第15章
十二月十五日、昼下がり。
今日は、一次審査の結果が掲載された文芸誌の発売日だ。
僕はいつもの喫茶店でホットサンドを片手に小説を書いていた。
店主を務める大倉さんを一瞥すると、いつもの落ち着いた空気の中に少しの緊張が混ざった様子だった。
「買ってきました!」
勢いよく開かれた扉とともに、入店の合図である取り付けられた鈴が店内に響く。ここでアルバイトをしている神谷咲ちゃんが書店から戻ったようだ。
入り口に目を向けると、いつもは見せないような少し固い表情で、書店名の書かれた紺色の手提げ袋をこちらに掲げていた。
四人掛けのテーブル席へと移動し、僕と大倉さん、咲ちゃんで顔を寄せた。
「い、行きますよ」
恐る恐る開封し、僕らは目を合わせて頷いた。
ページを捲る咲ちゃんの手が止まり、三人に緊張が走る。そこには一次選考通過者の名前と題名が羅列されていた。
彼女は顔を目一杯に近づけ、舐めるように誌面を追っていく。
「ふああああああああああああああ」
空気が抜ける音とともに、彼女はソファの背もたれに両手を上げてうな垂れた。
「……ダメでした」
咲ちゃんが最後の空気を押し出すように、ぽつりと呟く。
「では、景気付けに新作のパフェでも作りましょうか」
手を鳴らして静かに立ち上がり、大倉さんはカウンターへ向かう。魂の抜けたような咲ちゃんもフラフラと立ち上がり、マスターの後ろを追って行った。
二人の後ろ姿を見届けた後、僕は開かれた雑誌に手を伸ばす。
雑誌を拝借し、一次選考通過者の名前と作品の題名を遠目で追っていく。
あれだけ努力し、よく書けていた咲ちゃんの筆名や小説の題名はどこにもなく、僕は素直に彼女のことを憂いた。
僕の名前も誌面のどこにもなかった。
「そろそろ帰ります。ご馳走様でした」と告げ、マスターとまだ背中が丸い咲ちゃんに挨拶をし、喫茶店を後にした。
空は冷え込んだ青がどこまでも高く伸びていて、吐いた白息とのコントラストが綺麗だった。
マフラーをリュックサックから取り出し、適当に巻きつける。
帰路にある大きな橋で横風に耐えながら歩いていると、スニーカーの靴紐が解けていることに気がつき、僕はしゃがみこんだ。
瞬間、僕の心臓は大きく跳ねた。
うざったいポップな音楽。
発信源は僕の右ポケットだ。
靴紐を結び、大きくなる鼓動を落ち着かせるために息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に溜まる。
携帯電話を取り出し、画面を見る。
『着信 中村奈々』
息を呑む、という瞬間を体感する。
僕は橋から見える水平線に目を向けた。
一言目に何を言うべきか少しだけ考える。
しかし、考えても答えが見つからないということは明確だった。
視線を空と海の境界線に向けたまま、僕はまだ鳴り続けるそれを耳にあてた。
「……もしも」
「おっそい! もっと早く出ろ!」
耳に、頭に、体に、心に、彼女の透明な声が響いた。
「佐野くん、今日暇だよね? 十七時に星を見たあの丘に来て。それじゃ」
「……ちょっと待っ」
久しぶりに聞いた彼女の声が勝手に反芻されている内に、彼女は一方的に要件を並べ、電話を切った。
何も変わっていない理不尽な彼女に、僕はどうしてか口角が上がる。
中村奈々がこの街にいる。
それだけで僕の思考は簡単に支配された。
家に着き、祖母に「あら、何かいいことでもあったの?」と聞かれたので「全く、むしろ最悪かな」とだけ答えた。
自室にこもり、ベッドの上から透き通った空の青を見つめる。
彼女が、この街から消えたあの日。
あまり思い出したくない記憶が、自動的にフラッシュバックした。
彼女がこの街からいなくなる前日。
彼女は普段よりもさらに過剰な暴力を振るう父親から母親と自身を守るため、側に転がっていたビール瓶で父親を殴り、意識不明の重体にした。
その話を聞いた時、くだらないクラスメイトのくだらない妄言だと思った。いや、そう思いたかった。
しかし、増えたサイレンの音と地方のニュース番組が、僕の中に存在していた最悪の可能性を証明してしまった。
それからしばらく、僕は学校へ行かなかった。
報道に詳細な部分は明示されていなかったとはいえ、学校中が無意味な詮索で持ちきりになることは目に見えていた。
それから僕はひたすらに小説を書いた。完成間近だったそれを一から考え直し、さらに深く書き込んでいった。
祖父母は僕に何も言うこともなく、ただいつも通り接してくれた。
祖母は栄養がきちんと取れるようなご飯ばかり作ってくれた。祖父は庭の手入れの手伝いを僕に頼み、二人で伸びた枝を切った。
僕の気持ちが整い始めた頃、彼女が親戚に引き取られて遠くの街へ行ったということは、家に来た担任から直接聞いた。
十六時三十九分。
僕はあの坂の下まで来ていた。
自転車を停め、カゴに乗せたリュックサックを背負って、両手に息を吐いた。
白息は夕焼けの色を少しだけ乗せて浮かび、空の一部となっていく。
その刹那を見届けた後、コートのポケットに両手を入れ、暖を取りながら坂を歩いた。
考える時間があったお陰で思考はかなり透明になっていた。
左手に広がる空と街を見る。空は和紙に水滴を落としたように様々な色が溶け合っていた。
この冬に見た夕焼けの中でも群を抜いて美しかった。
僕の街は、まだ弱い明かりが所々で夜を受け入れようとしていた。
彼女はこの空を、街を見て何を思うのだろうか。
坂の頂上に顔を向ける。
そこには、空を抱くように見つめる彼女が立っていた。
一度立ち止まり、息を大きく吸い込む。
僕は、彼女の横顔に向かって声を掛けた。
「空が綺麗だね」
「うん。青春みたいな空だね」
再び空へ目を向ける。
僕にはこの空を見て、青春は感じなかった。
「どうしてそう思うの?」
「青が綺麗で、儚くて、脆くて、鋭利だから」
頭上に指を指す。
そこには半分は夕陽に染まりかけの、そしてもう半分は夜に侵食されかけている青空がまだ残っていた。
「僕らみたいだね」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、僕はこの青を見てそう感じた。
「文学賞の結果、どうだった?」
「ああ、どうやら締め切り日を勘違いしていたみたいでね。応募できなかったんだ」
「嘘。どうせ私に一番最初に見せるって約束したから応募しなかったんでしょ」
「どうだろうね」
「……怒らないんだ」
「何のこと? 僕は人を怒れるほど大層な人間じゃない」
「君に何も言わずにいなくなったんだよ」
「僕に何か一言言う義務はないだろ」
赤い光が強く差し込む。沈む寸前の死にかけの太陽が僕らを鋭く刺す。
僕はリュックサックからコピー用紙が入った封筒を取り出した。
「ただ、一言君に言ってやろうと決めてたことはある」
「……何?」
「僕に青春を教えてくれてありがとう」
一際強い北風が、僕らの間を走り抜けた。
「……え?」
「これは僕と君で書いた物語だ。一番最初に君が読む義務と責任がある」
「君は文学賞の賞金の為に小説を書いてるんじゃなかったの?」
僕は、あの日を思い出す。あれは僕自身でも見抜けない虚言だったと今では思う。
祖父母への恩返しという本心を付け加えることで、自分を騙していたなんて、劣悪な人間だ。
しかし、今では明確だ。
僕が小説を書く理由。
「……僕、小説家になりたいんだ」
彼女の双眸が少し大きくなる。
僕は彼女から目を逸らさずに続ける。
「僕は誰かを助ける力もない弱い人間で、誰かを救えるような話術もないんだ。だから、誰かをほんの少しでも救えるような、ほんの少しだけ元気が出るような、ほんの少しだけ明日も生きようって思えるような。そんな小説を書きたい」
彼女の頬を死にかけの赤に染まった雫が伝う。
太陽は完全にこの世を去り、少しずつ街が夜を受け入れ始める。
夜が訪れる前の曖昧な青が僕らを包む。
「あーーーーーもう! 面白くなかったら承知しないからね!」
「それは怖いな」
「その顔は自信がある顔だね?」
「どうだろうね」
僕は笑った。
彼女も笑った。
そして思い出した。
彼女に会って、あと一つ教えてもらいたいことがあった。
僕は肩からリュックを下ろし、宝箱を開けるようにチャックを開けた。
「そう言えば君に、あと一つだけ教えてもらいたいことがあったんだ」
「へえ、君も素直になったねえ。じゃ、優しいお姉さんがなんでも教えてあげるよ」
言いながら一歩ずつうざったく近づいてくる彼女に見せつけるように、リュックの中からそれを取り出した。
「これ、僕が撮ると全部ピントが外れちゃうんだ」
ズシリとした重量があるフィルムカメラ。中村さんが最後に残した愛機だった。
彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに口元を綻ばせた。
「仕方ないなあ」
もう一度、僕らは笑い合う。
この感情に、僕はもう違和感はなかった。
僕らはこれからもこの関係の終着点を見つけられないままだろう。
僕は弱く、彼女は脆い。
それでいいんだ。
僕らは弱いままでも、傷だらけでも、居場所がどこにも見当たらなくてもいい。
あの夕方と夜の境界線に滲んだ青のように。
誰の目も向けられず、一瞬で過ぎ去る青春を文字にしたためるだけの関係であったとしても。
互いに穴を埋め合い、生じ合い、傷を舐め合うだけの関係だったとしても。
確かにここで弱い僕と脆い彼女が生きていたという事実を僕と彼女は知っている。僕と彼女だけが知っている。
きっと、それだけでいいんだ。




