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刃渡り15センチの青  作者: 河合
9/16

第9章

「奈々ぁー。夏休みどっか行く?」

 私が脳内でアイツになんて声を掛けるかなんて葛藤してると右隣の席の美希がいつもより少しハイトーンな声で話しかけて来た。

「んー。家族の予定とかが決まってないからなぁ。また夏休みに連絡して!」

「オッケーい」

 家族との予定なんか、当然ない。ただ、夏休みまでこの子の相手をするのはごめんだ。いつも通り上っ面の笑顔でやり過ごす。

 軽くアイツに目をやると、もちろん明日から始まる夏休みの予定を話し合っているわけもなく、そそくさと教室を出ようとしていた。

 全く、なんて話しかけようかさっきまで考えていた自分がバカらしい。彼が夏休み前日だからという理由で下校の時間を遅らせるわけがない。いつもと違うのは顔に湿布が貼ってあることくらいだ。

 慌ててメールを送ろうとすると、アイツを殴った慎二と雅樹が話しかけて来た。だけど私の気はもちろん済んでないので無視して教室を出た。というか、気が済むことは一生来ないと思う。

 男なのに「許してくれ」とか情けなさすぎ。

 感情が制御できずに人を怪我させる彼らを私は異物を見ている気分になる。

 アイツには『図書室前集合!』とだけメールを送ったけど、見ている可能性はかなり低そう。ましてや見てもそのまま帰っちゃうかもという私の心配は見事に裏切られ、人気の少ない図書室の前にきちんと待ってくれていた。もちろん文庫本を読みながら。

「おっ、ちゃんとメール見たんだ。えらい!」


 手元の文庫本から顔を上げると、なんだか嬉しそうな表情をした彼女がいた。

 本来、彼女との予定は今日の夜だったので唐突な呼び出しだったが、偶然彼女からのメールに気が付いた。

 このまま無視して帰るのは流石に僕の良心に傷がつくため、仕方なく下駄箱から図書室まで戻って来たのだ。つくづく彼女は運が良い。

「たまたま奇跡的に携帯を見たのが運の尽きだったよ。それで何の用?」

「運が良かったよの間違いじゃない? あ、ほっぺ大丈夫?」

「怪我は男の勲章だから誇らしいね」

 僕は患部を触りながら言う。まだ感触は遠い。

「よく分からないけど、大丈夫そうだね」

「うん。それで何の用?」

「これから喫茶店いこうよ」

「……そんなことかよ」

 正直、もっと深刻な何かがあると思っていただけに拍子抜けではあった。大きく息を吐いて、吸うと同時に安堵感が体内に入って来た。

「え? ダメなの?」

「……生憎、今日は持ち合わせがあまりないんだ。以前の借りは返せないけど、それでもいい?」

「えー、どうしよっかなぁ」

「……あ、とても大切な用事を思い出した。それじゃ」

「うそうそ! 大丈夫だから行こっ」

 珍しく僕が彼女を手玉に取れたようで僕は溜飲を下げる。

 コロコロと表情を変える彼女はやはり人間らしさがあって好きだ。もちろん好きのベクトルはペットとかに向けるアレだけど。

 僕より前を歩く彼女はなんだか機嫌が良さそうに体を揺らしながら歩いていた。「新しいダイエット法?」と聞くと綺麗なフォームで正拳突きを喰らったのは言うまでもない。

 その後の彼女の歩き方には怒りが含まれるものに変わっていて驚いた。彼女の機嫌は下駄箱を出る辺りでまた元に戻ったようで、校門を出てしばらくしてから僕は自然に彼女の左隣に並んで歩幅を合わせてあげた。

 校門を出て十分程度彼女を観察していると商店街の入り口に着いた。古めかしいが活気のあるここは僕らの地域のライフラインになっている。

 その商店街の通路を二本外れた裏路地に僕らの行きつけに成りつつある喫茶店がひっそりと奥ゆかしい香りを漂わせていた。

 入り口の脇には手入れの行き届いた観葉植物が並べられ、先ほど水やりされたのか葉に残る水粒は降り注ぐ日光を閉じ込めていたいた。

 彼女が木製の重量感ある扉を引くと来店を告げる歯切れの良い鈴の音色が響いた。

「こんにちはマスター。また来たよ」

 彼女の後に続いて入店すると店主の……確か大倉さんと彼女が挨拶を交わしていた。どうやら彼女はこの店の常連さんになっていたようだ。彼女にならいコップを拭いているマスターに軽く会釈をすると、凄まじく紳士的な笑みで「いらっしゃいませ」と告げられ何故か「あ、ありがとうございます」と返答していた。彼女はそれを聞き逃さなかったらしく、さらにはツボに入ったようでけらけら笑っていた。 

 意識的に恥ずかしさを体外に放出させながら、彼女が座ったソファの向かいの席に座る。以前とは座る場所が逆だが、この椅子もソファに負けじと座り心地が良い。一人掛けのそれの肌触りやら材質やらを確認しているとマスターがお冷を二つ持ってきてくれた。注文を問われると、彼女が「後で頼みます」とだけ返していた。

「ん」

 右手でグラスを飲み干しながら左手を僕に差し出してきた。今日は時計を付けておらず、傷を隠す素振りもない。

「何? 白昼堂々とカツアゲ?」

「私だったらもっとお金持ってそうな人を狙うけどな」

「悪かったな貧乏顔で。それで、その手は?」

「小説だよ、小説。分かってるでしょ? 夏木先生は意地悪だなぁ」

 お得意の肩をすくめ、両手のひらを上にあげ「やれやれだぜ」と口にしそうな洋風仕様のリアクションをする彼女は本当に人をムカつかせる才能の塊だ。お冷を掛けてやりたかったけど、残念ながら僕の分も彼女に飲み干されていた。畜生。

「なんだか凄く気分を害されたよ。これはコーヒー一杯奢ってもらわないと治らないね」

「え? 別にコーヒーくらいならいいよ。マスター注文いいですかー?」

「ちょっと待って。冗談だから」

 彼女を止めるには僕の反射神経では足りなかったようで、すでにマスターは彼女のうるさく伸びた右手に気づいたようだ。

「お待たせいたしました。ご注文は?」

「アイスコーヒー二つで」

「かしこまりました。他にご注文は?」

「何かいる?」

「……あ、大丈夫です」

「では、失礼致します」

 彼女とマスターの流れるような連携プレーで注文が執り行われ、改めて会話の主導権を見せつけられたところで僕は素直にノートを渡した。

 彼女がそれを開いて間も無く、アイスコーヒーが細かな水滴を帯びて運ばれてきた。店主が静かにグラスを置くと微かに氷の音がした。それに続いて空調機、聞き覚えのあるオルゴール、マスターの静かな足音、蝉の鳴き声が波紋のように僕の耳に届き始めた。僕は一口、まだ得意とは言えない冷たい苦味で喉を潤す。

 静かにページをめくる彼女は少し汗をかいていて、なんとなく視線を外した。

 僕はもう一口だけ独特の苦味を喉に通して、ミルクを一つだけ入れた。いつもはブラックのまま飲み干すけど、今は少しの甘味が欲しかった。

 僕がコーヒーを空にして、彼女の分のグラスの水滴がテーブルに水溜りを作りきった頃、彼女は顔を上げた。表情がいつもと違った分かりにくいもので少し困惑したがなんてことはなかった。

 彼女はぬるくなったアイスコーヒーを一口飲むと小さな声で「面白かった」とだけ呟いた。

 一言も二言も多い彼女の感想として、これ以上のものはないだろう。

「コーヒー、冷めたんじゃない?」

「は? アイスコーヒーが冷めるって何? もしかして詩的な意味があるの?」

「よく分かったね。コーヒーが君に待たされすぎて冷めたんじゃないかって意味だよ」 

 僕が動揺を悟られまいと話を切り出したが、危うくまた彼女に不覚を取られるところだった。もちろん詩的な意味なんてなく、ただ言い間違えただけなんだけど。


「今日の夜さ、星がとっても綺麗なんだって」

 彼女が僕に向けたスマホの画面には星が描かれた絵の下に『絶好の星空観察日和です』と書かれている。

「それに今日は新月だからかなり綺麗に見えるんだよ!」

「へぇ、前も言ってたけど随分詳しい様子だね。僕はあまり知らない分野だから素直に感心しそうだよ」

「やめてよ。君がそんなこと言うと雨が降りそうじゃん」

「それもそうだね。一応雨具は準備しておくよ」

「それ雨降るやつじゃん! 降水確率ゼロパーだけど不安になってきた」

 大きくため息をつく彼女の声はどことなくいつもよりトーンが高い気がする。まあ、僕にそんな些細な変化が分かるわけもないので気のせいに違いない。

「それで何時にどこに集合するの? あとどこまで行くの?」

「ちょっとちょっと、一気に質問しないでよ。えーと家の近くの公園分かる?」

 僕は彼女と帰路が分かれる道周辺の風景を思い出す。間も無く一つ公園が思いついた。

「あの滑り台がやたらでかい公園で合ってる?」

「合ってる。あそこに十時に集合でどう?」

「十時? 僕は大丈夫だけど、そんな夜遅くに危なくない?」

「お、君はちょくちょく私を女の子扱いしてくれるねぇ。嬉しいけど心配ご無用だよ。夜の散歩は慣れてるからね」

「子供扱いの間違いだよ。お化けとか怖いでしょ」

「怖くないし!」

 彼女の反応は思ったよりも必死だった。僕は彼女の弱点を一つ見つけたようだ。

「両親が心配するんじゃない?」とは聞かなかった。いや、聞けなかった。彼女の表情が僕に分かるくらい曇るのは目に見えていた。今日くらいは彼女にも夜空にも雲はない方を僕は望む。

「それで、どこまで行くの?」と聞くと「ナ・イ・ショ」とウザい返答が来たので無視しておいた。

 それからは試写会の感想の続きを話し、僕らは喫茶店を出た。コーヒー代は彼女が「私の奢りって言ったじゃん」と出させてくれなかった。借りが二つに増えたが、いつか必ず来る清算の日のために貯金を決意した。

 太陽は先ほどより高い位置で燦々とした夏日を僕らに向けて刺してきた。殺意を感じるほどに暑い。一瞬で背中が汗で滲む。

 裏路地を抜け、商店街に差し掛かった頃から彼女は「アイス食べたい」しか言葉を発さないロボットになり、早く帰りたいという僕の意思は彼女に届かず、駄菓子屋に寄り道することになった。

 彼女の行きつけだったという駄菓子屋は商店街の中央から外れたなんとも分かりづらいところに位置する趣のある平屋だった。

 「ここ秘密基地っぽくない?」と僕に駄菓子屋の良さを語るだけ語って、彼女は店の奥へと消えた。

 僕は外に置いてある塗装が剥げた赤いベンチで彼女を待つことにした。

 丁度日陰になっていたので、数分ぶりに空へ目を向ける。広大なキャンバスには、相変わらず僕の知らない青色で一面が塗りつぶされていた。

 青空を見るとふと思い出される記憶がある。それはつい昨年の記憶で、文化祭の日、東校舎の廊下で見かけた青色の写真だった。

 意識的に残そうとしたものではないので、かなり曖昧な記憶だった。

 ぼんやりした僕の思考は、死角から伸びて来た立体感のある白線に連れられ、どこかへ行ってしまった。

 そういえば飛行機雲は僕と似ているかもしれない。空に真っ直ぐ浮かぶあいつも飛行機に連れ回されているんだろうと思うと少し同情した。誰にも気づかれないうちに消えていくところが余計僕らしさを助長している。


「うわっ!」

 僕が存在を薄くしていく飛行機雲を看取っていると、突然首元に刺激が走った。

 咄嗟に立ち上がって振り返ると、彼女の手には真ん中で折るタイプのアイスの半分が握られていた。突然の刺激の正体はこれのようだ。もう半分は彼女の口に咥えられている。

「ん、はんふんこ」

「……一応ありがとう」

 彼女はため息を吐きながら咥えたアイスを手で持つ。アイスの色はさっき見た空とは違う青をしている。その色は彼女によく似合っていた。

「素直にお礼も言えないなんて、そんな子に育てた覚えはないよ?」

「あれ、駄菓子屋に付いてきてくれてありがとうをまだ聞いてないんだけど」

「うっ! 来てなんて頼んでないし」

「ちなみに僕もアイス頂戴なんて頼んでないよ」

「もう! ああ言えばこう言う!」

 分かりやすく眉間にしわを寄せる彼女を適当になだめ、早く食べないと溶けると言う僕の提案でベンチに再び腰を下ろす。アイスに免じてあと数分だけ帰宅を遅らせることにした。

 ソーダ味。

 久しぶりに食べた夏の味はなんだか涼しくて好きだった。

「ソーダとコーラ、どっち派? 私は断然ソーダかな」

「どっちもあんまり飲んだり食べたりしないけど、どちらかと言えばソーダかな」

「わ、一緒だ。真似しないでよ」

 生産性のない質問を投げつけてきた彼女に言い返してやろうと視線を送ると、先ほどとは打って変わって幸せそうな表情をしていたので、出しかけた言葉はアイスと一緒に飲み込んでおいた。

 じゃんけんに負け、僕が二人分のアイスのゴミを捨てに行き、それから再び家路に着いた。 

 以前二人で夕日を見た橋に差し掛かってからは「アイス美味しかったね」と「明日から夏休みだよ!」しか言わないロボットになっていた。僕も「そうだね」しか言わなかった。話すエネルギーは今夜に取っておくことにした。

 いつもの分かれ道に着くと、彼女は僕の正面に回って来た。

「今夜の集合時間と場所、覚えてる?」

「まあ、なんとなく覚えてるよ」

「はいダメです。ちゃんと言えるまで帰れません。今夜の集合時間と場所は?」

「滑り台がやたらでかい公園に夜十時、これで帰してもらえる?」

「ちゃんと覚えてるじゃん。意地悪はやめてよね」

「君に意地悪なんてしないよ。何をやり返されるか考えるだけで恐ろしいからね。それじゃ、帰るよ」

「……うん。じゃあまた、夜十時ね」

 小さく手を振る彼女に軽く手を上げ、僕らは解散した。

 脳内で集合時間までの時間をどう使うか考える。そもそも僕は行動の選択肢が少ないので、ものの数秒で考えがまとまる。

 家に着き、引き戸を開けると鍵が閉まっていた。きっと祖父母は外出中なのだろう。通学カバンの外側のポケットから鍵を取り出して開け、祖父母の靴がないことを軽く確認してリビングに向かう。先ほど頭に浮かべていた流れ通りに冷蔵庫から麦茶を手に取り一口飲んだ。喉が潤ったところで、畳まれた洗濯物の中から下着とシャツとジャージを適当に取り、風呂場に向かう。少し冷たく設定したシャワーを浴びながら目を瞑った。

 僕の中の客観的視点を持った僕が声を掛けくる。

 「お前は中村奈々に絆されているだけ」「中村奈々との関わりは無益だ」『この関係の終着点は見えるのか?』と。

 確かにそうだ。

 僕の時間は彼女の気分に奪われるし、夕飯が入らなくなるし、早朝に電話で起こされるし、挙げ句の果てには彼女の友人には殴られた。もちろん僕らの関係に終着点なんか目を細めても全く見えてこない。

 「彼女と関わる理由は何か」という問いには答えられる気もしないので、小説が書き終わった頃にもう一度聞いてもらうことにしよう。

 風呂場を出ると、ちょうど祖父母が帰宅した。買い物に行っていたようだ。

 更新され続ける最高気温に疲弊した二人の代わりに荷物をリビングへ運ぶ。生もの類を冷蔵庫に入れ、麦茶をコップに注ぎ、玄関で休憩している二人に持って行った。

 「今夜、ちょっと星見てくるね」と言うと「友達とかい?」と聞かれ、僕は「どうだろ」とだけ答えた。二人は嬉しそうに頬を緩ませていた。

 それからは自室に篭り、図書室前で彼女に中断された文庫本の続きを読み進めた。一度、暑さに負けて扇風機をつけた以外では物語に没入したいた。僕が好きな作家の新刊なのでもちろん期待はしていたが、僕のそれを軽く飛び越えていく物語だった。

 ジャージのポケットから携帯を取り出し、時刻を確認してからそれをベッドに放った。彼女との待ち合わせまではあと五時間もある。

 僕は少し、読後の余韻に浸ったあと、いつものノートを取り出した。

 僕が書いている小説の知識はほとんどが本から得たものなので、先ほど得た知識や感情を適当に羅列する。

 人との関わりがほとんどない上、例外を除いて感情というものが活字の中でしか芽生えない僕が書く文章に現実味がないのは当然の結果だ。

 彼女との最初の会話を思い出す。今思うと『辞書みたい』というのは言い得て妙だ。

 確かに、以前はあとがきに参考文献でもつけた方が良いような文章だったと思う。

 僕は、客観的視点を持つ僕に焦点を向けた。

 一つ、彼女との関わりで得たものがあった。

 彼女は僕の文章にリアリティを与えてくれる。活字からは得られない感情を、息遣いを、景色を教えてくれる。

 そして僕の書く文章は今までと明らかに違い、体温を含むようになったらしい。

 活字に温度を感じるなんて詩的で彼女らしい思考だ。

 窓に目をやると陽の入る角度が随分傾いていた。

 もうすぐ夜が訪れる。



 珍しく遅い。

 アイツのことだ、きっと時間も見ずに小説でも書いたりしてるんだろう。

 学校の休み時間もずうっと手には本を持ってるし、昼ご飯の時も器用に弁当を食べながら左手でページを捲っているくらいだもん。

 私の周りにいる薄っぺらい人間は気味悪がってるけど、私は素直に羨ましいと思う。 

 私にはそこまで夢中になれるものなんてない。読書も写真も映画も全て、現実から逃げるための手段だから。

 アイツにもし彼女なんて出来たら、小説よりも大事にしてあげるのかな。

 まあ、意外と律儀だし、ちゃんとしてあげそうかも。

 その時のためにも、私はアイツに青春を教えてあげよう。なんて私は優しいんだろう。

 変な想像をしたせいで少し胸が窮屈になったけど、無視しておいた。アイツに彼女なんて、ないない。

 空を見上げると、ここでも満天と言えるほどの星が煌めいていた。星座に詳しくない私でも分かる大三角形をたまたま見つけ、視線で点と点を繋ぐ。

 その三つの星を何度か周回していると、徐々に思考が無に近づいてくる。

 すると、夜の闇をスクリーンに嫌な光景がいくつも映し出され、私は意識的に星を探した。再び、三つの星に焦点が合う。

 ……早く、来ないかな。

 夜空よりも暗い公園の入り口へ視線を向ける。その闇の奥深く、星と比べとても出来の悪い光が少しずつ大きくなり、左右に揺れながらこちらへ向かって来ていた。

 


 僕は蹴るように愛車を漕いでいた。

 きっと試写会ぶりにご主人様の役に立てて歓喜していることだろう。

 僕の相棒の頼りないライトが闇を掻き分け、公園に佇む人影を照らす。

 彼女だ。間違いなく怒っているだろう。

 なんせ僕は読書に夢中になり、彼女を長いこと待たせてしまった。

 僕は自転車を公園の入れ口付近に停め、腕を組む彼女の元へ小走りで向かう。

「……遅い」

「ごめん。言い分は何もないです」

 静かに呼吸を整える。暗闇のせいで彼女の表情はあまり識別できない。

「どうせ小説読むのに夢中になってたんでしょ」

「……よく分かったね。読心術使えるの?」

「それ以外にやることないでしょ。ま、今度アイス奢りで手を打ってあげる」 

 僕は拍子抜けしていた。てっきり、もっと怒られると思っていた。

「なに変な顔してんの。ほら、行くよ」

「いや、怒ってると思ってたから」

「んー、だって反省してるんでしょ?」

「もちろん、猛省に猛省を重ねて急いで来たよ。こんなに申し訳ないと思ったのは、小学校以来かな」

「なら怒る必要ないじゃん」

 そう言って、彼女は小さく笑った。

 僕は彼女の認識を、少しずつ更新しなければならないようだ。

「あ、そうだ。悪いと思ってるなら目的地まで乗せてってよ」

「アイスで手を打つんじゃなかったの? というか今までは君がずっと遅刻してなかった?」

「うっ、それはそれ、これはこれだよ」

 少し表情がこわばる。上手く痛いところをつけたようだ。

「ちなみに経験は一度もないよ」

「うわあ、それはスリル満点だね」

「どうなっても知らないからな」

「いいよ、私たちは今から運命共同体だ!」

 彼女は勢いよく拳を突き出す。

「何してるの?」

「少しテンション上がってたかも」

 彼女は吹き出すように笑った。

 僕も、少しだけ笑った。

 僕が自然な感情を出す度に顔を出していた違和感は、この静かな夜に溶けていなくなっていた。 

 

「ねえ、さっきの小学校の頃に反省したって言ってたやつ、なにがあったの?」

 少し大きめの声が背中に響く。夜のせいか、いつもより透き通った風の音に混ざって、響く。

「ああ、小学校低学年の頃に、図書室から借りた本の返却期間を忘れてて、注意されたことがあったんだ」

「え、それが未だに覚えてる反省エピソード? あ、そこの道を右ね」

「小さい頃の僕にとっては本当に申し訳ないと思ったんだよ。結局、その時も怒られることは全くなかったけどね」

「ふふっ、なんだか君らしいね」

「僕らしさなんて僕には解らないな」

「そりゃそうでしょ。私も私らしさなんて解んないし」

「そうなんだ。君の行動や発言を僕は君らしいなと感じることが多々あるから、君自身も解ってると踏んでたよ」 

「……へえ、君は私らしさを解ってるんだ、ふぅん」

「君は解りやすさ丸出しだからね。次の道は?」

「あ、そのまま真っ直ぐでいいよ。てか、今バカにした?」

「してないよ」

 新月の夜はいつもより深い暗さで満ちていた。

 まるでこの世界が、彼女の声と僕の声だけで支配されているような気分だった。もちろん自転車が舗装されてない道を走る音も、昔から聞き覚えのあるような虫たちが鳴らす音も、わずかには耳に入ってくるけど、いつもよりどこか遠い気がした。

 それくらい、僕は夜に溺れていた。

「ここを登ったら目的地だよ」

 彼女の人差し指が僕の右の首元から伸びてきた。

 それは、僕一人だけでも自転車で登るのは諦めるような傾斜だった。

 いつもの僕なら彼女を降ろし、この先は歩いて進もうと提案するだろう。

 しかし、今日の僕はどうやら調子がおかしい。

 サドルから腰を上げ、べダルに全体重を乗せる。

「ちょ、このまま行く気?」

 僕は彼女の問いに返答せず、スピードが最高速に達した状態で坂に差し掛かった。

 坂を登るのに比例して、ペダルが重さを増していく。もう降りてしまおうかなんて思わなかった。なんだか気分が良かった。

 なんとか坂を登り切り、僕は地面に両足を付け、ハンドルに体重を預けた。肩で酸素を吸う。

「佐野くん! ほら、すごいでしょ?」

 声の方へ、顔を向ける。

 彼女は、満面の笑みでこちらを向いていた。

 その奥には燦々と煌めく星々と、住宅街の家々から漏れる光が境目なく散りばめられていた。

 上にも下にも星があるように見える景色で、宙に浮いているような不思議な感覚になる。

 時折街を走る自動車のライトが、流れ星のように線を引く。

「完敗だよ。最高の景色だね」

「君も勝ち負けで物事を判断してるじゃん。でも、君にそう言わせるのは気分が良くなるや」

「いつも気分が良さそうな顔してるけどね」

「そんなにヘラヘラしてないし!」

「僕の目には君はそう映ってるんだよ」

「失礼だなぁ。あ、君と一緒にいると楽しいからかな?」

 人差し指を顎につけ、首を傾けながら彼女は言う。

「きっと君は誰といても、何をしても楽しめる才能の持ち主なんじゃない?」

「……そうかな?」

「僕はそう思ってた」

「……まだまだだね」

 彼女は小さく何かを呟き、ガードレールを乗り越えて、道路の脇の茂みに腰を下ろした。聞き返したところでどうせ些細なことだろう。

 僕は自転車を停め、星を見上げる彼女を見る。なんだか、彼女が今にも消えてしまう気がして、夜の闇が怖くなった。

「こっちにおいでよ。夜風が気持ちいいよ」

 僕はガードレールの隙間をすり抜け、足に付いた白い粉を払って、彼女の右隣に腰を下ろした。以前の図書館の時より距離は近い。

「星ってさ、大昔の光がやっとここまで届いてるんだよね」

「うん、だから今輝いてる星はもう失くなってるかもしれないよ」

「なんだか君の小説に似てるな」

「ちょっと詩的な解釈すぎて僕には理解ができないんだけど」

 左隣を見ると、彼女はまだ星を見上げていた。

「今君が書いてるお話、いつかたくさんの人に届いてるよ」

「……そうだといいね」

 僕は仰向けに寝転んで夜空を眺めた。きっと、今までの僕なら抵抗のある行動だったと思う。視界の端で、彼女も寝転んでいるのが見えた。

 青っぽい草の匂いが夜風に乗って僕らを撫でる。

「涼しいね」

「うん。この風がエアコンから出るなら購入も検討するんだけど」

「え、佐野くんの家、エアコンないの?」

「ないよ。家族みんなエアコン苦手なんだ」

「扇風機派?」

「うん。扇風機の羽が回る音も好きだしね」

「わかるなぁ。私の部屋もエアコンあるけど扇風機しか使ってないんだ。あのカラカラって音いいよね、夏っぽくて」

 反射的に扇風機に向かって声を出している彼女が頭に浮かんだ。

「君は扇風機が似合う気がするよ」

「それ、褒めてるの?」

「うん、褒めてる」

「そっか、ならいいや」

 いいのかよ、と言おうとした瞬間、彼女は突然立ち上がり、走り出した。

 この先は崖になっているみたいなので、慌てて僕は腰を起こす。

 彼女は走りながら体全体で息を吸い、勢いを残して立ち止まった。


「青春のバカヤローーーーーっ!」


 透き通った声が夜に浸透していく。まるで紙に零した真水のように。

 この声は数億光年後、あの星たちに届くのだろうか、と我ながら馬鹿馬鹿しい疑問が浮かんだ。

「佐野くんもおいでよ」

 彼女が夜の闇に消えてしまうなんてのは、僕の荒唐無稽な杞憂だったようだ。

 僕を呼ぶ彼女の姿は、この満天の星空が安っぽく見えるくらい五月蝿く輝いているのだから。


 ああ、やっぱり今日の僕は変だ。

 なんたって、さっきの彼女のように僕も走り出している。

 勢いが止まらなかったら崖から落ちるなとか、ここから叫んで迷惑にならないよなとか、そんな思考を一歩ずつ踏みつけて、目の前の一番星の元まで走っている。 

 

 僕は、彼女の少し先で立ち止まり、大きく、大きく、夜の空気を吸い込んだ。

 

 何を叫んだのだろう。

 少し酸欠気味の僕の脳は活動を放棄をしているようで、数秒前の記憶を思い出させてくれない。

 状況を把握して分かったことは、喉が少し痛いことと、あと一歩み足を踏み出せば僕は転落死してしまうという二点だ。

 まだ祖父母のためにも死ぬわけにはいかないので、とりあえずその場から後退る。 

「びっくりしたぁ」

 首元に息がかかる距離で突然彼女の声がした。

 咄嗟に振り向くと、すぐそこに彼女がいた。

 驚いたことを悟られないように抑揚を抑えた声を掛ける。

「どうしたの?」

「どうしたの? じゃないし! 君が勢い余って落ちちゃうと思ってびっくりしたんだよ!」

「そうだったんだ。ごめん。そろそろ時間も遅いし帰ろうか」

「……」

「帰らないの?」

 反応のない彼女に目をやると、少しづつ口角が上がっていくのが見て取れた。

「いや、君もあんなに大きい声が出せるんだと思ってさ」

「何言ってるの? 夜遅くに大声なんて出す訳ないよ。頭でも打った?」

「無かったことにしないでよ。あんなに大声で叫んでたのに。忘れたの? 頭打った?」

「……帰りは歩いて帰れよ」

 そう言い残し、自転車の元まで駆け出す。

 少し痛い目を見せてやろうと思ったが、そういえば彼女は僕より身体能力に優れていた。

 僕より先に茂みを抜け、僕がガードレールまでたどり着いた頃には自転車の荷台に乗って絶妙に憎らしい表情を用意していた。実にムカつく哺乳類だと思う。


 結局、夜の田舎道には二人を乗せた自転車が走っていた。 

 僕にも男の子らしい気持ちの破片があったようで「家まで送ろうか」と提案したが、公園のすぐ近くだから良いと遠慮され、破片は粉々に砕け散った。

 公園に到着し、入り口付近で自転車から降り、スタンドを立てる。右ポケットから愛機を取り出し、時刻を確認すると二十三時を少し過ぎていた。

「今更だけど、こんな夜遅くまで大丈夫だったの?」

 もちろん家の方に心配されてないかという意味合いだけど、直接的には言えなかった。

「平気だよ。それに私から誘ったんだし」

「脅迫なしでちゃんと誘われたのは初めてだったかもしれないよ。朝の海は行かなきゃ何をされるか分からなかったし」

「そんなこと言われると、君が夜空に向けて叫んでた言葉たちが、うっかり口から出そうになるなぁ」

「それを阻止するには次のお誘いも快諾しないといけないな。次も楽しみにしてるよ中村さん」

「めっちゃ棒読みじゃん。次は君から誘ってもらわないと気が済まないかも」

 彼女が目を細める。僕はその視線から逸らすように宙に浮かぶ星へと焦点を向けた。

「僕が思いつく場所なんて図書館くらいしかないよ」

「私、図書館好きだよ? じゃあ、誘われるの楽しみにしとくね」

 そう言うと彼女は身を翻し、公園の中へ入って行く。

「今日は楽しかったよ。おやすみ」

 公園の中ほどで彼女は振り返りぶんぶんと手を振りながらそう言った。

 僕も楽しかったよなんて言うのは癪だったので、軽く手を上げて「おやすみ」とだけ言っておいた。聞こえたかどうかは微妙な距離だった。 

 彼女の姿が、公園の向かいにある出口を抜けた頃に僕は自転車のスタンドを蹴った。

 軽くなった愛車に跨り、帰路につく。 


 僕の住む住宅地は高齢者が多く住んでいるため、この時間帯にはもうほとんど人の気はない。

 静まり返った夜の街は、僕に創作意欲を与えてくれるようで、イメージが風船のように膨れ上がって行く。

 それが破裂してしまわないように、慎重にペダルを踏み込む。

 自転車を降り、静かにスタンドを立て、右のポケットから携帯電話、左のポケットから家の鍵を取り出す。携帯電話の液晶で鍵の差込口を照らし、そっと鍵を開けた。 

 家はすでに寝静まっているようだ。

 祖母が寝ている居間と祖父の寝室前を忍び足で抜け、二階の自室に上がる。

 後ろ手で静かに戸を閉めると、すぐさま机につき、ノートを開いた。

 僕は、自分にしか分からないような字で、今日の感情、感触を書き殴った。

 思えば、長い一日だった。

 自分の語彙力が感情に付いてこなくて、小さな苦虫を噛んだような悔しさが生まれたけど、嫌な気持ちではなかった。

 いつか僕の感情に当てはまる言葉が見つかることが楽しみだった。それは彼女が教えてくれる気がした。

 自然にシャープペンシルが動きを止めてからはベッドに移動し、以前彼女に勧められた本の封を切った。

 装丁を眺め、あらすじを読んでいる頃に睡魔が先ほどの僕のように忍び寄って来た。

 また明日ゆっくり読むとしよう。しまった、シャワーを浴び損ねた。そういえば次は図書館に誘えと言われていたな。

 ゆっくりと浮上してくる思考が頭の中でフェードアウトしていくのが分かる。

 僕の意識は、明日から目覚ましが必要ない朝が来るという安心感で途切れたようだ。

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