6. ある日、私がいなくなったら
四日目の朝。
目覚めた私は自分の右手の指先を、そっと頬に寄せた。
昨晩、彼は私が落ち着くまで、ずっと手を重ねてくれた。
ほんの指先だけだったけれど、私を労ってくれているのが伝わってきて、それだけで穏やかな気持ちになれた。
でも、突然おかしなお願いをして、彼を驚かせてしまったことが申し訳ない。
もちろん今まで、あんなお願いをしたことなんて一度もない。男性はもちろん、女性にも。
それなのに、昨晩はどうしても触れてほしくなってしまったのだ。
独房にずっと一人で篭りきりなうえ、処刑が数日後に迫っているせいで、人恋しさが抑えられなかったのかもしれない。
今も、もう彼と話がしたくて、早く夜になればいいと思ってしまっている。
彼との会話は純粋に楽しいし、とても心が満たされるのだ。
(でも、私が生きていられるのも、あと三日……)
三日後には独房を出て、広場の絞首台へと連れて行かれてしまう。
そうなったら……彼はどう思うだろうか。
きっと、急に隣人が姿を消してしまって驚くだろう。
そして驚いた後はどうするだろうか。
昨日、私が取り乱したように、死刑になってしまったのかと嘆いてくれるだろうか。私の死を悼んでくれるだろうか。
でも、独房暮らしが長いと言っていたし、執行されるべき刑が執行されたのだと、この監獄での日常として受け入れるのかもしれない。
だって、彼は私が無実だということは知らないのだから。
きっと、進んで罪を犯したのではないにしろ、死刑に値するようなことをしでかしたのだと思っているはずだ。
それは仕方のないことだ。
でも、彼にそう思われていると考えると、なぜだか辛いような気がする。
(……彼に言ってみようかしら)
私は、本当は何も悪いことなどしていないのだと。
無実の罪を着せられて、この独房に入れられてしまったのだと。
それなのに、あと三日後に、私は死刑にされてしまうのだと。
(……でも、こんなことを言われても困るわよね)
彼に訴えたところでどうにもならないし、彼は優しい人だから心を痛めるかもしれない。
独房暮らしのうえ、仕事もしていて大変なのに、余計な負担をかけてしまうのは申し訳ない。
初めは自分のことなど何も教えるつもりはなかったのだから、このまま彼には知らせずに突然いなくなればいい。
そう思ったのに……。
「──ある日、私が急にいなくなってしまったとしたら、どう思いますか……?」
その日の夜、私は彼に尋ねてしまった。
「え……どういうことですか?」
彼が戸惑ったように聞き返す。
「えっと、つまり……この独房にいる人間は、いつか必ず出ていかなければならない日が来ますよね。もし、私にその日が来たら、あなたはどう思うのかしらって……」
すべてを打ち明けるのは躊躇われて、遠回りな聞き方になってしまった。
彼は何と言うのだろうかと、その答えを待つ。
けれど、なかなか彼からの反応がなく、やっぱりこんなこと訊かなければよかっただろうかと後悔し始めた時、壁の向こうから返事がかえってきた。
「……そんなこと、言わないでください」
ひどく悲しげで、辛そうな声だ。
「あの、いつかの話です。例え話みたいなものだと思ってください」
予想外にショックを与えてしまったようで、私は慌ててそんなことを言い添える。
「例え話でも聞きたくありません。貴女が急にいなくなってしまうなんて……悲しくて耐えられないと思います」
彼の言葉に、私は一瞬言葉を失ってしまった。
もしかすると嬉しかったのかもしれない。
家族からも見捨てられ、もう誰もが私の死を願っているに違いないのに、彼だけは、私が死ぬことを嫌がってくれたから。
でも、どうしてそんな風に思ってくれるのだろう。
彼にとって私は、隣の独房に入ってきた新たな死刑囚──己の命で贖わなければならない重罪犯に過ぎないはずなのに。
「……あなたは、どうして私のために悲しんでくれるのですか? 私は、この独房に入れられるような人間ですよ」
少し自虐めいて尋ねれば、彼は間髪入れずに言い返してきた。
「違います! 貴女は、そんな人間ではない! 絶対に、こんな場所に入れられていい人ではありません……!」
彼が苦しそうに拳を壁に打ちつける音が聞こえる。
彼は私の事情なんて何も知らないはず。
それなのに、悲しんでくれるだけではなく、こんな風に怒ってくれるなんて。
私がここ数日で彼の優しさを知ったように、彼もまた私が罪など犯すはずがないと思ってくれたのだろうか。
三日後の死刑は、もう覆ることはない。
理不尽極まりないけれど、受け入れる以外にどうしようもない。
だから、きっと私は独房で深い孤独と絶望に呑み込まれて、虚ろなまま処刑されるのだろうと思っていた。
でも、今は心の中にひとつだけ、温かな灯がともったようだ。
「……ありがとうございます。あなたにそう言っていただけて、少し救われました。突然、変なことを言ってしまってすみません。忘れてください」
そんな風に告げると、彼は「待ってください」と思い詰めたような声で言った。
それから何度か躊躇う様子を見せた後、やっと決心したように口を開く。
「あの、信じてください。僕が貴女を──」
「あれ〜? 団長〜?」
彼が何かを言いかけたとき、独房の外から男性の声が聞こえてきた。