第1話 実演開始当日 ── 演習朝の来客 ──
その日の富士は快晴だった。
冬の冷気が山全体を覆い、山頂から吹き上げられた粉雪が青空に一条の白い筋を描いて、糸のように南西の方角にたな引いていた。
だが麓の風はそれほど強くない。
それでありながら山頂には風が強いことが見て取れる。
こんな日は天気が変わりやすく注意が必要だった。
そんな日だった。
富士の裾野に広がる広大な演習場には、日本帝国陸軍開設以来、実に多種多様な演習および実験が行われてきた。
日本陸軍の全てを見てきたと言ってもいい土地である。
が、今日、昭和二五年の師走も近い厳冬期に行われる実験演習(実演)は一風変わっていた。
場所は人目を避けるように西富士演習場で行われ、民間人はもちろんのこと、関係のない兵士軍属も立ち入ることは許されなかった。そして周囲には警戒の憲兵歩哨が置かれ、その彼らにも具体的な実験内容は知らされないほどの厳重な警戒の中で開始の時がおとずれるのを待っていた。
実演実施部隊は街道から奥まった広野に展開し、そこには多数の天幕が建ち並ぶ。
付近には各種重車輌が停車し、中でも幌に囲まれた一台の巨大な牽引式の自動貨車が特に目立った。
自動化車とはトラックの和名である。
牽引式の自動貨車とは、すなわちトレーラーのことを意味する。
その大小さまざまな天幕群の中央に位置する実演本部には、早朝から人が慌ただしく出入りを繰り返し、実験が佳境であることを物語っている。
演習の進行管理は、実施部隊である第一〇三独立実験評価中隊の梶山本史少尉が一人で取り仕切っていた。
とは言え、それほど彼が優秀と判断されて任されている訳でもなく、ただ書類作りが丁寧で、細部に気が回る所が任された主な理由だった。
彼は昨夜遅くまで各部署の足並みを揃えるのに苦心し、何とか今朝の実演に間に合わせることができた。後は時間になるのを待つだけだった。
梶山少尉が朝食を兼ねた進捗会議を終え、本部の天幕を出た。
そこで背伸びをして、つい、あくびが出た。
そのときである。
「ちょっと、よろしいでしょうか」
背後から声がした。
軍人の声ではない。
どこか緊張感のない娑婆の声色、その匂いがした。
振り返る。
するとそこには、大きい図納を持った見るからに技術者と分かる若い男が立っていた。
「えっと、貴方は」
あくびで出た涙をこすりながら、梶山はその言葉を絞り出した。
そうしながら脳内の記憶を慌ただしく探る。
その顔には覚えがあるものの、とっさに名前が出てこなかったのだ。
何しろここ数週間の間、実演に関連する無数の人間が部隊を出入りし、逐一確認している間がなかったからだ。
ましてや相手は民間人だ。
普段付き合いのある相手ではない。
「清水建一技官と申します」
図納を持った男は、そう言って軽く会釈をした。
そして、「技官と言っても、東京の通信研究所からの臨時出向組ですが。一度、四研(陸軍第四研究所)の演習準備説明会でお会いしましたが、お忘れでしょうか?」と続けた。
梶山少尉は、そこまで言われても思い出せなかった。
何しろ軍人には民間のように名刺を交換する風習もなく、貰ったとしても机の引き出しにしまい込んだまま見直すこともなかったからだ。
「ああ、あの時にお会いした通研の方ですか。説明会のときは忙し過ぎて、ろくに会話もできませんでした」
思い出せないまま、少尉は曖昧な返答を返す。
嘘ではないし、あまり覚えてないようでは大した話しをしてなかったに違いないと見当をつけた。しかし清水技官は、そのことを見透かしたような笑みを浮かべて見せる。
ただし、嫌味や批判めいた意図は感じられない。
「あまり覚えておられないのも無理もありません。あの時の会話は、開発の重点である機体そのものではなく、命令伝達機構と通信機器に関することでしたから」
そこまで言われてやっと思い出すことができた。
何か気がついた顔になる。
電子技師の数名に、電気系の改良について要望を伝えていたことがあった。
その中の一員が、目の前にいる彼だった。
「確か電気装置の雑電波発生を抑える話しをしましたね。それに電気計算機の改良と、無線機の安定度を上げることも検討していただけるよう要望したと記憶しております」
「そうです、そうです。思い出していただけたようですね」
清水技官は破顔してうなづいた。
梶山少尉は三〇代前半であるのに軍人然とした所が少なく、民間人に対して尊大な態度をとらないので清水は好意をもっていた。
「あの時以来、検討と改良に没頭していたものですから、ご連絡が滞ってしまい申し訳ありませんでした」
そうのべて深々と頭を下げる技官に対して、梶山少尉は少し狼狽えながら手で征した。
「構いませんて。それにしてもこんな所まで一体何用です。改良点だけなら指示書で済みますし、機器の授受であるならば原隊の者に頼めば届けてくれる筈ですけど」
技官は、「その事ですが」と言って図納から一枚の書類を取り出し、「新しい電算盤と無線機が一昨日完成致しました。実演の期日まで迫っていたものですから、書類を完備するのはあきらめ、口頭説明と機器を手渡しするためにここまで来ました。これが、その許可書です」と言って書類を差し出した。
用紙を受け取った梶山少尉は、要領の得ない表情で文面を見る。
そこには『機材委譲に関する許可書』と表題が記されていた。
少尉の見たところ、清水技官は不精髭が延び、頭髪も若干乱れていた。さらに作業服にも折り目が消えて座りシワと多数の染みができている。多分、仕事が終わった後に夜通し車に揺すられてここに来たのだろう。
もっとも技術者の幾割かは、何時もこんな風貌ではあった。公の説明会のときも同じだったことを、梶山少尉はおぼろげながら思い出していた。




