。
「まぁ、そんな悲しいことを仰らないで? 是非、主人にも会っていただきたいわ」
「主人⁉ ――――貴女の言う主人って」
「当然俺のことだ」
トミーの背後からダミアンが優しく囁きかける。トミーの悲鳴が響き渡った。
闇夜から唐突に姿を表した彼は、恐ろしい悪魔そのもの。だけど、相手が唯の人間だからか、今の彼には角も翼も生えていない。
(人間に擬態して尚、悪魔にしか見えないって……)
全くもってとんでもない男だ。
まぁ、聖人ぶった元婚約者よりは、余程好感が持てるのだけれど。
「久しいな、トミー。会いたかったぞ? この俺が何度もお前を呼びつけているというのに、それを無視し続けるとは――――一体どういう了見だ?」
「ダミアンさま! 無視だなんて、そんなまさか! そんなつもりは……」
「そうか? お前の使用人たちからは『主人は今領地を出ている』『忙しい』『不在だ』と返事をもらっていたのだがな? そうか……お前ではなく使用人たちが嘘を吐いたということか」
「え、ええ! お恥ずかしながら、教育が行き届いていないようで……」
ダミアンはフッと嘲笑し、空中に小さな魔法陣を描く。すると、そこには街での生活を活き活きと謳歌するトミーの姿が映し出された。おまけに彼はダミアンの悪口まで吹聴している。
(阿呆め……)
そりゃあ、こんな規格外なことが可能なのは、世界広しと言えど、ダミアンぐらいかもしれないけど、トミーはトミーで墓穴掘りすぎ。せめて敵に回さないとか、嘘を吐かないとか、色々やりようがあっただろうに。
トミーの顔は今や血の気が失せて、真っ青に染まってしまっていた。放心状態。魂が抜け落ちている――――そう表現すると一番しっくり来る。
しかし、さすがは悪魔。命を取るよりも絶望を味わわせるほうがずっとずっと楽しいのだろう……ダミアンはそういう表情を浮かべていた。
かく言うあたしも、興奮で胸が高鳴っているのだから、大分異常だ。ほんの数日、悪魔と一緒に生活しただけで性格が変わってしまったのだろうか?
「た、助けてくれ! アイナさん!」
「ん?」
気がつけば、あたしの足にトミーが縋り付いていた。どうやら気力を取り戻したらしい。中々に気骨がある――――黙って見下ろしていたら、彼は腕に力を込めた。
「俺のことが好きだと――――一番素敵だと言っていただろう? 頼むよ。君がダミアンさまとどういう関係かは知らないけど、どうか情けをかけてほしい。どうか、どうか」
「……アイナは俺のものだぞ、トミー」
ダミアンがそう言って、トミーのことを踏みつける。
(うわぁ、痛そう……)
メリッと地面にめり込む音がして、あたしは思わず顔をしかめた。
「アイナさんが? まさか、俺を騙していたのか⁉」
「あら……騙したなんて人聞きが悪い。
言ったでしょう? 貴方は『わたくしが出会った人間の中で、一番素敵な人』だって。ダミアンは人間じゃないもの。ノーカウントよ。
残念だけど、あたしは貴方を助けはしないわ。全部、自業自得でしょう?」
まぁ、本当は一番素敵な人だなんて思っちゃいないんだけどね――――心のなかで付け加えつつ、あたしはニコリと微笑みを浮かべる。
それでも、彼が絶望するには十分だったらしい。トミーはハクハクと口を動かしつつ、天を仰いで放心している。
ダミアンは愉悦に満ちた表情を浮かべ「よくやった」とあたしに向かって言った。
***
トミーは財産を全て没収された上で、ダミアンの領地から追放された。ダミアン曰く『脱税された分を取り返しただけ』らしく、かなり寛大な処置なんだそうだ。
(あれで寛大? どんだけあくどい商売をしていたんだ、あの男は……)
先程トミーに聞かされた自慢話を思い返しつつ、あたしは思わず苦笑を漏らす。
まぁ、悪魔に目をつけられて、制裁を受けて、命が無事なだけマシなのかもしれないけど。
「本当は記憶を奪ってやっても良かったのだがな……ツテと商才さえあれば、商人は幾らでも再起が出来てしまうし」
ワイングラスを片手に、ダミアンはフッと小さく笑う。
「だけど、それをしなかったってことは、トミーにはまだ利用価値があるってことでしょう?」
「――――その通りだ。お前は中々に賢い女だな」
珍しく褒められた上、頭まで撫でられてしまい、あたしは思わず目を瞠った。
(何よ、ダミアンの奴。普段ツンツンしている分、急にデレられると対処に困るんだけど!)
何だか無性に気恥ずかしい。あたしはフイとそっぽを向いた。
「……そうでしょう? あたしって、中々に見どころがある女でしょう?」
「馬鹿者、調子に乗るな」
「痛っ!」
ダミアンがあたしの額をピンと弾く。尖った爪が当たってめちゃくちゃ痛い。
それにしても、薄々気づいてはいたけど間違いない。
この男、ドSだ。
人を痛めつけて、虐めて楽しむ、真性のサディスト。
まぁ、今のところあたしへの実害は殆ど無いし、良いのだけれど……。
「ときにアイナ。先程、トミーの頬に口づけまでしたのは、少々やりすぎではないか?」
「は? やりすぎ? だけど、本気を出せって言ったのはダミアンでしょう?」
何よ、それ。あたしだって本当はキスなんてしたくなかったし。
だけど、ダミアンが『愛に溺れさせろ』とか『全力で愛を叫ばせろ』とか言うからああしたわけで。
「しろ」
「は? 何を?」
「俺の頬にも口づけろ」
「は⁉」
全く! 何を言い出すかと思えば、口づけろですって⁉ この男に⁉
「なんであたしが」
「なんで、じゃない。元よりお前は俺のものだ。拒否権はない。しろ」
ダミアンはそう言うと、あたしを無理やり彼の膝の上に座らせた。
腹が立つほど美しい白い肌に、彫刻みたいに整った高い鼻。形の良い薄い唇を見下ろしてから、彼の明るい緑色の瞳を見つめる。
その瞬間、胸の奥が熱く疼くような感覚がして、あたしは静かに息を呑んだ。
「早くしろ」
「――――分かってるわよ」
心臓が高鳴る。さっきトミーにしたときみたいに冷静では居られない。
しっかりと、頬の位置を確認してから目を瞑る。それから勢いをつけて唇を下ろせば、柔らかな感覚があたしを包み込んだ。
「んっ……」
片手で腰を、もう片方の手で顔を固定されて、全身がビクとも動かない。
頬ってこんなに柔らかいもの? ――――なんて愚問ね。だってこれ、頬じゃないし。ワインの風味に酔ってしまいそう。
ちらりと瞳を開ければ、ダミアンと視線が絡み合った。
(何よ、悪魔のくせに)
唇も吐息も、あたしも見つめる眼差しも、めちゃくちゃ熱い。
「…………っ、もう良いでしょ⁉」
放っておいたら、色々とエスカレートしてしまいそうだ。口を拭い、膝の上から滑り降り、あたしは思い切り踵を返す。
「アイナよ、頬への口づけがまだだぞ?」
「それ以上のことしたんだから良いでしょう? もう!」
ドS悪魔め。あたしで遊ぶのは止めてほしい。
ピシャリと扉を閉めてから、ズルズルとその場にしゃがみ込む。
(ホント、勘弁して)
ため息を一つ、あたしは自分の部屋へと戻った。
***
次にダミアンがターゲットに指定してきたのは、デーモン・ロズウェルという侯爵だった。
「あの男は忌まわしい。俺の政敵というやつだ」
「――――政敵ねぇ」
王都にも殆ど顔を出していないし、国政に興味なんて無いくせに――――そう思っていたら、ダミアンはあたしの頭をガシッと掴んだ。
「なにか文句があるのか?」
「ない! ないです! 痛いから止めて!」
「分かればよろしい。
ロズウェルは最近事業に失敗したらしく、多額の借金を背負っている。その割を食う形で、奴の領地は酷い状態で放置されており、その惨状は目に余るそうだ。
しかし、この男は大層な見栄っ張りでな。今でも日毎夜会に繰り出し、享楽にふけっているらしい」
「そいつはまた……悪魔よりも悪魔のような男ねぇ」
自分だけが苦しむならまだしも、他人に迷惑をかけるのはいただけない。ダミアンは悪魔でサディストだけど、関係ない人は巻き込まないし、領地経営だけはきっちりしているもん。
「と、いうわけでアイナ。あの男を堕としにいくぞ」
「――――了解。
だけど、今回のターゲットは、トミーみたいに簡単には行かないんじゃない? 遠方の領地に住んでいるし、さすがにたった一回会ったぐらいじゃ堕とせないんじゃ……」
「お前は俺の話を聞いていたのか?
あいつは大の社交好きだ。今は折よく社交シーズン。奴は王都に滞在し、毎日何処かの夜会に出かけている。今が完全に好機だろう?」
「ああ、なるほど」
つまり、あたし達も王都に出向き、ロズウェルと接触を持つということらしい。
行くぞ、と手を捕まれ目を瞑る。
次に目を開けたときには、先程までとよく似た――――けれど別の屋敷の室内に居た。
「ここは?」
「王都にある俺の屋敷だ」
王都! 瞬間移動が出来るってめちゃくちゃ便利だ。
――――というか、見る限りこの屋敷は領地の屋敷と引けを取らないし、公爵家の資産は相当なものだろう。
あたしの父であるラグエル伯爵もかなりの資産家だったけど、今となっては昏睡状態で口もきくことができないし。あたしには財産を継がせず、血の繋がりもなにもないメアリーを選んだっていうんだから――――。
「こら、勝手にしんみりするな」
「――――しんみりなんてしてないわ。少し、嫌なことを思い出しただけよ」
ダミアンと契約して以降、悪魔なこの男に毎日なんやかんや振り回されて、要らないことを考える暇がなかったから。
(だけど)
一度思い出してしまうと、中々忘れることができない。
もしもあたしに魅力があったなら、お父さまはあんな遺書を残さなかった。
ラファエルは心変わりをしなかった。
家を追い出されることだってなかった。
そう思うと、苦しくてたまらなくなる。
復讐なんて馬鹿らしい。あたしがメアリーや義母に逆恨みをしているだけ。悪いのはあたしの方なのに――――。
「考えるのは止めろ。お前は何も悪くないだろう?」
ダミアンにポンと頭を撫でられ、目頭がグッと熱くなる。
「良いか、アイナ。お前の父親はまだ亡くなっていない。然るに、あの遺言状は現状効力を有していない」
「うん……それは分かってる。だけど、お父さまの意思は確認しようがないし。
あたしが居なくなったあの家で、お父さまがきちんと治療を受けていられてるかどうか……」
今となっては、メアリーと義母にとってお父さまは目障りな存在のようにも思えてくる。早く死んで、爵位と財産をこちらに寄越せと、何もせずに放置されているのでは?
もしかしたら、既に亡くなってしまっているかもしれない。親の死に目にすら会えないなんて――――。
「来い、アイナ」
「え、何⁉」
ダミアンにヒョイと抱き上げられて、あたしは素っ頓狂な声を上げる。どうせ抱くなら横抱きにすりゃ良いものを、肩に担がれたもんだから身体が痛い。
「――――え? お父さま……?」
だけど、ダミアンに連れてこられた部屋の中、ベッドで眠るお父さまを見て、あたしは何も言えなくなった。
最後に実家で見たときと同じ姿。一体どうしてこんな場所にいるの?
困惑するあたしの手を、ダミアンが黙って握る。
――――どうして? だなんて嘘。
本当は聞かなくたって分かってる。
「お父さまのこと……守ってくれたの?」
悪魔のくせに。ドSのくせに。変に優しいから困ってしまう。
「愚か者め。泣いてる暇などないだろう?」
ぶっきら棒な言葉。
だけど、すごくダミアンらしい。
「――――うん。行こう」
決意を新たに、あたしは強く地面を蹴った。
***
きらびやかな夜会会場。
真紅の艶やかなドレスを身に纏い、あたしは一人静かにターゲットを見つめる。
【早速釣れたようだな】
背後からダミアンが囁く。コクリと頷きつつ、あたしはニコリと微笑んだ。
「こんばんは、美しいご令嬢。貴女のお名前をお聞かせいただけませんか?」
ロズウェル侯爵はお父さまと同じか、少し上ぐらいの壮年男性だ。
綺麗なロマンスグレー。既婚者だし、普通だったら若い令嬢はお近づきになりたくない相手だけど、何とも言えない大人の魅力を醸し出しており、趣向さえあえば、コロリと堕ちてしまう者もいそうな雰囲気だ。
【絆されるなよ、アイナ】
【誰が】
正直いってあたしの好みじゃないし、借金まみれで他人に迷惑かけまくっているオヤジなんてお断り。誰が好きになるかっての。
「アイリーン・アスモダイと申します。以後、お見知りおきを」
今回はターゲットが貴族ということで、バリバリの偽名を使うことにした。
アスモダイ家はアスモデウス家の分家である伯爵家。こちらには『悪魔』の評判は付き纏っていないので、変に警戒されることはない。
「アイリーン嬢か。愛らしい名前だ」
ロズウェルは言いながら、手やら腰やらベタベタ触ってくる。気持ちが悪いし最悪の気分だ。
(大体、この男、既婚者だろう?)
倫理観がバグっている。愛人が少なくとも数人、居るんじゃなかろうか。
「では、わたくしはこれで」
ふわりと花のように微笑めば、彼は大きく目を見開いた。
「もう少し良いだろう? 私と一曲、どうだろうか?」
ロズウェルはそう言って、切なげな表情であたしを見つめてくる。
どうやら狙い通り、彼の関心を惹けたようだ。
ならば尚更。
今夜はこれ以上の長居は無用である。
「またの機会を楽しみにしていますわ」
彼の頬をそっと撫で、ドレスの裾を翻す。ロズウェルはあたしの後ろ姿を、欲の孕んだ眼差しで見つめていた。
その夜以降、あたしはロズウェルの現れる夜会に出席し、似たようなやり取りを繰り返した。
夜毎、彼のアプローチは強くなっていく。
あたしはあたしで、靡きそうで靡かない――――そんな女性を演じていた。
「なぁ、そろそろ良いだろう? 一曲ぐらい、私と踊ってくれよ」
「そうですわねぇ……」
(嫌よ。どうせ踊るだけじゃ満足しない癖に)
この男と踊るなんて、一生、絶対、お断りだ。
「ほら、今夜は君のためにプレゼントを持ってきたんだ」
そう言って彼はあたしの胸に、でっかいピンクダイヤのブローチを付ける。
「まぁ素敵! ロズウェルさまは大層な資産家でいらっしゃいますのね」
「ハハ! この程度で資産家だなんて――――もうすぐ私は、もっと大きな資産を手に入れる予定だからね。このぐらい安いもんだよ」
(資産――――借金まみれのこの男が一体どうやって?)
怪訝に思いつつも、あたしは惚れ惚れとした表情を作り上げる。
「素敵! 奥様が羨ましいわ」
ロズウェルの胸に飛び込みつつ、上目遣いに彼を見上げる。甘えるように擦り寄って、彼の背中をそっと撫でれば、ロズウェルはみっともないほど顔を真赤に染め上げた。
「妻の座など――――そんなものより、愛人になってくれたほうが、君に余程良い生活を送らせてやれるよ」
耳元で甘く囁かれ、胸の中でどす黒い感情が暴れる。
(最低! この男、最っ低!)
今の一言でよく分かった。ロズウェルが奥さんをないがしろにしているのは間違いない。おまけに、若い令嬢に臆面もなく愛人になるよう進めてくるんだもん。本当に信じられない男だ。
大体、借金まみれのくせに、よく知りもしない女に宝石なんてプレゼントするなって話よ。そんな暇があるなら妻や領民のために使えって言ってやりたい――――が、ここは我慢だ。
「あら――――そうですわね。侯爵家の妻なんて面倒ごとが多そうだし、愛人として生活したほうが楽しめるかもしれませんわ」
「そうだろう、そうだろう? さぁ、アイリーン……」
「だけど、わたくしの他に愛人が居るのは嫌だわ。ロズウェルさま……わたくしだけを見て? わたくしが一番じゃなくちゃ嫌ですわ……」
あたしはそう口にし、悲しげに瞳を潤ませた。
ロズウェルはハッと息を呑み、それからしばし押し黙る。
(さて、どう出るかな?)
この男があたしに対してどこまで執着しているのか、自信があるわけではない。だけど、全く勝算がないわけでもない。
ロズウェルの手を握り、指を絡めつつ、あたしは物憂げな表情を浮かべ続ける。時折彼を見上げながら、揺れ動く瞳と視線を絡めた。
「――――少し、考えさせてほしい」
ロズウェルが呟く。
(よし!)
思わずガッツポーズを浮かべそうになりながら、あたしは満面の笑みを浮かべる。
「良いお返事を、お待ちしておりますわ」
頬に口づけを一つ、あたしは静かに踵を返した。
***
ロズウェルは翌日、馬車に乗って郊外に出かけた。
ダミアンが付けた使い魔が、ロズウェルの映像をあたし達の元に届けてくれる。
彼の目的地が何処なのか、景色を見ればすぐに分かる。
「いよいよ詰めだな、アイナ」
ダミアンがそう言って小さく笑った。
目を瞑り、瞼を上げる。
あたしの家――――メアリーと義母に追い出された屋敷が、目の前にあった。
「入っても大丈夫?」
「問題ない。お前の姿は今、俺以外に見えないようになっている」
ダミアンに言われ、あたしは屋敷の壁をくぐり抜ける。
懐かしい香り。最後に見たのは数ヶ月前だけど、玄関周りはそんなに変わってないみたい。
階段を上がり、あたしの部屋の中に入る。
やっぱりというか――――部屋の中のものは、殆どなくなってしまっていた。
お気に入りのドレスも、宝石箱も、本や調度類も全部。
恐らくメアリーの部屋に持っていかれたか、捨てられてしまったのだろう。
「泣くな、アイナ」
「――――泣いてない」
泣いてる暇なんて、あたしにはないもの。第一、奴等のために流す涙が勿体ない。
瞳にぐっと力を入れ、大きくゆっくりと息を吸う。
と、その時、来訪者を告げるベルが鳴り響いた。
ダミアンと共に玄関ホールへ戻り、来訪者の姿を確認する。
ロズウェル侯爵だ。
彼は我が物顔で階段を上がると、義母の私室に向かって真っ直ぐに進む。彼が部屋の中に入ったのを見届けてから、あたしたちも後に続いた。
「別れてほしい」
開口一番、ロズウェルは義母に向かってそう言い放った。
「何を言っているの⁉」
義母は顔を真っ赤に染め、首を大きく横に振る。
「わたくしが何のためにあんな冴えない伯爵の後妻におさまったと思ってるの⁉ 全部全部貴方のためでしょう? 貴方がラグエルの財産がほしいって言うから……」
(やっぱり……)
事前に予想はしていたけれど、実際に義母の口から聞くと、腸が煮えくり返りそうだ。
だけど、今はまだ、こいつらの前に姿を表すわけにはいかない。
落ち着けと自分に言い聞かせながら、あたしは静かに息を吐いた。
「ラグエルの財産は約束通り私がいただこう。当然だ――――私が薬を取り寄せなければ、病気になったと見せかけて、あの男を昏睡状態にすることはできなかったのだから。恩恵は正しく受けるべきだろう?」
「なっ……勝手なことを言わないで! わたくしと別れる以上、貴方に遺産を手にする権利なんて欠片もないのよ⁉」
「愚かだな……。君が遺産を渡さないというなら、私は君を、夫に毒を飲ませた毒婦だと密告するだけだ」
「なんですって⁉」
義母が叫ぶ。あたしは息を殺しつつ、二人のことを睨みつけた。
「わたくしを脅そうというの⁉
だけど……だけど! そんなことをしたら、貴方だってタダじゃ済まないわよ! わたくしが貴方に指示をされてやったことだと伝えるわ! 当然でしょう⁉」
「なぁに、私が商人と繋がっている証拠はなにもない。トミーはあくまでこの家にしか出入りをしていないのだから。
それに、私自身はラグエル伯爵と関わりもなければ、毒を混ぜた事実もない。有るのは君の証言だけ。それだけで私を罰することなどできはしないだろう? 君が私のことを思い、勝手にしたことだ」
なんて身勝手な――――あまりにも酷い二人の主張に、あたしは拳を震わせる。
間違いない。
お父さまの遺書を準備させたのもロズウェルだろう。自分とは無関係のように見せかけ、幾重にも人を介して、入念に準備をさせたに違いない。
「――――全く、人間というのは愚かな生き物だな」
その時、ダミアンの声が不気味に響き渡り、義母とロズウェルは一斉にこちらを振り返った。
「な……! 何なの貴方! 一体どうやってここへ………」
そこで、ようやくあたしの存在に気づいたのだろう。義母もロズウェルも、大きく目を見開き、口をハクハクと開閉している。
「あ、アイナ……」
「アイナ⁉ まさか――――そんな! アイリーンがラグエル伯爵の娘だというのか⁉」
ああ、なんてみっともないの。見ていて思わずため息が漏れる。
ダミアンの言う通り。本当に人間っていうのは愚かな生き物だ。
己の欲望のために平気で他者を陥れ、嘘を吐き、その癖、悪事がバレたらブルブルとあられもなく取り乱す。
「情けないざまね、お義母さま。どうせなら、開き直るぐらいの気概を見せなさいよ」
悪党なら悪党らしく。
変に足掻いたりせず、己の行動を誇るぐらいの姿勢を見せてほしいもの。
悪に染まりきる覚悟もない癖に、中途半端に悪ぶるのだからたちが悪い。
「あ……あぁ…………」
「さて、アイナ。この二人をどうしてやろう?」
ダミアンは満面の笑みを浮かべ、あたしに向かって問いかける。
今の彼は擬態も何もしていない。悪魔そのものの姿だ。
「魂を奪ってやるか――――いや、殺す前に魔獣達の餌にするのが良いだろうか」
義母とロズウェルの顔に恐怖と絶望が張り付く。あたしは思わず小さく笑った。
「ダメよ、ダミアン。そんなんじゃ全然足りないわ。
この二人にはもっともっと生地獄を味わわせないと。
他にも余罪がたくさんありそうだし、この二人に恨みを抱いている人間は多そうだもの。その人達が知らないところで、勝手に罰を与えるなんて許されないわ。
この二人はね、衆人環視の元、己の罪を詳らかにされるの。それから人々の嘲笑を一身に受け、悪魔だと散々罵られ、惨めにみっともなく、長く苦しみながら、一人寂しくその生涯を終えるの――――そうでないと、あたしの気が済まないわ」
一思いに死なせてなんてやらない。
生きて苦しめ――――あたしの言葉に、二人は膝から勢いよく崩折れた。
***
ダミアンは予め、すべての証拠を押さえていた。
ロズウェルが取引をした商人――――トミーの売買記録も、お父さまの遺書を偽造した人間とそのルートも、義母が隠し持っていた毒物も全て。
人間の法律に基づき、正しく二人を罰するために。
(教えてくれたら良かったのに)
まぁ、その方がダミアンらしいけど。
「アイナ! あんた、よくも……よくもお母さまを!」
そのときだった。
屋敷から連行される義母を見送りながら、メアリーがあたしに向かって声を荒げる。隣にはあたしを捨てたラファエルが、困惑した面持ちで突っ立っていた。
「この悪魔! 人の心を持たない糞女がっ! お母さまは何も悪くないのに! それなのに……!」
「ふふっ……貴女それ、本気で言ってるの?」
メアリーの罵倒を聞きながら、あたしは高笑いが止まらなかった。
「何を今更……あたしは悪魔と契約した女だもの。そんな風に言われたところで褒められてるとしか思わないわよ?」
泣き喚くメアリーを見ながら、ラファエルはオロオロするばかり。
全く、顔だけが取り柄の男はこれだから使えない。あたしは小さく嘲笑った。
「馬鹿ね、ラファエル。だから言ったでしょう? そこの猫かぶり娘が良いのか? って。
メアリーはこの屋敷から追放するわ。当然よね? もう家族でもなんでもないのだもの。
それからラファエル――――残念だったわね。貴方はもう、爵位を継ぐことはできないのよ?」
ラファエルは小さく目を見開き、それから悔しげに顔を歪ませ、メアリーを置いて屋敷を出る。
一人残されたメアリーは、しばしの間呆然としていた。あたしはメアリーの傍に屈み、彼女の頬をそっと撫でる。
「恨むなら魅力のない自分を恨みなさい――――だったかしら? そっくりそのままお返しするわ。ラファエルは爵位を継げないなら、貴女に用はないみたいよ?」
笑い声が木霊する。
メアリーは顔を真っ赤に染め、屋敷を勢いよく飛び出していった。
使用人も全員追い出してしまったから、この屋敷にはもう、あたしとダミアン以外の誰も居ない。
「終わった――――」
空っぽになった屋敷の中、あたしは思わずそう呟く。
失ったものが多すぎて、何だか無性に泣けてきた。
「なぁにが終わった、だ。お前の人生はこれからだろう」
ダミアンはそう言って、あたしの頭を小突いた。
「でも……」
「先程使い魔から報告があった。お前の父親が目覚めたらしい」
「……! 本当に⁉」
「ああ。会話もできる状態だそうだ」
「そう――――良かった」
涙が勢いよく溢れ出る。
ダミアンは静かにあたしの涙を拭った。
「――――ラグエル伯爵領については、しばらく俺が面倒を見てやろう。お前の父親が元気になるまで、他に管理をする人間が必要だろう?」
「……良いの?」
「ああ。一度狙われたとあって、今後、伯爵領や伯爵の財産を奪おうとするものが出てこないとも限らないからな」
なんともありがたい申し出だ。あたし一人じゃ領地経営は心もとないし、ダミアンならば悪いようにはしないだろう。あたしはホッと胸をなでおろす。
「それから、被害者の娘とあって、お前への好奇の視線も多数向くだろう。ロズウェルの縁者や、メアリーから付け狙われる可能性だってある。
おまけに、今回の件で俺がこの家に出入りしたという噂が立って、嫁の貰い手が付かないかもしれない。
だが、そんな状態を防ぐ方法が一つだけ有る」
「あら――――何かしら?」
「アイナが俺の嫁になれば良い」
ダミアンは至極アッサリと、そんなことを口にした。
「悪名高き悪魔公爵の妻に手出しができる人間はそう居ない。何があっても、俺がお前を守ってやれる。
伯爵位についても、いずれ生まれる我等の息子が継げば良い。
どうだ、アイナ? 俺と結婚するのは理にかなっているだろう?」
真剣な眼差しのダミアン。
ふふ、と小さく笑い声が漏れる。
ダミアンはそんなあたしを、まじまじと見つめた。
「全く……何を言うかと思えば。
ダミアン――――そんな言葉じゃ全然ダメ。あたしには響かないわ」
首を横に振り、ゆっくりと大きく胸を張る。
「外堀なんて埋めなくて結構! 合理性だって要らない。そんなもの、何一つ求めていないわ!
必要なものは唯一つ――――あんたの愛情だけよ!
跪きなさい! 傅きなさい! ダミアン――――あたしのことが欲しいなら、全力で愛を叫びなさい!」
ダミアンは瞬き一つしないまま、あたしのことを見つめていた。
緊張と興奮で身体が震える。
ダミアンはなんて言うだろう――――そう思ったのも束の間、彼は口の端を綻ばせ、恭しく跪いた。
「良いだろう、アイナ。よく覚えておけ。
この俺にこんなことをさせられる女は、未来永劫お前だけだ。
俺はお前の愛が欲しい! 心が、身体が、全てが欲しい!
俺の全てはお前のものだ。全部全部くれてやる。
だから――――俺と結婚してほしい」
ダミアンは縋るようにしてあたしの手を握り、熱く甘やかに唇を寄せる。
胸が、身体が燃えるように熱かった。
「知ってる。あたしもあんたが――――ダミアンが欲しい」
あたし達は微笑みあい、噛みつくようなキスをする。
あたしの旦那様は悪魔で、ドSで。
だけど、声高に愛を叫んでくれる――――そんな最高の男性だ。
本作はこれにて完結しました。
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改めまして、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!