第12章
夏休みも二週間と半分が経過した。
図書館へ行った日以降、彼女からの連絡はなくなり、僕は充実した日々を怠惰に繰り返していた。
予期せぬことが起きないということは実に平和で、やはり性に合っていた。
それに彼女にはきちんと居るべき場所があり、青春を謳歌する義務がある。僕には彼女自身の青春の責任は持てない。
今日は何をしようか。新刊を買いに行くのもいいし、未読の本を読み漁るのも良い。執筆は夜から始めるとして。
とにかく顔を洗ってから決めようと自室から抜け出し、階段を降りていると一階から笑い声が聞こえて来た。
祖母は社交的な性格のため、よくお客さんが訪れるが、基本は近所のお年寄りがほとんどだ。
ところが今日の来客の声はかなり若く、どこか透明感があった。嫌な予感がした。
「あ、おそよう。夏休みだからって寝過ぎじゃない? ですよねお祖母さん!」
「そうねえ。奈々ちゃんを見習って早寝早起きしてほしいところだねえ」
階段を降りてすぐ右手にある居間。その奥、庭に生える桜の木の木漏れ日が差すなんとも心地よさそうな縁側に、祖母と中村奈々の微笑む姿があった。
「……待って祖母ちゃん。その人不審者だから警察に連絡して。今すぐ」
僕は居間にある子機を取りに行く素振りを見せ、状況整理を試みる。どうして彼女が家にいる? 家の場所は言ってないはずだ。
「不審者なんて。奈々ちゃんはこの前助けてくれた恩人なのよ」
「いえいえ、恩人なんて大それたことしてませんよ!」
「本当に恩人なのよ。あの後帰ったら熱中症の症状が出てねえ。もし奈々ちゃんが手伝っってくれなかったらどうなったことやら」
僕を差し置いて始まった会話に聞き耳をたてる。まだ本調子ではない頭を稼働させながら整理をして行くと、なんとなく点と点が浮かんできた。しかし、それだけでは彼女が家にいる理由にはならない。
「……なんで家にいるの?」
「それはお祖母さんに上がってお茶でも飲みましょうって誘われたからだよ。ついでに君の部屋でも荒らそうかなとも思ってるけど」
「ついで程度で人のプライバシーを脅かすのはやめてくれない? メインでもさせないけどね。じゃあ、お茶も飲んだようだしそろそろ……」
「スイカの時間ねっ!」
「わあっ! ありがとうございます!」
ぽんと手を合わせる祖母と相変わらず大きなリアクションを見せる中村さんの見事な連携プレーにお茶を濁され、僕は言葉の代わりに息を吐いた。
開いた二つのグラスとともに台所へと消えて行く祖母を見送った後、彼女へ僕なりの鋭い眼光を送る。
「佐野くんもスイカ食べるでしょ?」
全く効いていない様子の中村さんはぽんぽんと自分の隣を叩き、僕を招く素振りを見せた。不審者のくせに生意気だった。
天気は晴天のようで、青く生い茂る桜の木のフィルターを通して入る夏日が彼女に差し込んでいた。それに張り合うような笑顔を見せる彼女の誘いに仕方なく乗り、空いている隣に座る。
「……あの日のお祖母ちゃんってウチだったんだね。僕からもお礼するよ、祖母ちゃん無理しがちだから」
僕は彼女が放課後、喫茶店に遅れてやってきた日のことを思い出す。
「ぜんっぜん大丈夫! それにしてもおばあちゃん、元気だねぇ。話してるとこっちまでパワー貰えるよ」
祖母の恩人を無下に帰すと僕の夕飯が危うくなるため、自然に帰るまで付き合うことにした。今回も、まあ仕方がない。
彼女の視線の移動に合わせ、台所でスイカを切っている祖母を見る。背中はもうすぐ八十には見えないほど伸びていて、僕よりも姿勢がいい気さえする。
「それにしても家がどこか言ってたっけ? 不審者さん」
「言われてないよ。さっきカメラ持って散歩してたらおばあちゃんと会ってね、表札見たら君と同じ名前で、まさかのまさかだったんだよ。すごくない? これは運命かも……」
「すごくないし、運命でもないよ。元々この辺りって知ってただろ」
「えー。つまんない思考だなあ。全部私の想定外の出来事は運命なの!」
「じゃあ、君は毎日何かしらに運命を感じてるんだね。それは大変そうだ」
「だってさ、運命って命が運ぶって書くんだよ? だから私が生きてる限り想定してないことは全部命が運んできてくれたものなんだよ」
「言いたいことが分かりそうで全く分からないな。僕は予定通りの方がずっと落ち着くよ」
なんだか彼女の口から生死に関わる言葉が出ることに抵抗があった。
話題の上手い切り替え方を探していると、祖母が切り分けたスイカを持ってきてくれた。きっと探したところで何も見つからなかったので助かった。祖母は彼女に「ゆっくりしていってね」と残し、買い物に出かけた。祖父は公民館に行っているらしい。
「美味しーい! やっぱりスイカには塩だよね!」
「自然そのままのスイカの美味しさを知らないなんて。塩をかけるのは邪道だよ」
「何? 喧嘩売ってる? もしかして目玉焼きにも何もかけないの?」
「うん。あれは黄身と白身でもう完成してるんだからわざわざ壊す必要がないよ」
「うっわ。目玉焼きには塩をかけないといけない法律知らないの?」
「どこの国の法律?」
「パプアニューギニアらへん」
「知らねーよ」
何かが彼女のツボに入ってらしくケラケラと笑い始めた。
笑い方が可笑しくて僕が少し吹き出すと彼女の動きが止まり、こちらを凝視してきた。
「あ、今笑った」
「嘲笑ったが正しいかな。君が滑稽だったからさ」
「いえーい! 佐野くん笑わせた!」
食べ終わったスイカをお盆に乗せ、万歳するように両手をあげ仰向けに倒れこんだ。
いつの間にかケラケラという笑い声はニヤニヤした笑顔に変わっていた。
「僕には君の感情のスイッチがわからないよ」
彼女に聞こえる程度に息を吐くと、それと同じくらいの音量で彼女が僕を呼んだ。
「寝転がると風が気持ちいいよ。ほら腕枕してあげるから、おいで?」
「寝転がっても起きてても風は変わんないよ」
いつかの喫茶店の仕返しのつもりだろう。僕を試すような表情が癪に障るが、もう乗ってあげる気もない。
スイカの皮が乗ったお盆を台所に下げるため立ち上がろうとすると、突然重心が揺れた。
彼女にシャツを引っ張られることを予測していなかった、気付いたときには僕の頭は彼女の左腕に触れていた。少し遅れてお盆が落下する。体温が頬と耳に集まるのを感じる。
咄嗟に立ち上がり彼女を見た。
表情は真剣なのか戯けているのか僕に分かる訳もなかった。ただ、頬はいつもより赤に染まっていた。
自分の感情が突然大きく揺れ始め、正しい着地点を探している。
「……もう、いつもの冗談だよ。何焦ってんの?」
彼女の表情が切り替わるのを視認した。いつもの表情の彼女に言われ、なんだか自分だけが置いていかれた気がした。
どうしてか、熱が胃からこみ上げてくる。顔は急速に温度を上げる。
「……帰ってくれ」
声が震えている。感情を音量に乗せることはせず、怒りを押し殺した。
どうして自分にこの感情が湧いてきたのかは分からない。いつもの彼女の悪ふざけと何も変わらないはずだった。
彼女を見ると表情が次々に入れ替わり、止まったかと思えば、それはとても悲しい表情だった。
「……ごめん。帰るね」
言うと、すぐに起き上がり脇目も振らず玄関へ走って行った。
彼女の声も震えていた。何を押し殺しているのかは分からなかった。
僕は改めて思う。人と関わることは僕にとってどんな問題よりも難しい。
彼女との関係に慣れた気になってしまった自分を責める。
きっと、僕は中村さんに彼女らしさを求めてしまった。先ほどの一連の流れは僕の知る彼女ではなく、クラスの連中に囲まれている時の彼女である気がした。
だから僕は、急激に距離を感じ、その感情の落ちどころが怒りだったのだろう。
そして、僕は僕自身が彼女を定義付けしていることに腹が立った。僕にその権利はあるはずがない。
彼女の震えた声が耳に残り、鳴いているはずの蝉の声も、乾いた風の音も、子供たちの遊び声も、何も聞こえなくなった。
それは、雨の日に小説を読んでいるときに似ていた。
それから自室に戻って、文庫本を手に取った。
僕の感情なんてやはり活字の中で小さく揺れ動くくらいが丁度良かったのだ。
まだ高い体温と止まない心音を小説の中に押し込み、そのまま物語に没入した。
それからまた一週間が経った、彼女からの連絡は一度もなかった。




