第6章
絶望を告げる音楽が部屋に響く。
土曜日の朝、僕はノートに書き溜めた小説をパソコンに打ち出しながら加筆、推敲を進めていた。
調子もよく、スムーズに動いていたはずの両手は、着信とともにピタリと静止してしまった。
電話をかけてきたのは確認するまでもない、彼女だろう。
しばらく僕に全く干渉してこなかった彼女が、突然何を言い出すか全く予想ができない。
ベッドにある発信源を一瞥して音楽が鳴り止むのを待つ。
何度も僕の休日を空き缶のように潰されるのは御免なので、僕は不在を決め込んだ。言い訳はいくらでも用意できる。
歯切れの悪いところで、その妙に明るくポップな音楽は切られた。僕の堪忍袋の緒は彼女よりも太いようで、短く息を吐く。
改めてパソコンに向き直り、物語に意識の焦点を合わせる。
僕は小説の中に入り込まないと筆を進められないタイプで、書き始めるまでにかなりムラがあった。
今日はすぐに集中し始め、次の行を書こうとリターンキーを押したと同時にベッドから連続的な効果音が鳴り始めた。
大きな溜め息を吐き、仕方なく机から離れそれを手に取る。
そこには『中村奈々:画像ファイルが添付されています』という通知が一件届いていた。
メールを開くと、そこには手の込んだ脅迫が貼り付けられていた。
重たい指で着信履歴を呼び出し、電話を掛ける。
「おはよう佐野くん。君から電話が掛かってくるなんて、とてもいい日になりそうだよ」
「おはよう中村さん、いい朝だね。僕は朝からテロにあった気分だよ」
「……ふーん。あ、そういえばテロの語源ってラテン語で恐怖って意味らしいよ。もしかして、怖い夢でも見た?」
少し低めの声で言ってくるあたり、僕の言い回しでも真似ているのだろう。
返答が遅かったのは、わざわざネットで語源を調べたに違いない。
「しばらく夢は見てないかな。ちなみに語源を更に遡ると震えるって意味に辿り着くんだよ。そこに書いてるでしょ?」
「……本当だ、震えるとも書いてる。って、なんで調べたの分かったの!」
「なんとなく。それで用件は?」
「今日デートしようよ」
やはり彼女は唐突が過ぎる。
このままだと僕はまた貴重な休日を失うことになってしまう。
「申し訳ないけど遠慮しておくよ。君に僕の相手をさせるのは申し訳ないからね」
「駅前に三時集合ね」
「会話が噛み合ってない気がするんだけど、水分不足か何かかな?」
「君が普段から喋ってないからだよ。今日も特訓してあげる。ちなみに水はめちゃくちゃ飲んだよ」
僕は耳元から携帯電話を離し、肺に溜まっている息を全て吐き出した。
「僕に君の誘いを断る権利は?」
「それは前から言ってるじゃん。それじゃまた、三時ね」
きっと、彼女は独裁者の生まれ変わりか何かだろう。どうやら一般市民の僕が彼女に抵抗する術はないようだ。
しかしまだ時間には余裕があったので、加筆や推敲はやめ、自分の小説を読み返すことにした。
小説にとっての題名は、一つの物語としての序章だと僕は考えている。
それは読者が手に取るきっかけであったり、伏線が隠れていたり、話を通して意味を見出すものだったりと非常に重要な役割を持つだろう。
しかし、僕の小説の保存ファイル名は『無題』のまま。小説を書き始めて四ヶ月以上経つが、題名だけを残して物語は進行している状態だ。
軽く読み直し、いつものように題名を模索したが、やはり僕の思考は暗がりだった。
昼食に冷やし中華を食べ、寝間着から白のシャツと黒のズボンに着替えた僕は、悲しげに光るデスクトップに別れを告げて家を出た。
玄関の脇に停めてある自転車のカゴに、文庫本と財布しか入ってないリュックサックを入れて鍵を開ける。最寄駅と言っても家から歩くとかなり時間がかかるので、愛車に跨ることにした。
空を見上げると、そこには相変わらずの青が広がっていてなんだか少し嫌気が差す。
僕は右足に気分の重さも上乗せし、ペダルに体重を掛けた。
「あっ、佐野くん。今来たところ?」
僕が律儀にも集合時間十分前から駅前の駐輪場の木陰で待っていると、彼女は集合時間五分遅れで姿を見せた。習っていない英単語が胸元に書かれた白のTシャツをブルーのデニムに入れ、いつもの水色のリュックサックを背負った彼女は、相変わらず夏の空を彷彿させた。
脅迫と遅刻で訴訟を起こしてやりたいが、裁判で勝てる気がしないので僕の優しさに免じて見逃してやる。
「集合時間の十分前から居たよ。君から呼び出しておいて遅刻するなんて、それなりの理由があるんだよね?」
「いやぁ、ちょっと愛車の調子が悪くてさ。いつもより風に乗れなかったんだよ。申し訳ない」
とぼけながら頭を掻く左手に目をやると、以前見た大振りな白の時計が巻かれていた。
「それにしても、ちゃんと来るなんて感心感心。ちゃんと青春を学んで帰ってね」
「僕の意志で来たと思っているなら君はサイコパスの可能性があるね。行動を共にするのが恐ろしいよ」
「だって普通に誘ったって上手いこと言って断るでしょ。暇なくせにさ」
彼女から送られて来た画像を思い出す。そこには『大物新人作家 佐野先生を応援しよう』と大きく書かれたポスターがイラストとともに写っていた。
「君のやり方は陰湿すぎるよ。キノコが栽培できそうだ」
「キノコは好きだから嬉しいけど、できれば椎茸がいいな」
「……ところで、今日は何をさせられるの?」
「え、言ったじゃん。おデートだよ、おデート」
「参ったな。僕には君の相手を務める自信がないよ」
「安心して。プランは決めてるから君は私に付いて来て」
「格好いいこと言ってるけど、もしかして遅刻も君のプランに入ってたの?」
「それは本当にごめんってば!」
どうやらきちんと反省しているようなので水に流しておこう。
そもそも彼女の脅迫メールがなければ、という思考はもう無力なのでどこか遠くへ投げ捨てた。
それと同時に僕は腹を括っていたようで、今から都心部の方へ行くと聞かされても動じず、自分で電車の切符を購入した。
「なんだか今日は素直だね。逆に怖くなっちゃうじゃん」
電車に揺られて数分、外の景色をずっと眺めていた彼女が思い出したように口を開いた。
「君は僕の範疇を軽く超えて来るからもう吹っ切れたんだ。ちなみに僕を楽しませるのは至難の技だよ」
「楽しめないのは物事を否定から入るからだよ。まぁ私に任せといて。あ、そろそろ降りるよ」
的確な非難を受けた気がしたが、丁度駅に着いたらしいので言い返すタイミングを失ってしまった。
ほぼ貸切状態だった乗車時と比べ、振った炭酸のように膨れた車内が都会らしさを助長する。
人の流れに身を任せ、なんとか改札を抜けると、甘い香ばしさに鼻腔と食欲を刺激された。彼女が言うにはクロワッサンが有名なパン屋からの匂いらしい。
「君のプランにクロワッサンを食べるというのは含まれてないの?」
「残念ながら含まれてないね。ほら、行くよ」
どうやら今からは喫茶店に向かうらしく、彼女は地図が表示されたスマホとにらめっこをしていた。
なんとなく右ポケットに手を入れ、愛機に触れる。周りを過ぎ行く人の手にはスマートフォンが握られていて、余計自身の携帯電話に愛着が湧いてきた。
暇つぶしがてら行き交う人の流れを目で追っていると、にらめっこを制した彼女に声を掛けられ、僕らは駅を後にした。
「佐野くん、カメラとか興味ない?」
言いながら、リュックから彼女には似つかわしい相棒を取り出している。
ショッキングピンクのスマートフォンと大喧嘩が始まりそうだ。
「君にいい顔されるのは癪だけど、興味はあるね」
「ふっふっふ、やっぱりね。仕方ないから後で触らせてあげるね」
「頼んだ覚えはないけど、それは楽しみにしておくよ」
「あ、じゃあ今度朝焼けでも撮りに行こうよ。早朝の海って気持ちがいいんだよ」
まだ今日の予定も始まったばかりだが、彼女がすでに次の予定を提案してきた。
彼女に対して断りを入れることが面倒になってしまったようで、僕は「朝は苦手だから運が良ければね」とだけ返した。
駅を出て十数分、彼女のデートプランの一つ目の喫茶店は一階にレトロな楽器屋が入る、雑居ビルの二階にあった。
ショーウィンドウ越しに煌めく管楽器が綺麗で、彼女は一枚写真を撮っていた。ふとした時にシャッターを切っているようで、道中でも数回重みのあるシャッター音が聞こえていた。
狭い階段を登った先、狭い入り口には「営業中」と書かれた味のある木製のプレートが掛かっていた。
外に看板を掲げているわけでもない、この店が持つ素朴な雰囲気を僕は早速気に入っていた。
扉を開けると冷やされた空気に乗った奥深い香りが鼻腔に流れこみ、次に控えめなジャズが鼓膜に触れた。
店内は壁面が全て本棚になっているようで、視線が勝手にびっしり並ぶ本の背表紙を追う。
彼女が「ど?」と早々に感想を求めてきたので「いいね」とだけ言っておいた。
なぜか彼女の口元は綻んでいた。
窓際の二人掛けの席に案内され、木製のダイニングチェアに腰をかける。固そうな座面にも関わらず、座り心地は抜群にいい。
彼女がメニューを開いて僕にも見えるよう横に向ける。価格は思ったよりも良心的だったので、彼女がニット帽を被ったお洒落な女性店員さんにカレーランチセットを頼んでいる際、「僕もそれで」と同じものを注文した。彼女は「真似すんな」と言ってきたが無視しておいた。
彼女と本棚を眺めながらただ間を埋めるだけに徹したような会話をしていると、すぐにカレーとサラダが乗ったプレートが運ばれてきた。
「お待たせいたしました。本日のカレーランチセットです」
僕の前に音を立てずプレートが置かれ、店員さんは「ごゆっくりどうぞ」と付け加え去って行った。
その丁寧な所作を見送ったあと、僕は小声で彼女に尋ねた。
「本日のって?」
「メニューちゃんと見てないの? 曜日によってセットとかスパイスが変わるみたいだよ」
「へえ、なんだか都会だね」
「何その感想」
笑いながらスプーンを手に取る彼女。
立ち上る湯気とスパイシーな香りが空腹を助長し、無言のままカレーを食べた。なんだか大人の味のような気がした。
食後に運ばれてきたアイスコーヒーを嗜みながら再び視線を四方に這わす。
実際に並ぶ本は販売もしているそうで、僕は何か一冊買って帰ることに決めていた。
「気に入ったでしょ」
「そうだね、今の君の鼻につく表情を見ても落ち着いていられる素晴らしい空間だ」
「どんな表情か分かんないけど、気に入ってくれたなら私の勝ちだね」
「じゃあ、僕は勝ち負けでしか物事を見れない君に効果がありそうな本でも探してくるよ」
そう言って席を立ち、静かに店内を見て回る。壁には一貫性がまるでない本たちが並んでいて、書店というよりも誰かの本棚のようだった。
それは見ず知らずの人間の人間性や自分との共通点が見えてきて、まるで自己紹介をされているような感覚になる。
人間関係の始まりが本棚の見せ合いとかだったら僕も上手く人付き合いができるかもしれない。僕は読んできた本が少なからず自身の人格を形成していると客観的に感じている。
ある一角に僕の好きな作家の本ばかり平積みされたコーナーがあり、さらに親近感が湧いた。
「そういえば、佐野くんはいつもどんな本読んでるの?」
隣で文庫本の裏表紙を眺めている彼女が小声で聞く。
「基本的になんでも読むけど、この作家さんの本はほとんど読んでるよ」
「へぇ、どれがオススメ?」
「一概にこれとは言えないけど、僕はこれが好きかな」
僕はハードカバーの一冊を指差した。間違いなくこの本にも僕は影響を与えられている。
「じゃあ、これ買おっと」
「ちょっと待って。これずっと文庫化されてないから高いし、結構クセが強いから他のでも」
「なんで? 君が好きって言える本なら絶対面白いよ」
わざと遮るように彼女が口を開く。
首を傾げる彼女の目は痛いくらい透き通っていて、すぐに逸らしてしまう。
「……中村さんのオススメはないの?」
「うーん、私のオススメかあ」
言うと、彼女は店内を一周し、文庫本を片手に戻ってきた。
「これかな」
渡された本の表紙はとても見覚えのあるものだった。
僕の五指に入るほど好きな作者が書いた異能力を題材にした物語で、それでいて読者を置いてけぼりにしない緻密な文章が好きだった。
「これ、僕も好きな本」
「え! 佐野くんも好きなの? 実は後で試写会に行くんだよ! この小説が原作!」
驚きと興奮が重なったのだろう、彼女は自分のボリュームが徐々に大きくなっていたことに気がつき、言い終わった後に小さくなっていく。
「まあ、そういうこと」
「そう言えば映画化するってポスターを見た覚えがあるな」
「ふふふ、楽しみになってきたでしょ?」
人差し指を口元に当てる仕草が少しムカつくが、好きな小説が原作の試写会に行くという貴重な機会の決定権を持つのは彼女なので見逃しておく。
読んだ小説の実写化は全く見ないが、試写会ともなると話は別だ。
「少し興味はあるかな」
「でしょでしょ! 試写会当てた私の強運に感謝してね」
それから僕らは席に戻り、思い出したかのように中村さんによるカメラ講話が始まった。
予備知識が全くないことに加え、彼女の説明が感覚的過ぎたため、ただ彼女がカメラが好きということしか分からなかった。
「じゃ、そろそろ行こっか」
「いいよ。場所は分かるの?」
「多分大丈夫だよ。ここから歩いて十五分くらいだし」
「なら君に任せるよ」
「まあ、大船に乗ったつもりでいていいよ」
鼻を鳴らす彼女が氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーの最後の一口を飲み干し、僕らは席を立った。
各々で会計を済まし、カフェを出ると、休日の夕方にも関わらずまだ居残りをしている太陽と目が合った。
僕が手で日差しを遮り顔をしかめると、重たいカメラのシャッター音が聞こえた。
「すっごいブサイクなの撮れたかも」
「肖像権の侵害で訴えてやる」
「私は景色を撮っていただけで、偶然入り込まれました。無実を主張します」
そう言いながら再びカメラをこちらに向け、彼女はシャッターを切る。
僕の反射神経はきっとかなり悪いので、もちろん抵抗なんてできやしなかった。
「今のは明らかに故意だからな。僕なんか撮ってもフィルムの無駄だろ」
彼女曰く、カメラに装填するフィルムは一つ三十六枚しか撮れず、フィルム自体の価格もそこそこ値が張るらしい。
「またそんな卑屈なこと言って。私にとっては今この瞬間に価値が詰まってるの」
「僕には目に見えないものの価値を測る物差しがないから理解できないな」
「写真を撮る側は撮る瞬間、見る側は見る瞬間にその価値が分かるんだよ。家族のアルバムとかを数年後に見たときとかさ」
「……珍しく説得力があるな」
「ま、家族のアルバムは捨てちゃったけどね」
両手を広げ、くだらないジョークを言い終わった後のようにわざとらしく笑う。
そのあっけらかんとした笑い声は珍しく濁っている気がした。もちろん確証は全くない。
それからは彼女がどこからか持ち出した『子供の頃は何をして遊んでいたか』という話題で映画館までの時間を潰した。
「うわっ。めちゃくちゃ並んでるじゃん」
「映画って基本は並ばないものなの?」
「……え、もしかして映画館来たことない?」
「君は僕を普段映画に誘う友人がいると思うの?」
「謝る、ごめん」
「分かればいいよ。それで、さっきの答えは?」
「うーん、私は映画館でこんな行列に並んだことはないなあ。ポップコーン買うときもここまでないし」
些細なことでも大きめの手振り身振りで話す彼女は外国人とでも会話できそうだと心底下らない思考に耽っていると、開場時間になったらしく、列が動き始めた。
劇場内は自由席らしく、列の後方に並んだ僕らは首が痛くなりそうな席に座ることになった。彼女は自由席ということも知らなかったようで驚いていた。
劇場内が暗転し、予告が始まる。僕は珍しく自分の気持ちの高揚を感じた。
彼女に脅迫され止むを得ず家を出たが、試写会に関しては礼を言ってもいいかもしれない。
「楽しみだね」
彼女が右隣で囁くと同時に本編が始まった。
礼は映画が終わった後にするとしよう。
「あああ、面白かった!」
映画館を後にして、しばらくお互い無言で反芻していたが、彼女は我慢ができなくなった子供のように口火を切った。外はすっかり夜になっていた。
「家のテレビで見るのとは比べ物にならないね」
「ふっふっふ。今日、来てよかったでしょ?」
「誘い方に問題があるけどな」
「それは来てよかったってことだよね? 素直じゃないなぁ全く」
「はいはい。今日はありがとう」
「……!」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔ってこんな感じなのか。勉強になるよ」
「ま、まさか君がちゃんとお礼できる人だとは……」
「失礼だな。これでも一般常識は心得ているつもりだけど」
「君の一般常識は範囲が狭そうだね」
「期末テストくらい?」
「それは範囲広いよ! 君は勉強できるからいいかもしれないけどさ」
「僕は人並みだよ」
「それじゃ私は人以下じゃん!」
彼女の表情の七変化を堪能していると、いつの間にか駅に着いていた。
休日にも関わらず、多くのサラリーマンが疲れた表情で改札を行き来している。
帰りの切符はすでに購入していたので、僕たちは人ごみの流れに乗り、駅の構内まで降りた。彼女は周りにつられ、眠そうに欠伸をしていた。
ちょうど来た電車に乗り込み、つり革に捕まる。駅を意識の端で通過していく度に乗客が減り、降りる駅まで六駅を残したところで席に腰を下ろした。
彼女の電池はもう切れかけで、ほとんど言葉を交わさなかった。僕も疲れていた。
右のポケットから取り出した携帯電話には九時二分と表示されている。
それを所定の右ポケットへ戻そうとすると右肩に不安定な重みが乗ってきた。彼女の二つのつむじが目に入る。あれだけ寝ないと断言していたくせにとうとう寝やがったようだ。
僕の仏のような善意により、残り四駅分だけ右肩を貸すことにした。携帯電話は左のポケットに入れた。
正面の車窓は、夜の街を次々と過去に変えていく。そう考えるとこの電車は未来に向かっていることになるのだろうか。
数週間後、小説を書き終えた後の僕らを思い浮かべる。
僕は彼女からの脅迫に怯えることもなく、静かな高校生活に戻っている。彼女も自分の居場所を再確認すれば、気の合う友人たちと笑い合っているに違いない。
なんて幸せな未来なんだ。
夏が終わる頃にはこの理不尽な台風も一過している。その日が一日でも早く訪れることを願って小説を書こう。
僕が決意を固めていると、それを解くような柔らかいアナウンスが車内に響いた。
彼女を適当に叩き起こし、降車する。僕らと共に電車を降りた人は数える程度だった。
先ほどまでいた駅で響いてた革靴の音は、今では鈴虫の羽音に変わっている。僕は鈴虫の方が落ち着いて好きだ。
「うわっ、結構冷えるね」
「君は寝起きだから余計だろうな」
「そっか、佐野くんは私の寝顔にドキドキして火照ってた分ちょうど良い気温か」
「寝言の続きは家でやってね」
「つれないなぁ」
文句を言う彼女を無視し、僕は自転車の鍵を開け、スタンドを蹴った。
駅付近を抜けると街灯がほとんどない道に出る。彼女には立ち漕ぎで追いつかれ、二つのライトのみが光源の世界になった。
「ねぇねぇ、映画の話しようよ」
「いいよ、君からどうぞ」
「私はね、映画としては好きだけど、小説の良さがそのまま出てはなかったかなって思うな」
「同感だけど、小説の地の文まで映像で表すのは難しいんじゃない?」
「そうなんだけど、あの作家さんは地の文が魅力的だからなあ」
「確かにあのリアリティを無視した書き方は独特だからね」
「佐野くんはどうだった? 感想を原稿用紙一枚でまとめなさい」
「僕は小説とは別物として見てたから単純に楽しめたよ」
「それだけ?」
「うん」
「もっと文学的な意見が来ると思ったのに」
「それはご期待に沿えず申し訳ないね」
「君の小説でも映画の感想を言い合うシーンあるんだから、勉強だと思ってやらないとだよ」
「僕の小説の話はいいよ。穴に入りたくなる」
「君の小説をより良くするために私が居るんだから、小説の話は必要不可欠でしょ」
「僕は頼んでないけどね」
「ん? 何か言った?」
「鈴虫の羽音じゃない?」
僕らの空っぽの会話はいつもの分かれ道まで続いた。交わした言葉は、夜の世界でお互いの存在を主張し合うだけの記号でしかなかったと思う。
僕は、家に帰ると夕飯も食べず、ベッドに横になった。眠気がすぐそこまで迫っていたし、このまま夜を受け入れたかった。
目を閉じると、浮かんできたのは相も変わらず彼女だった。
彼女と過ごす時間が、僕の小説にどう影響を及ぼすのかは見当もつかない。ましてや、それが良い影響になるとは言い切れない。
そもそも僕は、彼女の何に怯えて理不尽に付き合っているのか。
きっと、僕が誘いを蹴っても小説がネットを航海したり、応援ポスターが学校に貼り出されることはまずないだろう。真剣に関わらないでくれと頼めば、以前の生活に戻ることだって容易なはずだ。
それなら、僕が彼女と関わる真意とは何か。
僕は頭を乱雑に掻き、思考を放棄した。
いくら考えたところで、納得できる返答は睡魔と戦闘中の僕には用意できなかった。
ただ、この小説を書き終えるまでは、彼女の誘いを甘んじて受けてしまう僕が見えた。
結局、僕の善意で付き合ってやってるんだ。そう思うと少し腑に落ちた。
僕はとても疲れているようだ。違和を感じる思考が浮かんできたが、間違いなく疲労のせいだろうと思う。
いずれにせよ、今日は悪くない日だった。
それを最後に僕の意識は夜に消えた。