8. その声は
そして翌日、六日目。
昨日はお昼に好物の林檎パイを食べ、明かり取りの窓から曇りがちの空を見つめたり、実のお母様が生きていた頃の楽しい思い出を思い返したりしながら一日を過ごした。
夜は彼と話せないのが寂しかったが、仕方がないので早めに寝床に入った。
いつもの時間に彼と話せないせいか、つい彼のことばかり考えてしまった。
彼はもう帰ってきたか、それともまだ仕事をしているのか、何事もなければいいけれど……。
そんなことを考えているうち、いつのまにか眠りに落ちていた。
(今日は彼と話せるかしら。きっともう彼とお話できるのは最後になってしまうから……)
明日は処刑の執行日。
昼前にはこの独房を出て、もう二度と戻ることはない。
だから、彼とゆっくり話せる機会は今夜しかないのだ。
(もし彼と話せたら、それとなく今までのお礼を伝えたいわ)
初めて独房に入れられた日、不安で恐ろしくて震えていた私に話しかけてくれたこと。
私が寒がっているのではないかと、靴下を差し入れてくれたこと。
きっと仕事で疲れているのに、毎夜私とのお喋りに付き合ってくれたこと。
無実の罪を着せられ、独房で処刑を待つという悲惨な日々の中、彼との会話、彼の存在にどれほど救われただろう。
顔も名前も年齢も、ほとんど何も知らない人だけれど、彼は今の私にとって、一番信頼できて一番安心できる、大切な人になっていた。
彼に負担に思ってほしくないから、私が明日処刑されることは言わないつもりだけれど、感謝の気持ちだけは伝えておきたい。
(あと、最後にまた、彼の手に触れたいわ……)
そうすれば、処刑が恐ろしくて堪らなくなっても、彼の手の温もりを思い出して恐怖に立ち向かえそうだから。
お願いすれば、彼ならきっと応えてくれるだろう。
またこんなことを頼むのは本当に恥ずかしいけれど、もう人生最後だと思えば堂々とお願いできる気がする。
そうして自分を奮い立たせていると、ドンドンと扉を叩く音が聞こえた。
「アリシア・レミントン! 今から扉を開ける。問題ないか」
兵士が大きな声で尋ねる。
この声量からすると、きっと先日の夜に団長を探していた兵士に違いない。
それにしても、突然何の用だろうか。
(そういえば、処刑の前日に教会の神父様がいらっしゃって、囚人の話を聞いてくださるのだったわ)
独房に入れられる直前、兵士にそんなことを説明されたのを思い出した。
この呼び出しも、きっとそのことだろう。
私は身だしなみを整えながら、「はい、問題ありません」と返答する。
すると、少し間を置いてから、分厚い扉がギィと音を立てて開いた。
目の前には、赤髪の兵士と、その後ろに黒髪で長身の男性が立っている。
赤髪の兵士はまだ若者という感じで、黒髪の人はもう少し年上に見える。
「アリシア・レミントン」
赤髪の兵士が厳しい顔をして私の名を呼ぶ一方で、黒髪の人は穏やかな眼差しを私に向けている。
(後ろの方が神父様なのかしら……?)
「お前……いや、あなたも知っているとおり、明日処刑が行われる予定だったが事情が変わった。今日、こうして俺たちがやって来たのは──」
兵士の言葉に心臓が早鐘を打つ。
事情が変わった……?
まさか処刑が早まったなんてことはないわよね……。
不安で震える指先をぎゅっと握りしめると、黒髪の人が続く言葉を引き取った。
「貴女を解放しに来たんですよ」
「……えっ?」
私はあまりの衝撃に言葉を失った。
ここから解放してもらえるということもそうだけれど、それよりも何よりも。
(この声は……!)
私は黒髪の彼を真っ直ぐに見つめて問いかける。
「あの! あなたは隣の独房の囚人さんではないですか……!?」
彼が柔らかく微笑む。
そして赤髪の兵士が大きな驚きの声をあげた。
「は? 囚人さん? そんな訳ないだろう! そもそも隣の独房は誰もいない空き部屋だ」
「えっ? それはどういう……」
隣の独房には誰もいない?
そんなはずはない。たしかに毎夜、壁を挟んで彼と話をしていたのに。
戸惑う私に赤髪の兵士が告げる。
「今、この死刑囚用の監獄にはあなたしかいない。そしてこの方は囚人などではなく、レッドメイン憲兵団の団長だ」
「憲兵団の団長……?」
団長ということは、あの夜に兵士が探していた……?
でもさっきの声は絶対に隣人の彼だった。聞き間違えるはずがない。
どういうことなの……?
混乱で頭が真っ白になる私に、彼──憲兵団の団長さんが手を差し伸べた。
「貴女を困らせてしまってすみません。でも、まずはここから出ましょう。……すべて、きちんとお話ししますから」
◇◇◇
「すぐご説明したいところですが、まずはゆっくり温かいお湯にでもつかってください」
独房を出ると彼はそんなことを言い、いつのまにか女性のメイドと思われる人が現れて、私は別棟へと連れて行かれた。
メイドの女性は私に入浴を促し、私は言われるがまま浴室で身体を洗う。
一週間分の汚れを落とし、久しぶりの温かな湯舟につかると、本当に生き返った心地がした。
それから軽く髪を乾かし、用意されていた清潔な服に着替えると、また先ほどのメイドが今度は応接室のような部屋へと案内してくれた。
ソファに腰掛けると、良い香りのする温かな紅茶と、私の大好きな林檎パイが運ばれてくる。
先ほどから至れり尽くせりで恐縮してしまうが、せっかくなので頂くことにする。
(そういえば、紅茶を飲むのも久しぶりね)
ひとくち口に含むと、ふわりと花のような香りが広がった。林檎パイも生地がサクサクとしていてとても美味しい。
一口ひとくち味わいながらすべて食べ終え、お腹が満たされると、やっと人心地ついた気分になった。
ほうっと満足の溜め息をついたところで、ドアがノックされ、彼が入ってきた。
「……よかった、少し顔色が戻ったようですね」
彼が安心したように呟く。
きっと、さっきまでの私は酷い顔色をしていたのだろう。
「あの、はじめまして……。お風呂と食事、お気遣いいただいてありがとうございました。おかげさまで、だいぶ落ち着きました」
「いえ、緊張がほぐれたようでよかったです。それから……一応、はじめましてですね」
今まで何度も会話はしていたが、こうして直接顔を合わせるのは初めてだ。
「僕はセシル・エヴァンズといいます。……さっき部下が言っていたとおり、レッドメイン憲兵団の団長を務めています」
セシル・エヴァンズと名乗った彼を、私は吸い込まれるようにじっと見つめる。
さらりとした黒髪に、琥珀色の瞳。
思わず気後れしてしまうほど整った顔立ちをしているけれど、柔らかな微笑みは、あの優しくて穏やかな声の印象どおりだった。
「先ほどは、知らなかったとはいえ、囚人さんだなんて言ってしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、貴女がそう思ってくれるよう、僕が装ったことですから」
「なぜそんなことを……?」
「そうですね……。団長という立場では貴女と個人的な会話をすることはできなかったということもありますが、一番は、貴女に軽蔑されたくなかったからです」
「軽蔑……?」
私が首を傾げると、セシル様は自嘲するような笑みを漏らした。
「はい、貴女の無実を見抜くこともできず、監獄に閉じ込めたままでいるような憲兵団の団長なんて、憎まれて当然ですから……」
セシル様が深く悔やむような表情を浮かべる。
私は、そんな彼の言った言葉が引っかかった。
「私の無実を見抜けなかったために、軽蔑されたくなかった」と。
それはつまり……。
「──あなたは、最初から私が無実だと思ってくれていたんですか?」
私が問いかけると、セシル様は切なげに眉を寄せて頷いた。
「……はい、貴女は絶対に無実だと信じていました」
お読みいただいてありがとうございます!
明日からしばらく1日1話更新になります。