第14章
夏休みを終え、登校初日の朝。
あの台風の日以来、彼女からの連絡は一度もなかった。僕はひたすらに小説を書いていた。
完成の目処は立っており、学校が始まってから一度彼女に読んで貰うために推敲と加筆を繰り返していた。
ホームルームの予鈴がなり、文庫本越しに彼女の席を一瞥するが、姿はない。
文章に目を戻しながら、彼女が新学期初日から寝坊して慌てる様子を目に浮かばせる。
扉が開く音に反応し、視線だけを向けると相変わらず気だるそうな担任教師がのっそり教室へ入ってきた。
彼女の寝坊は僕の中で半分は切望に近いものだったのかもしれない。
「先生~。奈々、寝坊してるっぽいです」
「初日から寝坊ってマジでウケるな」
クラスメイトは憶測を適当に放っていたが、担任の教師は少し淀みながら口を開いた。
「ああ、そのことなんだが」
僕の聴覚は機能不全に陥ったようだ。
担任教師が顎を撫りながら淡々と言葉を発している。
何かを話していることは理解できるのに、どうしてか言葉を上手く汲み取れなかった。
手のひらで水を掬えないような感覚になり、強い胸焼けがする。
教室の至る所で顔を見合わせているクラスメイトを揺れる視覚で捉える。
鼓膜の奥から空気が膨張し、目眩がする。
僕は机に手をつこうとしたが、バランスを崩し、椅子ごと転けてしまった。
瞬間、聴覚の機能が再起動した。
教室の視線は一瞬僕に集まったが、また各々で勢いよく会話を始めた。
「奈々が転校するとか誰か聞いてた?」
「あいつ、家の問題やばそうだったよな」
「見ないふりしてたけどリスカ跡とかもあったよね」
「何も言わずに行くとか最低なんだけど」
「それそれ、流石になくね」
「マジでありえねえわ」
「夏休みの間も連絡全然取れなかったし」
「友達なんだから相談くらいすればよかったのに」
「でも、ウチらのこと下に見てる感あったよね」
「確かに! 口には出さないけど裏ではそう思ってそうだったかも」
五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
普段必要最小限しか使っていない聴覚が全てのボリュームを最大にする。顔に全身の血液が流れて熱を帯びる。思考は濁りを深め、気分がさらに悪くなる。
憶測で彼女のことを吐き捨てるように扱う人間たちと、彼女の逃げ道になり得なかった自分に対する憎悪でどうしようもなく叫び出しそうになる。
「奈々ちゃん、自分のお父さんを殺そうとしたらしいよ」
どこの席の誰が発したかも分からないその言葉に、僕の頭は完全に真空になった。
僕は走っていた。
張り裂けそうなくらい肺が酸素を欲し、足の裏は地面を蹴る感覚を失っていた。
何度も転んだせいで、熱されたアスファルトに焼かれた傷が高熱を帯び、両膝と手の平は強く脈を打っている。
膝に風を感じ、制服が破れていることを把握する。
街を歩く人は、皆僕を一瞥する。
全てがどうでもよかった。
あの日、僕が引き止めていれば。
父親の暴力が原因で台風の夜に家を飛び出たことは明白だった。それなのにどうして僕は何も言わなかった。相談所に電話するくらいなら僕にもできたはずだ。彼女は僕に助けを求めたんだ。僕は何もしてあげられなかったじゃないか。あの雨の図書室で約束したのに。
行き場のない後悔と反省で思考が支配されている中、僕の足はただひたすらにあの場所を目指して走っていた。
商店街の裏路地の奥。
相変わらず手入れの行き届いた花壇の植物たちが、夏の陽を浴びて煌めいていた。
重たい扉を引くと、その隙間から溢れ出す深い香りが一気に鼻腔を満たした。
心に立っていた荒波がほんの少し静かになる。
肩で酸素を吸いながら僕は大倉さんを見つめた。
マスターは僕の様子を見て、普段は細い目を丸くし、それから何も言わずに消毒液と絆創膏を持って来てくれた。
「彼女から預かっているものがありますよ」
手際の良い応急処置を受け、マスターはそう言いながら店の奥へ向かった。
彼女とは中村さんのことだろう。ただ、預かっているものが何なのかは見当がつかない。
見当はつかないが、彼女がここに来ていたという予想は当たっていたようだ。
「お待たせしました」
カウンター越しにマスターが姿を見せた。
きっと、奥の別室に預かりものを保管していたのだろう。
彼の手には、彼女の愛機であるカメラとシンプルな茶封筒が優しく握られていた。
「……これは」
「全て君に渡して欲しいと、そう頼まれました」
彼女の扱い方を見ていた僕は知っている。このカメラは彼女にとって本当に大切なものだ。
僕はそれらをカウンター越しに丁寧に受け取る。
ズシリとした重みがあるそれを静かにカウンターに置き、茶封筒を開ける。
封筒の中には印刷された写真が数枚入っていた。
そこにはいつ撮られたかもわからない後ろ姿の僕や、二人で出かけた道中の景色があった。
最後の一枚には、僕が突き抜ける青空をバックに写っていた。
写真の中の僕は心の底から笑っているような笑顔だった。
「……僕なんか撮って、どうするんだよ」
先ほどからあった全身の熱が、僕の両目に集中する。
彼女のことで僕が悲しむ資格はない。一番辛いのは間違いなく彼女自身だ。
それなのにどうして僕は、彼女との関係を憂い、救われた気持ちになっている。僕は何も辛い状況に陥っていない。被害者面している自分を心の底から殴りたくなる。そもそも僕らの関係は本来在るべき形ではなかった。彼女が消えたところで、僕はほんの数週間前の僕に戻っただけだ。
僕は彼女に対して自分勝手な感情が溢れる自身を非難し、軽蔑した。理性で僕の不具合を押さえつけようとした。
頭を掻きながら、必死にこの感情を飲み込む。吐き出しそうになる度に思考を張り巡らせ、胃の底に落とし込む。
目を強く瞑って頭を抱えていた僕の前に、優しく深い香りが現れた。
「今日はお客様がいらっしゃらない日ですね」
ゆっくりと目を開けると、僕の目の前にいつものアイスコーヒーとホットサンドが置かれていた。
僕の感情を塞き止めていた理性は、マスターの奥深い優しさによって、静かに崩壊した。
慌てて目元を抑えたが、遅かった。
涙が両手から腕を伝い零れ落ちていく。
嗚咽が勝手に喉から漏れる。何度も何度も器官を鳴らす。
混沌とした思考の中で、浮かんでくるものは彼女の透き通った声だった。
二人で交わしたいくつものセリフが耳で鳴り、彼女で埋め尽くされていく。
僕は理性と思考を放棄して、本当の僕に身を委ねた。
もっと二人で小説を書きたかった。
もっと彼女に僕の物語を読んで欲しかった。
もっと知らない景色を教えて欲しかった。
もっと彼女の感性に触れたかった。
そして、彼女を守ってあげたかった。
僕はしばらく声をあげて泣きじゃくった。
「落ち着きましたか?」
水滴で包まれたグラスを一気に傾け、アイスコーヒーを飲み干し、ホットサンドを頬張る。
マスターはコップを磨く手元に目線を落としたまま声をかけてくれた。きっと僕への配慮だろう。そういう優しさがマスターにはある。
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「構いませんよ。お代は結構ですので、またいつでもいらしてください」
いつもの優しく深い双眸で僕を見つめ、会釈をする。
僕はそれに習い笑顔を返した。とても自然な表情だったと自分でも思う。
重たい扉を閉め、店を一瞥すると入るときにはなかった「準備中」と書かれた看板が立てかけられていた。
どこまでも温かいマスターの優しさに胸がじんわり熱を帯びる。
扉越しにマスターへ向き直り、僕は深くお辞儀をした。
これから僕のやるべきことはただ一つだ。




