第10章
夏休み三日目。午前十時過ぎ。
僕は、彼女のせいですっかり気に入ってしまった、いつもの喫茶店のカウンター席に座っていた。
喫茶店を一人で訪れたのは僕の気まぐれで
、普段の僕なら避けるだろうカウンター席でコーヒーを待っている理由は、店主の大倉さんに上品な所作で誘導されたからである。
「お待たせいたしました」
穏やかでコーヒーのような深みある声が優しく響く。それと同時に僕の前に、グラスが氷の音を鳴らして置かれた。
「よかったらこれもどうぞ」
高級そうな包み紙に包まれたチョコレートらしきものが二粒、ミルクとともに小皿に乗ってグラスの隣に並べられる。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
目線を上げてお礼を言うと、安心感のある笑顔を浮かべる大倉さんと目が合う。改めてこの喫茶店に心地よさを感じた。
「よく彼女もこの席に座るんですよ」
彼女。そう言われて頭に浮かぶのはただ一人だった。
「そうなんですね。ここの雰囲気を壊してないといいですが」
ショッキングピンクのスマホカバーが頭に過ぎる。
「ふふ。私にはとても静かな印象がありますよ。ここ最近は、また少し変わりましたが」
コーヒーカップを拭きながら言う大倉さんの言葉に、僕はアイスコーヒーを器官に入れ、咳き込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。うるさくしてすみません。僕の印象と百八十度違ったので」
店内の奥を見渡すが、視認できたのは女性客一人の後ろ姿だけだった。心の中でお詫びし、大倉さんへ意識を戻す。
「その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」
僕は声を潜める。
「ええ、構いませんよ。彼女が初めてここを訪れた日のことはよく覚えています。あれは春の終わりの大雨の日でした」
大倉さんは手に持っていたコーヒカップを後ろの棚にそっと戻し、話をしてくれた。
雨足が強まり、辺りが暗くなってきた頃、ずぶ濡れで店内に入ってきた彼女を心配し、タオルとホットコーヒーを差し出したということ。何度話しかけても無言で、首を縦か横に振るだけで、声を聞いたのは店を出るときのお礼だけだったこと。その日以来ここへ通うようになり、本を読んだり宿題をしていて、多少の会話をするようになったことを丁寧に話してくれた。
僕は、何も言葉を発せないでいた。
話を頭の中で咀嚼することに時間がかかっているようだ。
「ですが、梅雨が終わる頃には雨雲が消えたように、彼女も晴れやかな顔つきになりましたよ」
梅雨の終わり、僕が彼女と出会った季節。
もうかなり前のように感じる、僕が中村奈々という台風に巻き込まれたあの日を。
「僕にとって彼女は台風みたいなものです。僕はただの被災者です」
「……」
大倉さんの表情が止まる。数秒後、彼は先ほどの僕の女性客への配慮を蔑ろにするほどの声量で笑い声を上げた。もちろん紳士らしさは保ったまま。
「失礼致しました、実にユニークな表現でしたのでつい」
「いえ、僕は大丈夫ですが……」
僕が女性客に視線を送ると、勢いよく立ち上がった。嫌な予感がしたので、彼女に鍛えられて少し成長して瞬発力で正面を向き直し、アイスコーヒーに口をつける。
「店長、うるさいです!」
僕の嫌な予感は見事に的中した、かのように思えた。
「いやぁ、申し訳ない。お客様もいないし、つい、話が盛り上がってしまってね」
「もう! まかないにパフェつけてくれたら許してあげます」
「ふむ、スモールサイズでいいかな?」
「え、いいんですか!」
「構わないよ。邪魔しちゃったでしょ」
自分の予想していた展開とは大きく違い、ついグラスから口を離した。大倉さんと話す女性に目を向けると、以前ここでグラスを運んできた同い年くらいの女の子だった。
「そういえば、貴方も小説を書かれていましたよね?」
会話に取り残されている僕の時間差を埋めるように大倉さんが声をかける。あいつ、僕のことも話してるのかよ。
「……え、貴方も?」
「ええ、実はこの子も物書きでして、先ほどもそこの席で書いていたんですよ」
心臓が小さく跳ねる。
数秒前に含んだ冷たい苦味が口腔内で急速に乾いていく。
どの種類の感情が原因か分からないので、抑揚を抑えて口を開く。
「そうなんですか?」
「はい! 申し遅れました。この店でアルバイトをしている神谷咲と申します。よろしくお願いします、佐野先輩」
礼儀正しく、こちらを向き直して頭を下げる彼女。
紺色のワンピースに身を包み、腰元に大振りなブラウンのベルトを巻いたロングヘアーの彼女はどこか雰囲気がふわりとしていた。お洒落に無頓着な僕でも彼女が身なりに気を使っていることが伝わってくる。
整った顔で会釈をされ、どうしようもなく目を逸らしてしまう。
「ん? 先輩? それにどうして僕の名前を?」
「私、先輩と同じ高校の一年生なんです。図書委員をしていて、貸し出しの名簿を何度か受け取っているからですよ」
僕の学校では図書室は常に自由解放されていて、図書委員の仕事は時間が昼休みのみと限られている。
本の貸し出しもその時間帯以外行えないルールで、借りる際は本の題名、学年、組、名前の欄がある名簿に記入し、図書委員に渡す必要があった。
どうやら僕は彼女に名簿を渡したことがあるらしい。全く覚えていない自分に感心する。
「それにしても僕の名前なんかよく覚えてますね」
「それは先輩が借りていく本が、私の好きなものばかりだったので」
「そうなんですね。最近だと、詩歌のシリーズとか……」
「もちろん読みました! あの作家さんの中ではあまり有名ではない作品ですけど、私は隠れた名作だと思ってます!」
神谷さんが食い入るように足を半歩前に出す。サンダルのヒールが高い音を鳴らし、長い漆黒の髪の毛がふわりと揺れた。
「僕もそう思います」
「良かったら少しお話しませんか?」
「あ、ええっと」
僕が視線を彷徨わせていると、そこに助け舟を出すかのように大倉さんが手を鳴らした。
「よかったら佐野くんもパフェを食べて行ってください。お代は気にしなくていいですから」
「いや、それは悪いですよ」
「でしたら、佐野くんの小説が完成した暁には、私にも読ませてもらえないでしょうか? それをパフェ代とするのはどうです?」
「ええっと、そこまで言って下さるなら……」
僕が折れると、大倉さんは効果音が聞こえてくるような笑顔を見せてくれた。
「テーブルの席に持っていくからそこで話の続きをどうぞ。邪魔をして申し訳ありません」
「行きましょう、先輩!」
「あ、うん」
店長と神谷さんに促され、足元のリュックを手に、奥のテーブル席へ移動した。
「突然熱くなっちゃって、すみません。ずっとお話してみたいと思ってたもので」
「いえ、僕も本のことを話せる人は少ないので」
少ないじゃなくて一人でしょ、と頭の中で中村さんが鼻を鳴らす。
「あっ、テーブル片付けるので、ちょっと待ってくださいね」
そう言いながら長い髪を耳にかけ、机の上に散らばった原稿用紙と話に上がっていた作家の小説を要領よく整理し始めた。
思わず原稿用紙に目が釣られる。
「神谷さんはどんな小説を書かれているんですか?」
僕はどうしてか恐る恐る彼女に聞いた。これからの会話で、自然とその話題になることがなんだか怖く、勝手に口走っていた。
「先輩、私後輩ですよ?」
「……あ、自己紹介がまだでしたね」
「そうじゃなくて!」
「はい?」
「敬語やめてください! 先輩は先輩なんですから!」
「あ、う、うん。神谷さんがそう言うならやめるよ」
「さん付けも入りません。神谷か咲と呼んでください!」
なんだか聞いたことがあるようなセリフだった。この子はあいつとは違って話を逸らしても効果はなさそうだけど。
仕方なく僕は返答の最適解を考える。
「じゃあ、咲ちゃんでいいかな?」
「はい!」
他人を呼び捨てにすることはどうしても苦手であり、名字にちゃんを付けるのはは軟派な気がして、名前に敬称というところで無理やり落ち着けた。
「話を戻すけど、咲ちゃんはどんな小説を書いてるの?」
神経が過敏になっているのか、背中の汗が恐ろしいほど冷たく感じた。僕から話を切り出すことで、一刻も早くこの話題を終わらせたかった。
「中学生の頃からずっと甘酸っぱーい小説ばかり書いてますよ。やっと高校生になれたので、リアルな高校生活を書けるのが楽しみなんです!」
再度、心臓が静かに跳ねた。この感情の名前は知らない。
「先輩も青春系の小説ですか?」
「ああ、うん。そうだけど、柄じゃないでしょ」
ぎこちなく口角を上げる。呼吸を意識的に操る。心拍数の安定に努める。
彼女は真っ直ぐに僕を見つめて「そんなことありません」と言い、足元にあったカバンを膝の上に置いた。
「それだったら、これ、知ってます?」
落ち着いた白のカバーのスマートフォンを取り出し、僕に画面を向けるようにそれを差し出す。
『副賞百万円』と大きく書かれた、とある文学賞の応募ページだった。見覚えはもちろんあった。
額と首裏から粘着質な汗がじわりと滲み出ていく。理由は全く分からない。
「私、去年からこの文学賞に小説を応募してるんです。ま、去年は一次で落ちましたけどね。良かったら先輩も応募しませんか?」
「ああ、それなら僕も元々この文学賞に向けて小説を書いてたんだ」と脳が文章を生成するのに、どうしてか声が出てこない。
自分の体が他人に操作されている気分になる。胃から得体の知らない感情がこみ上げてきて、僕はそれを必死に我慢する。
「……僕は遠慮しておくよ。趣味でやってるだけだからさ」
「そうですか……」
「いい報告を待ってるよ」
会話の隙間、なんとなくお互いの無言が続きそうだと思った矢先、タイミングよく大倉さんがナポリタンと以前食べた桃のパフェを二つ、トレイに乗せて運んできてくれた。
最小限の音を立て、テーブルにそれらが並べられる。
「まかないってことはこれからバイトなの?」
気まずい空気の中、年下の女の子に口火を切らすわけにもいかないので、たわいもない話題を彼女にパスする。
「はい。家にいるとダラダラしちゃうから、バイトの時間までここで小説を書きながら待機してました」
咲ちゃんは「食べてもいいですか?」と僕に聞いた後、フォークで器用にナポリタンを巻いた。
「じゃあ、絶好の職場環境だね。店長さんも優しい方だし」
「はい! 風情ある喫茶店でアルバイトするのは憧れだったので、とても楽しいですよ! ここだと学校にもバレないので」
大きな笑顔を惜しみなく見せる彼女は眩しかった。彼女が書く青春は、きっと中村さんをいとも簡単に唸らせることができるだろう。
それからの話題は例の詩歌のシリーズ物の小説になった。僕は相槌を打つことに時間を費やした。
「あ、そろそろバイト始まっちゃいます」
テーブルの上で光る彼女のスマートフォンには11:48と表示されていた。
店内はまばらだが少し賑やかになっている。平日のお昼頃、喫茶店は忙しくなる時間帯だろう。
「ああ、ごめん。小説書く時間奪っちゃったね」
「いえ、謝らないでください。先輩と話すのとっても楽しかったです!」
「そんな特殊な人材なかなかいないよ」
「ほんとです! あ、よかったら連絡先教えてもらえませんか? 小説が好きな子が周りにいなくて……」
僕は少し戸惑う。
会話は良くも悪くも回数を重ねているため、抗体が成長しているようだが、連絡先の交換という儀式はほぼ未経験と言ってもよい。祖父母とは、共に四苦八苦しながら電話番号を登録し、彼女に至っては個人情報を奪われただけだ。
「大丈夫だけど、あんまり連絡手段としては使ってないよ」
「構いません」
即答する彼女と目が合う。彼女の時間が迫っていることにも後押しされ、仕方なく右ポケットから愛機を取り出した。
帰り道、商店街を歩く僕の足取りは『神谷咲』という新しい連絡先分だけ重かった。
中村奈々と初めて会話した日を頭に浮かべる。ノートの奪還に失敗した後、家に帰った僕は一気に疲れに襲われ、日が沈む前に寝てしまったはずだ。
それに今日は得体の知れない感情にも体を蝕まれた。僕を疲弊させるには充分だった。
商店街を出てからは追い討ちをかけるように、照りつける太陽が僕を刺した。
暑さを紛らわすためになんとか頭を働かせる。
自然と浮かんできたのは、僕の吐いた虚言についてだった。嘘をついた真意は自身を俯瞰して見ても解らなかった。
……彼女なら知っているのだろうか。
僕は右ポケットから愛機を取り出し、片手で開く。うなじで直射日光を受け止めながら、新規メール作成画面を表示した。
宛先は中村奈々、要件は図書館へのお誘いである。
彼女は僕なんかからのお誘いを期待しているのか、星を見に行った日以来、彼女からの連絡は途絶えた。
本文を入力し、削除を繰り返す。
電話で要件を手短に伝える方が楽だろうが、なんとなく彼女とは文章で繋がっていたいという曖昧な感情が僕にメールを打たせている。
どうして僕が彼女を誘っているのかという疑問は、考えるだけ野暮だった。
『君の見聞を広げる手助けをしてあげるから図書館へ行かない?』という彼女に言わせたら僕らしい文章を打ち込んでみたが、送信のゴーサインは出さなかった。彼女にはもう自分を取り繕う必要はないと、あの星を見に行った日の僕に言われた気がした。
それからは親指に任せて電子音を鳴らし、迷う間も無く送信した。
「そういえば佐野くん。あんなストレートな誘い方するんだね。びっくりしたよ」
夏休みが始まって丁度一週間が過ぎ、宿題の進捗状況を互いに報告し終えた後、彼女は炭酸が吹き出すようにそう言った。
思ったより少し大きめの声が出てしまったようで、そしてそれが公共の交通機関にはふさわしくないと分かっているだろう彼女は車内をはっと見渡していた。僕は、僕より少しだけつり革との距離が遠い、右隣の彼女を一瞥する。
白のTシャツとチェックのロングカーディガンにデニムのショートパンツを合わせ、いつもの水色のリュックサックを背負った彼女はいつもよりどこか上機嫌のようだった。首に掛かったフィルムカメラもこの車内に似合っていた。
僕らは海水浴場を終点とする、なんとも夏らしい電車に揺られていた。
僕も視線だけ彼女に沿わせたが、夏休みに浮かれた車内は子供連れの家族が大半を占めていて、それぞれで賑わっていたため、誰もこちらを咎めるような視線は送ってこなかった。
僕が彼女に対しての返答を考えていると、弱冷房の車内に目的地を告げるアナウンスがゆるりとした口調で流れた。
僕らは目を合わせ、次の駅で降りるという確認をし合う。
右足が躊躇いがちに電車を降りると、すぐにだらりとした暑さが全身を覆った。今日は質量を感じるほどに暑い。
電車の扉が閉じ、涼を完全に失ってから僕らは駅構内の階段を登った。
話題を逸らしたり、状況が変わったりすると、彼女は数秒前の会話を忘れるということを知っている。頭が悪いわけではなく、回転が速いせいだろう。
このまま改札を抜けた頃には彼女は先ほどの話題を忘れ、また別の話題になっているだろうと踏み、無言のまま切符を通したが、僕の経験則は外れた。僕より後ろで改札を抜けた彼女は、早足で僕の隣に並んだ。
「さっきの話だけどさ。あのメール、佐野くんらしくなくて、なんか笑えたよ」
彼女の言う『佐野くんらしさ』とは一体どんな定義域なのだろう。
「そうかな? 端的に要点だけ抑えてるし、僕のノートのとり方には似てるよ」
「へぇ、こんな風に書いてるの?」
そう言って、彼女はスマートフォンの画面を僕に見せつけてきた。
鮮明な液晶には、昨日僕が送ったメールの受信画面が開かれている。もちろん想定内だ。
内容は『会って話がしたい。君の都合がつく日に図書館へ行かない?』という簡単なものだった。今思えば、話がしたいと言いながら、場所を図書館に指定しているのは不相応であると気がつく。
しかし、彼女が笑えた理由はそこではないらしい。
「実に端的で、分かりやすい文面だと思うけど」
「そうだけどっ。君はもっと得意な変化球をふんだんに使ったお誘いメールをしてくると思ってたからさ」
だから直球すぎる文章に違和感があった、ということのようだ。
「あ、もしかして話がしたいのに誘った先が図書館ってとこに何かオツな解釈があるのかな?」
そんな解釈全く存在していない。
そしてこれは僕を挑発している声ではなかった。きっと純粋な疑問を僕に投げかけるときの彼女の声だろう。
「……確かに話すには不適切な場所だね」
「え? もしかして凡ミス? 君が? うっそ。めっずらしー」
基本目線は下を向けている僕の視界にうざったい表情の彼女が潜り込んできた。
「僕がもしガムを噛んでいたら君の顔に着地していたかもしれないよ」
「ダメだよ! ちゃんと包み紙に包んで捨てないと」
「うん、ガムは好きじゃないから大丈夫」
「確かに君がクチャクチャしてるの想像つかないや」
返答する必要があるかどうかさえ曖昧な会話はいつしか途切れ、二人の足音が際立って耳に届く。
「それで話したいことって?」
図書館が視界に入ったタイミングで彼女が口火を切った。彼女は相変わらず今の瞬間まで忘れていたのだろうか。
僕はあの感情の名を知りたくて、彼女を呼び出した。きっと中村さんなら知っているんじゃないかと思った。
しかし、僕は自分の意表さえも突くように、関係のない言葉を並べ始めた。
「……ああ、ええっと。それは化学の課題の件だよ。確か中村さん、化学得意だったよね」
「ふーん。じゃあ、後で見てあげる」
どこか鋭利さを含んだ声で彼女は素直に聞き入れ、また踵の音を鳴らす。
それからは市営図書館の自動ドアをくぐり、つい「涼しいいいい」と声が漏れるまで、彼女は口を開かなかった。
十八時二十分、僕らは何の滞りもなく宿題の残りを片付け、僕の化学のワークが一通り進んだ頃に閉館を告げるアナウンスが静かに響いた。彼女は初めからほとんど宿題を終えていたようで、途中からは本の虫になっていた。
閑散とした図書館を出ると、帯状の雲が薄く広がっていて、空全体が赤らんでいた。
「それで話たいことって何?」
夕方の生ぬるい空気を縫うように透き通った風が吹いた。
言葉の意味を理解することと返す言葉を用意することに時間がかかり、僕は硬直する。
どこか存在感が静かだった理由の確信を得た。彼女は初めから僕に違和を感じ、これまで泳がせていたようだ。
「だからそれは」
「化学のことじゃないよね? 嘘ついてた」
そんなつまらない嘘はつかないよ、と言ったつもりが僕の声帯は音を発していないようだった。
彼女のまっすぐな瞳が僕の目を貫く。普段おどけている彼女の真剣な瞳は刃物のような鋭かった。
つい「お手上げだ」のポーズを取りそうになったがなんとかそのエネルギーを吐き出し、大きく息を吸った。
それから昨日、僕がついたもう一つの嘘と名前も知らない感情を話した。
「それはただの自己防衛だよ」
彼女が歩道の脇にある盛り上がった部分を歩きながら言った。
「……自己防衛?」
「君はその咲ちゃんが自分より優れている可能性が怖かったんだよ」
「何を言ってるの? 僕より優れた人間なんて溢れるくらいいるし、僕はそれを自負している自信もある」
「君は生きることに手を抜いているからね。ただ、小説に関しては違うでしょ」
なるほど、と素直に感心した。小説以外で僕は生きることに手を抜いているのか。確かにその表現は的を射ているかもしれない。
「……実感はないけど、君が言うならそうなのかもな」
「えっ、どうしたの? しおらしくて気持ち悪いな」
彼女が僕から二歩離れ、大きくリアクションをとった。
「自分の自覚していないことを理解することは結構難しくてね」
「だから素直に聞き入れるんだね」
「自分の感覚では違ってたとしても、君が言ったことは意外と正しいと頭で判断してるから。ただ、その擦り合わせが厄介だ」
「合理的判断ってこと?」
「そう」
「ふふっ、佐野くんらしいね」
つまり、僕は咲ちゃんが自分より小説が上手だということを恐れ、同じ土俵に立つことすら嫌で、見て見ぬ振りをした、ということだろうか。
それにしても、どうしてそんな感情が僕の中に生まれ、行動にまで影響を及ぼしたのか。そこが全く見当がつかない。
「君はなんで小説を書くの?」
僕に思考する時間をくれていたのだろう、駅までの道中閉ざされていた彼女の口が言葉を投げた。
「前にも言っただろ。僕にできることは小説くらいで、あわよくば副賞をもらいたいだけだって」
「……やっぱり」
「な、何?」
「本当にあの日のこと忘れてるの?」
「……あの日?」
彼女は大きく息を吐く。まるで事件を解決した探偵が、犯人の名を告げるように。
彼女は僕の正面に回り込み、体をこちらへ向けた。一度空を見上げた彼女は大きく息を吸い込む。
「君は星を見に行ったあの夜、あの坂の上で絶対小説家になってやるって言ってたんだよ。びっくりするくらい大声で。それが君の知らない君の本心」
夏の乾いた風が空へ吹いた。
彼女の声は相変わらず一点の濁りもなく、ただ純粋に僕の耳に真実を届けた。
帯状に広がる雲の隙間から顔を覗かせた鋭い夕日が彼女越しに僕を突き刺す。まるで中村さんに後光が差しているように見えた。
その光は僕の記憶域にかかっていた霧さえも晴らしていく。
そうだ。確かに僕はあの日、そう叫んだ。
僕は一度表に出した心の底にある核の部分を知らない間にまた埋めていた。
思考と感覚が最短距離で結ばれていく。
僕は彼女の言う通り、あの夜の星の輝きより儚い小さな光が、誰かに消されるのが怖かったんだろう。
僕なんかより希望に溢れた月のように眩しい誰かに、六等星のような僕の小さな光が塗り潰されることを恐れていた。
そうして自分の本心を守ろうと、光の届かないほど暗い底にそれを隠し、咲ちゃんにも嘘を吐いたんだ。
太陽が再び薄い雲に隠れ空全体に赤を滲ませる。
中村さんは正面に立ったまま、僕を静観している。きっと僕の思考がまとまるまで待ってくれているのだろう。
僕にとっては中村さんの方がよっぽど辞書のように思うことがある。
僕が知らない僕自身の感情でさえ、彼女はいとも簡単に読み解き、答えを教えてくれる。
「君には教えてもらってばかりだね」
「最初から言ってるじゃん。君に青春を教えてあげるって」
「……ありがとう」
「……え、怖い怖い。突然マジになんないでよ。びっくりしちゃうじゃん」
顔の前で手を大きく動かす彼女から見て、今の僕は「佐野くんらしい」のだろうか。
きちんと本心から言葉が出る今の僕に、初めて僕は僕らしさを感じていた。




