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刃渡り15センチの青  作者: 河合
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第4章

 彼女と学校以外で会うのは数日前の放課後、連行という形で喫茶店に連れて行かれた日を合わせて二度目になる。

 喫茶店では彼女に僕の書きかけの小説の感想を効果音多めで語られ、どこがどう面白くないかも大雑把に説明された。

 初めは、ただ小説を返してもらえば良いと聞き流していたが、意外にも彼女の言うことは的を射ていた。


 律儀にも五分ほど早く校門前に着いたが、周りを見回しても彼女の姿は見えない。 

 なんとなく空を見上げると荘厳な入道雲が立ち上っていた。

 校門前は水田になっていて、そこに空の青やら白やらが反射し、どこか幼い頃の記憶が湧き出してくる。

 僕は、景色を文章で模写するように、携帯電話のメモ帳機能へ文字を打ち込んだ。

「よっ。お待たせ」

「……」

「なになに? 本当に彼女に連絡中?」

 視界の隅で短く健康的な黒の髪が揺れる。

 突然現れた彼女に驚き、考えていた文章は中途半端に溶けて消えてしまった。途中で止まったくしゃみのようで気持ちが悪い。

 白のシャツに淡い青のハーフパンツを着こなし、水色のリュックサックを背負った彼女は、制服とは違い随分露出が多い。視線のやり場に少し困る。 

「今日の空みたいな格好だね」

 空に目を向けたまま抑揚のない声で言う。ついでに苛立ちも少し声色に含む。

「へえ、意外だね。君も女子の服装を褒めるような人なんだ」

 分かりやすく嬉しそうな声を出す。感想を言っただけで褒めたつもりはなかったが、彼女の機嫌はよいに越したことがない気がする。僕も機嫌を直すとしよう。

「それで、炎天下の休日に呼び出して何の用?」

「ふふ。よくぞ聞いてくれたね。なんと、今日は誰もいない休日の学校に潜入します」

 右手の人差し指をあげ、満足げな表情で言う姿が少々鼻につく。

「潜入して何するの? 見つかったらまずいんじゃない?」

「何するって、そんなの決まってるじゃん。青春だよ、青春」

 この当たり前でしょという表情をほんの数回の会話の中で何度見てきただろうか。もしかすると彼女は、この表情で生まれてきたのかもしれない。『生まれてきて当たり前でしょ』という表情の赤子を想像する。うん、ぴったりだ。

「何してんの? ほら、行くよ」

 言うと、躊躇いもなしに所々白のペンキが剥がれた校門を軽々とよじ登っていく。

 その姿に悪いことに加担しているという自覚が芽生え、自分の心音が少しずつ大きくなるのを汗ばんだ全身で感じた。

 校門の先に視線を走らせる。僕らが通う高校では、日曜日に活動するような部活動はなく、人の気配もない。

「見つかったら怒られるよ。君が」

「ふふ、佐野くん。少しのルール違反は青春を甘美なものにするんだよ。あ、怒られるときは二人でね」

 門の向こう側で中村さんは下手くそなウインクを僕に見せた。

 息を吐き、最善の行動を考えてみるが、彼女に付いていく選択肢以外はすでに彼女の手によって潰されていた。理不尽には逆らわない方が楽だということを僕は知っている。

 仕方なく年季の入ったそれに手をかけ、よじ登る。懐かしい鉄分の匂いが鼻腔をくすぐった。

 飛び降りると着地の際、右足を軽く挫いて転んだ。久しぶりに土の感触を手のひらで味わう。彼女はというとお腹を抱えてけらけらと苦しそうに僕を指差していた。

 立ち上がって土を払い、彼女の下がった頭を見ると頭頂につむじが二つあることに気がついた。全くもってどうでもよい。

「ごめん、ごめん。アイスあげるから許してよ。あーお腹痛い」

 ムスッとしている僕を見て、彼女は背負ったリュックからコンビニの袋を取り出し、中身を見せてきた。チョコとバニラのカップにはずいぶん水滴が帯びていた。

「どっちでもいいよ。ちなみに私はチョコの気分だけど」

「奇遇だね。僕もチョコの気分なんだ」

 受け取ろうとすると、ニマニマと彼女の口角が上がる。

「そう言うだろうと思った。本当は私、バニラの気分なの。あとで食べよー」

 中村さんは勝ち誇った顔を僕に見せつける。どうやら彼女は僕を舐めきっているようだ。いつか天罰が下るといい。

 リュックを背負い直し、右手に袋を下げ迷いなく進む彼女の後ろを気怠けについていく。溜飲を下げるため、隙を見て彼女のスニーカーのかかとを軽く踏んでおいた。彼女は突っかかるだけで転びはしなかった。

 校門を進んだ先には昇降口があり、普段は目にしない、大きな錠前で扉は閉められていた。こちらも所々塗装が剥げている。

 県立高校にしては歴史があるらしい校舎を静観すると、やはり年代分の風格が漂っていた。

 校舎は西校舎と東校舎に分かれており、校門のすぐ先の西校舎に僕らの教室や職員室、東には主に部室や各教科の準備室が配置されている。

 彼女は昇降口の前を右に逸れ、校舎に沿うように奥へ進む。

 どうやら奥にある東校舎に向かうらしい。帰宅部の僕は数回しか足を踏み入れたことはない。

「中村さん、そもそも鍵が掛かってるから入れないんじゃないの?」

 自信満々に前進する彼女にはきっと策があるのだろうが、一応聞いておく。

「奈々」

「……え?」

「奈々って呼んで。私も下の名前で呼ぶから」

「呼び方を変えても何も影響ないだろ。それに、もう君の顔には中村さんって書いてある」

 頬を膨らませ、眉間にシワを寄せる。分かりやすく感情を顔に出せるのは、彼女の長所だろう。僕にはできない。

「顔に文字なんて書いてないよ!」

「書いてるよ。今は『怒』って漢字がおでこに」

 彼女は、スマートフォンを顔の前に掲げ、前髪を上げる。

「やっぱり何も書いてないじゃん!」

「……もちろんただの比喩だよ」

「ん?」

「これからは国語の授業で寝ないようにね。まあ、中学の範囲だけど」

「さっきから何言ってるの?」

「なんでもないよ」

 彼女の頭上で疑問符がみるみる大きく育つ。

 右手を口元にあて、首を左右に振る彼女をを観察する。いつの間にか無駄に大きな動作に対する嫌悪感は気配を薄くしていた。人間の順応能力は大したものだと感心する。

「話を戻すけど、校内に入る方法はあるの?」

「私、写真部なんだけどさ。顧問が結構ゆるい人で、学校を撮りたかったらいつでもおいでって部室の窓の鍵、開けっ放しにしてるんだ」

 なんとも教育委員会に知れたら騒ぎ立てそうな事案だ。というか、彼女が写真部ということに驚いた。快活に話す彼女はなんだか運動部のイメージがあった。

「それは内緒にしないとね」

「このことを知ってるのは写真部の顧問と部員と佐野くんだけだから。共犯だねぇ」

 しししといたずらを仕掛ける子供のような顔をする彼女は下の名前どうこうの話はすでに忘れたようだ。これからは都合が悪くなれば話題を変えるという手で対処していこう。

 ふと、先のことを考えた自分に違和感を感じた。彼女の気まぐれが消えたら、この関係も消滅する。きっと、あと数日の我慢だ。

「ほら見て、ここだけ開いてるんだ」

 彼女の透明な声が、辺りに響く蝉時雨と僕の思考を押しのけて鼓膜に届く。彼女は相変わらず上手に悪い顔をしていた。

 すでに部室内に侵入した彼女に続き、窓枠を乗り越える。着地に気をつけ、木目の床につま先からゆっくり足をつけた。

 彼女は「今度は転けなかったね」とうざったく笑ったので、蹟かせようと足を出したがひらりと躱された。彼女の運動神経が良いのか、僕の瞬発力が低いのか定かではない。

 中に入ると昔、歯医者で嗅いだことがある匂いが僕の鼻腔と記憶を刺激した。匂いと記憶の結びつきは強く、特定の感覚を呼び起こしやすいと書かれていた小説を思い出す。

 かなり鮮明に思い出された記憶にはまだ両親がいて、嫌悪感が胃の奥から込み上がる。

 クーラーをつけている彼女に正体を聞くと現像液というもので、感光したフィルムを現像するときに用いるらしい。僕にはさっぱり分からなかった。

 写真部というのはどうやら本当のようだ。

 室内の中央には教室と同様の机が六つ寄せられ、一つの大きなテーブルになっている。

 その奥、僕の真正面には廊下に通じる正規の出入り口。右手の壁には作品が数多く飾られている。左手にはステンレスのロッカーがあり、その上の二台のカメラと数本のレンズ、雑多に置かれたフィルムケースがこの部屋が写真部室であることを存分に表現していた。

 隣の教室には暗室というものも完備してあるらしい。

 レトロな機材と作品に挟まれた部屋はどこか落ち着きがある。僕が持つ中村奈々という人間への印象とはかけ離れた空間だった。

「アイス溶けちゃうよ」

 芸術に無頓着そうな顔の彼女は左奥の椅子に座り、小さな木製のスプーンを口にくわえている。

 テーブルの一角、ちょうど陽の光が差し込む位置にチョコのカップアイスは置かれていた。

「君はろくな死に方をしないだろうな」

「そうだね。死んだ後の葬儀は少なくとも君より賑やかだと思うけど」

 ただでさえ暑いのに、彼女と会話をすると体感温度が上がってしまう。突っかかるのはもうやめておこう。

 彼女はというと左右の足をばたつかせ、落ち着きのなさを主張していた。なんとも見ているだけで暑苦しい。冬になったら北海道にでも輸送してあげよう。きっと除雪の力になる。

 彼女と向かい合わせの席に腰を下ろし、一応感謝の意を述べてチョコアイスを口へ運ぶ。

 半分近く液化したそれは全身の熱を冷ますには充分だった。

 隅々まで行き渡る甘ったるさと冷たさが僕の体力を徐々に回復させる。

 頭も冷えてきたところで僕の方から口火を切った。

「それで、今からの予定は?」

「まず学校に侵入して、アイス食べて、それから……」

 彼女の指折りは親指と人差し指で止まった。

「……何かしたいことある?」

「強いて言うなら二度寝かな」

 彼女に至福の時間を奪われた、朝の僕の主張もボリュームに足しておく。

「もう! 何時間寝るつもりなのっ! 寝過ぎは体に毒だよ。コアラになっちゃう」

「どういうこと?」

「地球上で一番寝る動物らしいよ、コアラ。昨日テレビで言ってた」

「それなら心配いらないよ。コアラが長く寝るのは食べたユーカリの葉の解毒のためらしいからね」

 確かに僕は、極力エネルギーを消費しないよう行動するという点では、コアラと共通点があるかもしれない。

 今日はすでに一日の労力の許容範囲をとっくに超えていた。

 この疲労が、僕にとってはユーカリの葉の毒素だ。

 彼女は僕の特に意味もない返答の理解に苦しんでいるようで、珍しく静かになる。

 無意識に耳を澄ますと、締め切った窓に蝉の求愛行動が反射する音と、クーラーの稼動音のみが僕を埋め尽くした。

 どこか、夏の中に隔離された気分になる。

 閉じ込められた夏の箱の中に足元から湧き出した創作意欲が、すぐに頭頂まで満たされる。

 ジーンズの右ポケットから愛機を取り出し、感じたことを羅列していく。文字盤を押し込む度に鳴る電子音が愛おしい。

 自然に親指の動きが止まったところでそれを折り畳み、まだ唸る彼女に声をかけた。

「結局、これからの予定はないの?」

「そうだね。たわいのないことでも話そうよ」

「そんな話で時間を共有する関係ではないでしょ」

「うわぁ、ひどいな。私たちは親友より固い共犯という絆で結ばれてるのに」

 わざとらしく両手で顔を隠す。下手くそな泣き真似が始まった。非常にめんどくさい。

「僕は君に脅されてついてきただけの被害者だよ。そろそろ釈放して欲しいところなんだけど」

「でも、アイス食べたよね?」

 人差し指と中指の隙間からチラリと覗く乾いた目が、僕の視線に割り込んでくる。

「……それはずるいな」

 確かに、アイス一個分は彼女に付き合うのが道理かもしれない。僕は椅子に深く座り直した。

「それじゃあ明日の天気についてでも話そうか。明日は今夏で最高気温らしいよ」

「そんな話つまんないよ。最高気温なんてどうせすぐ塗り替えられるのに。私は君の話が聞きたい」

「中村さんがたわいもない話を提案したからだよ。もしかして、僕の話はきっと下らないっていう遠回しの意地悪だったりする?」

「違うよ。純粋に君に興味があるんだよ。どうしてそんなに卑屈になったのかなって」

「ずいぶん直球な皮肉だね。原因があったとしても気持ちのいいものではないと思うけど」

「原因があるんだ。あ、気まずくなるような話ならいいよ」

「ならやめておくよ」

「……ふーん。じゃあさ、佐野くんはどうして小説を書いてるの?」

 小説を書く理由。

 僕は物語を書き始めた当初の記憶を頭のうちに並べ、最も答えに近いものを選んだ。

「一番の理由は賞金かな。もちろん話を考えたり、文章を書くのも好きだけどね」

 もちろん簡単に賞金が手に入る、つまり受賞することが易くできるとは思っていない。

 ただ、校則でアルバイトが禁止され、大した特技もない僕が唯一できることが小説だった。宝くじを買うよりいくらかは効率的だ。

「確か、君が応募する賞の副賞は百万円だったよね? もし受賞したとして、そんな大金使い道ある?」

 どうやら先日伝えた締め切りから、僕がどの文学賞に応募するかを割り当てた様子だ。

 ほんの少しだけ彼女に感心した。

「小学生の頃に両親が離婚してね、それ以来ずっと祖父母にお世話になってるんだ。その恩返しに」

 彼女はよく動く小さな口を真一文字に結ぶ。

 今までも、これからも誰にも打ち明ける予定のなかった心中。先ほど回避したはずの話題をつい口走ってしまった。


「……両親は、嫌い?」

「……え?」


 突然の質問に軽く思考が止まる。顔を上げると机に両手で頬杖をつく彼女と目が合った。初めて見た彼女の真剣な表情からは視線を反らせず、大きな双眸に吸い込まれそうになる。

「僕が捨てられたことはどうでもいいけど、祖父母にまで迷惑をかけたことは許せないよ。つまり、嫌いだね」

 苦虫を潰した感触が体内に広がっていく。

 ひたすらに愛情を注いでくれる祖父母を見ると、より一層両親への憎悪が強くなる。

「……私もだよ」

 反射的に僕の目が大きく開いた。正直、意外だった。 

 彼女のこの性格は、円満な家庭があってこそのものだと思い込んでいた。

 きっと、ひたすらに愛されているのだろうと。


「死んでやりたいくらい、ね」


 今まで、止まることなく変わっていた彼女の表情が静止する。

 それは今まで見たどの表情よりも自然だった。美しく、どこか影が差していた。一時的な反抗期で形成される類のものだとは思えなかった。

「……ちょっと黙り込まないでよ! 真剣味が出ちゃうじゃん! それよりも、君はお祖母さんたちのためにも早く帰って小説書かないと!」

 言いながら、机に両手をつき身を乗り出す。表情はわかりやすいものに変わっていた。

 彼女との視線の直線距離が今までで最も短くなる。首元のシャツのたるみに視線を送らないよう目を逸らした。恥ずかしいからだけではなく、今の僕の表情を見られたくなかった。

「やれと言われると意欲を失うタイプなんだ。夜になったらきっと書くよ」 

「書き直したらまた読ませてね。君にとって貴重な読者でしょ?」

「脅しにしか聞こえないな」

 彼女に小説を読ませる義務はないが、言う通り彼女は貴重な読者だ。僕にとって唯一の。    

 

 結局、その後すぐに帰宅することになった。

 窓から外に出ると、まだ高い南中高度を維持する太陽が僕らを殴りつけてきた。蝉の求愛行動は、より激しさを増していた。

 校門の前の水田は相変わらず空をそのまま描き出し、時折吹く風に美しく揺れていた。

 帰り道、僕は彼女の自殺願望についてなにも言及しなかった。僕が口を出すのはきっと野暮だろうし、ただの冗談だったのかもしれない。他人の心中を察せるほど、僕は器用な人間ではない。

 彼女とは校門を出て数十分歩き、古い家屋が軒を連ねる区域に差し掛かったところで進行方向が分かれた。

 軽く手を挙げ、別れを告げる。彼女が小さく挙げた左手の手首に古い傷跡のような線が見えた気がした。僕は彼女に背を向け家路に着いた。何故か心臓だけが真空空間に閉じ込められたような気分がした。

 

 家に帰り「ただいま」と言うと、台所から出てきた祖母が麦茶を出してくれた。それを一気に流し込み喉をいたわる。普段喋ることが少ないため、今日の麦茶はすこぶる美味い。祖父は庭の手入れをしているようだ。

 二階の自室にこもり、扇風機の弱ボタンを押して、テーブルの上の文庫本を手に取る。ベッドに軽く飛び乗り、反発力を感じ終えてからページをめくった。

 青春小説、推理小説、啓発本、自伝、活字を読むことが好きなので、ジャンルを問わず本を読む。今日は殺人事件を追う探偵に寄り添いながら明朝体を読み進める。

 今は活字だけを目で追っていたかった。彼女のあの表情を、記憶の奥に仕舞い込みたかった。

 体力を奪われていた僕の意識は物語に没入し中盤に差し掛かった頃、まどろみの中に消えてしまっていた。

 祖母の夕飯の呼び声に起こされ、暖かい御馳走を三人で平らげる。その後すぐ湯船に浸かり、冷蔵庫から紙パックのりんごジュースを手に取り自室へ戻った。

 キャンパスノートと携帯のメモ帳を開き、物語の加筆、推敲を始める。

 以前書いた短編小説の続編で、島で暮らす小説が好きな男子高生が些細なきっかけでクラスの女の子と小説の貸し借りを始め、次第に惹かれ合う、といった内容だ。

 すると、いつの間にか話のヒロインの姿に中村奈々がうっすらと重なっていることに気がついた。それは、振り払おうとしてもどうにも払拭できなかった。

 誰もいない校門の前で見た景色、夏に閉じ込められた感覚、異性と会話する緊張感、全てを文字に変換していく。

 メモを確認していると、ちょうど彼女からメールが届いた。

 祖父母とは電話でしかやりとりをしないため、多分初めて使う機能だ。

 内容は、これからも青春を教えるから覚悟しろとのこと。あれが誰もが言う青春だったなら、確かに僕は青春のイメージを更新しなければならない。

 返信するか迷ったが『じゃあまた』とだけ送っておいた。僕の気まぐれだ。

 

 携帯電話を閉じ、窓の外に視線を送る。空には暗い青が広がり、光害の少ない町が静かに夜を受け入れ始めていた。

 彼女の内側にも、この夜のような闇が侵食しているのだろうか。僕には全く想像もつかない。

 意識的に今日のことを振り返る。まあ、ほんの少しは勉強になったのかもしれない。人付き合いに消極的ではあるが、新しい知見を得ることは好きだ。

 すると、彼女の勝ち誇った顔が目に浮かんだ。まだきちんと把握すらできていないクラスメイトの顔でもこの表情ははっきりと覚えていた。 

 しかし、気がつくと彼女の鼻につく表情は綺麗に影が差したもう一つの表情に切り替わる。僕にとっては後者の方が印象強かった。

 その記憶を薄めるように、思考を上から覆い被せる。

 彼女が自殺をしようがしまいが、そこに僕が介入する義理はない。そもそも彼女には、彼女に合った友人が多くいるはずだ。

 僕はただの被害者であり、彼女の気まぐれの消化対象だ。

 彼女がもしまた僕に関わってきた場合、どのような対処が最善かを考える。 

 現状、彼女は僕の小説を隅々まで読み込み、一読者としての感想をまとめたり、彼女なりの指摘を赤字で書いてノートを返してくれた。

 その点だけを注視すると僕にも彼女と関わる利点はあるのかもしれない。

 ただ、闇雲に人間関係を深くすることは結果的に不利益をもたらすということを僕は知っている。

 しかし、文学賞の締め切り前に、彼女に小説を公開されることは、応募資格を満たさない状況に陥る可能性もある。

 万難を排す為にも、彼女の提案は極力受け、僕は彼女を一読者として利用することが最も合理的だろう。彼女が飽きるまで辛抱すればよい。

 これは、きっと仕方がないことなんだ。

 僕は言い聞かせるように胸の中で唱え、再び活字の世界に意識を潜めた。




 佐野くんと別れた後、気がつけば玄関の前に着いていて、シャワーを浴びることもせず、そのまま二階の自室に篭った。

 シャワーを浴びたかったが、その間に父が帰宅し、鉢合わせるのが嫌だった。

 今はさっきまでの会話を、空気を、じっと反芻したかった。何も零したくなかった。

 彼はどんな目で世界を見ているのだろう、そう考えながら観察をしていた。

 ベッドに横になり、額に手の甲を当てながら目を瞑る。二人の記憶を辿っていく。

 

 彼はおばあちゃんたちへの恩返しになればと文学賞を狙っていると話した。

 バレずにバイトをしている生徒なんてたくさんいて、そのお金を親孝行に使うことを私は善良だと思う。

 それでも彼はきっとルールを守り、本当に自分ができることだけで恩返しをしたいのだろう。素敵だと私は思った。逃げてばかりの私にはちょっと、いやかなり眩しかった。

 彼の目に、私はどう映っているのだろう。

 漏れた弱音を彼はどう受け止めただろう。

 緊張していたのはバレたかな、途中で比喩がどうとかユーカリがどうとか言っていたけどあまり覚えていなかった。

 ふうっと息を吐きベッドから起き上がる、白のテーブルに置かれた文庫本を手に取る。とあるレストランで起きるミステリーの話で、新刊が出る度に買っていた。

 小説はよく読む方だと思う。私にとって読書は最も前向きな逃避だった。

 他にも現実から逃げるためにできることは色々と試した。みんなには紙でさっくり切れちゃってと話しているが、リストカットもした。

 結局後悔ばかりが残り、いつからか活字にばかり逃げるようになった。ただ、趣味だとは思っていない。

 しかし、彼の物語に出会ってから、読みかけだった文庫本の栞の位置はほとんど動かなくなった。

 何度も同じ行を読み、少し進んではまた戻る。頭にはレストランではなく先ほどの部室が描かれている。

 結局栞を元の位置に戻し、本を放った。

 仰向けのまま手を伸ばし、徐々に落ちる太陽の光をカーテンで隠しながら「今頃、書いてるのかな」と、また彼のことを考える。

 いかんいかんと立ち上がり、シャワーを浴びようと部屋の扉に手をかけた瞬間、玄関の鍵が開く音がした。ドアノブから手をゆっくり離す。私はもう一度ベッドへ向かった、今度はうつ伏せで目を閉じた。

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