5. 彼の存在
その日は一日中上の空で過ごした。
これまで出された食事は必ず残さず食べていたのに、朝食も昼食もなかなか喉を通らず、夕食まで残してしまった。
彼は昼を過ぎて、日が暮れる頃になっても、月が昇って星が瞬く頃になっても、戻って来なかった。
(どうして……? やっぱり彼はもう──……)
最悪の結末を信じざるを得ないのかと、壁の穴の向こう側を茫然と見つめていた、その時。
向こう側から、人の足音と、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「えっ、なぜこれがこちら側に……?」
足音がこちらへと近づいてきて、穴の前でしゃがみ込んだ。
「あの、お嬢さん? 大丈夫ですか? どうかしたのですか?」
焦ったように問いかけてくる彼の声。
壁の穴に掛けられた彼の長い指。
彼がたしかにそこに存在しているという事実に、私はたまらず声を上げて駆け寄った。
「よかった……! 無事だったんですね……!」
幻ではないことを確かめたくて、穴に手を差し入れ隣人の指に触れる。
私の細い指よりもしっかりとした指がわずかに震え、本当に彼は生きているのだと、両目から安堵の涙がこぼれ落ちた。
「突然すみません……。でも、あなたが処刑されてしまったのではと心配で……」
「僕のことを心配してくださったんですか……?」
「……はい、あなたが朝からずっといないから、もしかして……と。あなたは死刑囚ではないと仰っていたけれど、何があるか分かりませんし……」
現に、私も身に覚えのない罪で捕まり、死刑を宣告されている。
彼もそういう理不尽な目に遭ったっておかしくない。
不安に思っていたことを嗚咽混じりに伝えれば、彼はひどく後悔したような口調で私に謝った。
「……貴女を怖がらせてしまって、不安な気持ちにさせてしまってすみません」
「いえ、あなたが謝ることでは……」
「いいえ、僕は貴女に安心してほしかったのに、失態でした」
彼がゆっくりと、私の心を落ち着かせるように語りかける。
「僕は大丈夫です。死刑になることもありません。だから安心してください」
「……分かりました。でも、今日はなぜ独房の外に……?」
私が尋ねると、彼は少しだけ言い淀んだ。
「それは……実は、僕には仕事がありまして」
「仕事、ですか?」
「はい。だから独房にいるのは夜だけで、日中は別の場所に出ているんです」
「そうなんですね……」
そういえば囚人も、懲役刑に処された人や特殊な技能を持つ人など、人によっては仕事が任せられると聞いたことがある。
彼もそういった類なのかもしれない。
早合点してしまった自分が恥ずかしい。
「勝手に勘違いしてしまってすみません。私ったら世間知らずで……」
「……いえ、心配していただけて嬉しかったです。ご自分も大変な状況なのに僕なんかのことを気遣ってくださるなんて、貴女は本当に優しい方ですね」
彼の声が、さっきよりも温かくて柔らかな響きを帯びる。
「い、いえ、そんなことありません。あなたこそ、とても優しい方です。私を心配して声を掛けてくださったり、靴下を下さったり……。私は初めてここに入れられた日から、ずっとあなたの優しさに助けられています。本当にありがとうございます」
これまでしっかりと伝えられずにいた感謝の思いを伝えると、しばらくの沈黙の後に「……ありがとうございます」という小さく掠れた声が返ってきた。
もしかして、照れているのだろうか。
でも、少しでも私の感謝が伝わっていれば嬉しい。
「……そういえば、どうして壁をずらしたのですか? 何か御用でも……?」
「あ、実は今朝、穴がきちんと塞がっていなかったのに気づいて直そうとしたら、うっかりそちら側に落としてしまいまして。特に話があったわけでは……」
私がそう言い訳をすると、彼はなぜか少ししょげた雰囲気になった。
「そうでしたか……。少し期待してしまいました」
「えっ?」
「いえ、今後はちゃんと壁が塞がっているか、僕も気をつけますね」
「ありがとうございます」
「さて、今日は何の話をしましょうか」
彼は今夜も雑談に付き合ってくれるらしい。
日中、仕事をしているなら、きっと疲れてすぐに休みたいはずだろうに、私が一人で塞ぎ込まないよう気遣ってくれるのだ。
やっぱり優しい人だ。
そして私はつい、彼のその優しさに寄りかかってしまう。
「……あの、もしよかったら本の話をしてもいいですか?」
「もちろんです。貴女はどんな本がお好きなんですか?」
「私は推理小説が好きです。探偵アマデウスのシリーズとか……」
「お嬢さんの愛読書が推理小説とは意外ですね。僕もあのシリーズは好きです」
「そうなんですか! では『アバカロフ家の猫』はご存知ですか? 長編作品なんですけど、すごく読み応えがあってお気に入りなんです」
「知ってますよ。前に読んだことがあります。人間関係の描写とトリックの意外性が面白いですよね」
「そうなんです! 特にアマデウスと夫人の会話が秀逸で──」
お気に入りの本について語れるのが嬉しくて、つい前のめりで話してしまったけれど、彼はそんな私の話を楽しそうに相槌を打ちながら聴いてくれた。
そうして今夜も楽しく語らい、話題が落ち着いたところで彼がいつものように就寝を促した。
「では、そろそろ休みましょうか」
「……そうですね。きっと、もう遅い時間ですものね……」
今夜は彼が無事だったことも分かったし、思う存分好きな話もした。
安心して満ち足りた気分で眠れそうなはずなのに、もう寝なくてはならないと思うと、どこか物足りないような、切ない気分になる。
そんな私の気持ちが声に表れていたのか、彼が気遣わしげに尋ねる。
「どうしましたか? どこか具合でも……」
「いえ、具合は大丈夫です。ただ少し、胸が辛くて苦しいような気がして……」
そう答えると、壁の向こうで彼が息を呑む気配がした。
「──きっと僕が余計な不安を煽ってしまったんですね……。無神経で申し訳ありません……」
どうやら彼は、自分が急に姿を消したせいで、私が処刑への不安を煽られて落ち着かないのだと思っているようだった。
(……そうなのかしら?)
自分ではよく分からない。
でも、よく考えたら私はあと四日で処刑されるのだ。
辛くなるとしたら、そのことしかないだろう。
それに今、処刑のことを考えたら、やっぱり怖くて少し震えてしまった。
血の気が引いて、指先が冷えるのを感じる。
「僕が貴女の辛さを和らげられたらいいのに……」
苦しげに呟かれた彼の言葉に、私は自分でも驚くような返事をしてしまった。
「……でしたら、私の手に触れてくださいませんか?」
「え?」
彼が戸惑いの声を漏らす。
それはそうだ。急にそんなことを言われて戸惑わないわけがない。
自分でもはしたないと思う。でも……。
「さっき、あなたの指に触れた時、とても安心したんです。あなたの存在を感じられて、波立っていた心が、あっという間に落ち着きました。……だから、またあなたに触れられたら、きっと安心できると思って……」
恥ずかしさをこらえて説明すると、彼はしばらく押し黙った後、意を決したように真面目な声で答えてくれた。
「分かりました。……では、少し触れさせていただきますね」
そう言って、彼が遠慮がちに私の指に触れる。
「……大丈夫ですか? やっぱり不快だったら仰ってください」
「不快だなんてことありません。とても……落ち着きます」
彼は私に触れることに気が引けているようで、私の指先に彼の指を重ねるだけだったけれど、そこから彼の温もりが伝わってきて、私の不安はすぐに溶けて消えていった。
「……もう少し、このままでいてもらってもいいですか?」
「はい、貴女が安心できるまで、ずっとこうしています」
「ありがとうございます……」
私は彼の温かな指先の熱を感じながら、このまま時が止まって、処刑の日が来なければいいのにと、そう思った。