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第47話 再興の兆し

「!」

 襖に筆が走る。

 そこに現れた色。

 蒼かった。

 その見事さといったら無い。


 鮮やかな、本当に鮮やかな蒼い線が斜めに曳かれ、その目に焼き付くような色に梶山少尉は息を飲む思いがした。

 そしてそれは田実大尉も同じ思いらしく、眼を見開いて色の落ち着きを待つ。


 襖は絵の具の水分を吸収しても色あせることなく瑞々しい発色を保ち、そのまま定着した。

 そして田実は同じように筆に色胡粉(いろごふん)をつけ、更に線を加えた。


 梶山少尉には、それだけで「ああ、富士の絵だな」と、理解できた。

 田実は筆の束をおもむろにわし掴むと、一心不乱に腕を振り、次々と色を置いた。

 やがて完成した絵は、目を見張るほどの出来映えだった。


『払暁の富士』

 勝手に絵の題名まで浮かぶ。

 裾野はまだ夜の帳に覆われ、山頂付近は微かに夜明けの兆しが見え始めた、ちょうどその頃が描かれていた。


 梶山は絵に見入った。

 演習中、肉体の疲労が頂点に達したとき、ふっと見上げる富士は実に様々な表情をしている。中でも払暁の富士は好きな表情の一つだった。


 この引き戸に表れた神々しい姿は、色胡粉(いろごふん)の素晴らしさもさることながら、田実大尉の腕も見事なものだった。


「素晴らしい」

 思わず声が漏れた。

胡粉(ごふん)が、それとも絵のどっち」

 田実が悪戯っぽく笑う。


「両方です。こんな隠れた才があるとは思いませんでした」

 正直、大尉にここまで絵心があるとは思わなかった。そう言われた時の彼は実に嬉しそうだった。


「馴染みの客に絵画の大家が幾人か居てな、品を届けている内に何となく絵筆を握ることもあったから、まあ、門前の小僧がって所かな」

 彼は謙遜する変わりに、そう述べた。

 家で取り扱う品だから、知識を深めるために絵心を鍛えたとしても不思議はないが、それにしても見事の一言に尽きる。


 だが、その絵に見取れてしまい、つい重要なことを忘れていた。

 それは、いったいこの胡粉(ごふん)のどこが駄目だと言うものだ。

 実際はもっと素晴らしく、これで失敗なのか。

 いや、そうではあるまい。

 素人にだって、これが失敗だなんて到底思えないほど素晴らしい発色をしている。


「この胡粉(ごふん)は虫が集って駄目になったと聞きましたが、素人目にはそうは見えません。何がどう違うのか、差異を教えて頂けませんか」

 それまで絵に見入っていた田実大尉は、問い掛けにより気がついたように床上の胡粉(ごふん)に目を落とし、それから梶山少尉を見ていった。


「やはりそう思うか」

「ええ」

 梶山はそれ以上口を挟まなかった。

 田実が落ち着きを取り戻し、考えがまとまるまで、じっと待った。暫くして、再び口を開く。


「虫が集った胡粉(ごふん)など、使い物にならないのが通説だった。染料は喰われるし、漆喰にも孔が開いて発酵が完全に行われない恐れがある。実際、ここにある胡粉(ごふん)その物は品がよろしくない」

 梶山は割られた胡粉(ごふん)を見た。

 内部までびっしりと虫が入り込み、正直、おぞましくある。


「だが、虫が喰った胡粉(ごふん)と染料は、どういう作用かは知らんが、その内部で見事な融和を見せている。こんなことは、文献はおろか口伝でも言われなかった。梶山、お前よく発見できたな」


 最後に梶山少尉が誉められた。

 自分ではただ好奇心から虫を潰しただけなのだから、単なる偶然の産物でしかなく、少々こそばゆくもある。


「そんな、自分はただ虫を潰しただけですよ」

 そう照れていうと、田実少尉はまだ興奮覚めやらぬようで、顔を紅潮させている。

「その何でもない行為が、素晴らしい発見だった。なまじ詳しいから、そんなことしようとはついぞ思わなかった」


「では、この虫を潰した粉、胡粉(ごふん)と言っていいのか解りませんが、売り物になりますか」

「なる」

 速答だった。

 そした更に続けた。「ああ、なるさ。売り物になるともさ」

 田実の晴れやかな表情が、言葉以上に雄弁にこの品の価値が高いことを物語っていた。気になるのはその価値がどこまで高いかだった。


「では売り物になるとして、掛け率は如何ほどになりますか」

「掛け率?」

「ええ、元の何割の値段で売れるかという意味ですが」


 大店の教育を受けていた田実大尉が、その言葉を知らぬ筈がない。

 そんな大事なことを即座に思わない程だから、四掛け、いや上手く行ったら五、もしくは六は行くのではないかと予想した。だがそれは、商品の価値を知らない素人判断でしかなかった。

「倍増しだ」

「え?」


 田実の言葉は意表を付くものだった。

 その話しが本当ならば、銀の価値を大きく越え、金に迫るということになる。

 田実大尉は、こうも言った。

「まだ詳しいことが分からないので即断は出来んが、この手応えではそれ位は行けるだろう。もしかしたらそれよりも上かも知れん。いや、もっと行くかな」


 梶山は改めて胡粉(ごふん)を見た。この鮮やかな絵の具に金の値打ちがあるのかと感慨を持った。

「じゃあ仮にこれを売り出したとしたら、借金を全て返済することは可能ですか」

「まあ、最低でもここにある分だけでそれは可能だろうな。さっきも言ったが、まだ他の品質も調べてみないことにはどうにも」

「他にもあるんですか?」

「うん。表の土蔵全部と敷地の地下に埋めた分がある。正直、総量は見当もつかん」


 梶山は開いた口が塞がらないと言う表現が、単なる比喩などではなく、実際に起こりうることなのだと身を持って体験した。

 貨車一輌よりも多い胡粉(ごふん)が存在し、しかもそれが貴金属並の価値を持つからだ。さらに、それらは独占商品で競争も無いから、値崩れをおこす心配もない。

 

 こんな有利な条件で卸業を営む問屋なぞ、日本はおろか世界中でもそうざらにはないだろう。

 本当に口を開いて驚き、その表情のまま固まった。


 梶山が祝辞を述べると、田実は笑顔で応えた。

 その表情は、重荷が取れるかも知れない期待に満ちた、晴れやかな物だった。

「やれやれ、しばらくは中隊と店の掛け持ちだな。たまには、お前にも手伝ってもらうけど、別に構わんだろ」

 もちろん梶山は田実の言葉に異論は無かった。


 大変ではあるだろうし、まだ上手く行く保証もないが、苦労続きの中隊長に明るい展望が開けているのが嬉しかった。


 そしてである。

 このことは妹の優子さんにも朗報であるばずだった。

 家の借金のためにその身を差しだした女性。

 いったいどれ程の決意が必要だったことか。


 その優子さんにも朗報であるはずだ。中隊長と過ごす時間が増えるほど彼女に近付けることに、何やら暁光を感じずには居られなかった。


 二人は前祝いとばかりに痛飲する覚悟は出来ていた。

 だが、敏蔵とお松の伊藤夫妻が宴の輪に加わると、酒宴は一層派手な物となり、さらに近所の店屋が火を落としてから余り物を手に駆けつけてくると、後は収集がつかなくなった。


 誰もが店の再興の前祝いだと祝辞を述べるのを、田実大尉は気が早いと窘めるのだが、誰もがそんな言葉を無視した。


 そして、一通りの挨拶が済むと、今度は、集団の興味対象が梶山少尉に移った。

 幾人から、「こん人に見込まれると後が大変だ」と田実大尉との関係を忠告された。

 それは分っている。

 そして、もう遅いと思った。


 二人は皆が引き揚げた後、朝方まで差し向かいで飲んだ。取り留めのない話しが続き、その後、敷かれた布団の上に倒れるように眠った。


 梶山が目を覚ますと、昼をとうに越えていた。

 伊藤夫妻は昨夜遅くまで二人の世話をみていたと言うのに、もう既に起き出して働いていた。根が実直で真面目なことがうかがえる。


 田実と梶山は遅めの昼飯を食い、優子の入院している病院にもう一度見舞った。

 そこで昨夜の出来事、胡粉(ごふん)の一件を伝えると、「良かった。兄さんが、本当に嬉しそう」と、白い肌を紅潮させて微笑んだ。そして、「梶山さんと知り合えて本当に良かった。次はどんな幸運をもたらしてくれるのかしら?」

 そう言って小首を傾げた。


 ──ああ、この仕草をまた見られるなら、どんなことでもしてやるさ。

 梶山少尉は、そう胸を熱くする。


 二人が部隊に戻ってから、暫くは何事もなく日々は過ぎて行く。

 大きな変化と言えば、年末に試製一〇式二号機の予算が正式に承認され、年が明けた昭和二六年の春、試作機は完成を見せた。

 これで実験中隊には二機の歩機が揃い、運用試験に弾みが付くものと期待された。


 だが、その期待は、予想もしない事件により覆されることとなる。

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