大家さん
それ程、怖い話ではないですが、嫌いな人はお気をつけください
ずさっ ずさっ ずさっ ずさっ
出かけようとドアノブに手をかけた井田の耳に規則正しい音が聞こえてきた。
部屋の前を箒ではく音だとすぐにわかった。
同じ敷地に住んでいる大家がアパートの掃き掃除をしてるのだ。
身体に粘着くような暑さが、もう、ひと月以上も続いている。
暑さを避けるために早朝にしているのだろう。
に、してもだ。
『こんな時間から掃除をしているのか……』
朝から大家と顔を合わせるのは億劫だったが、どうしても早く出社する必要がある井田は心を決めてドアを開けた。
「あら、お早いですね」
「おはようございます。ご精が出ますね」
井田は玄関のドアの前で掃き掃除をしている老婦人に軽く会釈をすると勢いよくアパートの階段を降りた。
老婦人は井田の住んでいるアパートの大家で、同じ敷地にある時代を感じさせる大きな平家で一人で暮らしをしているようだった。
齢、70歳ぐらいだろうか。
井田には女性の歳が、と言うより年配の人間の歳はわからなすぎた。
それでも灰色の髪を一つにまとめている所を見て、それなりの年齢なんだろうと推測をした。
小柄で地味な身なりをしている老婦人だが、どことなく不思議な雰囲気のある人だった。
改札を抜け、そのまま来た電車へ飛び乗った。
時間が早いせいか電車の中は少しばかり余裕があった。
『そろそろ車、買ってもいいかな。アパートには駐車場もあったし……』
井田は入社して営業課に配属されたが、先輩が車で外回りしている中、まだ入社して間もない井田が、もっぱらデスクワークを押し付けられていた。
それだけではないだろうが、何となく営業課で駐車場を割り当てられていないのは自分だけのような気がしていた。
井田が務める会社は、全国区で見れば地方の中堅どころであったが、この辺りでは名の知れた会社だった。
本社を構えるN市を拠点に支店や営業所をいくつも抱えており、地方局限定ではあったがTV広告も定期的に打つほどだ。
それもあってか地元はもとより、井田のように地方から就業するものも少なくない。
会社も、そんな井田のような社員の為に、アパートを幾つも借り上げたり、所有していた。
今、井田が住んでいるアパートも会社が借り上げた物件の一つだった。
二階建て4部屋ほどの小さい建物だが、地主の善意のおかげか、敷地内に大家がいる立地のせいか、借り上げ物件とは言え、家賃は恐ろしく安かった。
それが井田がこのアパートを選んだ要因の一つだった。
会社の最寄駅で降りた井田は、駅前にあるコンビニで簡単な朝食を買った。
井田はここ数日、お盆休み前までに仕上げなければいけない仕事で、朝はいつもより早い時間に出勤していた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日もお早いですね」
早朝なので守衛のいる通用口から中に入ると、エレベーターを使わずに階段で部署のある階まで上がる。
まだ誰もいないがらんとしたオフィスにはまだ冷房は入っていない。
PCに電源を入れ朝食をつまみながら、過去の事例や見積りを引っ張り出しながら必要なデータを次々と共有のフォルダに入れていった。
井田が出社した時は誰もいなかったフロアも、就業時間が近くなるにつけ徐々に人が増えていった。
とは言っても所属する部署は、下っ端の井田以外は皆外回りで誰も出社しては来ないようだ。
時折、直近の上司から仕事の指示の電話が入るだけで、平穏なものだった。
仕事の目処がたったは大分お昼を過ぎた頃だった。遅めの昼食をとっている井田のところに課長がやってきた。
「井田、いたか。X Xさん、亡くなったらしい」
「X Xさんって言うと俺のアパートの地主さんですよね?」
「ああ、そうだ。今日、亡くなったと言ってた。今夜、線香上げに行くから空けといてくれ」
朝、会った時は元気そうだったのに。わからないものだな。と井田は思った。
あの後、倒れたのかな?俺の部屋の前だとやだな。それとも家に戻ってからだろうか。
今、アパートの住人は井田以外、地方に長期出張でいないから親戚でも訪ねてきて気がついたのだろうか。
「あ、課長。俺、喪服持ってきてないですけど」
「線香あげるだけだから」
課長は『問題ない』と言った。ここら辺で昔は”取るものもとりあえず駆けつけました”と言う意味合いから、通夜は平服で行っていたか頃があったからだと言うことだった。
『車は俺が出すから〇時までに仕事を切り上げておけよ』それだけ言うと課長は、また慌ただしく出かけて行った。
残りの仕事を片付けるべくPCの画面を見ていた井田の脳裏に大家のことが思い出された。
あのアパートに引っ越ししてから、時々、アパートの通路を掃除する姿を見かけた。
今朝のように声をかける時もあれば、そのまま通り過ぎる時もあった。
いつも灰色の髪を一つに纏め、地味な服装をしていた———。
と、ここで井田は肝心の大家の顔がどうしても思い出せずにいた。
『はて。どんな顔をしていたかな』
井田は思い出そうとしたが、その内に、大家の服装すらも、ただ地味だった。と言う記憶だけで具体的にどんな服を着ていたのかさえもわからなくなった。
『気持ち悪いな』と感じたが、それほど親しくはなかったし年齢差や大家と店子という関係性を加味し、わからなくて当然。と、それ以上は考えるのをやめた。
何より、課長からの電話で更なる書類の提出を求められ、それどころではなくなったからだった。
定時過ぎ、課長と合流して大家宅へ向かった。
車中で課長からは『他は皆、出払っていて動けるのは井田しかいないので連れていくが、黙ってろよ。余計なことは言うなよ』と、きつく言われた。
「結婚式と違って葬式はな、その土地ごとでやり方がいろいろだからな」
それだけ言うと運転に集中するために課長は黙ってしまった。
いつもの電車からの風景とは違う、見慣れない道を興味深く眺めていたが、他所から来た自分でも明らかに向かっている先が違うことに気がついた。
「課長、この道ですか?アパートはこっちじゃないと思うんですけど」
「ああ、井田はまだ知らなかったか。あっちは先々代の隠居所で今は誰も住んでないんだ」
はあ。と井田は気のない相槌を打った。
『それにしても大家さん、いつもどうやってアパートまで来ているんだろう』
多少の違和感はあったが、井田は、様子を見に泊まりにきているのかもしれないなどと勝手に理由をつけてその場は納得させた。
それから10分ほど行った先に塀瓦の乗った利休茶に塗られた塀がぐるりと取り囲む、大きな平家、いやお屋敷といった方がいい家に着いた。
敷地もかなりなもので鬱蒼と言う言葉がぴったりな程、樹齢の高そうな木がひしめいていた。
『地元の名士ってとこだろうか』車を降りると、昼間の暑さが嘘のようにひんやりとした空気に井田は驚いた。
敷地いっぱいに広がる庭木の効果なのだろうか。
表門をくぐり母家へと向かう石畳の上を歩く井田と課長の足音以外、なんの音も聞こえてこない。
お通夜だと言うのに弔問客はどこにも見当たらず、屋敷は異常なほどひっそりとしていた。
一軒ほどはあろうかという玄関には不釣り合いな小さな黒くて丸いスイッチがついていた。
課長は慣れた様子でそのスイッチを押すと、時代を感じさせるブザー音が重々しい空気を切り裂くように鳴り響いた。
中から出てきたお手伝いが二人を見て告げたのは、暦の関係で通夜は明晩と言う一言だった。
「とりあえずお線香だけでも上げさせてください」
課長はそれだけ伝えると、お手伝いは、家へ上がるように手招きをした。
屋敷の中も広かった。空調なのか表にも増してひんやりとした空気を感じる。
井田は襖の閉ざされた長い廊下と進みながら、何とはなく周囲を見回した。
掃除が行き届いているようだが何処となく廊下の隅は薄暗く感じられ輪郭がぼやけて見える。
『これが歴史ある旧家ってやつなのかな』と、思った。
お手伝いが廊下の先にある襖を開けると、10畳以上はありそうな広間で4〜50代ぐらいの女性がうつむき加減で出迎えてくれた。
髪はチョコレート色のセミロングで、病院から戻ったままなのだろう、品のいいワインレッドのブラウスに黒っぽいスカートを履いていた。
「さっき、戻ってきたばかりですの」
確かに何もない部屋だった。
辛うじて祭壇を設けるスペースに香炉が置いてあるだけで、それ以外は人の大きさの膨らみがある白い正絹の布団が敷いてあるだけだった。
ちょうど胸の辺りに短刀のようなものが載せてあり、枕部分には白い布がかかっている。
井田はぼんやりと『ああ、これが大家さんか』と思った。
「ご愁傷様です」
そう言って首を下げる課長について井田も頭を下げた。
当たり障りのない言葉を二言三言交わした後で、その女性は課長と井田をみつめていった。
「顔を見ていかれます?」
井田はギョッとした。
家族でも知人でもない故人の死に顔を見ていけと言うのだ。
だが、課長は慣れたもので言われるがまま恭しく白い布を外した。
布の下から見えた故人の顔を見た井田は喉の奥から『ヒュッ』と言う悲鳴のような空気が漏れる。
『この男は誰だ?』
穏やかとは程遠い、眉間に刻まれた深い皺が印象的な初老の男性がそこにいた。
「今朝までは元気でしたのに……もうこの家は私と息子の二人きりになってしまったわ。お祓い...してもらった方がいいかしら」
突然の訃報にショックを受けたせいなのか。なんの脈絡のないことを話す女性の声は何処かふわふわとして捉えどころがない。
「だからダメだって言ったのに。あの家......」
それっきり黙ってしまった。
課長と井田は線香をあげると再度、丁寧にお悔やみを述べ地主の家を辞した。
不思議なことに、老婦人のことは女性の口から聞かれることはなかった。
「———悪いがこれから部長のとこに行かなきゃいけなくなった。井田、駅まで乗せてくからそこから帰宅でいいか?」
車に乗ってから課長はずっと井田に話しかけていたようだったが、井田は亡くなった男性と老婦人のことが気になって話を半分しか聞いていなかった。
どうやら上の空で『わかりました』と答えていたようだ。
駅に着くと井田は課長に追い出されるように車の外に出された。
「———課長、あのアパートの大家さんって……」
井田はどうしても腑に落ちない疑問を解決したくて課長に訪ねた。
が、課長は話を遮るかのように勢いよくドアを閉めると、そのまま走り去ってしまった。
家へと帰る道のりはすっかり闇が落ちていた。が、満月が煌々と夜道を照らして妙に明るかった。
それなのに、さほど遅い時間ではないのにも関わらず、道ゆく人も車も見当たらない。
あの屋敷の涼しさが嘘のように、粘っこい暑さが井田の身体に纏わりついてくる。
静寂に包まれた不自然なほど明るい道を、何処か現実離れをした道を井田は一人歩いていた。
足元を見つめ、黙々とアパートまで歩く井田の頭の中は『大家さん』と呼んでいた老婦人の事で一杯だった。
アパートの敷地に入ると、大家が住んでいると思っていた屋敷に明かりはついていなかった。
改めて見ると人の住んでいる気配はしないことに気がつく。
井田は背中が怖気るような嫌な感じがして、今すぐ元来た道を戻りたいと思った。
それなのに足はアパートに引き寄せられるように、奥へ奥へと進んでいく。
辛うじて人の気配のするアパートの前までやってきた。
だが、一階の住人はまだ戻っていないようで部屋の電気はついていない。
井田はアパートの手すりに手をかけ階段を一段、一段、上り始めた。
中程まで上った時、井田の部屋の方から音が聞こえてきた。
ずさっ
聞いたことのある、箒で掃く音が聞こえてくる。
ずさっ ずさっ
近づくでもなく遠ざかるでもなく聞こえてくる。
ずさっ ずさっ ずさっ
見えていないのに、井田の目の奥では老婦人が部屋の前にいるのが見えた。
ずさっ ずさっ ずさっ ずさっ
井田が階段を上がるのを凝視する老婦人の表情が見えるようだった。
ずさっ ずさっ ずさっ ずさっ ずさっ———————
井田はこのまま上に上がるべきか、引き返すべきかを決められず、ただ、ぼんやりとその場に佇んでいた。