第5章
夏休みを翌々週に控えた火曜日の放課後。僕は二度目となる喫茶店でアイスコーヒーを賞味していた。
理由は、不参加は許されない召集メールが彼女から届いたからだ。
意味はないと知っておきながら反抗の意思を見せておいたが、彼女のストレスが飽和したところで前回同様の切り札を使われ、僕はあえなく折れた。
そして人気者である彼女に気を使い、僕から現地で集合することを提案した。なんて気が利く青年なんだ僕は。
ただ、僕としてもこの場所は気に入っていたので、そこまで悪い気はしていなかった。
彼女はこの喫茶店とそのマスターの人望に感謝すべきだと思う。
店内はL字になっていて、Lの繋ぎ目に位置する入り口からはすぐ右手にカウンター席が並び、左手の奥へ進むに連れてソファ席やテーブル席など、凝ったインテリアが配置されている。
店内奥のソファ席。ちょうどアイスコーヒーを飲み干した僕の耳に、入店の合図になっている扉につけられた鈴の音が届いた。
視線を上げると事故のように視線がぶつかってしまう。彼女だ。
すぐに目をそらし、店内に掛かる時計に向けると彼女が提案してきた時刻を十分ほど通り越していた。
きっと、放課後に友人たちとアイスコーヒー一杯分の会話をしてきたのだろう。何しろ彼女は友人が多い。
「やー、お待たせお待たせ」
「僕は君に待たされてばかりな気がするよ」
「ごめんごめん。実はさっき大きな荷物抱えたおばあちゃんがいてさ。体調も悪そうで家の近くまで荷物運びしちゃった」
彼女は頭を掻きながら僕の目をそっと見る。その眼光は嘘を吐いているようには見えなかった。まあ、僕に分かるはずもないけど。
「それは大層なことだね。てっきり校内でまだ話してるのかと思ってたよ」
「そんなことしないよ。用事あるからって逃げてきたもん」
「……そう。あ、何か飲む?」
「後で頼むよ。それよりも早く君の小説読ませて」
三つ折りのメニューを取ろうとした左手が、違和感を残して止まる。素直に嬉しかったのかもしれない、自分の小説を待ってくれる人がいるということが。
彼女はカッターシャツの袖を捲り上げ、僕の向かいに二つ並んだ一人掛け用の椅子に腰を下ろした。反発力を確かめた素振りの後に荷物を足元の籠に入れ、既に机の上に置いてあるキャンパスノートを手に取る。
意識的に視線が彼女の左手首を向く。細い腕には少し大ぶりな白の時計がつけられていた。
「読んでいいよね?」
「……仕方ないな」
体裁を保つため渋々了承の意を伝えると、彼女は即座に物語に没入してしまった。
僕は視線を氷だけが残ったグラスに向け、無理やり頭を働かせる。無論、彼女の手首にばかり意識が向いてしまうからだ。
それにしても、文学賞への応募のため、自分の中に溜まったあらゆるものを排泄するように書いてきた物語を、目の前で他人に読まれるというのは未だにこそばゆい。
何万もの人に読まれている人気作家は、くすぐったくて毎日笑い悶えているんじゃないかというつまらない疑問が浮かんだのは、少し緊張していたせいだろう。
彼女が小説を読んでる間に、同い年くらいで髪を一つに束ねた女性店員がお冷を持ってきたが、それはしばらく孤独に水滴を増やし続けていた。
相変わらず彼女が静かになると、辺りの音がよく聞こえてくる。一人でいる時は気がつかなかったが、店内には日本を代表するアニメーション映画シリーズの音楽がオルゴールから流れていた。確かこれは読書好きの少女とバイオリン職人の少年の話のエンディングテーマだったと思う。
もっと辺りの環境を受け入れようと目を瞑ると、ヒグラシの鳴き声が出窓を通して聞こえてきた。この時期になると蝉の鳴き声は常に耳に入ってきているため、意識的に感じることが初夏と比べ減ったなと思う。
出窓には手入れの行き届いた観葉植物が行儀よく並び、燦々と陽の光を享受していた。
僕は右手で頬杖をつき、窓の向こうの青過ぎる空に視線を放り投げた。昨夜の夜更かしのツケが、僕を優しく襲ってくる。
次第に自信を持って書いたシーンに対し、疑念が生まれ始めた。本当にあのセリフは必要だったか、登場人物の性格を尊重できていたか、話の軸がブレていないか、自問自答を繰り返す。
意識が遠のき、空に吸い込まれる直前に、向かいの彼女が顔を上げ、一気にお冷を飲み干した。
「ねえねえ。ここの手を繋ぐシーンが微妙じゃない? イメージしにくいよ」
テーブル中央に置かれた紙ナプキンを数枚取り、お冷が作った水たまりを拭き取りながら、彼女が数分振りに口を開いた。
生意気に物を言う彼女だが、数度話をしているうちにそれなりに本は読んでいると知った。どちらかというと本の装丁とかにこだわる類の人間らしい。
僕は本という媒体にはこだわりがないので電子書籍でも構わないと言うと、紙媒体の本の良さについて数分説かれたくらいだ。
彼女が言う文章を見るとそれは主人公が初めてヒロインの手を握るシーンだった。こんな甘ったるいシーンを僕が書いたという事実はできるだけ無視し、返答を考える。
「イメージしにくいくらいがちょうど良いさ。実際握ったときの気持ちなんて、筆舌しがたいものでしょ? 知らないけど」
「うーん。そうだなあ。初めて握られたときは手に意識が向きすぎてて噛んだり、躓いたりしたかな。体がフワフワする感じ!」
もちろん経験はあるらしい。
手ぶり身振りで必死に説明する彼女を理解しようと試みるが、感情が先行しすぎているせいか僕には難題過ぎた。
「申し訳ないけど全く分からないよ。フワフワっていうのはジェットコースターにでも乗れば理解できるかな?」
「ええ! ジェットコースターにも乗ったことないの? 人生の半分損してるよ!」
「残念ながら遊園地に行った覚えがないんだ。それにしても、ジェットコースターが半分を占める人生ってどう思う?」
「ふふふ、それくらい楽しいってこと! 比喩だよ比喩。国語の時間、ちゃんと起きてる?」
どうやら彼女は根に持つタイプらしい。勝ち誇った顔は僕の想像通りだった。
「話が流れたけど、もうちょっと分かりやすく伝えてくれないかな?」
「うーん……じゃあさ、実際に手を握ればいいんじゃない?」
そう言いながら彼女は右手を僕に差し出す。つい、手首に視線を送ってしまった。白く細い綺麗なものでそっと息を吐く。
ここで躊躇する僕を見たいのだろう、今回ばかりはニヤニヤ笑う彼女の策略には乗らないことにした。
「そうだね。ちょっと借りるよ」
「……え、ちょっ」
彼女の右手に僕の右手を重ねる。
暖かく、血が通っていることがわかる。彼女はこの右手で自分を傷つけたのだろうか。それはとても悲しいことだ。
重ねた右手を軽く握る。すると条件反射の如く、乱暴に振り払われてしまった。
「ハイ終わり! サービスはここまでですよお客さん! お触り終了!」
「変な言い方はやめてよ。誘ったのは君の方でしょ?」
「しーっ! そっちこそ変な言い方しないでよ! 周りの人に聞こえたらどうすんの!」
人差し指を口にあて、全身で周りを見回しながらボリュームを抑えた声で言う。スマートな僕は視線だけで店内を見回す。どうやら客は僕ら以外にご老人が一人、カウンター席で新聞紙を読んでいるくらいだった。こちらには見向きもしていない様子だ。
泳がせた視線を彼女に戻すと頬が軽く赤みがかっていた。冷房が届いていないのかと空調の位置を視認したが、問題はなさそうだ。いちいち動作が過剰なせいで熱を帯びやすい体質なのかもしれない。
「で、何か得られた? 夏木先生」
両手を団扇代わりに使って扇ぐ彼女は、よほどの暑がりなのだろう。
「……特には。君の手が柔らかいっていうことがわかったくらい」
「それは遠回しに太ってるって言いたいの? ひどい! 女の子にそんなこと言っちゃいけないんだよ!」
「そう言う割には随分余裕そうだね」
「うん。だって太ってないもん」
言って両手を腰に当て、ウエストを絞ってみせる。
彼女の言う通りスタイルは良い方だと思う。僕の比較対象は、他に覚えがある数人のクラスメイトくらいだけど。
「そういえばさ、なんで夏木って名前なの? もしかして夏目漱石に寄せてたりする?」
「興味なさそうな顔がムカつくから話したくないけど、ご名答だよ。小説が好きになったきっかけの作家なんだ、漱石。まだ下の筆名は決まってないけど」
「単純だなあ。でも、私も好きだよ。漱石といったら売れなくても綺麗な本を出したいってこだわってた作家だからね。あの有名な心なんて漱石の自装らしいし」
「へえ、詳しいね。比喩を知らなかった人とは思えないよ」
「気になって漱石のこと調べたからね」
えへんと胸を反らす彼女に、僕は素直に感心した。
彼女は僕が知らないことをよく知っている。僕の知識が少ないのか彼女の知識が多いのかはわからないけど。どちらにせよ彼女から学ぶことが多いことは事実だ。
ちなみに、装丁なんて本を読む前後でしか目に入らないものだと言おうとしたが、また説教が始まりそうなのでやめておいた。
「小説家になりたいならそれくらい知っときなよ。大先輩だよ?」
「……待って、僕は小説家になりたいとは思ってないよ。もちろんなれるとも思ってない」
「え、違うの? 向いてると思うけどなあ。孤独に強そうだし」
「孤独に強いのは自負してるけど、向いているかどうかはわからないよ。君にも散々ダメ出しされてるしね」
「私は君の小説の青春にときめかないだけだってば。ほら、君には経験が足りないからね。だからこうやって教えてあげてるんだよ? お礼にパフェを奢ってもらおうかな。すいませーん」
「ねえ、なんで僕が奢る流れになってるの? 会話の進め方が悪徳業者同然なんだけど」
「いいからいいから。君の分も頼んであげるよ。桃がたくさん乗ったやつだよ」
「君はその暴力的すぎる思考をどうにかするべきだね。公園でリサイタルでもしそうだ」
「私、音痴じゃないから大丈夫だよ。あ、今度はカラオケ行こうよ! 青春じゃん」
「僕はきっと音痴だから遠慮しておくよ」
彼女の呼びかけから少し時間をおいて、品の良いご老人が席に注文を取りに来た。清潔感のある白髪に落ち着いた制服は執事を彷彿させる。以前も目にしているため、きっとこの店の店主だろうと視線を馳せていると胸元の銀製のプレートに『店主 大倉』と書いてあった。
「ご注文は?」
「桃のパフェのスモールを二つお願いします」
「ちょっとちょっと、本当に注文するの?」
「え、いらないの?」
注文時に時間をかけるのは好ましくないと分かっていながら一度彼女を制した。持ち合わせを頭の中で確認する。
「どうなさいますか?」
落ち着いていて、深みのあるコーヒーのような声の店主に視線を向ける。伸びた背筋と気品溢れる笑顔が眩しい。
「えっと……僕のはミドルサイズで」
「かしこまりました」
一度出した注文を取り下げるのは悪い気がして、さらには中断した理由をつけるためについ違うサイズのパフェを頼んでしまった。
予想外の出費とけらけら笑う彼女宛のイラつきはあの店主の笑顔に免じて許しておこう。
「ペンネームの話だけど、やっぱり下の名前は故事とかから取るの?」
僕が財布の中身を確認していると、人の気も知らないような口調が話題を巻き戻した。
彼女の会話の起点と終点は、会話が下手な僕には全く読めないので、基本彼女に合わせることにしている。
そもそも最近の僕にとっての特異な行動は全て彼女に依存しているのでは、という考えるだけ無益な議題は置いておき、筆名の話に意識を向けてやる。
「流れに漱ぎ石に枕す、だったっけ? 確かに故事成語を参考にするのはアリかな」
「なんかおしゃれだよね。いいのないかなあ」
言って、落ち着いた喫茶店の雰囲気を崩壊させる色のスマートフォンを足元の学校指定カバンから取り出した。
親指の指紋認証で開き、慣れた手つきで検索画面を呼び出す。そこに『故事成語 おしゃれ』と入力する彼女の思考に不安が残ったが、先ほどの店主の手元、銀のトレイに乗って来たパフェのインパクトにすっかりかき消されてしまった。
ガラスの容器をはみ出した大ぶりな桃は螺旋状に並べられており、空いた真ん中には球状のアイスクリームが堂々と置かれている。咄嗟に胃袋に夕飯分の隙間が作れるか考慮したが、今日は祖母に少なめによそってもらうことに決めた。
彼女はというと、うざったい身振り手振りはなく、表情だけで感動を表している。
このまま放っておくとよだれが垂れてきそうだったので声をかけ、正気に戻してあげた。
「ほら、スモール。君のでしょ」
「……え? あ、ありがとう」
両手で宝石でも持つかのように慎重に受け取る彼女を見ていると、腹部からほんの少し笑いがこみ上げてきた。久しぶりの感覚に自分で戸惑う。そして思い出す。彼女の左手首の傷を。
僕は人の幸せを見ると、勝手にその裏の不幸まで想像してしまう癖がある。彼女の裏には自殺志願者が隠れているかもしれない。なんてこのパフェよりも重たい話なんだろう。
パフェを頬張る当の本人は、至福のひとときを表情や身振り手振りで充分表していた。しかし時間が経つに連れて惰性になっていき、今はスマートフォンを片手にちまちまとパフェを食べている。
行儀について教えを説いてやろうと口を開いた瞬間、彼女が手元の画面を見せつけて来た。僕のものより明るいバックライトとカバーの色が目に刺さる。
画面には四字熟語とその意味が、形式張って書かれていた。
「これ、私たちみたいじゃない?」
「なんだか納得はできないけど、否定はできないね」
「でしょ? これペンネームに使おうよ」
「なんで僕らの関係を指すような四字熟語を使うんだよ」
「えー。だって二人で小説作ってるじゃん!
それに漢字違いで創り出すって意味にもなるし、小説家にぴったりだよ?」
確かに悪くない。寧ろ僕の好みかもしれないが、そう言うと彼女が調子に乗るのは目に見えているので僕は話題を変えることにした。
「……まあ考えとくよ。それよりパフェ、食べないの?」
彼女が待ちに待っていたパフェは、先端が三又になったスプーンで彼女に散々突かれたため、見るも無残なヨーグルトになっていた。
挙句、「もうお腹いっぱい!」と僕の方にそれを突き出し、今はよく分からない携帯ゲームに夢中になっている。
彼女の分は残して、会計に行くという選択を『出されたものは残さず食べる』という祖母の教えが潰し、彼女の残りを胃の隙間に掻き込んだ後、彼女に声を掛けた。
面倒臭かったので二人分の会計を払おうとしたが、彼女に制され結局割り勘で落ち着いた。つまり彼女の方が多く払っているのだけど、その分は貸しにしておくらしい。
喫茶店が位置する商店街から家までは大きな川を一本越すだけでさほど距離はないが、歩くたびに胃袋の揺れを感じた。彼女は軽いステップで橋を渡っている。
彼女を甘やかすのは辞めようと心に刻んでいると、数歩先のアスファルトを見て歩いている僕の視界に彼女が入り込んで来た。
「ね! 見て見て! 夕焼けすっごいよ!」
彼女の人差し指が指す方を見ると落ちる直前の太陽が水平線を淡い赤で濁らせていた。境界が消えた空と海は互いに干渉しあい、同一化しているように見える。
「恋みたいな景色だね」
透き通っていて不安定な、ソーダ水のような声が鼓膜を叩く。
彼女は時々、詩的なことを言う。
きっと、僕と彼女では情報の受け取り方が違う。僕は視覚で、彼女は全身でこの世界を咀嚼している。
死にかけの夕陽から彼女に視線を移す。夕焼けみたいな唇だと思った。死にそうな淡い赤。
「……綺麗な色だね」
僕は彼女に視線を置いたまま無意識に呟いた。
「こっち見ながら言わないでよ。変態」
「もちろん夕陽が、だよ。眩しくて目をそらしただけ」
再び歩を進める彼女に合わせ、僕もかかとを鳴らし、横に並ぶ。夕陽のせいか横顔も淡い赤を帯びている。
「はいはい。勘違いなんてしませんよーだ。……あ、今度は星を見に行こうよ。穴場があるんだ」
「まあ、いつかね」
まだ伸びる影を踏むように歩く彼女の歩調は相変わらず軽やかだった。僕の歩調はパフェ分重い。
いつもの別れ道に着くと右手を大げさに振って来た。綺麗な手首に安堵する自分がいて、気分が少し悪くなった。
夜、活字を前に彼女のことを思い出していた。
小さなことに一つ一つ感動できるのは、一種の才能なのだろう。きっと多くの小説家も数多くある日々の出来事から何かを抽出し、活字に想いを込めているに違いない。
そう考えると、やはり僕には向いてない職業だと思った。
僕は物事を客観的に捉え、彼女は世界を主観で捉えている。
だからこそ彼女には僕の小説はつまらないと感じたのだろう。
無から生み出される文字列という記号だけで空想の世界を創り出し、人の感情を動かすということが僕にできるとは到底思えない。
では、どうして僕は小説を書くのか。
この問いはよく、僕の思考の行き着く果てに用意されていて、僕はここに到達した時点で考えることを放棄する。気の利いた答えが出ないからだ。
きっと彼女は、この類のどんな問いかけに対しても即答できてしまうのだろう。彼女のことをほとんど知らないし、知る努力をするつもりがない僕でも、それはなんとなく確信できた。
シャープペンシルを机に転がして立ち上がり、ベッド越しに窓を開けると夏の匂いとともに夜風が部屋に舞い込んできた。
虫の音と、リズムを取るようなカエルの鳴き声が街灯の少ない街に響く。
窓枠に肘をかけ空に目を向けると、夜の入道雲がひっそりと浮かんでいた。
なんだか僕は、その夜の入道雲を見つけられたことが嬉しかった。