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2. 独房の隣人


「……私、いつのまにか眠ってしまったのね」


 どうやら女神様に祈りを捧げている途中、疲れて眠ってしまったらしい。

 明かり取りの窓から見える空はもう暗く、独房の中もすっかり冷えてしまっている。


 私が眠っている間に夕食が支給されていたようで、分厚い扉の前の床に、質素な食事の載ったトレーが置かれていた。


 思えば、昨日の夜からろくに食事をとっていないので、さすがに空腹だ。

 私はトレーを手に取り、藁の(むしろ)に座って食事を頂くことにした。


 ライ麦のパンに、蒸した芋と野菜スープ。スープには薄い肉がほんの少し入っている。

 伯爵家の食事とは比べようもないけれど、大罪人となってしまった私が食事を口にできるだけありがたいことだろう。


 女神様に感謝を捧げ、無心で口に運ぶ。

 食欲なんてないけれど、食材を無駄にするのは気が引けるし、何か食べたほうが身体も温まるはずだ。


 そうして食事をすべて食べ終え、トレーを元の場所に戻した後、私はまた寝床に戻って掛布に(くる)まった。


「……あら、綺麗な月だわ」


 ふと明かり取りの窓に目をやれば、そこにはちょうど美しい真円を描く満月が浮かんでいた。


 冴えざえとした白い光を放つ満月をぼんやりと眺めていると、なぜかだんだんと泣きたいような気分になってきた。


 なぜ父は殺されてしまったのだろう。

 なぜ私は犯人に仕立て上げられてしまったのだろう。

 なぜ、誰も私の言うことを信じてくれないのだろう──。


(怖い……処刑されるのは怖いわ……)


 これから処刑日までの一週間、こんな風にずっと死の恐怖に耐え、理不尽への絶望を抱えて過ごさなければならないのだろうか。


 今でさえ食べたものをすべて吐いてしまいそうなほど恐ろしくて仕方ないのに、二日経ち、三日経ったら、私はどうなってしまうのだろう。

 恐怖のあまり気が狂ってしまうかもしれない。


(でも、あんなに(むご)い処刑が待ち受けているなら、いっそのこと正気なんて保っていないほうがいいのかもしれない)


 そのほうが、かえって苦しむことなく安らかに死ねるのではないだろうか。


(ああ、こんな場所で一人きりだと、嫌なことばかり考えてしまうわ……)


 狭い独房の中で一人きり。

 会話をする相手もいない。

 目に映るのは石造りの床と壁、そして小さな四角に囲まれた空ばかり。


 まるで世界から切り離されてしまったようだ。

 誰も私のことなど気にかけず、必要ともしていない。

 父殺しの罪人など、早く処刑されればいいと思っている。


 そんな風に感じられて、涙がとめどなく溢れてくる。


「嫌よ……誰か、私を信じて。私をここから救い出して……」


 女神様ではない、誰かへの願いを囁く。

 そうして声を殺して泣いていると、ふいに何かが擦れるような音が聞こえた気がした。


 ズズ……ズズ……


 気のせいではない。たしかに音が聞こえる。


 夜中に響く謎の音が不気味で、壁に背をくっつけて掛布を握る手に力を込める。


 すると、背後から押されるような感覚を覚え、私は弾かれるようにその場から立ち上がった。

 

(何……? 一体なんなの……?)


 恐怖に震えながら壁を見つめていると、壁の石がゆっくりとせり出してきた。

 そのままどんどんこちら側へと突き出てきて、やがてゴトッという音と共に床に落ちた。


 今壁には、手のひらより少し小さいくらいの穴が空いている。

 穴の向こうは暗くてよく分からない。


 突然壁に現れた四角い闇を呆然と見つめていると、今度は向こう側から人の声が聞こえてきた。


「こんばんは。明るい月夜ですね」


 深みのある穏やかな男性の声だ。

 知らない男の人──しかも壁の向こう側は別の独房があったはずだから、彼はおそらく囚人のはず。


 普通なら警戒するところなのだろうが、突然のことに驚きすぎたせいか、それともあまりにも心地良い声に警戒心が解かれてしまったせいか、私はつい返事をしてしまった。


「こんばんは。今夜は満月みたいです」


 そんな風にうっかり挨拶をしてしまった後、やっぱり声の主の得体の知れなさに不安になり、口もとを押さえて黙っていると、穴の向こうからまた穏やかな声が返ってきた。


「怖がらせてしまってすみません。返事をしてもらえてよかったです」


 いきなり壁に穴が空いて、別の囚人に話しかけられたのだ。恐怖に怯えるに決まっている。

 でも、事件に巻き込まれてから初めて自分を労ってくれるような言葉と声に、おかしなことだけれど、私はほんの少しだけ心を許してしまった。


「あなたもここの囚人の方ですか? この穴は一体……」


 私が尋ねると、声の主はわずかな間の後、躊躇いがちに答えてくれた。


「……はい、僕もこの監獄の住人です。この穴は、前にここに入っていた囚人が退屈しのぎに空けたみたいですね」

「そうなのですね……。あの、どうして私に話しかけたのですか?」

「それは……貴女の泣き声が聞こえたからです。きっと一人で心細いのではないかと思って」


 思いがけない言葉に、私はとても驚いてしまった。

 まさか誰からも見捨てられた私を、隣の独房の囚人が心配してくれるだなんて。


「ありがとうございます。うるさくしてしまって申し訳ありません」

「いいえ、こんなところに一人きりでは泣きたくもなりますよね。こちらこそ、突然話しかけてすみませんでした」

「い、いえ……」

「もしお邪魔じゃなかったら、少しお話ししませんか?」


 穏やかな声の隣人は、またもや思いがけないことを言い出した。

 独房の囚人同士がお喋りだなんて、きっと見張りの兵士もいるはずなのに、まずいのではないだろうか。


 お喋りを聞かれたせいで、独房の壁に穴が空いているなんてことが知られたら、絶対に良くないはずだ。共謀を企てたと思われて、鞭打ちの罰を受けることになってしまうかもしれない。


 少し声を落として隣人にそう懸念を伝えれば、彼は「ああ」と凪いだ声で言った。


「安心してください。この時間、見張りの人間はサボっていて不在ですから」

「えっ、そうなのですか?」

「はい、僕はここのことに詳しいので信じてもらって大丈夫です」

「それならよかったです」

「では、貴女とお話ししても?」

「はい、私でよければ……」


 声の大きさを戻して返事をすれば、壁の向こうから、ほっと息を漏らすような音が聞こえた。


「ありがとうございます。では、せっかくの綺麗な月夜ですし、月と星の神話はいかがですか?」

「いいですね。そういえば、私も子どもの頃から月の舟のお話が好きで、よく絵本で読んでいました」

「ああ、少し物悲しいけれど美しいお話ですよね。幼い頃からお好きだったなんて、賢いお嬢さんだったんですね」

「い、いえ、そんな……」


 隣人は常に穏やかに優しく語りかけてくれ、私の話も柔らかな相槌をうちながら、しっかりと聴いてくれた。


 それはまるで温かく緩やかな波に揺られているような心地よさで、私はだんだんと瞼が重くなってくるのを感じた。


「──それは……知らなかった、です……」


 私が隣人に返事をすると、くすっと笑うような声が聞こえた。


「もう夜も遅いですし、そろそろ寝る時間ですね」

「あ……はい……」


 きっと私が眠くなっていることに気づいたのだろう。隣人は会話を中断して、私に休むよう促した。


「ああ、そうだ。壁の石をそちら側に落としたので、貴女のほうで穴を塞いでいただけますか?」

「あ、そうでしたね。わかりました」

「また明日の夜もお話していいですか?」

「はい、大丈夫です」

「よかった。……では、おやすみなさい」

「おやすみなさい……」


 就寝の挨拶を交わした後、私は壁の穴を元に戻して寝床に横たわった。

 重い瞼を閉じ、さっきまで隣人と話した神話の物語のいくつかを思い浮かべる。

 

 月の舟や、金糸雀の番、女神の糸車の物語の情景を頭の中に描いているうち、私はいつのまにか深い眠りに落ちていった。



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