第19話 実演開始当日 ── 田実中隊長のもう一つの顔 ──
「いや、自分の立場が分かっているならそれで良いんだ。我々はお互いを助けられる関係なんだと言うことを、常日頃から忘れないで欲しい」
呉越同舟というには汚い関係が、両者の間柄だった。
「話しがそのことだけなら、もういいでしょう。これで失礼させてもらう」
「いや、まだあるぞ。お前にしかできない仕事は、はてが無い」
立ち去りかけた田実大尉を宮田中佐はそう引き戻した。
「この上まだ何かしろと」
中佐は直接その質問には答えず、妙なことを言い始めた。
「夕食後に、糧食班から副食として甘酒が配給されることになっている。お前はそれに手を付けるな」
「は?」
田実の眉間にしわが寄る。
「だから甘酒を飲むなと言っておるんだ」
「まさかあんた……」
凄く危険な匂いがした。
今までも充分過ぎるほど薄汚い行為ばかり押し付けられてきたが、今度はそれらを遙かに越えそうだった。
「いや、冬とは言え、食中毒には充分気をつけろと言っているだけだ。まあ死ぬことは無いだろうが、対抗戦をこなすのは難しくなるんじゃないかな。いや、これは仮の話しだが」
田実大尉は中佐の前歴を思い出していた。
自分では歩兵科なんて言ってはいるが、本来は防疫給水部、つまり軍医の出身だった。それなら淀橋区戸山の陸軍病院へ妹を送り込むことも、そして配食に何かを混入させることも造作ないはずだった。そして彼の家が、軍民の医療施設が建ち並ぶ港区白金台なのも、そのことと全く無関係ではなさそうだった。
「どこまで……」
田実大尉は目の前の男を睨んだ。
「別に嫌なら良いんだ。代わりの者なら幾らでも居るし、それに軍では急な異動なんて珍しくもない。お前も、妹さんを置いて厳冬のソ連国境へ赴任するのは気が進まないだろう。だが安心しろ、たとえそうなっても妹さんは完治させてやる。もちろんその後の面倒も俺達が看てやるがな」
そう言って中佐は、随分と愉しげな、そして過去を反芻するような含み笑いを漏らした。
「あんたって人は、何処まで、一体何処まで腐りきっているんだ。俺に仲間を裏切らせるだけでは飽きたらずに危害まで加え、そして妹まで出汁にしやがって」
田実大尉は怒りで身体が震えるのを抑えきれなかった。
今この瞬間に飛びかかり、宮田中佐の喉笛を咬みやぶってやりたかったが、寸での所でなんとか圧し止めた。やはり妹の顔が思い出されたからだ。
「ふん、中隊の部下は、誰もお前のことなんて仲間とか本当の上官だなんて思ってはないだろうさ。それとも何か、何処かで理解されている、解ってくれていると思っている訳じゃないだろうな。だとしたらとんだお笑い草だな」
大尉は前髪を垂らして焦燥仕切った表情で中佐を見つめ、分かりきったことではあるが、こいつに何を言っても無駄だと諦めた。
そして、部下の顔を一人一人思い出していた。
彼らは、今日までただ一生懸命開発を続けてきた。歩機を完成させ、そして世に問う為に。それだけを望んで、ひたすら職務をこなしている。なのに俺は、妹の為に部下を売った。心の中で、許せと何度も手を合わせながら。
「それだけか。他には何をしでかすつもりなんだ」
田実大尉はそれだけをやっと絞り出した。
「今の所はそれだけだ、必要になったらまた連絡する」
それを聞けば充分だった。大尉はのそりと立ち上がると、挨拶もなしに立ち去ろうとしていた。
「分かっているだろうが、妹が大事なら黙って言うことを聞くことだ。それが、結局皆の為でもあるんだからな。それを忘れるな」
田実大尉には返事を返す気力も喪失していた。ただ早くこの場から立ち去り、部隊に戻りたかった。誰からも慕われなくても、自分には部下を見守る責務がある。それだけは全うしたかったし、それだけしか出来なかった。




