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第46話 胡粉

「これ壁に塗ってあるのと同じ物ですね。一体何ですか」

胡粉(ごふん)さ」

 梶山の問いかけに田実がさっぱりと答えるが、聞いたことのない言葉だった。

 だからこう聞き返した。

「ごふん、ですか?」


胡粉(ごふん)とは乾燥させた貝の粉のことで、絵の具の一種だ。一番目にしているのは、人形の肌に使われているものだろう。他にも染料と混ぜて絵の具にしたり、顔料の発色を良くするために下地に使ったりする。繊細かつ強烈な個性を発揮する最高級の画材だよ」


 そう説明を受けたが、梶山の窺い知れない世界だった。

 ただ、人形の肌に使うと聞かされ、確かに似ているとは思った。黙っていると田実が後を続けた。


「実家は老舗の画材問屋でな、江戸の頃から著名な画家を顧客に持っていた程で、胡粉(ごふん)では日本一の品揃えを誇っていた」

 まずはそう切り出した。

 さらに田実大尉は、こうも続ける。


「中でも当家の色胡粉(いろごふん)は秘伝でな、代々の家長だけが製法を口伝されるほど大事にされた品だ。粉と染料や(にかわ)その他の材料を混ぜ、床下の土中に埋めて発酵させて作るのだけど、気候が鍵を握るのでただ真似をしても完成はしない。京の老舗が悔しがったものさ」


 良く分からないまま、何となく納得すると同時に驚きもした。

 どうやら老舗のしかも大店の家柄だったとは。

 妹といい、兄といい、何処か浮き世離れしている筈だ。そんな梶山少尉の思いを余所に、田実大尉が尚も続ける。


「その発色の素晴らしさ豊かさには定評があってな、使うだけで作品の価値を上げ、凡作を傑作にするとまで絶賛された程さ。だから、毎年仕込んでは床下に埋め、数年先の胡粉(ごふん)まで用意しなくてはならないんだ。したがって注文生産には向かない品でな、急に欲しくなっても手に入り難く、それが高値を呼んだ。半斗あれば屋敷と倉が立ち、一斗あれば一族が裕に一年は豪遊して暮らせると言われていた。わが家の繁栄を支えていたのは、一重にこの胡粉(ごふん)のおかげなんだ」


 その田実大尉の説明を聞いて、梶山が思ったこと。

 それは、──そんなに高価な物なのかこれは。

 梶山少尉は驚きを持って目の前の胡粉(ごふん)を見た。


 家の外壁。

 だけではなく、内壁にもふんだんに使用されている。

 そんな高価な物を壁材に用いると言うことは、如何に豪勢を極めていたかの証明でもあった。


 さらには、屋敷自体が広告や名刺や看板の意味を有していたのだろう。

 それだけ秘伝である色胡粉(いろごふん)の製造能力がある。さらには在庫があるぞ、という証明だ。

 価値を知る買い付け人に見せることで、交渉もやり易くなったに違いない。


「ちなみに、この家は胡粉(ごふん)を保存する土蔵とそれを見張る人員や仕込みの作業人が泊り込みで働くための、云わば製造所を兼ねた寄宿舎だ。本宅は、表通りに面した一角全部がそうだったのだが、今は分割され人手に渡っている」


 梶山は驚く。

 東京一の繁華街、浅草。

 その大店の豪奢な大邸宅が並ぶ、その一等地、その一角まるまるが本宅だとは。

 想像するに、財閥や歴史上の大店のような生活ぶりだったらしい。

 だが、それも今は見るよすがもない。この家もそれなりに贅を尽くしてはいるが、かつてはもっと権勢を誇ってはいた筈だ。


「そんな家柄なら、軍に入る必要は無かったのと違いますか。たしか懲役ではなく、志願なさったと聞いておりますが。家業の手伝いだってあるでしょうし、何でまた」

 梶山の疑問はもっともだった。

 それまでの話の内容からすれば、軍に居る理由はない。


 その理由を田実大尉が静かに語る。

「両親が大陸を旅行中、強盗に殺された」

 まず、そう切り出す。

 その後に子細を語る。

「それはたしかに悲しい事件ではあるが、それは今日の状況とは直接の関係はない。俺は小さい頃から親父に厳しく家業を仕込まれていたから、両親が居なくなってからもそのまま商売を続けることが出来た。仕入れから従業員の差配、接待に至るまで大抵のことは何とかやってこられたし、親父の代からの従業員が残ってくれたのも大きい」


 田実大尉の言う通りならば、両親の死は悲しい出来事には違いないが、聞けば商売の方は何とかやって行けているようだ。

 なのにである。なぜ、という疑問がわく。

 梶山少尉はそれを口にした。

「ならば、なぜ」

 頭に浮かんだ言葉をそのまま聞く。


胡粉(ごふん)を駄目にした」

 核心はそれだった。

 しかし、それを語る田実大尉は、先ほどと同じく驚くほど冷静だった。


「貴重な胡粉(ごふん)を、俺の甘い監理で全て駄目にしてしまった。残ったのは莫大な借金だった。土地建物を筆頭に、金目の物をほとんど売り払ってなんとか大半は返却できたものの、それでも若干の借金が残った。この家は敏蔵兄さんの権利だから辛うじて売却を逃れはしたが、まあ何もかも一切合切が消えて無くなった。敏蔵さんの夫婦はこの家も売却しようとしたが、俺と妹が住むことを条件に、どうにか思い留まってもらった。後は、俺が口減らしに軍に行けば何とかなる筈だった。だったのに、それを優子の奴……」


 そこまで聞けば、大体の予想はついた。

 兄の苦労を少しでも減らそうと、優子はその身を糧にすることを選んだに違いない。


「妹は親父が生前懇意にしていた置屋に身を預けることにした。俺が支那戦線に行っている間に、誰に何の相談も無しに勝手に決めやがって。気が付けば誰が親か知れない子まで宿し、その後に結核まで患った。その事実を知った時、両親が死んだ知らせよりも驚きは大きかったよ。もう、あんなのは御免だ」


 両親が暴漢により死んだ不幸。

 そして生活を支える胡粉(ごふん)を駄目にしたことを語るよりも、妹である優子の苦労を語るときの田実大尉は、一番苦渋に満ちた表情をしていた。


 そして、それを聞く梶山少尉も、置屋の件では胸がえぐり取られるような痛みを感じた。それは、生まれてこの方初めて味わう、息も苦しくなる程の激痛だった。

 嫉妬だった。

 自分の感情にそれほどまでの嫉妬が芽生えるなど、普段、生真面目でも、どこかのほほんとしている自分にそこまでの嫉妬心があることを、いま始めて知った。


 それにしても、その痛みの元凶である胡粉(ごふん)は、一体どう変化したと言うのだろう。梶山はそれが気になった。

胡粉(ごふん)のことですが、一体どうして駄目になってしまったんですか」

 当然の疑問だった。


 田実は言う。

「虫さ」

 梶山が聞き返す。

「虫?」

「そう虫。発酵させている段階の胡粉(ごふん)に、貝殻虫が集ってしまった。その時の品がまだ残っている。いま見せるよ」


 そう言って立ち上がった田実大尉は、箪笥から油紙の包みを取り出す。

 そして座り直して目の前で広げて見せた。

 レンガ大の(にかわ)の塊に、白い粉をまとった虫の死骸がびっしりと付着していた。

「知っているだろ、これが貝殻虫。このちっぽけな虫が、全てを台無しにしてくれた。俺は口減らしに軍隊に行き、妹は置屋に」


 そう嘆息する田実大尉を言葉を聞きながら、梶山少尉は虫の死骸を指で擦った。

 乾燥したそれは、たちまちの内に粉になった。


「貝殻虫って赤いんですね」

 梶山は我ながら妙な感想を持ったなと思う。

 いまは、兄弟の運命を狂わせた元凶であるこの虫に心痛めるべきなのに、梶山は何の気無しにそういった。


「赤いって、そんな馬鹿な。その虫は白い筈だが」

 田実大尉が怪訝な顔をする。

「とは言っても、ほらこんなに赤い粉が出ますよ」といいつつ、梶山は指先と包みを見せた。そこには鮮やかな紅い粉が表れていた。


「ちょっと貸せ」

 田実は包みを受け取ると、虫の死骸をじっくりと眺めた。


 さんざ見慣れた憎らしい小虫は、小豆ほどの大きさで二枚貝の片方を伏せたような形をしており、乳白色の殻に白い粉をまとっている。

 やすでなどの厚手の葉っぱの裏によく見られる虫だ。


 それをぐいっと指で擦る。

 すると梶山の言ったように赤い粉が表れた。

 それを見た田実は、複雑な表情を見せる。


 そしておもむろに、(にかわ)に覆われた胡粉(ごふん)を両手で割った。

 すると、赤い染料の混じった発酵胡粉(ごふん)の内部にまで、貝殻虫が喰い込んでいた。


 田実大尉は、小皿に茶匙一杯ほどの虫を取り、筆で表面の粉を取り除く。

 その後、虫を乳鉢で摺るとたちまちの内に赤い粉となった。

 さらに、押入から幾つかの胡粉(ごふん)を取り出しては同じように虫を鉢で摺り、さまざな色の粉を用意した。


「何をする気ですか?」

「絵の具を作る」

 梶山の問いに田実はそう簡素に答えるに留めた。

 そして目を粉に釘付けにしたまま、ただ黙々と作業を続ける。


 水差しの水を小皿に注ぎ、次々と集めた粉を溶いていった。

 そして田実大尉は絵筆を手に立ち上がる。

 白い胡粉(ごふん)の塗られた襖の前に立つ。

 暫く立ち尽くして睨みつけているかと思うと、おもむろに筆を溶いた色胡粉(いろごふん)に漬け、襖に筆を走らせた。

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