第37話 実演開始当日 ── 夜間の部・ノモンハンの教訓 ──
聞いた河嶋兵長が戸惑っているのをよそに、梶山少尉が重い口調のまま続けた。
「かけらもふざけちゃいねえ。対地攻撃機、強力な中重戦車、そして大口径の対戦車砲。この三つの内、どれか一つも無かったら近代的な敵に戦争をふっかけちゃあいけねえのさ。だがな、日本って国と軍隊はそれをしたんだ。手段を持たずに、戦車と戦えときたものだ。どうすれば良いか分かるか?」
聞かれた河嶋は、先ほどまでとうって変わった少尉の様子に戸惑っていた。
「ですから、それを聞いているのですが……」
彼はそう弱々しく言葉を絞り出すのが精一杯だった。
それを受けて梶山少尉が答える。
「だったな。答えは簡単、生身の人間が戦うのさ。飛行機があっても呼べず、重戦車や倒す砲もない軍隊は、人間だけが武器なんだ」
河嶋兵長は話しの流れに戸惑っていた。
言わんとしていることは分かるが、その教訓がいま必要とは到底思えなかったからだ。
「あの……少尉はそんな戦場を体験したのでしょうか」
「したよ」
さらりと言った。
そして、「お前、ノモンハンって知っているか」と続けた。
河嶋には話しの筋が見えなかった。見えないまま、問い掛けに従うしかなかった。
「その地名だけは」
彼のような少年が、あまり知らないのも無理はない。
満州とモンゴル国境のへんぴな土地をめぐって、昭和一三年に極東ソ連軍と満州に駐屯する日本の関東軍が数度に渡って激しい戦闘を繰り広げた地名、それがノモンハンだった。
そこには何もない。
文字通り何もない土地で、ただ草原が広がっているだけだった。
他にあるものといったら河、そして所々に生える木。
それしかない。
そんな土地の奪還を巡り、日ソ両軍は大軍を投入した。
他の戦線のような華々しい戦場と違い、得る物も少なく、また新聞の扱いもそれほど大きくなく目立たない戦場だが、その実体は、日本が体験する初の近代的な戦場だった。
「だろうな。そこはただ草原が広がるだけの何もない土地でな、初めは対ソ連用の軍隊である関東軍が二度戦ったが、そこで戦力をすり減らして主軸の防衛線が弱体化してしまった。アムール川流域とかイマン、綏粉河といったソ満国境辺りのことだ。そこで一五年に、支那派遣軍のうち五個師団を抽出し、関東軍を支援して再度ノモンハンで戦った。その中に、洛陽での戦闘を終えたばかりの俺も居たんだ」
河嶋兵長は、少尉の知られざる過去を明かされ、胸の動悸が激しくなって行った。
そんなことにお構いなしに梶山少尉は先を続ける。
「俺達はいい気になっていた。それまでに幾度となく約一〇倍以上もの將介石軍と戦ってきたし、強敵のソ連軍も二度の戦闘で装甲車と快速戦車の大半を喪失したと聞いていた。だから後もう一押しすれば楽に勝てると信じきっていた。何しろ俺達は、それまで一度も負けたことがなかったのだからな。だがそれはソ連軍の恐ろしさを知らぬ間抜けな妄想でしかなかった」
そこで梶山少尉は一旦言葉を切り、一呼吸ついてから後を続けた。
まだ対抗部隊の戦車は動き出さず、待ちかまえたままだった。
河嶋兵長は相づちを打つのさえ忘れて聞き入った。
「ソ連軍の奴らは機甲戦力の主力を装甲が脆弱な高速戦車から、新型中戦車のT─34に切り変え始めていた。この戦車の恐ろしさを聞いたことくらいはあるだろう」
もちろん河嶋兵長もその戦車の名前はよく知っていた。
ソ連軍T─34中戦車。
この名前は世界史に残るほどの意味を持つ。
ただの性能のいい戦車という範疇を超える。
それまでの戦車の概念を根底から覆したといっても過言ではない。
そう言った名前だった。
砲弾をはじく避弾傾斜、つまり装甲を斜めにして砲弾をはね除けるようにした強力な装甲と七六・二ミリ長口径の戦車砲を備えていた。
要約すると防御と攻撃に秀でている。
そして幅広の履帯でもって他の車輌が動けないような悪路でも滑るように走り回ることができた。
機動力も高い。
つまり走・攻・守、全てにおいて比類ない性能を発揮した。
その強さは、当時の列強が保有している大半の戦車や対戦車砲では、ほぼ撃破不可能な恐ろしい相手だった。
それがT─34。
ソ連の守り神と言われた。
「ええ、戦闘の話しは余り伝わってきませんし、戦車学校の教官も多くを語ってはくれませんでした。ですが、なんでもノモンハンで鹵獲したT─34を研究し、我が軍の戦車開発に多大な影響を及ぼしたとは聞いています」
「我が軍だけではない。世界中の軍隊がその戦車を調べて対抗せざるを得なかったほどだ」
梶山がそう訂正した。
そして、「教官達が語りたがらないのも無理はない。第二会戦の時でさえソ連軍軽戦車の四七ミリ砲に苦しめられ、それが為に我が戦車の消耗を恐れて戦い半ばで後方に下がった位だからな。だが、第三会戦の時はもっと悲惨だった。何せT─34が大挙して押し寄せてきた。見渡す限りのT─34の群れが、地平線の向こうからやってきた」
河嶋兵長は唾を飲み込んで聞き入っていた。
今にもソ連機甲軍が襲ってくるような気が、そんな光景が脳裏に浮かんだからだ。
「戦えるのは僅かな大口径野砲のみで、それでさえ昨夜来の砲撃戦で消耗し尽くし、砲弾が無くなるともう駄目だった。後は人間が機械と戦うしかなかった。そして、われわれ工兵は爆薬の扱いに慣れているからな、どうしても先頭を切って戦う他なかったよ。地雷、梱包爆薬、そして破壊筒。それらを抱えて戦車に向かって飛び出して行ったんだ」
少尉の言葉には当時の苦渋がにじみ出ていた。
それに釣られるようにして、河嶋兵長も絞り出すように言葉をはいた。
「それで、少尉はどうしたんです。もちろん無事だからここに居るんですよね」
「俺は幽霊でもなんでもないよ」
そう言って少し笑ってみせた。
「飛び出した瞬間に、戦車から銃弾を浴びて倒される者が続出した。突撃に成功しても爆破に巻き込まれたり、他の戦車に蹂躙されて次々と死んでいった。ある兵士はあまりの悔しさに戦車に飛び乗り、主砲に噛み付いたところで砲が火を噴いた。そいつはあごから上を飛ばされた。小隊で生き残ったのは俺の他に二人だけだ。ただしそのの一人は、砲撃で左手を吹き飛ばされ、倒れた所を戦車が通過して右足を潰された。中隊一八〇名で助かったのは、伝令として戦場を離れていた者も含めて、たった十一名だ」
梶山少尉は、いったんはそこで言葉を切った。
そして再び口を開く。
「生き残ったのは十一名だけ。残りは全てT─34にすり潰された」
気が付くと、無線の向こう側、中隊本部のざわめきが消えていた。
誰もが談笑を止め、少尉の話しに聞き入っていた。
まれに聞く話しでは、中隊には他の戦線で似たような体験をした者も居るらしい。
「なあ河嶋よ、歩兵教範の対戦車肉薄戦闘、その要目を思い出して見ろ」
そこまで言われて、河嶋兵長には少尉が何を言わんとしているのかが、おぼろげながらに見える思いがした。




