だってお顔がとてもよろしいので
おひさしぶりになってしまいました。
タイトル通りの阿呆話です(笑)
頭からっぽでお読みくださいませ。
「でも、貴女は許してくれるでしょう?」
目線を合わせることすらせずその言葉を告げた婚約者の唇が艶めかしく動き弧を描く。
この方の笑顔はまるで薔薇の花のようだ。
その様に、セリーンは震えた。
硬い表情のセリーンと彼は、ただ猫足の錬鉄製のテーブルを挟んで向かい合わせで座っている。広い庭園を一望できるよう設けられたサロンにふたりだけでいるのに、まるで各々別の次元に存在しているかのようだ。
大人しく座りながらもカップに手を伸ばすこともできないほどの激情を胸に抱え込んだセリーンとは違い、それほど静かな様子でいつも通りユリウスは口元へと紅茶を運んでいた。
ハーバー伯爵家の庭は、ひとつふたつと咲き始めた薔薇が放つ香気でいっぱいだった。
すこしだけ花開いた状態であっても、薔薇の花は濃厚な香りを放つ。
まだ葉の色の方が目立つ庭ではあったが、だからこそ、その庭先に座るユリウス・ハーバーという男が咲き誇っているようにセリーンには見えた。
夕べ行われた舞踏会。予てよりの約束通りエスコートはしてくれたものの入場から僅か数秒で、ユリウスは婚約者であるセリーンとは違う美しい伯爵令嬢の手に口づけを贈っていて、そのままボールルームの真ん中へとふたりで歩いて行ってしまったのだ。
置き去りにした婚約者である男爵令嬢へなど、一瞥もくれないままだった。
セリーンが貴族になったのはつい最近だ。ダンスは一応踊れるけれどあくまで資産家の平民レベルでしかなく、貴族しか参加していない正式な舞踏会で伯爵家の令息の婚約者として堂々と披露できるほどの名手ではない。
だからといって「みなさんの視線を浴びながら転んだりしないで、恥をかかなくて済んでよかったでしょう」と言われても納得できる訳はない。
結局その後も婚約者は一度もセリーンのもとへと戻ることもなく、知り合いのいない舞踏会で最後まで壁の花になり続けていたのだ。
婚約者と踊っていないのに他の男性からのダンスへの誘いを受けることなどできる訳もない。
かといって、美味しそうなオードブルを見ても正式なコルセットはとにかく苦しくて、余計なものなど口を湿らせる程度の水分以外を受け入れられもせず味見すらする気になれなかった。
親しい友人がいる訳でもなく、婚約者の男性と踊っても貰えないで立ち尽くす姿を晒していたのだ。恥なら十分すぎるほど掻かされた。
先祖代々、平民地主でしかなかったラートン家の所有する山から銀が採れることが判明したのは、祖父の代でのことだった。
その産出量はかなりのもので国庫を豊かにした報奨として、父が事業を継いだことに合わせて、半年ほど前に男爵位をいただいたのだ。
つまり、ラートン家は成金である。出たのは銀だったが。
そして、男爵位を頂いたのとほぼ同時に受けたのが、目の前にいるハーバー伯爵家の次男であるユリウス様との婚約。それも男爵家への婿入りの申し入れだ。
ちなみに、セリーンはひとり娘ではない。
2つ下の嫡男たる弟が存在しているが、書状に書いてあったのは伯爵家から男爵家への婿入りの申し入れだった。
目が覚めるような、すがすがしいまでの金目当ての政略結婚だ。
貴族として、貴族たるべく暮らしていくことを矜持としているハーバー伯爵家であったが、ここ数年、領地経営は難航していたらしい。
それは天候不良が続いて農作物や畜産物の収穫量が減ったことで税収が減ったにも関わらず、それまでと同じレベルの暮らしを続けたことが原因かもしれないし、領民の収入も減りすぎて生活費を稼ぐためにとこっそりと働き盛りの男たちが出稼ぎに出てしまうことが増えたせいもあるのかもしれない。女子供に老人ばかりでは農地は広がらないし、崩れて通れなくなった道や橋は直せないのだ。そうしてそれが続けば、収穫量はどんどん右肩下がりに落ちていき、ハーバー伯爵家自身の収益も落ちていくことになった。
それでも貴族らしい派手な生活を送り続けることをやめられずに、国へ納める税金の減免処置まで受けておきながら自身は借金で生活をしていたようだが、そうして作った借財のすべてを自力で返さなくともすむ方法を彼らは見つけたようだ。
『爵位を受けてしまった以上、高位貴族である伯爵家からの申し入れを、男爵家でしかない我が家からお断りするのは難しいと思う』
逆に言えば、爵位さえ受けていなければこんな家の乗っ取りでしかない婿入りの話を受けることもなかったのだとセリーンの母は嘆き、父からは謝られた。
いまだ貴族らしい横の繋がりも縦の繋がりも、まったくラートン家は持っていなかった。
商いにおける繋がりとはまったく違う、爵位という厳格な枠組みに怖気づいてしまったこともある。
断る手立てがわからない。完全にお手上げだった。
では家督を奪われそうになっている弟はどうしているのかというと、実は喜んでいた。
弟シリルは、長女であるセリーンほどの商才はなかった。機を見ることもできなかったし、商いの為に人との繋がりを得るための方策についてもまったく興味が持てなかった。
ついでにいえば家を継ごうという気概もなく、『せっかく爵位を得たからには騎士になってこの身体ひとつで身を上げてみせる!』と口にして憚らない、筋肉バカである。
爵位を受ける前から、『アイツにできない訳はないと思うんだがな。やる気のない奴の下で働く者たちが可哀想だ』と父はよく言っていた。
かといって女であるセリーンに任せるつもりがあったとは誰も思わなかった。
だから結局は、シリルは騎士になることを諦めさせられて父と一緒に事業を営むことになるのだとセリーンも思っていたのだが、ここにきての大転換となってしまった。
ただし、上位貴族である伯爵家に楯突くことになろうとも、ラートン家にはどうしても譲れないものはあった。
『婿入りしても家業については口を出さない』唯一、この一点だ。
金目当ての相手に対して飲ませることが難しいと思われる条件だった。
しかし、話し合いの席でハーバー伯爵はあっさりとそれを飲んだ。
そう。ハーバー家としては、あくまで金目当てなのだ。
面倒くさい事業のあれこれについて口出しをするつもりはなかった。貴族たるもの汗水たらして働くべきではないと考えていたのだ。
高位貴族がするべきなのは、領地を統治すること。
労働は、せいぜい下級貴族までの者がするべきあれこれなのだそうだ。
融資という名の上納金を納めろという契約なのだと理解したラートン家というよりセリーンの割り切りは早かった。
令嬢らしくないと言われようと、つい先日まで平民だったセリーンはお金が好きだった。
お金そのものも好きではあったが、それ以上に稼ぐことにゲーム性を見出していた。
効率よく、よそにはない新しい着眼点で商売の目を見つける。それが喜びだった。
本当ならこの手で経営に携わってみたいと何度も夢みた。
跡取りとしては弟がいたので取引先のどこかへ嫁入りして、ラートン家と業務提携するのもありだなどと夢を見ていた。
幼い頃から祖父の後ろをどこでもついて廻っていたセリーンは、鉱山という荒くれ者の集まりの中で、まるで孫娘のように可愛がられて育ってきた。
ラートン家の銀山は富を生む場所というだけではなく、セリーンにとって大切な場所であり、これからもっと発展させていきたいと願っていた場所であった。
お金があればもっと効率よく産出できるし、精錬できるし、加工もできるようになるはずで、輸送路の整備など、手を付けたい場所はいくらでもある。
その経営に携わるチャンスを手に入れたのだ。
上納金は出ていくことになるが、上位貴族である伯爵家と繋がりを持つことは、新興の男爵家として新規販路を求めるよりもやり易い場合もあるだろう。
だからこの婚約自体にセリーンはそれほど嫌悪感はなかった。
まぁ正直なところこの強引な婿入り話がなかったとしても弟自身が放棄してセリーンの手元へと転がり落ちてきそうではあったのだが。
「セリーン?」
返事を催促するように名前を呼ばれて顔を上げると、そこには今日、初めて視線が合った婚約者の笑顔があった。
ユリウス・ハーバーは、控えめに言って屑男である。
学園を卒業し、成人してから5年間、一度も働いたことはない。
浮気についても、ラートン家に確認できているだけでご令嬢といわれる相手が2人、未亡人が3人、商売女は片手では足りないほどの人数がご贔屓を名乗っている。
昼過ぎに起きて、午後のお茶を令嬢と過ごし、夕方~夜を未亡人と過ごすか紳士クラブでカードゲームに励んで、深夜に自宅へと帰らず商売女のところへと転がり込む。そんな生活をしているのだ。
まさに絵にかいたような屑男だが、それだけではない。
それだけの女が金を持っていない彼に纏わりつくのには勿論理由がある。
そうしてそれは、セリーンに対しても有効だった。そう、とても。
「……えぇ、そうですわね。勿論ですわ、ユリウス様」
セリーンがそう答えると、ユリウスは満足そうに小さく頷くのであった。
◇◇◇◇◇
「ねえ、セリーン様。いい加減、尻に敷くなり、首根っこ捕まえて奥歯ガタガタいわせてやるなりなさった方がよろしいのではなくて?」
はんなりとした口調からこぼれ出たとは思えないほど、あけすけな言葉に思わずセリーンは飲んでいたお茶を噴出した。
ケホケホとせき込んでいると、丁寧に刺繍が施されたハンカチがそっと差し出された。
「ありがとうございます。でも、こんなに美しいハンカチに落とせない染みをつける訳には参りませんわ」
「大丈夫よ。染みができるようなら全体をもっと濃い色のもので煮て染めるだけだもの」
伝えられた大胆過ぎるカバーの仕方に思わず笑みが漏れた。
「マリエ様は本当に面白い御方ですわね」
そうして、ふたりで顔を見合わせると同時に噴出した。
「もう! せっかく令嬢としてのお茶会だったのに。マリエ相手では、頑張って準備したテーブルセッティングが台無しよ」
「あら。私のせいなの? でもお互いに付け焼刃なんだもの、仕方がないじゃない」
マリエの父は、騎士団で副団長に抜擢されたことによりラートン家と同じ叙勲式で騎士爵から男爵の位を与えられた。つまりこのふたりは同じ日に男爵令嬢となったのである。その縁により、こうして交流会を開き情報を交換したり、マナーを確認しあったりするような仲となった。
この国の成人は18歳だ。ふたりとも来年にはデビュタントを迎えねばならないのだが、新興貴族が雇える家庭教師を妄信するというのは実に心もとない。そこでお互いに特訓の成果を確認し合うことにしたのだ。ふたりはいわば戦友であった。
「この程度の染みがついたって機能が変わるわけじゃあるまいし。なーんで捨てなきゃいけなくなるんだろうね」
勿体ないっつーの、とマリエは盛大なため息と愚痴を吐いてテーブルへ突っ伏した。
騎士爵なら息女は令嬢だろうとセリーンは思っていたのだが、マリエいわく『平民から騎士になっただけで家がまるごと貴族になれると思うなよ?』だそうだ。なるほど納得である。
とはいえ、マリエの父は男爵家の三男だったそうなので平民とも言い切れない。
しかし、『言っとくけど、じいちゃん家って地方の貧乏男爵家だから。平民領主だったラートン家よりずっと家もちっさいしボロいし食べてるものも、平民並かそれ以下ってレベルだから』とのことで、そこの三男だった父親に貴族としての教育は施されていなかったらしい。
それを聞いて貴族といってもいろいろあるのだな、とセリーンは思ったものだ。
「使用人にあげたり、染み抜きしてバザーに出すのが正しいんでしょうね」
家庭教師がいいそうな言葉を思い浮かべながらセリーンが言うと、マリエがうへぇと舌を出した。
「そんなことより。本当に、このままでいいの?」
「何がかしら」
「ユリウス様に、セリーンは勿体ないと思うの。あれを生涯の伴侶とするのはお勧めできないわ」
健康的な赤い唇をツンと尖らせながら拗ねるように忠告をしてくるマリエに、セリーンは胸がポカポカしてくるのを感じていた。
自分の友人の未来を真摯に気にしている、それを言葉で伝えるのが気恥ずかしいのだと、全身が伝えてきている。そんな姿もとても愛らしいとセリーンは思う。
「ありがとう。マリエは本当に優しくて可愛いわね。私が男だったらこんなにいじらしくて可愛らしいアナタを放っておいたりしないのに」
「それを言うなら、私こそ男だったらセリーンの婚約者に立候補してみせるわ」
お互いに顔を見合わせて笑い合う。
どちらからともなく、その手を重ねた。
「セリーンには、幸せになって欲しいわ」
「あら、奇遇ね。私もマリエには幸せになって欲しいわ」
「だったら……」
「そうね。ユリウス様は、一般的に見ていい旦那様にはならないでしょうね」
「だったら!」
「でも……」
「……えぇ、そうね。セリーンはそういう人だったわね」
「えぇ、そうなのよ。だってどうせどんな男性を伴侶に迎えたとしても、女は男には逆らえないのだもの。だったら、できるだけ顔のいい男にしておいた方がいいと思うの」
ユリウス・ハーバーは誰から見てもまごうことなき屑男である。
でも、顔がいい。
それに関して否定する人はいない。それほど彼の顔の造形は完璧だった。
「だって、どの角度から見ても綺麗なんですのよ。ゲス顔まで美しいってある種の芸術品ということではないかしら。素晴らしいことではなくて?」
マリエにとってセリーンは最高の友人だ。
しかし、どうしてもこの価値観は受け入れられない。
しかし、これを覆すこともできないのだ、とため息を吐いた。
◇◇◇◇◇
「ね? これってセリーンにとっても有意義なことだと思うのだけれど」
どうかな、と笑いかけるユリウスの顔は、今日も綺麗だった。
まだ昼前、朝といってもいい時刻だ。
平民の暮らしはとうに始まっているし、貴族であっても人によっては出仕もしている時刻ではあるものの、普段のユリウスならまだ夢の中にいる時刻だろう。
こんな時間からユリウスが起きているだけでも青天の霹靂であり、きちんと身形を整えて、前触れもなしであろうとセリーンを訪ねてくることはこれまで一度もない。初めてのことだった。
どうやらここ最近ユリウスを悩ませていた不幸な出来事に関する有益な対策を思いついて、居ても立ってもいられずこうしてセリーンにその解決方法について同意を取り付けにやってきたらしい。
たった今聞かされた、常にない熱意を込めたユリウスのプレゼンについて、セリーンは勿論すぐに同意することはない。
ユリウスの即決を求める圧に屈することなく微笑み、紅茶を飲みながら頭の中で精査した。
『婚姻後も、セリーンは家業に勤しむのに忙しいだろう? 働くのは大変なことだと聞いているよ。その上、妊娠や出産といったことについてまで背負い込むことはないと思うんだ』
『子の産みの親の素性は保証する。貴族家に生まれついた美しい女性だ。勿論、私の血を引いている。それも保証しよう。その子を引き取れば、貴女は跡継ぎを生まなければならないというプレッシャーに負い目を感じることなく、家業に邁進できる』
『美しい彼女と美しい私の子供は、美しいだろう。誰もが見惚れるような綺麗な顔の子供が保証されるんだ。きっと貴女にも満足して貰える提案ができたと思う』
豪華なガラス張りのテラスに差し込む柔らかな日差しの中で紅茶を味わうべく座っているユリウスはやはり絵になる。中身がどれほど屑であろうとも。
でも、顔がいい。
セリーンにとって、全てがこのひと言に尽きるのだ。
元々、婚姻後はある程度まとまった金額を月々小遣いとして渡し、その範囲で好きに遊んで暮らして貰う予定だった。
愛人を持つことを咎めるつもりもなかった。
あちこちに種を撒かれるのは困るが、認知して引き取るのはこれきりと婚前契約書に署名入りで契約しておけば問題はないであろう。
なにより、この男が子供を産ませてもいいと思うだけの相手との子供が引き取れる。
自分で産むより遥かに顔がいいと保証つきの我が子ができるということになる。
産前産後育児期間、仕事から離れる算段を考えなくてもいいというのも利点だろう。
つまり、不都合なことは何もない、ということになる。
そこまで考えて、セリーンはユリウスの顔を見てにっこりと笑った。
「セリーン?」
その笑顔に、ユリウスは自身の勝利を確信して微笑みかけた。
「ユリウス様のお申し出は大変興味深いものがありました。ただ、何しろまったく血の繋がらない後継者を受けるということについては、私一人で決定することはできません。男爵家のですので、現男爵である父の意見を聞かねばなりません」
勿論これは方便だ。
別に父であるラートン男爵は、セリーンが納得の上、契約を交わしたと伝えればそれに文句をつけるようなことはない。
しかし、まずは産みの母となる令嬢について調べる必要や、契約条件などについて詰める必要もある。
「勿論だ。ただ、きっとラートン男爵も素晴らしい提案だと受け入れてくれると信じている」
それには答えず、セリーンは微笑んだ。
それでも、セリーンのその微笑みにユリウスは満足して帰る旨を告げる。
その馬車に乗り込む姿すら美しく、セリーンは惚れ惚れしながら見送ると、まずは検討事案を詰めるためにも弁護士を呼び指示を出さねばと歩き出した。
◇◇◇◇◇
「ヨハン。弁護士のマーカス先生をお呼びして。至急、相談したいことがあるとお伝えしてね」
普段なら、即承諾の返事をする筈のヨハンの声が聞こえなくて、セリーンはその姿を探した。
ヨハンは元々父の側近であった男で、セリーンがユリウス・ハーバーと婚約を結んだことにより後継者となった時から、セリーンの側近となった。
とにかく仕事が早く、情報も正確で、誠実な人柄として定評がある。
取引先との信頼関係も厚いため、この男が傍で支えていることで、女であるセリーンが最初から取引相手に舐められることなく対等な存在として遇されていた部分があることはセリーンから見ても否定できない。
果たして、ヨハンは探すほどもなくセリーンのすぐ後ろに控えていた。
しかし、その口から出たのはセリーンの出した指示への了承でも意見でもなかった。
「お嬢様、大変申し訳ございませんが、一身上の都合により、お嬢様のお傍を離れ、仕事を辞めさせて戴きたく存じます」
震える声でそう伝えられたセリーンは、あまりの衝撃に声も出せなかった。
頭を下げたまま走り去ろうとしたヨハンを、セリーンは慌てて引き留めた。
「ちょっと待ってよ。ヨハンたら一体どうしたの? 突然なにを……」
そこまで言ったセリーンの動きが止まる。
何故なら、ヨハンが泣いていたからだ。
くしゃりと長すぎる前髪を掴み、涙で濡れた眦を反対の手で押し拭う。
「セリーンお嬢様、ずっとお慕いしておりました。伯爵家の婿を取られることは存じておりましたし、それで仕方がないと思ってもおりました。しかし……あんな無体な申し出を受けるほど、あんな屑男に惚れているとは思わなくて。押し付けられた婚姻でしかない形ばかりの婚姻なら、貴女の一番近くにいるのは私だと。けれど、それがまったくの勘違いで、セリーンお嬢様の心が、そんなにも、他の男のものとなっているなら……俺は、俺には貴女の傍にいることは、できない」
突然の告白。
立派な大人だと思っていた男の泣き顔に、セリーンは胸にせまるものを覚えていた。
「スミマセン。もう、お傍にいることが、辛すぎて。無理なんです。退職届はのちほど提出させて戴きます」
申し訳ありませんでしたと馬鹿真面目にもう一度深く頭を下げると、ヨハンは言葉を無くしたままのセリーンを置き去りに走り去った。
◇◇◇◇◇
『お時間の取れた時でいいのでお会いしたい』そう手紙を出せば、その日の内に了承の返事はきた。しかも指定はその日の夕方だった。
「よほど切羽詰まっているようね」
受け取った返事を封筒に戻すと、セリーンはくすくす笑って言った。
「調べによると、ご令嬢はかなりお腹が大きくなっているそうです。産み月まで幾らも残されていないかと。堕ろすことは叶わなかったのでしょう」
初めての時は自身の妊娠に気が付かないこともあるという。
嫁入り前の貴族の娘ならこんな時堕胎を選びそうなものだが、産んで養子に出す選択をしたということはすでにそれが可能な時期を過ぎていたということなのだろう。
第一、教会は堕胎を認めていない。
それを受け入れてくれる闇医者がいないではないが、妊娠期間が長くなってからの堕胎は母体へのリスクが高すぎることもあって引き受けてくれることはないらしい。
「今回の件で知りたくもなかった知識が、また増えたわ」
セリーンは不満げに呟くと、それでも「戦闘準備に入るわ。着替えをしてくる」と背筋を伸ばして立ち上がった。
◇◇◇◇◇
「よく来てくれたね、セリーン」
馬車を降りようと小さなその扉を開けると、そこにはユリウスが待っていた。
そっとエスコートの手を差し出される。
多分、婚約を交わしてから初めてのことだ。
「お出迎えありがとうございます」
差し出された手に自身の手を添えて、麗しき婚約者の顔をセリーンは間近で堪能した。
やはり、顔がいい。
セリーンの価値観において、それがすべてだ。
それに勝るものはないと改めて心を確かにする。
切れ長で深い色を湛えた瞳。きりりとした眉。高すぎず低すぎない鼻。紅も引かずに紅い唇は艶っぽく、どこか色めかしい。
そして全てのパーツはこれ以上ない調和を持って配置されており、そんな顔の周りで、艶のある髪が風に揺れては、なめらかな頬を華やがせる。
初めて見た時から、ずっとセリーンの心を掴んで離さない、完璧な顔。
──美しい。
セリーンは、婚約者の華やいだその姿をすぐ傍で鑑賞できる幸せを耽溺した。
「それで。先日の提案について、ラートン男爵の許可は下りたのだろうか」
席に案内され、ふたりきり(とは言ってもお茶をサーブするためのハーバー家の侍女とセリーンが連れてきた付添人たる老婦人は傍に控えていたが)になると、お茶が配される前に勢い込んでユリウスが口を開いた。
「まぁ。レディに対して何たる態度でしょう。せめてお茶を配り終えるまで待てないのかしら」
通常、付添人は主人たちの会話に入ることはない。
ましてや主人たる令嬢より格上の位にあるものの会話を遮ることなど許されるものではない。
しかし、実際のところ、ユリウスの取った態度は褒められるものではなかったし、現状においてユリウスにはセリーンに対して下手に出る必要があった。
故に、その発言は咎められることもなく、ただユリウスの口を封じることに成功したのだった。
微かな衣擦れの音だけがする、静かなお茶会に、ついに耐えられなくなったのかユリウスは紅茶を飲み干すと再び口を開いた。
「セリーン、そろそろ先日の返事を」
「ユリウス様から先日戴いたご提案について確認をさせてくださいませ」
勢い込んで訊ねようとしたその話題がついにセリーンの口から話されようとしていることに気をよくしたユリウスが鷹揚に「もちろんだ」と答える。
「ユリウス様が外に作られた非嫡出子を我がラートン男爵家に嫡子として迎え、その子をもって将来のラートン男爵家の後継者とする。それにより得る私共の利益は、妊娠や出産に纏わるすべてに悩まず家業に勤しめること、見目麗しい由緒正しい貴族家の血筋を持つ者を後継者として迎えられる、この二つでよろしかったでしょうか」
「あぁ。間違いない。私に似て、その子は美しい子供だろう」
笑顔で請け負うユリウスに、セリーンも笑顔で応えた。
「では、こちらにサインを」
すっと三通の書状が差し出された。
ユリウスは手に取って、小さな文字で書かれたそれに数行、目を通していく。
「これは?」
「確認書です。時間が経ってから、いま提示を受けた内容が嘘にされたら困りますもの」
養子に出したもののやはり産んだ子に会いたいと言い出す生みの母は多い。それどころか養子に出すと契約を結んでも、産んだ途端に反故にする者もいるという。
そんな話を思い出したユリウスは、「まぁ、貴族家としては当然の処置か」とためらうことなくサインをした。
三通の書状すべてに書き込まれたサインを確かめたセリーンは、にっこりと笑って用意しておいた封筒に、その内の一通を入れて封をすると、すっとユリウスに差し出した。
「では私はこれからこの手続きの為に、弁護士に会いに行きますわ」
早々に立ち去る旨を告げ、満足げなユリウスから再び馬車までのエスコートを受けてハーバー家を後にした。
◇◇◇◇◇
「セリーン、どういうことだ、セリーン!!」
「あら。お久しぶりです、ユリウス・ハーバー伯爵家ご令息様。どうかなさいましたか?」
うららかな午後、マリエと付添人の老婦人の三人で気取らない午後のお茶会を開いていたところに、珍客が乱入してきた。
「私たちの婚約が破棄されたとは、どういうことだ!!!」
「どういうことも何も……ねぇ?」
頬に片手を当てて、セリーンはマリエを見た。
視線の先のマリエも悪い顔をして笑っていたが、マリエから見たセリーンの顔も大概だった。
「ユリウス様におかれましては、ハーバー伯爵家より我がラートン男爵家に婿入り戴けるとのお話に、誠に良縁だと一族郎党喜んでおりましたが、それが男爵家乗っ取りの企てと判明したからにはお受けすることは出来かねるのです」
「なっ?! だ、男爵家の乗っ取りなど。私がするわけないだろう!」
そんなつもりがあろうとなかろうと、やろうと試みたことがそれに当たるのだという事すら理解できないのだろう。
「この件につきましては、すでに王宮審査官の審議に入っている筈です。追って取り調べが入ると思いますので、どうぞ申し開きなどがございましたら、そちらでどうぞ」
お帰りはあちらです、とセリーンが笑顔で指し示す。
「王宮、審査官の審議?」
高位貴族が下位にあたる貴族家や平民を迫害し、借金を返さないなど、財産を乗っ取るような横暴な態度を取った時に、その行動が犯罪に当たるかどうかを判断する機関がこの国にはある。
今回のユリウスの行動はまさにそれに引っ掛かる。
実際に、平民が高位貴族を訴えるなどできないが、それでも建前上でも法は整備されているのだ。
叙爵したばかりの下級貴族家に強引に婿入りするまではぎりぎり許容されても、その家にまったく血の繋がらない自身の血筋の者を後継者として強引に迎え入れさせることまではさすがに誰の目から見ても許されることではないのだ。
「乗っ取りのつもりはなかったときちんと証明できれば、罪に問われるまではないかもしれませんよ」
無理だと思いますがと心の中でのみ付け加えつつ、それでも優しい口調で諭したセリーンに、ユリウスは激高した。
「そんなの! 僕が証明するまでもない。君がしてくれればいい」
「お断りいたします。なぜ私が?」
こてん、と首を傾げたセリーンは、内心今にも噴出しそうである。
実際のところ、後ろでマリエは肩を揺らしているのを、付添人の老婦人が窘めていた。
「君が、僕を愛しているからだ! 素直になるんだ。君がそれほど嫌がるなら養子の件は許してやってもいい。余所へ出せばいいだけなんだから」
そうか、普段の一人称は僕なのね、甘ったれな貴族のご令息らしいわとセリーンはどうでもいいことばかりが頭の中を過っていく自身にも笑いたくなっていた。
「訂正を。私は、ユリウス様を愛したことなどありませんわ。なぜそのような勘違いをなさったのですか?」
セリーンは心底不思議だった。どう考えても、これまでユリウスがセリーンに向けてきた行動に、惹かれるものなどひとつもないからだ。
「だって君は、……セリーンは僕のしたいこと、やってきたことに何一つ文句をいうでなく受け入れてくれていたじゃないか!」
夜会でエスコートすることなく他の女にうつつを抜かそうとも。
婚約の贈り物以外、何も贈ったこともない。間にあった誕生日の祝いすら顔を出して終わりだった。さらに言えば、綺麗な女性つきで会場入りしていた。
それでも。セリーンはユリウスの婚約者でいた。居続けた。
ひとつの文句を口にすることもなく。笑顔で。
それが、ユリウスの自信となった。今回の暴挙に繋がったのもそれを根拠とする自信からだ。
「あぁ、なるほど。それはですね」
セリーンは、泣きそうに歪められたユリウスの顔を見あげてきっぱりと告げた。
「ユリウス様は婚約者とするには最悪でしたが、お顔がとてもよろしかったので」
セリーンは、はじけるような満面の笑顔でそう告白すると、ぶーっとマリエと付添人が噴き出した。
そして当のユリウスは、その言葉に多大な衝撃を受けていた。
それでも顔がいいということは素晴らしい。奇跡のようだとセリーンは惚れ惚れとした顔でユリウスの歪んだ顔を鑑賞した。
「日々の生活の中で『あれしろこれしろ』と命令されて過ごすにしても、どうせなら美しい顔の男性に言われる方がずっと気分が良いものでしょう?」
だから、まぁいいかと受け入れることにしていたのだと朗らかに笑うセリーンに、ようやく最初に受けた衝撃から脱したユリウスが、一縷の望みを掛けて言葉を繋いだ。
「な、なら。もうよそ見はしない。約束しよう。貴女が好きなこの私の顔を、存分に眺めて暮らせばいい。どうだ、セリーンの好きなこの顔を見れなくなるのは辛いのではないか」
自分で言っていて、情けなくなったのだろう。段々とユリウスの声が小さくなっていく。
「金蔓を手放さないために必死ですね」とマリエが小さく呟いた言葉に、ユリウスがぎっと強い視線で睨みつけた。
「大丈夫です。ユリウス様のお顔はとても綺麗で素晴らしいと思いますが、私にはもう、彼がいるので」
嬉しそうに笑ったセリーンの視線を追ったユリウスが、自信を取り戻したように笑った。
「そんな平民を受け入れるというのかい? この私の顔が何より好きだといった貴女が?」
嘲るようなユリウスの声に、セリーンは余裕の態度をもって、新しい婚約者たるヨハンの横まで歩いた。
その腕を取り、自らの手を絡めると、もう片方の手を彼の顔に伸ばす。
「えぇ。これまで、私の判断基準は『顔がいいこと』それのみで構成されておりました。けれど、どうせならそこに『有能』とか『私に一途』とか、いろんなオプションがついていてもいいってことに気が付いたんですの」
するりと男らしい線を描く頬を撫であげ、そのまま長すぎる前髪を持ち上げる。
そこにあったのは、男性的な美の顕現。
直線的で力強い眉。切れ長で、強い意志を感じさせる瞳。
すこし厚めの唇はいっそセクシーだ。
中性的なユリウスとはまったく違った方向性ではあるものの、ヨハンの美しさは決してユリウスに劣るものではなかった。むしろ多くの女性にとってはより強く惹かれるものがあると言えそうだった。
「同じく顔がよろしい者であったなら、ついてくるオプションは多い方がよろしいでしょう?」
当然ですわよね、とセリーンはにっこりと笑った。
「しかし。その男は平民で……」
「祖父は騎士爵を叙しておりましたが、元を辿れば伯爵家の三男でした。その縁で、大伯父であるベント伯爵家に養子に迎えて貰うことになりました。そこからこちらへ婿入りする予定です」
ベント伯爵家とはラートン家の家業である銀山との取引もある。
武家であるベント家の領地では武具の加工も盛んで、その材料として銀が使われているのだ。
剣より計算で身を立てることにしたヨハンの父は、騎士爵である祖父の跡を継ごうとはしなかった。そうしてその息子であるヨハンも同じく平民として商人となるべく勤勉に務めてきた。
しかし、愛する女性を手に入れる為にできることがあるならば、手段を選ぶつもりはないのだ。
「くそっ。セリーン、お前こそ僕という婚約者がありながらこんな平民あがりの男と浮気をしていたんだな! 絶対に許さないぞ」
睨みつけるユリウスからセリーンを庇うように、ヨハンがその身を後ろに隠した。
「やってみろ。返り討ちにしてやるさ」
すでにヨハンは伯爵家の子息だ。ユリウスとは同位となる。
「ふん。王宮審査官が来たからなんだというのだ。私がラートン家を乗っ取ろうとしたという証拠などどこにある? この婚約は破棄させない。そうすればお前らの浮気が実証される。ベント家にたっぷり慰謝料を請求してやるから用意して待っているんだな」
長い捨て台詞は、セリーンの笑い声で遮られた。
「嫌ですわ。証拠もなしに男爵になりたてのラートン家から格上のハーバー家を訴えることなどできる筈がないではありませんか。王宮審査官に話を聞いても戴けないでしょう。……ご自分でサインした書類を、もうお忘れですか?」
その言葉で、ようやくユリウスは先日の書類に思い至った。
最後まで読むことすらせず書いたサインのその内容は、ほんの数行しか知らない。
しかし、そこに書いてあった文だけでも、十分すぎるほどの自供となるだろう。
「……そんな」
「これに懲りたら、最後まできちんと読まずにホイホイと書類にサインなどなされてはいけませんよ?」
「その前に、婚約中に他の令嬢に手を出すこともね!」
「マリエ?」止めなさい、とセリーンは咎めるように視線を送る。
それに対してマリエは軽く肩を竦めただけだった。
ついに、何も言葉を見つけられなくなったユリウスは、ふらふらと立ち上がり強引に入ってきた部屋から出ていこうとした。
その後ろ姿に。
「ユリウス様。ご縁はありませんでしたが、どうぞお元気で」
セリーンが声を掛けたが、立ち止まることはあっても、ユリウスが振り返ることは、もうなかった。
「あんな屑男に、励ましの言葉なんか掛ける必要ありませんよ」
憤慨した様子で付添人の老婦人が苦言を呈した。
付添人は通常、親族の未亡人が務めることが多いが、この老婦人はまだ寡婦ではなかった。そして、セリーンの親族でもない。
「未来の大伯母様は辛辣ですね。でも、ここで挫けてあの美貌が陰ることにでもなったら人類の損失ですわ。せっかくあれだけ顔がよろしいのに。……あら、そういえば、未来のお姑さまとおよびすべきでしたかしら? ねぇ、おばさまの事は、どちらで呼び掛けるのが正しいのでしょう」
セリーンのその問いに答えをくれる者は誰もいなかった。
皆、笑うのに忙しかったからだ。
皆の心の声
「セリーンの基準、最後まで本当にブレないわ」
「ブレない娘セリーン、恐ろしい子」
「セリーン様らしすぎて笑う」
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