王子、お忍びでパン屋に通うのはおやめください!
「いらっしゃいませ!」
ここは、王都にある小さなブーランジェリー。
店員のニナは扉が開かれると同時に満面の笑みを入り口に向け――客の顔を見るやいなや思い切り眉間に皺を寄せた。
店内に他の客はいない。声を潜めることもせず、ニナは客へ溜め息を放った。
「アーサーさま。あれほどひとりでご来店なさるのはおやめくださいと申し上げたのに」
「ひとりではない。外に護衛騎士がいる」
ニナがちらりと店の外へ視線を向けると、明らかに街の雰囲気にそぐわない重厚な装備の男性が見えた。
「お言葉ですが、要人が来店しているというのが丸わかりですよ……?」
「それに、今回は平民の恰好をしてきたぞ」
アーサーと呼ばれた青年は堂々と胸を張った。
彼こそ、この国の第一王子である。
後ろに撫でつけた金髪は光り輝き、碧眼は澄み渡って美しく、どこからどう見ても溢れ出る高貴な雰囲気。
トップスはハイネック、光沢のあるパンツはセンタープレスの入ったものという一般的な服装ですら、素材から高級感がにじみ出ている。明らかにオーダーメイドで、値段を訊くのもおそろしい。
王族というのは国で最も魔力が高く、光魔法を使える一族。また、この国を長い間統治してきた存在でもある。
ニナがアーサーと出会う前に噂で聞いていたのは、彼の魔力はすばらしく高く、知的で、穏やかで、非の打ち所がない人物だというものだった。
ところが度々ブーランジェリーに訪れるアーサーは、魔法こそ目にしたことはないものの、なかなかに強引で我が強い。
(決して悪い方ではないけれど、噂と現実って違うものだと思い知らされたわ)
「わたしは図書館でよく物語を読むんですが、王子がこっそり街に出かけるというのは不可能だと改めて感じているところです」
「何故だ?」
「王子オーラが半端ないです。どこからどう見ても平民には見えません」
内容こそ敬っているものの、ニナの口調はただの不敬。聞く者が聞けば肝を冷やすだろうし、罪人として首が飛んでもおかしくない。
それでもアーサーは愉快そうにしている。
何回か前の来店時に、ブーランジェリー内では一切の不敬を問わないと宣言したのである。
最初は慎重な対応をしていたニナも、店内では遠慮なく塩対応をすることに決めた。それが真に王子の要望であると渋々ながら承知したからだ。
「諦めたまえ。君はいい加減に現実を受け入れた方がいい」
「変装しきれていない王子さまがパンを買いに来るということを、ですか?」
「そうだ。ということで今日も、すべてのパンを1つずつ貰おう」
さくさくのクロワッサン、具だくさんのパニーニ、フルーツたっぷりのデニッシュ、フルーツたっぷりのライ麦パン、……。
クープの美しいバゲットは紙袋からちょこんとはみ出て、猛烈に焼きたての香りを放っている。
なお、紙袋を抱えるのは当然ながらアーサーではない。明らかにパンが似合わない護衛騎士だ。
「ご苦労。それでは、また」
「いえ。もうお越しになるのはおやめになって、使用人の方などにご依頼ください」
「それでは、また」
「アーサーさま!!」
(会話が成立しない……)
嵐のように過ぎ去った上客。
文字通りニナがげっそりとやつれていると、店の奥からふくよかな店主が顔を覗かせた。
「殿下はお帰りになられたかい?」
「はい。請求書に追加しておきますね」
アーサーに対する支払いは、月末締めで王都の食事係へ請求書を送ることになっている。
「すまないね。どうも、王族を前にすると緊張してしまって」
「それはわたしもなんですが……?」
いつの間にかアーサー担当のようになっているニナである。
しかし王子もまた、ニナのいるときにしか来ないのだ。
そもそもどうして王子が街のブーランジェリーまで足を運ぶのか?
――理由は単純だ。
彼の母、つまり王妃が平民の出身であり、このブーランジェリーの常連だったからである。
王妃は元々、平民ではあるものの魔力量が高かったらしい。なんやかんやあって見初められて、貴族の養女となり王家に迎え入れられたのだという。王妃となってからは、こっそりと城の者に頼んでこのブーランジェリーへパンを注文していた。王族の、華やかだけど熾烈な世界を生き抜くためには、子どもの頃から慣れ親しんだ味が必要だったらしい。
その流れでアーサーもブーランジェリーのパンがお気に入りのようなのだが、王妃と違うのは自分で買いに来ることだった。
公然の秘密、周知の事実。
最初はとても驚いた。
ニナもまた平民にしてはそこそこ魔力のある方なので、幼い頃憧れていた王妃の物語に一瞬己を重ねかけた。しかし実際にアーサーと接していくうち、それはただの夢物語にすぎないと感じるようになっていた。
両親はニナが幼い頃に病気で他界した。教会併設の養護院で育ち、義務教育を修了した後はブーランジェリーで働いて生計を立てている。流行には詳しくない。ただ、それでも不満はなかった。それ以外の人生を知らないし、己の労働で得た対価で生活できることは、ニナにとってささやかな喜びなのだ。
「請求書ができたら今日は上がってもらっていいよ」
「ありがとうございます」
王子オーラを浴びた日は普段の勤務以上にどっと疲れが出る。
平民のニナにとっては雲の上の存在だし、生きていて、そうそうお目にかかれる相手ではないはずなのだ。
店の奥で請求書を作り終え、ニナはカフェエプロンを外すと、ひとつに束ねていたふわふわの赤髪をほどいた。
それからまかないのサンドイッチを頬張る。
時間が経ってしっとりとしたパンはシンプルな味わいながらも奥に甘みを感じる。その甘さと相性がいいのは、しょっぱい食材。今日はチーズとハム。それからしゃきしゃき食感のレタスは瑞々しく、咀嚼のいいアクセントになっている。
たしかにこのブーランジェリーのパンはどれも素朴でおいしい。
老舗で派手なものは一切なく、流行りで貴族好みのものは並んでいない。
だけど何を食べても外れがない。
(アーサーさまとの共通点は、人間であることと、このブーランジェリーがお気に入りってことだけだわ)
願わくば次は使用人が買いに来ますように、とニナはひっそり祈るのだった。
・・・
王子の部屋は、ベーカリーよりも広い。
黒と紫と赤でまとめられた室内。調度品は品がよく、本棚には整然と政治や魔法に関する書物が並ぶ。
「次はどうすればいいと思う?」
アーサーに問われた護衛騎士は、紙袋を抱えたまま、こほんと咳払いをした。
「自分は姿が見えないように隠れておきましょう」
「そうだな、まずそれを指摘されたからな」
アーサーはうんうんと大きく頷いた。
「しかし王子オーラというのは一体どういうものなのだろう。目力か? この碧眼を隠せばオーラは翳るのか?」
「では、前髪を下ろしてみてはいかがでしょう」
「それは名案だ。あぁ、それと地下の書庫から物語を選んできてくれないか。王族が街へと通う描写のあるものを」
「研究熱心ですばらしいです、殿下」
淡々と述べる護衛騎士に、アーサーは満足そうに頷く。
「さて、パンを堪能するとしよう」
室内に、クロワッサンのさくっという軽快な音が響いた。
・・・
ブーランジェリーは今日も焼きたてのパンの香りに満ち満ちている。
空気を吸い込む度に肺いっぱいパンの香りを感じることができて、ニナは幸せを感じていた。
「いらっしゃいま……せ?」
ニナの言葉が疑問形となったのは、一瞬、アーサーだと判らなかったからだ。
これまでずっと額を露わにしていたが、今日は前髪を下ろしていたのだ。
意外と前髪が長く、すっと通った鼻梁が隠れている。髪が目に入るのが嫌なのか、大きな丸眼鏡をかけていた。
……それでもなお、王子オーラは放たれているのだが。
「今日はさらに平民度を増してみたんだが、どうだい?」
「平民度とは」
「見て分からないのか。髪の毛を下ろしてみたというのに」
「髪型が変わっただけで王子度が下がると思っていらっしゃったんですか」
「王子度とは」
ニナの口調をまねて、アーサーが真剣に考えこむ。
「アーサーさまの王子度は100点満点中100点です」
「仕方あるまい。本物の王子なのだから」
はぁ、とニナは生返事をしてしまう。
「私はとても楽しいのだ。皆、私のことを敬い、丁重に扱う。しかし君は初めから堂々としていたし、容赦してこない」
「それはアーサーさまが仰ったからでしょう。わたしはこれでもいつ首を斬られるか冷や冷やしていますよ」
「なぜ? 店内では一切の不敬を問わないと言っただろう」
「そう言われましても、平民の命なんて王族に比べれば紙のように軽いですから」
(いつ気が変わって犯罪者認定されてもいいように覚悟しております、とは口が裂けてもいえないけれど)
ニナが黙ってにこにこしていると、アーサーは腕を組んで胸を張った。
「そういえば、君の言っていた物語というのは『平民だけど正体を隠した王子に溺愛されています』という作品か? 私も読んでみた」
「アーサーさまが!?」
(早速不敬発言をかましてしまった。だって、王子が空想の物語を読むなんてまったく想像つかない)
「王族のリアリティには欠けると感じたが、物語の筋は理想的でなかなか面白かった」
「……そうでしょうね……。作者は王族ではないからしかたないと思いますよ……」
「私ならもっとリアリティを出せる」
「なにせ本物の王子ですからね」
「終盤まで平民の主人公が王子の想いに気づかないところは歯がゆかったが、きちんと結ばれて安心した。特に気に入ったのは中庭のシーンだ。あれが伏線とは気づかなかった。実に楽しませてもらった」
「しっかりと読み込みましたね?」
ニナは恐らくはじめて、アーサーに対する緊張を和らげた。
まさか王子が、平民の他愛のない話をきちんと聞いているとは思わなかったからだ。
「空想の物語というのも、触れてみれば面白いものだ」
「でしたら、他の物語もおすすめしてよろしいですか? 王家の書庫ならきっと何でも揃っていますよね」
「当然だ。図書館にあって王家の書庫にないものなどない」
頬を紅潮させたニナは、いくつかの物語を早口で王子へ勧めた。
「ふむ、覚えた。次に来るときまでに、読んでおこうと思う」
「待ってください。自分で勧めておいてなんですが、それも口実にまた来店されるつもりですか?」
「紹介してもらったからには感想も述べたいのだ。あぁ、そうだ。もうひとつ、尋ねていいか」
「はい、何でしょう」
「君の名前は何という?」
ニナは面食らって、一瞬、呼吸を忘れかけた。
自分のことはブーランジェリーの店員であり、個人として認識されることはないと考えていたからだ。
「ニナ・ベルナールと申します」
ベルナールというのは養護院で与えられた姓だ。
これで王子にも、ニナが孤児というのが分かっただろう。
しかしアーサーはそれには触れなかった。
「ニナ。それでは、また」
そして今日もまた、王子はすべてのパンをひとつずつ購入して去って行った。
・・・
部屋に戻るなり、アーサーは快哉を上げた。
「ニナ! ニナというのか、彼女の名は」
「おめでとうございます、殿下」
「今日は実にすばらしい日だ。彼女の名を知ることができたし、彼女の生い立ちも分かった。さらには、パン以外の会話が成立した。相手の好きなものを知るというのは交流のきっかけとなるのだな」
「知見を得ましたね」
卵とバターのたっぷり使われた黄金色のブリオッシュには、最高級のヴァニラアイスクリームが添えられている。
アーサーは目を閉じてゆっくり、しっかりと堪能した。
「さて、次はどうしようか」
「こういうのはいかがでしょう、……」
・・・
数日後、ブーランジェリーの定休日。
太陽が空のてっぺんに昇る頃。
ニナがアパルトマンから出て大通りを歩いていると、前方にいるはずのない存在が立っているのに気づいた。
「ア、アーサー、さま?」
「やぁ、ニナ」
左手を挙げて、近づいてきたのはアーサーだった。
前髪は下ろして眼鏡をかけているし、何より、服の丈が合っていない。シャツの袖は長く、パンツの裾は短い。革靴だけはいつも履いている立派そうなものだった。
ニナの目線に気づいて、アーサーは指を曲げて袖を掴んだ。
「平民度を上げるためにヒューゴの服を借りたのだ」
「ヒューゴ?」
「護衛騎士のことだ」
ニナは、最初の頃入り口に立っていた護衛騎士を思い出す。
近頃は見えないところで待機しているらしい。王子付きだと気苦労が多そうだ、と勝手に同情した。
「今も陰から私を見守っている」
「そうでしたか」
ここは大通り。
ブーランジェリーではないから不敬は許されない、とニナは気を引き締めた。
「ところでニナは今からどこへ向かおうとしていたのだ?」
「図書館です。この前おすすめさせていただいた物語を、もうすぐ読み終えるので」
「私も一緒に行っていいだろうか」
驚きの言葉をニナは力強く飲み込んだ。
「王家の書庫をご存じのアーサーさまには、物足りなく感じると思いますが……」
「どうした? なんだか、ぎこちないぞ」
アーサーが近づいてきて、ニナの顔を覗き込んできた。
(ち、近い! いい香りがする!! じゃなくて)
いつも、パン越しで、ガラス越しで会話していたニナ。
店内では焼きたてパンの香りに包まれていたので、アーサーの香水に気づかなかったのだ。
さらにふたりを遮るものが何もない状態は、緊張しか生まない。
(心臓がばくばくいってる。頬が、熱い。一刻も早くこの状況を抜け出さないと……!)
「街中でアーサーさまとお話しをさせていただくのは、難易度が高すぎます」
「不敬は問わないと言っただろう」
「……それは、ブーランジェリーでのお話ですから……」
「なるほど、分かった」
アーサーは顎に手を遣り、大きく頷いた。
「図書館なら会話もできないし、まったく問題ないということだな。では、早速向かおうか」
(なんてこと。いつも以上に会話が成立しない……!)
ニナは諦めて王子と共に図書館へ向かった。
もっさりとした前髪、サイズのちぐはぐな服。
オーラこそ気品があったが、見た目のおかげで誰もアーサーが王子だと気づいていないようだった。
そして、ニナが心ゆくまで物語の世界に浸っている向かいで、アーサーも難しそうな本を開いていた。
1冊を読み終え、アーサーの読んでいる本が気になったニナはちらりと手元を見た。
『光魔法の変遷』というタイトルで、いかにも王子らしい選択だった。
魔力があっても平民は使う機会がないので、ニナは魔法の使い方を知らない。だから本を読んだことも勉強したこともなかった。
おそらく解読は難しいだろうが、少しだけ興味を持った。
(どんなことが書いてあるんだろう?)
アーサーが長い前髪から時々覗かせる眉間には皺が寄っていた。左手で頬杖をつき、右手でページをめくる。次のページに移る度、しゃらり、というふしぎな紙ずれの音がした。
時折小さく頷き、唇のかたちが変わる。
もはやニナと共に訪れたことを忘れて、読書に熱中していた。
(知的で、穏やか……)
ニナは王子と出会う前に耳にしていた噂話を思い出す。
(噂通りかもしれない。強引だけど、それだけじゃない)
こっそりとニナも微笑み、静かに2冊目を開いた。
・・・
「今日は実にいい日だった。ニナと共に時間を過ごせた」
「おめでとうございます、殿下」
「髪を束ねていないのは新鮮だった。ふわふわの赤毛が実にかわいらしかった。アイボリーのシャツも、ボックスプリーツのスカートも。ブーランジェリーでは服など見られないからな。惜しむらくはほぼ会話がなかったことだ」
ふぅ、とアーサーは息を吐き出した。
「父上と母上のなれそめを聞いたとき、夢物語だと思った。しかし現実は夢よりもふしぎなものだ。ニナに魔力があるのかは判らないが、こんなに気になる他人は彼女が初めてだ」
くるみとレーズンたっぷりのライ麦パンを優雅にかじり、アーサーはグラスに注がれた赤ワインの香りを嗅ぐ。
「素朴なのに香り高いライ麦パンに、重厚な赤ワインが合うように。ニナと私も合うはずだ」
・・・
「おはようございます」
髪を束ねて、カフェエプロンをつけたニナがブーランジェリーに入ると、店主がうんうん唸っていた。
「どうしました?」
「あぁ、おはよう、ニナ。実は、殿下から注文をいただいてしまったんだ」
「注文、ですか」
「大事な女性にプレゼントするためと言われてな。こんなに緊張したのは何年ぶりだろう」
(大事な、女性)
ニナはなぜだか後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を覚えていた。
横で店主がパンの説明をしてくれていたが、ちっとも耳に入ってこない。
「おぉっと、噂をすれば」
そそくさと店主が奥へと消えて行く。
ニナがはっと顔を上げると、図書館へ行ったときと同じ見た目のアーサーが立っていた。
「こんにちは、ニナ」
「いらっしゃいませ」
「どうした? 元気がないな?」
「いえ、そんなことは……」
「いつもなら『どうしてまた来たんですか』と言うだろうに」
(どうしよう。今までどうやって接していたか、全然思い出せない)
ニナは動揺を悟られまいと、なんとか笑顔を作ろうとする。
「ところで、頼んでいたパンは完成しただろうか」
びくっとニナは肩を震わせた。
ガラスケースの上には店主が置いて行ったであろう茶色い紙の箱。
「こ、こちらです」
両手で差し出すと、アーサーがニナの手を包み込むように受け取った。
冷たくて骨ばっている男性の手。
ニナは目を丸くしてアーサーを見上げた。
「ありがとう」
前髪に隠れて碧眼は見えないものの、アーサーが満足そうにしているのは明らかだった。
それからニナはアーサーと何を話したのか、どう接したのかまったく覚えていない。
気づけば紙袋にたくさんパンを詰め込んで、アーサーが去って行くところだった。
ぽん、と店主がニナの肩を叩いた。
「ニナ、顔色が悪いぞ。今日はもう上がりなさい」
エプロンを脱いだニナが店の外に出ると、陽はまだ高く、空も青々としていた。
・・・
それからしばらくアーサーの来店はなかった。
ブーランジェリーの定休日、いつものようにニナは大通りを歩いていた。
「やぁ、ニナ」
「アーサーさま」
いつかと同じように、アーサーが現れた。
(どうしよう。会えると思っていなかったから、……)
ニナはそこで思考をいったん止める。
(今、わたし、うれしいって思った? アーサーさまは王子さま。住む世界が違うし、お相手がいらっしゃるというのに)
「今日は君に見てもらいたいものがあるんだが、いいかな?」
「は、はい」
「では図書館ではなく花広場へと行こう。ついてきてくれたまえ」
ニナに拒否権はなく、大通りの脇にある花広場へと向かう。
季節に合わせ咲き誇る花々の間に遊歩道。
散歩をしている者、大道芸をする者とそれを眺めている者、なかなか賑わっていた。遠くからは楽器の演奏も聞こえてくる。
広場の池の中心には四阿があった。
まっすぐ四阿へと歩いて行くアーサーの後をニナは追う。到着すると、アーサーは肩越しに振り返った。
「ヒューゴに見張らせて、誰も立ち入らせないようにしておいた」
(それは権力濫用ってやつでは、アーサーさま?)
視界に護衛騎士の姿はないが、今もどこかで王子のことを見ているのだろう。
ふたりは小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座った。屋根があり、ほどほどに涼しい。
「さて、これを見てほしい」
アーサーが取り出したのは、小箱――のようなパンだった。
艶のある表面にはパンでできた蔦模様と果実。彫刻のような、しかし、パン。
ニナが顔を上げて王子を見る。
「これは」
「ブーランジェリーに注文したパン・シュルプリーズだ。開けてごらん」
アーサーに促されて、ニナは蓋の部分に手をかけた。艶は卵液ではなくてニスのようなものが塗られているからだった。手触りは硬くて、食用ではなさそうだ。
ぶわっ! きらきら……。
「っ!?」
パンの小箱から飛び出してきたのは――光。眩くあたたかい、光。
「きれい……」
どこからともなく結ばれた七色の光が、小箱の上で半円の虹を描いていた。
ニナは物珍しさから顔を近づけてまじまじと虹を見つめる。
「光魔法だ。間近で見るのは初めてかい?」
「はい。お祭りのときに王族の方々が空に描く芸術作品は知っていますが、目の前だとこんなにあたたかいものなんですね……」
「喜んでもらえてよかった」
「ですが、どうしてこれをわたしに?」
(王子は、大事な女性のためにパンを依頼したって)
「君のことが好きだからだよ、ニナ」
ニナはきょとんとしてアーサーを見上げた。
きらきら、きらきら。
ふたりの間で小さな虹が輝いている。
「最初は母上の好きなブーランジェリーを見てみたいだけだった。途中から、ブーランジェリーへ行くのは、君に会うために変わっていたんだ」
「……わたしは、アーサーさまを好きになっていいんですか?」
ニナは気づいていなかったが、それは事実上の告白だった。
アーサーは力強く頷いて、ニナの手を取った。
「もちろん。誰かを想うのに、理由も許可も要らないだろう?」
ブーランジェリーでパンを受け取ったときは緊張していたのかもしれない。
今、アーサーの手は、とても温かかった。
そして、ニナは店主の説明を思い出した。
『パン・シュルプリーズはね。ふつうはサンドイッチを詰めておいて、開けたときにびっくりするパンなんだ。それを、プレゼント用の箱にしたいと仰られたものだから。飾る為のウェルカムボードみたいに材料を変えて、表面がきれいになるように仕上げた。かなり頭を捻った力作なんだよ。大事な相手のために、すばらしいアイディアを思いついたそうだから。こちらとしては、全力で応援しなきゃね』
ニナはアーサーの告白を受け入れて、王妃のようにきちんと段階を踏んでから正式に婚約をした。魔力もあったために、また、国王と王妃の恋物語が知られているために、大きく反対されることはなかった。
なんとか淑女らしい振る舞いを身に着け、ふわふわの赤髪はお団子にまとめ上げたニナ。ドレスを着たまま歩くことにもようやく慣れてきたものの、まだまだ自分で決めた及第点には程遠い。
寝る前に髪の毛をほどいてふわふわに戻すと、必ずアーサーは触りたがった。
いくらニナが照れたとしても、アーサーは、やわらかくて心地良いのだとその手を止めない。
「アーサーさま。提案があるのですが」
「何だい?」
「結婚式にはブーランジェリーのパンを使いたいのです」
「私もそれを考えていたよ」
ニナはほっとした。
ブーランジェリーは二代続くことになる王族との関わりに、幸運を招くと言われ、賑わいを見せている。さらに貢献することができるだろう。
「ありがとうございます。それと、もうひとつ。パンでできたウェルカムボードも飾りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんだとも」
しっかりとアーサーは頷いて、その手を髪から頬へと下ろす。それから、ニナへ優しく口づけた。
そして、結婚式には見事なウェルカムボードが飾られた。
その上には、ふたりの魔法で生み出した大きな虹がかかっていた。
読んでくださってありがとうございました。
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