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第45話 浅草の実家

 やがて車は完全に日が暮れる前に浅草に着いた。

 そこは新宿とは違い、さすが都内一の繁華街である。どの商店も師走の活気に満ち、特に六区付近では多数の人々が道に溢れかえっていた。


「今夜は俺の家で食おう」

 面白いことに、田実大尉は一度も外食で済まそうと言い出さなかったことだ。そんなことをお首にも見せないので、梶山少尉も言い出さなかった。


 車はその人混みを避けるように脇道に逸れ、先ほどの喧騒が嘘のように鳴りを潜める住宅地に入り込んだ。

 そこは豪奢な商家が建ち並び、まるでそれが決まりごとであるかのような贅を尽くした厳つい門を誇る屋敷が続いた。

 なおも、くろがね四軌は進む。

 すると今度は、品良くまとまってはいるがこぢんまりとした家々が続いた。


「ここいらはな、大店の別宅や離れといった住まいが並んでいる。訳ありの家も多い」

 そう田実大尉が説明した。

 所々に存在する空き家では、日もだいぶ暮れたと言うのに明かりも無く、ひっそりと静まり返っていた。


「中隊長の家もこの近辺ですか?」

「もう着いたよ」

 田実大尉は区画の一つを指さしてそう言った。

 梶山少尉は指定された一軒の敷地内に車を滑り込ませる。

 そこでは玄関に明かりがあった。


「ここが俺の家だ」

 田実大尉はそう言うが早いか、さっさと降り立ち、玄関へと向かった。

 表札には伊藤とあった。


 梶山少尉もその後を追いつつ、その道すがら屋敷の様子に目を配った。

 敷地は広く、外垣根には(ひいらぎ)、内垣根には、からたちが植わっていた。

 そして通りから離れた奥には土蔵が並び、裏木戸の脇には小さな番小屋があった。住居である母屋は小さいものの一見して贅を尽くした造りが偲ばれ、柱や瓦は黒く、壁の白さが人目を惹いた。


 呼び鈴を押し、一歩下がって明かりの下に立つ。

 ほどなくして奥から二種類の足音が響いた。

「誰じゃい」

 引き戸の摺りガラスの前で、張りのある野太い声がする。


「敏蔵兄さん、俺だよ。郁夫だよ」

 梶山少尉は驚いた。

 中隊長に兄弟が居たこと等、ついぞ聞いたことがない。

 らっ、と開いた戸の内には、五十代半ばの男女が驚き顔で立っていた。


「郁男、よお帰って来たな」

 男性が驚いた様子でそのように言い、背後の女性が笑顔で迎えた。

「郁男ぼっちゃん、お帰りなせえ」

 深々と頭を下げつつも、細くなった目は田実大尉を捉え続けている。


「ぼっちゃんは止めてよ」

 と笑う田実大尉。

 そして、「敏蔵兄さん、お松さん、ただいま。今晩は二人でお世話になろうと思って来た」と続けた。


 敏蔵と呼ばれた男性が、四角い大きな頭を激しく上下させながらうなづいた。

「なに言ってんだ、ここはお前えさんの家じゃねえか。好きに使えばええ」

「ここで立ち話もなんだし、お連れさんも居ることだから早くお入り」

 そう言って、お松は敏蔵を後に引いて場を開けた。


 二人の軍人はどやどやと玄関に上がり込み、そのまま奥に通された。

 廊下を移動する間、壁が異様とも言える程に白いことに目を奪われる。

 それは外壁と同じ白さであると思われた。そして通された部屋の壁も白く、灯された僅かな電灯でも驚くほど室内は明るかった。


 取りあえずは、一同着座して挨拶を交わす。

 その後に、「二人とも、夕飯もまだなんじゃろ。どうせ酒も飲むだろうし、用意の間に風呂にするとええ」

 そう言いながら、お松さんが二人の軍用外套をさっと取る。

 梶山が、「自分がやります」と言ったが、彼女は渡さない。そして鮮やかな手ぎわで衣紋掛(えもんか)けに吊す。

 梶山少尉はすることがなくなり、再びあぐらをかいて座った。


「お松さん、俺ら後風呂さえ馳走できれば、店屋物で充分だよ」と田実大尉がいい、横の梶山少尉を見て、「なあ、それで良いな」と続けた。


 良いも悪いも無い。

 梶山が相づちを打つと、敏蔵がとんてもないと言う顔をした。


「郁男それは駄目だ。せっかく客人と来て何も世話しなかったら、儂とかかあの二人が住んでいる意味がねえ」といい、そしてひざをぱんっと叩く。

「そうだえ」

 お松さんが亭主の横に座って後を次ぐ。


「この人の言う通りだ。私はひとっ走りして、夕餉の材を買ってくるけえ、ほれ、あんたは上がり湯の残りで風呂入れ直してきな」

 と、敏蔵の背を叩いた。


 そして、なおも辞退する田実大尉を、「ええから」と手で制止し、「あんたぁ、腰重いの。さっさと動きや」と、亭主を促してさっさと立ち上がった。

 そして、部屋を出る間際に、「いま茶入れるけえ、待っててな」と、言い終わる前に音をたてて戸を閉めた。

 後には、惚けた軍人が二人、何をするでもなく取り残された。


「まったくお松さんらしいや」

 田実大尉が鼻の頭を掻きながら言った。

「なんか凄い女性ですね。軍人でもやっていけますね」

 梶山少尉がそう感想を述べると、「あん人が、軍人なんて間抜けなもんやらんよ」と返された。もっともだと思った。


「敏蔵さんは、俺が乳飲み子の頃から家で住み込みで働てた方でな、物心付く頃から兄さんと呼んで兄弟同然に育った。そして同じく住み込みに来たお松さんと一緒になった後も、店を畳んだ後も、ずっとここを護ってくれている」


 田実大尉の言葉にはまだ謎が多い。

 注意しないと、何と無しに聞き逃す言葉がある。

「店を畳んだとは、何を営んでいたのですか」

 その問いかけに、大尉は笑みを浮かべるだけで答えなかった。変わりに、「風呂、先に入れ」とだけいった。遠くから湯の香りが届くようになっていた。


 仕方なしに、梶山少尉は風呂に向かった。

 風呂場は良く手入れがなされており、事前に湯を撒いて冷気を追い払ってくれていた。そして脱衣所には火鉢が置かれ、老舗旅館並の気使いが随所に見られた。湯量も使いきれない程用意され、使う側から敏蔵さんが足してくれた。


 それは正に湯の馳走だった。

 とは言え、風呂一つとっても余りにも手厚いもてなしに、正直、梶山少尉はかえって居心地悪い思いもした。


 ──男やもめの軍人なぞ、放置で十分なのに。食い物と酒があれば、勝手に過ごす生き物だ。

 と思っていたからだ。


 風呂を上がり、用意された浴衣と丹前に着替えて部屋に戻ると、そこに田実大尉の姿は無く、お茶と菓子、新聞雑誌の類が用意されていた。

 それらを眺めつつ時間を持て余している間も、壁の白さが目に付いた。


 梶山はふと立ち上がって、その壁に近づく。

 近寄って手で触れると随分ときめ細かく、光沢の中に深みがあった。そして漆喰に比べて手触りが堅い。


「壁が気になるか」

 没頭していると障子が開き、湯上がりの田実大尉が小箱を手にして入ってきた。

「ええまあ、外壁といい室内といい、やたらと白いなあと思いまして。これ普通の漆喰ではありませんね」


 壁を手でさすりながら感心していると、田実は座布団をぽんとほおり、そこにどっかりと座り込んだ。そして目の前に硯箱ほどの小箱を置いた。

「こっち来て座れ」


 請われるまま従うと、田実は箱の蓋を開けた。

 中には、筆や小皿、さらに幾つかの小さな箱があった。その一つを開けると、中には白い粉が入っていた。

 それを見た梶山少尉は、ああ、壁の色だと即座に見抜いた。

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