13. 誓い
その日の夜。今日の彼女はどんな風に過ごしていたのだろうか──そんなことを考えながら独房に入った僕は、そこにあるはずのないものが落ちているのに気づいてどきりとした。
「なぜこれがこちら側に……?」
彼女の独房に接する壁の下に、隠し穴を塞ぐ石が落ちていたのだ。つまり、彼女が穴を開けたということだ。
まさか、何かあったのだろうか。
慌てて穴の前にしゃがみ込み、彼女に話しかける。
「お嬢さん? 大丈夫ですか? どうかしたのですか?」
すると、すぐに彼女が駆け寄ってきて、泣きそうな声で返事をした。いや、本当に泣いていたかもしれない。
「よかった……! 無事だったんですね……!」
こんなに取り乱して、一体どうしたのだろう。それに無事だったとはどういうことだろう……と思った次の瞬間、僕の心臓が跳ねた。
壁の穴にかけた指に何かが触れる感触。
──彼女が、僕に触れている。
小さくて、か細い指。
寒さのせいか、ひんやりとしている。
そんな彼女の指先が、僕の指を慈しむように撫でた。
あまりの出来事に戸惑ってしまったが、どうやら彼女は僕の不在に気づき、もしかすると処刑されてしまったのではないかと、ずっと心配していたらしい。
自分だって数日後に処刑が決まっているのに、たかだか三日前に出会った隣人──しかも独房にいる人間の心配をするなんて、彼女は本当に人が好すぎる。
でも彼女の優しさが、とても温かくて嬉しかった。
そして同時に、自分の迂闊さを後悔した。
(彼女をこれほど不安にさせてしまったなんて……)
元々、処刑に怯えているだろう彼女に寄り添い、少しでも気持ちを落ち着けてもらいたくて、こうやって夜に会話をしていたのだ。それなのに、逆に不安がらせてしまうなど、とんでもない失態だ。
とにかく、彼女に安心してもらわなくては。
そう思って、自分は死刑になることはないから大丈夫だと告げる。すると今度は、なぜ独房の外に出ていたのか尋ねられてしまい、僕は言葉に詰まってしまった。
苦し紛れに、自分には仕事があって、日中は別の場所に出ているのだと、事実ではあるが真実は至らない曖昧な答えを返した。
彼女は己の不明を恥じたように恐縮しながら、僕の回答を受け入れてくれた。
本当に、人を疑うことを知らない、純粋な人だ。
『貴女は本当に優しい方ですね』
壁に隔てられ、顔が見えないのをいいことに、臆面もなく本音を伝える。
彼女の優しさに、何度心が洗われるような思いになったことか。職業柄、殺伐としたことの多い日々の中、街で彼女の善行と清らかな笑顔を見るだけで、心が洗われるようだった。
今だって、彼女と話すこの夜のひと時だけが僕の癒しだ。
彼女の優しさが、僕を温かく包み込んでくれる。
そう思っていたら。
『……私は初めてここに入れられた日から、ずっとあなたの優しさに助けられています。本当にありがとうございます』
彼女がはにかんだような口調でそんなことを言うから、僕は胸がいっぱいになって、何も言えなくなってしまった。何十秒も経ってから、ありがとうございます、と小さな声で返すのがやっとだった。
それから僕たちは、愛読書について語り合った。
彼女はてっきり女性に人気の恋愛小説あたりを挙げるかと思いきや、推理小説の題名を口にするから驚いた。特に探偵物の推理小説が好きなようで、とても熱心に語っていた。
その様子が愛らしくて、くすくすと笑ってしまったのは内緒だ。
(僕が今、その探偵小説の主人公のようなことをやっていると言ったら驚くだろうな)
お互いにおすすめの本を何冊も紹介し合い、会話の間が空いたところで、僕からそろそろ休もうと提案する。だが、彼女が返した声はどこか憂鬱そうな響きだった。
まさか具合でも悪くなったのだろうか。こんな快適さとはかけ離れた場所に閉じ込められていたら、体調を崩してもおかしくない。
もし不調があるのであれば、すぐに医者を呼ぼうと思って尋ねると、彼女は具合が悪いわけではなさそうだった。
『少し、胸が辛くて苦しいような気がして……』
彼女の返事に、僕はハッとした。
きっと今日のことで、彼女は数日後に自分が処刑されることを意識してしまったのだろう。それで怯えているに違いない。僕が、独房にいなかったせいだ。
憲兵団の職務があるし、彼女の潔白の証明もしなければならないから、一日中この独房にいることは難しい。けれど、できることなら、ずっと彼女のそばにいてあげたかった。
『僕が貴女の辛さを和らげられたらいいのに……』
ほとんど無意識にそんなことを呟くと、壁の向こうから信じられない言葉が返ってきた。
『……でしたら、私の手に触れてくださいませんか?』
『え?』
彼女の手に触れる?
僕が、彼女の手に?
彼女の言った言葉は聞き取れているのに、意味が分からなくて頭が混乱する。
なぜ? 触れる? 触れていいのか? 僕が? 彼女の手に?
こんな疑問が何度も頭の中をぐるぐると回った状態で固まっていると、彼女の声が聞こえてきた。
『さっき、あなたの指に触れた時、とても安心したんです。あなたの存在を感じられて、波立っていた心が、あっという間に落ち着きました。……だから、またあなたに触れられたら、きっと安心できると思って……』
小さく震えるような、少し緊張した声。
途中で詰まりながら、一生懸命に話してくれた彼女の言葉に、僕は息が止まるかと思った。
壁の穴に置かれた彼女の華奢な手。
暗がりの中で、とても心細そうに見える。
彼女には、温もりが必要なのかもしれない。
冷たくかじかんだ手に触れたら、僕の熱が伝わって、彼女の冷えた手も、辛い心も温めてあげられるかもしれない。
『……では、少し触れさせていただきますね』
恐る恐る、彼女の指先に手を重ねる。
重ねてから、僕の無骨な手ではやっぱり不快なのではと心配になったが、彼女は落ち着くと言ってくれた。
もう少しこのままでいてもらってもいいかとお願いされ、また僕の心臓がおかしくなる。
『──はい、貴女が安心できるまで、ずっとこうしています』
小さく細い指先に彼女の存在を感じながら、必ずここから救い出してみせると心に誓った。