10. 夜の始まり
独房がある塔の敷地までやって来た僕は、もう彼女が入れられたであろう一室を見上げる。
さっきは咄嗟に場所を変えるよう命じてしまった。
彼女を地下牢には住まわせたくなかったのだ。
風通しが悪く、湿気がこもって臭いはきついし不衛生なうえ、通路との仕切りが鉄格子で中が丸見えだから、女性には抵抗があるだろう。
それに、同じ場所に荒っぽい死刑囚も投獄されているから恐怖を感じるかもしれない。
一方、塔の独房のほうは、元々貴人の罪人向けに建てられた牢獄だから、地下牢よりだいぶ過ごしやすいはずだ。
全面が石壁で囲まれているので、扉を開かなければ中の様子は分からない。
さらに今、塔の牢獄には誰も収監されていないため、他の囚人たちに怯えることもない。
そしてもう一つ都合がよかったのは、隣り合う二つの独房を隔てる壁に、小さな隠し穴が空いていることだった。
理由は分からないが、昔入っていた囚人が開けた穴のようで、最近見つかって修繕をする予定だった。
ロイには修繕は終えたと言ったが、実際はまだだ。
そして、少なくともあと一週間は直さないでおくつもりだ。
(彼女はきっと処刑が決まって心細い思いをしているはずだ。できるなら、少しでも不安を和らげてあげたい)
我ながら、まるで彼女が無実の罪で捕まってしまったような扱いだと思う。
街で親切な姿を目撃しただけで、いくらなんでも贔屓が過ぎるとも思う。
でも、仕方ないのだ。
どうしても彼女が父親殺しの犯人だとは思えない。
憲兵団団長としての勘も働いているのか、どこか確信めいたものを感じていた。
(……きっと何かあるはずだ。彼女を処刑などさせない)
事件現場となった屋敷をもう一度調べる必要がある。
(この後、出かけてみるか)
そして夜は、一人で怯えているだろう彼女のそばにいてあげよう。
監視役は僕が引き受けたから、その間はこの塔にいるのは僕と彼女だけになる。
(夜になったら、隣の独房の囚人を装って彼女に話しかけてみよう)
憲兵団の人間として接触するのはまずいだろう。
立場もあるし、それに彼女を犯人扱いして逮捕した憲兵団など、彼女にとっては信頼できないものの象徴となっている可能性が高い。
無害そうな囚人を装うほうが、かえって親近感を持ってもらえるかもしれない。
僕は最上階の独房を見上げたまま、さて何と言って話しかけようかと考え始めるのだった。
◇◇◇
その日の夜、僕は監視の役目を放り出して、彼女の隣の独房に潜り込んだ。
すると、明かり取りの窓を通じて彼女の泣き声が聞こえてきて、胸が締め付けられるように痛んだ。
こんな場所に一人で押し込められて、きっと恐怖と不安でいっぱいになっているはずだ。
早く慰めてあげたくて、僕は隠し穴を塞ぐ石を抜き、彼女に話しかけた。
警戒して返事をしてくれないかもしれないと心配もしたが、彼女は急に壁に穴が空いたことに気を取られたせいか、案外普通に返事をしてくれた。
さすがに街で一言会話をしただけの僕の声など覚えてはいなかったようで、素直に同じ囚人だと信じてくれた。
正直、彼女にはいろいろ事件のことで尋ねたいこともあった。
だが、ただの隣の囚人が根掘り葉掘り聞こうとするのもおかしいだろうし、何よりもさっきまで泣いていた彼女を落ち着かせてあげたかった。
彼女に寄り添いつつも、あまり悲観的なことは言わず、できるだけ明るく穏やかに。
そう心がけて会話を試みる。
とは言え、女性と何を話せばいいのかなんて分からないので、とりあえず王国民なら誰もが知っている月と星の神話を話題に出してみた。
幸い、彼女は神話の物語が好きだったようで、僕の話すさまざまな物語をときどき相槌を打ちながら聴いてくれた。
今どんな表情をしているのだろうかと気になったりもしたが、固く震えていた彼女の声が次第に柔らかく落ち着いていくのを感じて、ひとまずはよかったと安心した。
夜も更け、だんだんと眠気に抗えなくなってきた彼女にもう休むよう伝え、就寝の挨拶を交わす。
壁の穴が塞がれるのを見届けた後、僕はそっと独房を出て、夜番の仕事に戻ったのだった。
◇◇◇
翌朝、僕は見張りを交代した後、帰宅の途中で朝市に寄り、数箱分の林檎を購入した。
彼女はたしか林檎が好きだと言っていた。
囚人用の食事のメニューを大きく変えることは難しいが、デザートとして林檎をつけるくらいならできる。
彼女への特別扱いに気付かれないよう、他の囚人の食事にもつける必要があり、多少出費はかさんだが懐が痛むほどではない。
これで彼女が少しでも食事を楽しみにしてくれればいいと思う。
大量の林檎を監獄の調理場へ送らせたため、後からロイに怪訝な顔をされたが、仕入量を誤った知人に頼まれたからと誤魔化すと、とりあえずは納得したようだった。
次から次へと発生する仕事を急いで片付けながら、今夜は彼女と何の話をしようかと考える。
自分が彼女とのひと時を楽しみにしていることに気付いて苦笑する僕を、部下たちが不思議そうに見つめていた。