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第43話 入院患者

「あれっ、兄さん来ていたの。起こしてくれれば良かったのに」

 大きな目をこすり、一生懸命変化に対応しようとしているが、それでもまだ寝ぼけが取れないようだ。


「良く寝ていたから起こさなかった。具合の方はだいぶ良くなったか?」

 そう語り掛ける大尉の声色には、愛しい者に対する労りと情がふんだんに盛り込まれていた。

 それを黙って聞いていた梶山少尉は、一昨日、食中毒に倒れた橋田を気使ったときのことを思い出し、──ああ、この人は本来は情の人なんだな。と感じていた。


「ええ、この所ずっと気分が良くて、もう病棟の子供達と遊んでも大丈夫だって先生がおっしゃったわ」

 静かだが艶のある声だった。

「どうせ、医者が言う前から子供と遊んでいたんだろ」

「うん」


 そう言って笑みを浮かべた優子を、梶山少尉は眩しく見つめると同時に、他人の家に遠慮無しに入り込んだ居心地の悪さも感じ始める。


 と、そのとき、彼女が梶山を見て微笑み、「初めまして少尉さん。お兄さんが隊の方をお連れするのは珍しいわね」と言った。


 梶山には、彼女が階級章が解るのかと軽い驚きがあった。

 軍人を輩出している家人といえども、階級を即断できるのは珍しい。

 ──ああ、そうか。

 置屋で軍人相手をしていたんだと思い出し、知らず知らずの内に嫉妬を覚えた。まだ彼女が起き出してから時間も過ぎていないというのにである。


「梶山少尉と申します。今日は中隊長のお付きでまいりました。以後、お見知り置き下さい」

 そう挨拶すると、優子は笑顔を深くして笑った。


「まあ、貴方が梶山さん。何時も兄が頼りになると仰っている方ね。申し遅れました、田実優子です。兄が御世話になっております」


 中隊長は自分のことを語っているらしい。

 それと合わせて、その笑顔を見ていると梶山少尉の心は激しく動揺し、つとめてそれを表に出さないよう苦労した。


「いえ、御世話だなんて別に……。自分の方こそ、中隊長にはご迷惑ばかり掛けています」

 以前はそんなことなど欠片も思わなかったが、今となっては本心だった。


「うそ」

 優子が小首を傾げた。そして続ける。

「梶山さん、それは嘘だわ。兄のことだから一人で何もかも済まそうとして、結局周りに迷惑を掛けているに決まっているもの」

 鋭い洞察だった。事の細部は知らない筈なのに、本質を鋭く言い当てていた。


「優子、いい加減にせんか」

 田実大尉が間に入る。

「せっかく見舞いに来たのに詮索ばかりすると、このまま帰ってしまうぞ」

 そうたしなめる兄に対し、妹も負けてはなかった。


「お兄さんこそ、ご迷惑掛けている皆さんに、きちんとお礼なりご挨拶しているの? してないでしょ。中隊長だからって威張ってばかり居ると、その内に誰からも愛想付かされて相手にされなくなるわよ」


 もちろん、優子は中隊長の置かれている苦しい立場を知らない。

 だが、それとなく部隊で疎遠にされているのを感じ取っているのかも知れなかった。


「その減らず口を閉じないと、これ持って帰るぞ。中身はお前の好物のすあまと横浜で買ったドルトムントのチョコレートとケーキだ」

 それを聞いた優子は目をくわっと見開き、兄の手を猛烈な勢いで掴んだ。


「兄様それはいけません。そんな大層な物をこのまま持ち帰られては、私は哀しみの余りまた病状が悪化する。するに決まっています」

 と、眉間にしわを作り、必死の形相だ。


「何をぬかす。今日はまだ咳一つしてない癖に、そんな手が通用するか」

 そんな二人のやり取りを見ていると、梶山少尉は笑みがこみ上げてくる。


「ほら、梶山さんにもあきれて笑われたじゃないの。兄さんがお土産を出し渋るからよ。今お茶入れるから、さっさと広げてね」

 そう言うか早いか、滑るようにベッドを降り、隅の一角に置かれた茶器戸棚に向かった。

「おい、起き上がって大丈夫なのか」

 心配する兄を余所に、彼女は快活にいった。


「何言っているのよ、もう敷地内なら散歩だって許されているのよ。これくらい何ともないわ」

「私もお手伝いします」

 まだ、何処かおぼつかない優子の足取りを見て、梶山少尉が席を立つ。


「頼む」

 そう言って田実大尉は、慣れない協同作業に勤しむ二人を見た。


 ──中々いい光景じゃないか。

 半ば無理やりではあったが、連れてきて良かったと実感があった。

 田実大尉が品物の包みを開けてベッド脇の机に広げていると、入り口から覗き込む小さな顔が幾つも現れた。


「入っても良い?」

 その内の一つが言った。

「お、午前の診察が終わったのか。そんな所に居ないで入って来なさい」

 大尉が手招きすると、どやどやと子供達が入ってきた。


「おじちゃんこんにちわ」

 一番幼いと思われる女の子がちょこんと頭を下げた。

「おじちゃんって言うんじゃないったら。ちゃんと田実大尉殿と言わないと駄目じゃないか」


 年長と思われる少年がそういさめた。

 たぶん皆、幼年学校をまだ出てない年頃の子供達だろう。

 その年頃の男の子からしたら、大尉という階級は憬れの対象だ。

 だから「ちゃんと敬意をもって接しなさい」と言いたいのだろう。


「はは、いいよいいよ。おじちゃんで充分だよ。さ、稲荷寿司も豆大福も、それにおはぎも沢山買って来たから、皆でお上がり」

 田実大尉が子供の目線で言った。

 その様子を見ていた梶山少尉に、優子がそっと言った。


「あの子達もここの入院患者です。もちろん親は軍属関係者ばかりですが、みな母親が居なかったり、父親が遠くに赴任している子供達ばかりです。兄は、いつも抱えきれない程お菓子を買ってきては、振る舞うのが好きなんです。普段は厳つい顔をしていますが、ああ見えて子煩悩なんですよ」


 梶山少尉は、正直あれほど大量の菓子類をどうするのか不思議だったが、これで合点がいった。確かにこれでは幾ら買い込んでも過ぎると言うことはないだろう。事実、子供達は思い思いに手を伸ばしては次々と頬張っていた。


「もっと湯呑みが必要ですね」

 梶山少尉が子供達を見ながらそう言うと、優子は梶山を見ながら、「ええ」と微笑んだ。

 やがて、手空きになった事務員の手島女子も病室に訪れ、初めは広いと思っていた病室が忽ちの内に手狭になった。もしかしたら、こういう理由で個室をあてがらわれているのかも知れなかった。


 その間に田実と梶山は車に戻り、積み込んだ荷物を降ろし、病室に運び込んだ。

「皆、一通り食べたかな。それじゃあ他にも渡す物があるから、集まってご覧」

 田実大尉のその言葉を待ってましたとばかりに、子供達がわっと集まってきた。お菓子の他にも、待ち焦がれていたお目当ての品物の到着に目が輝いている。


 一人一人に要望の品を手渡す姿を見ていると、どうやら事前に欲しい物を聞き取っていたようだ。その様子を梶山少尉は驚きでもって見つめていた。

 ──こんなまめな人とは思わなかった。まったく、部隊ではおくびにも出しやしないんだからな。


 いなごの様な欠食児童の攻撃に耐え残った菓子類を、田実大尉は小皿に取り分けた。手伝おうとする梶山少尉を手で制し、「お前には優子の世話を頼む」と言い、事務員の手島と作業を続けた。


「俺と手島さんはこれを持って各部屋を回った後、ちょっと席を外す。戻りは昼飯の後になると思うから、二人で好きに過ごすといい」

 お盆を手にした田実大尉はそう告げると、手島女史が、「じゃ、行ってきます」と、子供達を連れて部屋を後にする。


 残された梶山少尉は惚けながら見送り、その脇では優子が笑いを噛みしめている。

「兄はここに来ると、何かしら理由を付けてお二人で過ごすのよ。見舞いは口実で、本当の目的はそっちかも知れないわね」

「はあ……」


 そう笑う唇からこぼれる白い歯を見ながら、梶山少尉は他のことも感じていた。

 ──どうもそれだけではなさそうだ。もしかしたら、俺達で過ごせるように気を回したんじゃないかな。


 本日、訪れるまでは単なる中隊長の妹でしか無かった女性が、突如、違う存在にな成り始めていた。

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