第7章
「朝の海、行こうよ」
私は真っ暗な部屋の中、目を閉じてそう言った。
きっと、彼は寝ぼけ眼で必死に状況を理解し、どう対応するかを整理しているだろう。
何せ試写会の後、彼と別れてから半日も経っていないのだ。まだ街も寝静まっている早朝。もはや夢の続きを見ていると思っているかもしれない。それくらい唐突だった。
この無茶な誘いは断られても構わなかった。そもそも電話が繋がるなんて思ってもなかった。
ただ、上書きされてしまったものを修復するように、私は彼に電話をかけた。
家に帰った後、私の間違いなく楽しかった一日の記憶と感情は、たった数秒で壊されてしまった。
酔っ払って気が立った父と玄関で出くわしたのだ。いつもならしないようなミスだった。きっと浮かれていた。
佐野くんは今、何を考えているだろう。あまり回っていない思考で上手な断り方を模索しているだろうか。
それとも流石に呆れてしまって拒絶しようと考えているだろうか。
私が返答を待っていると、しばらくして彼は全く予想していない言葉を発した。
「どこの海がオススメ?」
澄んだ空気に潮の香りを少し足した風が肌を通る。
砂浜まで続く階段を降り、大きな流木に腰をけた私は、静かにうねる濃紺の海を遠目で見ていた。
佐野くんがグレーのパーカーのフードを被りながら階段を降りてくる。
昨夜解散した分かれ道で落ち合った私たちはほとんど会話をせず、この名前もない海まで自転車を漕いだ。彼は私に何も聞かずここまで付いて来た。
隣に彼が腰を下ろす。
「朝はやっぱり冷えるね」
私は佐野くんに対して持つ感情に名前をつけられないでいた。
ただ、この海のように名もないそれを気に入っていることだけは確かだった。
「聞かないんだ」
誰に宛てる訳もなく、波の音の隙間でそう呟く。存在の証明するだけの記号のように。
私は左隣の彼に目を向ける、フードに隠された表情は読めない。
「君の運が良かっただけだよ」
彼もまた、波の音が止んだ隙に呟く。
「……何のこと?」
「着信で起こされた割には目覚めが良かった。昨日はすぐに眠ってしまってた。それだけ」
「……そう」
大きな波音が、一つ鳴る。
水平線の輪郭が、朱色に染まり始める。
傷口から血が滲むように広がるそれを、私はじっと見つめていた。
誘った手前、私からきちんと話をするべきなのだろう。
例えば「試写会の余韻が冷める前に海に来たかった」なんて言ってごまかすことだって出来た。学校にいるときの私は、いつもそうやって上手く取り繕えている。
それなのに、彼の前では綺麗に用意した文章を上手に話せる自信がなかった。したくもなかった。
「さぞ綺麗なんだよね? ここで見る朝焼けは」
物音を立てずに隣に座っていた佐野くんが口を開く。
珍しく、少し意地悪な口調だった。きっと気を遣っていることを悟られないようにしているんだろう。バレバレだった。
「……どうだろうね」
思ったよりも情けなく出てしまった声が砂浜にゆっくりと沈み込む。
「君のオススメなんじゃないの?」
「私は好きだけど……」
「僕が好きかは分からない?」
佐野くんが私の言葉を紡ぐように言う。
「うん」
この海で過ごす時間もまた、私にとって前向きな現実逃避の一つだった。
思い返せばここから見る景色が綺麗だったかなんてあまり覚えていない。
「僕は自分が好きなものなんてあまり知らないんだ」
「え?」
「つい最近知ったことなんだけど、映画館とか実は好きだったりした」
「そう、なんだ」
「不幸中の幸いだと思ってるけどね」
「不幸ってのは私からのお誘い?」
「どうだろうね」
彼は笑っていた。
私は彼の肩を力なく小突く。さっき見た濃紺のうねりは私の中からも少しずつ消えていく。
どこからか自然な笑みが溢れてくる。
それはとても暖かく、曇りがかった心に明かりを灯していく。
その感情とともにどうしてか溢れそうになった涙は、彼に気づかれないようそっと袖で拭った。
次第に海岸沿いがふわりと彩度を上げ始める。
海面が新しい一日を祝福するかのように、キラキラと輝き始め、どこからか鳥たちが鳴き出した。
いつの間にかフードから顔を出している彼を、少しずつ太陽が鮮明にしていく。
彼は座ったまま、輪郭が曖昧な水平線をずっと見つめていた。