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刃渡り15センチの青  作者: 河合
13/16

第13章

 夏休みも終盤。あの日、彼女が僕の家に来た日から一週間が経った。

 どうやら今晩は三号目の台風が僕の住む街に直撃するらしく、祖父母は昼間から縁側に雨戸と網戸を取り付けていた。台風の日はガラス戸だけでは危険な為、いつもそうしている。   

 僕も祖父母に習い、ポリタンクに水を入れ、庭にある飛びそうなものに重石として乗せる。

 ある程度対策を講じた後、少し遅めの昼食としてそうめんを三人で啜った。

 自室に戻り、新人賞を受賞した時代小説を読んでいると、雨粒が部屋の窓を叩き始めた。最近小説は読む一方で、この一冊が最後のストックになる。

 丁度、最後のページを捲った瞬間に電話が鳴った。

 現実に意識を戻すと、窓は夜で塗りつぶされ、殴りつけるような雨風で強く揺れていた。

 可能な限り無意識に画面を確認する。

『着信 中村奈々』

 安っぽく表示された名前に身体中の臓器が静かに跳ねた。

 あと一コールしたら出よう。あと二コールしたら出ようと逃げ、しばらく鳴り続いた後、電話は切られた。何か急用ならまた掛け直してくるだろうと踏み、再び最後のページを捲った。

 雨音の中、活字を読む集中力には自信がある僕でも携帯電話が気になってしょうがなかった。あとがきの内容は、ほとんど頭からすり抜けていた。

 しかし、彼女のことだ。きっとどうでも良いことに違いない。待てよ、どうでも良い電話なら出ても良かったんじゃないか。

 その思いが消えないうちに携帯を開き、着信履歴から彼女に電話を掛けた。

 一コール、ニコールと電子音が続くに連れ、心音が存在感を露わにする。

「……もしもし」

 無機質な電子音が命を宿し、相変わらず透明な声が鼓膜を揺らす。その声の先に雨音と風音が混ざっているのが分かる。 

「……どうしたの?」

「君の物語のことで、どうしても聞きたいことがあってさ」

 耳に届く声はちょうど今の天気のように不安定な揺れがあった。

「聞きたいこと?」

 雨音と風音が夜の街を叩く。電話越しの音と部屋の音との区別がつかなくなる。

「……君が書く物語の、根暗でひ弱で人間不信の主人公くんはさ。逃げ道、がなくなった女の子が、助けてって言ったら、助けて、くれるの、かなぁ」

「……」

 今にも泣き出しそうな嗚咽が彼女の言葉を不自然に塞きとめる。

 台風の目に入ったかのように、世界が無音になる。

 真空の渦に包まれた僕は答えを探す。

 いや、探す必要はなかった。


 僕は忘れるはずがなかった。

 あの雨の日、図書室での約束を。 

「……今、どこ?」

 僕は携帯電話を強く握りしめた。



 分からない。

 僕が他人のことで頭がいっぱいになるなんて意味が分からない。

 彼女がどうして僕に関わるのか分からない。

 僕の気持ちが揺らぐ理由が分からない。

 彼女が何故自分を傷付けていたのか分からない。

 僕が彼女に怒った日の感情が分からない。

 彼女がその日見せた表情の名前が分からない。

 僕には分からないことばかりだ。


 それは僕が知ろうとしていないだけじゃないのか?

 対人経験の少なさを盾に、ただ逃げていただけじゃないか?

 今日も逃げていいのか?

 自問自答が駆け巡る脳内を無視し、台風の夜の街を走る。閉じたままのビニール傘を左手で強く握り、足の回転量を上げていく。

 大粒の雨で前が見えず、強風で上手く体を操作できない。すでに二回転んだ。

 穏やかだった通学路が僕に牙を向ける。川が氾濫し、水田との境界が分からず、遠回りを三回した。

 ようやく辿りついたそこは、彼女と秘密を共有した場所。校門前。

 そこには僕にとっての台風が傘も差さず裸足で立っていた。


 左右の足の回転量を抑え、ゆっくり彼女に近づく。

 肩で酸素を必死に吸いこむ。

 足の擦り傷が熱を帯びる。

 脳が全身の損傷を僕に伝えてくる。

 その全てを無視して、勝手に口が言葉を吐き出す。

「……何してんの」 

 彼女の二つのつむじはずっと僕を向いたまま動かない。

 一拍置いて顔をあげた彼女は、分かりやすく明るい表情を作った。

「あ、やっときたね? いやぁ、台風の日に二人で抜け出す夜ってのも青春じゃん?」

「……」

「……怒った?」

「いや、さっきの電話の答えを返そうかなと思って」

「あーあれね。あれは……」

「……彼は君を助ける力もない弱い人間だし、君を慰める話術もない人間不信者なんだ」

 彼、僕が書く物語の主人公。彼は彼女の言う通りどうしようもなく怯えていて、傷つきやすくて、社会の中で上手に生きることが出来ない人間だ。まるで僕のように。

 

「……知ってるよ」

 作られた表情をやめた彼女が静かに呟く。

 僕らの間に降り続く雨に負けないような意志だけを残して。

「ただ、貰った借りはちゃんと覚えてる奴だよ」

「……」

「……入る?」

 傘を差し、彼女に向けて傾ける。

 結局、どれだけ考えても彼女にしてあげられることなんて何一つ浮かんでこなかった。

 思い返せば僕は彼女から貰ってばかりだった。

 だったらまずは、それを一つずつちゃんと返そうと僕は思った。

 彼女の頬を大粒の雫が伝って、見えもしない水溜りに波紋を作った気がした。

 その波紋が彼女の張り詰めた糸を優しく切ったのだろう。彼女は声を上げて泣き出した。

 あまり身長差のない僕の肩に頭を倒す。彼女の控えめな重心が僕の体にそっとかかった。

 彼女は僕の右肩で嗚咽交じりに現状と心情を語った。


 彼女は、父親から酷く暴力を受けていた。

  

「ごめんね。お風呂まで頂いちゃって」

 少し篭った声が湯気とともに換気口から僕に届く。

「あのまま風邪引かれても困るしね。湯加減は大丈夫?」

「最高だよ。薪のお風呂ってこんなに違うんだねー」 

「なら良かった。逆上せないようにしてね」

「もし逆上せても君が介抱してくれるから安心だよ。あ、でもそれじゃ裸見られちゃうね。いやーんえっち」

「……風邪の菌が脳にでも入った恐れがあるね」


 風呂から上がった彼女に祖母が冷えた麦茶を差し出すと、遠慮がちにも一口で流し込んでいた。

 食卓には炊き込みご飯と豚汁とほうれん草のおひたしが四人分並べられていた。

 祖父母には事情をごまかしているが、きっと何もかも見抜いているのだろう。その上で暖かく迎えてくれる二人なのだ。

 祖父は彼女が写真部ということを祖母伝手で聞いていたらしく、カメラの話で静かに盛り上がっていた。


「ご飯、本っ当に美味しかったなあ」

 祖母が客間に用意してくれた布団に入り、彼女は反芻するように呟いた。

 僕は並んだもう片方の布団に入り、彼女にどう言葉を掛けるかで悩んでいた。

「……約束、守ってるからね」

 消え入るような透き通った声が部屋に響く。


 約束。彼女が僕と交わした契りは「自分を傷つけない」こと。


 一人の自傷行為を防げているという事実は間違いなく良いことだろう。

 ただ、彼女の行為は軽々しい逃避の一つではなかったと知った。

 夏の部室での会話を思い出す。あの時僕が感じた、彼女が親へ持つ印象は正しかった。

「僕の約束は一回限りの制限付きだったかな」

「もう、意地悪なこと言うなあ」

 隣でクスクスと小声で彼女は笑う。

 彼女の心境を考える度に頭が重く、鈍くなる。

 彼女に宣言したように、僕には彼女を救う力も、心を軽くさせるような話術もない。何もない。

「ところで小説の進捗はどうですか、夏木先生」

「……かなり不味いね」

「あちゃー。私がいないとやっぱりダメかあ」

「うん。君がいないとダメみたいだ」

「あら、やけに素直じゃん。熱でもあるの?」

「台風の夜に外で徒競走をしたせいかな」

「……意地悪」

「冗談だよ。そろそろ寝ないと」

「え、いいじゃん明日も暇でしょ? このまま朝まで話すのも青春っぽいじゃん!」

「明日の予定を決めつけられたことは癪だけど、珍しく目が冴えてるから付き合ってあげてもいいよ」

「隣で可愛いクラスメイトが横になってるから緊張してる?」

「おやすみ」

「冗談だってば! てか、夏休みもう終わっちゃうじゃん。やだなあ」

「相変わらず中村さんの話は急カーブするね」

「だって、高校二年生の夏休みは人生一度っきりだよ」

「何がだってなのか分からないけど、小学五年生の春休みも中学一年生の冬休みも人生一度きりだよ」

「そう言うと思ったよ。でも、もう言いたいこと伝わったでしょ」

「君の思考回路をある程度読むことはできるようになったかもな」

「ふーん。じゃ、私が今何考えてるか分かる?」

「晩御飯美味しかったとかじゃない?」

 一瞬、彼女の知りもしない家族のことが過ぎった。僕にしては上手く対応できたはずだ。

「違うなあ」

「そんなの分かるわけないだろ」

「正解は『早く君の小説が読みたいな』だよ」

 静かな客間に静寂が物体として形成された。今度は上手く対応できなかった。

「そんなこと、今考えるべきことじゃないだろ」

「……今だから君の物語に救われたいのかもね」

「買い被りすぎだよ」

 本当に。僕の書く妄想は、人を救えるほど崇高なものじゃない。

「とにかく、もう時間もないんだしさ。完成したら一番に読ませてよ」

「……もちろん中村さんに一番初めに読んでもらうよ。その責任と義務が君にはある。だから安心して」

「責任は取れないけど、楽しみだなあ。あ、賞獲れたら焼肉奢ってよ。高いやつ」

「考えとくよ」

「てか、さっきカッコつけて傘さしてくれたけど、風でひっくり返ってたよね?」

「こいつ、うるさいな」

 彼女が笑う。

 僕も笑う。


 僕らはどれくらい話しただろう。

 静かな空間に切り取られた僕らは、小さな声で互いの存在を確かめ合うように、ひたすら話を続けた。

 襖の隙間から見える空には朝の色が少し混ざっていた気もするし、鳥たちの声が聞こえた気もする。

 夢と現実の狭間を彼女の声に引き寄せられながら行き来していたかもしれない。

 僕はいつの間にか深く眠っていた。

 僕の意識が再び現実に戻ったとき、隣には綺麗に畳まれた布団だけが残っていた。

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