第42話 陸軍戸山病院
その後、しばらくは無言の二人を乗せたまま、くろがね四軌は道を走った。
昨日とはうって変わって日が高くなるにつれ気温が上昇し、暖かい陽気になった。そして陽光が高くなる頃には、車は渋谷を過ぎて多摩川通りを左折し、明治道路に乗り換えて新宿を目指す。
町は急速に目を覚まし、師走の慌ただしさを身にまとい始めていた。
新宿駅周辺は個人商店と問屋がまばらに並ぶだけの寂しい所だった。
田実大尉は車を和菓子屋の前で停車させると、大量の大福やら稲荷寿司と言った物を買い込む。
そして明治通りを北へ向かって森の中を進み、大久保通りを右折して程なくすると小高い丘を囲むように深い森が広がり、その付近には医療設備が建ち並んでいた。
木々は紅葉が過ぎて葉が落ちて骨のような枝が天に延び、その中心に戸山陸軍病院があった。今日で言うところの高田馬場付近になる。車はその敷地内に滑るように進入し、かなり奥まった所で停車した。
「なんか寂しい所ですね」
梶山少尉は背延びしつつ、長時間同じ姿勢に凝り固まった肩と腰をほぐしながら言った。
「ここは保養施設を兼ねた隔離病棟だからな」
田実大尉も降り立ちながら言った。
二人の前には、病棟が静かにそびえ立っていた。
連れだって中に入っても静けさは変わらない。
しんと静まり返った廊下では柱時計が時を刻み、受付の女性事務員が簿冊に忙しそうに鉛筆を走らせ、その背後のダルマストーブでは薬缶が蒸気を上げていた。
長靴の足音と床板のきしみに気が付いた女子事務員が顔を上げる。
そして、それまでの難しい表情を一変させて顔を綻ばせた。
「あらあら、こんにちは田実大尉。お待ちしておりました」
歳の頃なら二十歳半ばといった所だろうが、それ以上に若い声ではきはきと言葉を発した。そのせいか、その事務員はまだどこか子供っぽさを残していた。
「こんにちは手島さん、いつも妹が御世話になっています。これ、差し入れですが、皆さんで召し上がって下さい」
そう言って手にした包みの一つを差し出すと、受け取った女性はそのずっしりとした感触に、より一層笑みを深くした。
「いつもすみません」と礼を言った直後、梶山少尉の方をちらと見る。
ほんの一瞬複雑な表情を見せながら、「そちらは隊の方かしら」とさりげなく探りを入れてきた。普通なら気が付かない程度の、僅かな表情の変化だった。
「ああ、彼は俺の腹心だから心配しなくていいよ」
そう説明されると、梶山少尉は背中がむず痒くなる感覚を覚えた。
──腹心か、随分と見込まれたものだ。
手島と呼ばれた女性はため息と共に堅くしていた表情をゆるめた。
「そうですか、それは良かった」
どうやらこの女性は単なる顔見知りと言うだけでなく、大尉の困難な立場を知っているのだろう。
「梶山少尉と申します。今後とも宜しくお願い致します」
「はじめまして少尉さん」
手島は歯切れの良い発音で挨拶すると、丁寧過ぎると言うか正直くどいと思わせる一方的な自己紹介が続き、最後にこういった。
「田実大尉さんは御武運に恵まれ、確々たる戦果をお上げになっている優秀な隊長さんですから、貴方もさぞかし部下として鼻が高いでしょうね」
その言葉を受けて、梶山少尉は硬直して曖昧な返事をする他なかった。
つい一昨日まで、その大尉を嫌っていた等とはとても言える雰囲気ではなかった。
それを察した田実大尉が笑いを堪えつつ梶山少尉の肩に手を置いた。
「じゃあ手島さん、俺らもう病室の方へ行くわ。時間があったらまた寄らせてもらうけど、ここよりも事務所の方でいいかな?」
「ええ、一時間毎にここと事務所の往復よ。是非いらしてね」
田実大尉と梶山少尉の二人はその場を後にした。
廊下には消毒液の匂いが充満し、あまり人は出歩いてなかった。梶山は廊下を進みつつ、各病室を覗き見てもそれほど患者は多くなく、空きベッドが目立った。
ふと気が付くと、どこかで誰かがレコードがかかっている。
それは一番奥の部屋から届き、どうやらそこが田実大尉の向かう部屋らしい。
──なんて曲だろう。どこかで聞いたことあるような。
梶山にクラッシックを聴く風習はない。
そんな彼にも聞き覚えのある有名な曲であることは分った。
田実大尉が部屋の前に立ち、ゆっくりと戸を開けて入室する。梶山少尉もそれに続いた。
目に飛び込んできたのは白の世界だった。
乱雑に広げた掛け布団を背に置き、薄い布団とシーツを着るように羽織り、病院着に身を包んだ姿で女性は寝ていた。その全てが白かった。
その光景を見た梶山少尉は、何か──儚いな。と感じずには居られなかった。結核のせいもあるだろうが、患者の肌が透き通るように白いことが強く印象付けられた。
「だらしない寝姿だな」
兄である田実大尉はそう苦笑した。
個室ながら部屋にはダルマストーブが赤々と燃え、陽気も手伝ってかなり暖かく、外套と制帽を被っていると暑い位だった。それが寝姿に表れていた。
二人は手荷物を脇に置き、椅子に座った。レコードも演奏が終わり、部屋には静けさが戻った。
「三年経ったか……」
寝顔を見つめながら、田実大尉がぽつりと言った。
「これでもだいぶ顔色も良くなった方だ。以前はもっと、そのなんて言うか、精気を使い果たしたように青白かった」
三年前と言えば、ちょうど中隊長が赴任してきた頃だ。
試製十式の開発も緒についたばかりで、梶山少尉もまだ隊に馴染めなていなかった。
この目の前の女性は、そんな以前から入院していることになる。
「そんなになるまで、誰も気が付かなかったのですか」
「ああ。優子は、これは妹の名だが、その頃一人で暮らして居てな。家にも寄り付かないと言うか、家人とも会おうとしなかった。そして無理を重ねる内に病状が悪化した」
そう語る田実大尉の拳は、膝の上で白くなるまで握り締められていた。
たぶんではあるが、置屋に居たことと家人に会おうとしなかったことはまったく無関係ではないように思えた。そしてそのことを、当然、中隊長は不憫に思い、後悔しているようであった。
なぜ、そのようなことになってしまったのか、田実本人はどのような関わりが存在するのか等の疑問は、もちろん梶山少尉にはその概略すら分からず、そのことを尋ねるのは、ためらわれた。
「一時は覚悟を決めたよ。何しろ誰もが匙を投げたんだからな。その時、奴が現れやがった」
「宮田中佐ですか」
その問いに田実はあごを引いて頷き、話しを先に進めた。
「奴の提案は、お前も知っている汚い策謀の手助けだ。ちょうちょもしたが、正直その提案は有り難く感じた。俺が云と言えさえすれば、出来うる限りの手厚い治療が受けられる。その魅力には抗し切れなかったんだよ」
申し分けなさそうに語る中隊長を見ている内に、梶山少尉の身の内に、身内の弱みにつけ込む宮田中佐への怒りがふつふつと沸き上がるのを抑えられない。
「それで今後の方針ですが、本当にこのままで良いんですか。何とか妨害派の影響を排除できないものでしょうか」
その問いに田実大尉は軽く頭を左右に振った。
「それは考えないことだ。何せ、予算配分から合否の採択まで握っている連中だ。排除しようと画策すれば、我々が排除される」
その答えは梶山少尉も予想していた通りのものでしかなく、要するに打つ手無しだった。
「そう言う次第だから、以前言ったように二人で奴らをあざむくしかない。これは何時まで続くか分からんし、成功しても誰も誉めてはくれん仕事だ」
その台詞に対して梶山少尉が悔しさとやるせなさを滲ませていると、田実大尉が優しく語りかけた。
「でもな、歩機を護り育てて行くんだから、やり甲斐はあるぞ。それに最終的には我々が勝つに決まっている」
「我々がですか」
梶山少尉には俄には信じられなかった。頭を押さえられている状態で、楽観過ぎるのではと言う気さえした。だが田実大尉は、それを見透かしたように軽く笑みを浮かべて見せた。
「忘れたのか、歩機の開発は世界的な潮流だ。いくら毛嫌いして駄々を捏ねても、その流れには逆らえん。従って開発は絶対に無くなりはせんから、見届けたければ波風を起てずに連中を化かし続ければいいんだ」
そう自信たっぷりに言い切った。
「化かすねえ……」
梶山少尉がなおも訝ったとき、それまで寝ていた優子が目を覚ました。




