3. 思いがけない贈り物
翌朝、私は小鳥の鳴き声で目が覚めた。外はまだ薄暗い。
慣れない固い床の上での就寝だったせいで身体が痛むし、だいぶ朝早い時間に目が覚めてしまったが、案外ぐっすり眠れたようで、頭はすっきりしていた。
無実の罪を着せられ、独房に閉じ込められ。そんな状態では一睡もできないのではないかと思っていたのに、思いのほか穏やかに眠りにつくことができた。
(……昨日の隣の人のおかげかしら)
隣人の優しく耳に心地よい声が私の涙と震えを止め、彼の声が紡ぐ月と星の神話が私の心を独房から解き放ってくれた。
突然、壁に穴が空いて話しかけられた時は本当に驚いたし怖かったけれど、私を慰めようとしてくれたことのようだったし、きっといい人なのだろう。
(でも……)
たしかに昨晩のことを振り返れば、彼はいい人のように思える。
けれど、よくよく考えてみれば、ここは死刑囚が収監される独房なのだ。
つまり、彼は許されざる大罪を犯して、この独房に閉じ込められているはず。
となれば、彼は「いい人」ではなく「悪人」ということになる。けれど──。
(……やっぱりそんな風には思えなかったわ)
自分が単純で騙されやすいということは、よく分かっている。
今回の件で、嫌というほど分からせられた。
だから今回の勘も間違っているかもしれない。
でも、実際に無実の罪で独房に入れられた人間がここにいるのだ。
もしかしたら、彼も同じように冤罪で独房に入れられているということも考えられる。
今夜また話をするから、その時に聞いてみようか。
昨晩、一緒に話した限りでは、彼はとても感じのいい人だった。
独房にいる理由なんて尋ねられたら不快かもしれないが、彼なら話してくれそうな気もする。
(……でも、やめておこう)
私は何か奇跡でも起こらない限り、一週間後に処刑される身だ。
できるなら、それまで心穏やかに過ごしたい。
彼はもしかしたら凶悪犯なのかもしれない。
でも、それは今の私には知らなくてもいいことだった。
もし被害者がいるなら私は最低の我儘な人間かもしれないけれど、彼には優しい話し相手でいてほしかった。
命の猶予が毎日毎秒失われていく中で、この壊れてしまいそうな心を繋ぎ止めておくために。
そして、二日目の夜が訪れた。
「こんばんは。お邪魔しても大丈夫ですか?」
「……こんばんは。はい、大丈夫です」
石が擦れる音とともに壁に穴が空き、今夜も隣人が話しかけてきた。
「昨日はよく眠れましたか?」
「あ、はい、思っていたよりよく眠れました。あなたがお話をしてくれたおかげだと思います。ありがとうございます」
「いえ。貴女がしっかり眠れたならよかったです」
隣人は安心したような声音でそう答えると、「ところで」と言いながら壁の穴に何かを押し込み始めた。
壁の向こうから小さく丸められた灰色の何かが送られてくる。
「よかったら、これ、使ってください」
「えっ、これは……靴下ですか?」
隣人が差し出してきたのは、毛糸の靴下だった。
柔らかな手触りで、ふんわりと温かい。
「はい、ずっと裸足では冷えるでしょう? それを履けば少しはましだと思います。ああ、でも見つかると取り上げられてしまうと思うので、見張りが来るときは隠してくださいね」
「分かりました。ありがとうございます。……でも、靴下なんてどうやって手に入れたのですか?」
囚人は支給された衣服以外を身につけてはならず、必ず裸足でなければならない。
それに、差し入れも受け取ってはいけない決まりだったはずだ。
それなのに、彼はなぜ靴下を手に入れることができたのだろう?
不思議に思っていると、隣人は何でもないことのように教えてくれた。
「僕は独房暮らしが長くて、わりと融通が利くんですよ」
「そう、なんですか……?」
独房暮らしが長いとは、どういうことなのだろう。
ここは死刑囚が入れられる監獄だ。彼は死刑を宣告されたものの、ずっと執行されずに閉じ込められたままなのだろうか。
それとも、やはり冤罪の可能性があって、処刑が保留にされているとか……?
私が考え込む気配を感じたのか、彼は躊躇いがちに言葉を続けた。
「詳しくは言えませんが、僕は死刑囚というわけではないんです。この独房に入っているのは、違う理由があって……」
「そうなんですね……。あ、言いづらいのでしたら、言わなくても大丈夫ですから」
声の調子から、とても言いにくそうな雰囲気が感じられる。
元より、彼の個人的な事情を詮索するつもりはなかった。名前だって訊くつもりはない。
ただ、隣人同士として、処刑日までの間、私の気が狂ってしまわないように助けてほしいだけだ。
彼も私のことなど、昨日新しく入ってきた死刑囚ということしか知らないだろう。
私が誰で、なぜこの独房に入れられたのか、何も知らないはず。
でも、それでいい。
今度は私から彼に話しかける。
「そういえば、今日の夕食、林檎がついてましたよね。初日には果物なんてつかなかったのに、今日だけ特別なのでしょうか?」
「……たぶん、初日だけ忘れてしまったんじゃないでしょうか。これから毎日林檎がついてくると思いますよ」
「そうなんですね。林檎は好きなのでありがたいです」
「他に好きな食べ物はありますか?」
「そうですね……実は甘いものが好きで、家でもよく焼き菓子を作ってました」
「自分で料理を? それはすごいですね」
「いえ、そんなに上手なわけでもないのですが……」
彼と二人で、そんな他愛もない話を続ける。
私の父が殺されたことや、私がその犯人となっていること、これから一週間も経たないうちに私は処刑されてしまうこと。
そんなことはおくびにも出さず、ただただ平和で和やかな会話を重ねる。
柔らかく穏やかな彼の声や言葉を聴いていると、昼の間張り詰めていた心が自然と落ち着いてくるのを感じる。
そうして、また私がうとうととし始めた頃、彼が優しく終わりの合図をくれた。
「では、今夜はここまでにしましょう」
「……はい」
「おやすみなさい、ゆっくり眠ってくださいね」
「おやすみなさい、あなたもゆっくり休んでください」
昨日と同じく、「おやすみなさい」の挨拶の後、私が壁の穴を塞いだ。
(今夜は彼からもらった靴下を履いて寝てみよう)
靴下にゆっくりと足を入れると、肌触りのいい毛糸がふわりと包み込んでくれた。
「……温かいわ」
今夜は昨日よりももっと気持ちよく眠れそうだ。
私は両足と胸がぽかぽかと温まるのを感じながら、そっと目を閉じた。