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01 甘い男

 

「お兄ちゃん、起きて! 朝だよ」


 誰……かの声が聞こえる。今なんて?


 頭が妙にぷわぷわして思考は停止状態。神経細胞ニューロンが出勤拒否してる。それだけでなく、音の聞こえ方もなんか変だ。


 ダイレクトに響かない、やけに籠った音。薄い膜ーー例えば卵膜? みたいなのを通して、遠くから響いてくる。だから、どこか現実感を伴わない。


 それでも、唯一明瞭に聞こえた「朝」という言葉に反応して、ノロノロとベッドから身を起こした。


「朝? ……もう?」


 眠い。鈍くぼやけた頭を振る。なんだろう、この酷い違和感は? 自分の身体が、自分のものでないような。


「お兄ちゃん、また夜更かしたの? 急がないと遅刻しちゃうよ」


 部屋の入口から、再び声が飛んできた。遅刻って? 遅刻……!


「今、何時?」


 まだ働かない頭で、反射的に聞き返す。


「七時半!」


 やべっ! 


 その言葉で一気に覚醒する。慌ててベッドから抜け出し、いつもの習慣で浴室へと直行した。


 ヒュッ! 冷て。水が肌を伝う感触に、肌が軽く粟立つ。


 でも時間がない。七時半だよ、七時半! まだお湯になりきっていない冷たいシャワーを無理矢理浴びて、あるはずの寝癖を直した。烏の行水だけど、この際我慢だ。


 浴室を出ると、無造作に伸ばした手にタオルが触れた。引き寄せて軽く身体を拭き、そのまま首にかける。


 ボタボタと雫を落とす髪。適当に水気を拭いながら、洗面台横の戸棚に向かったときーー鏡の中の人影がチラッと視界の隅をよぎった。


 えっ!?


 一瞬掠めた映像に目を奪われ、そこで初めて正面にある鏡に向き直る。


 はいっ!?


 あまりの驚きに、惰性で髪を拭いていた手が止まってしまった。


 誰……こいつ?


 洗面台の壁一面に張られた大きな鏡。そこに一人の若い男が映っている。


 その男をマジマジと見つめると、向こうも同じようにこちらを見つめ返してきた。鏡に手を触れ、覗きこむように近づけば、鏡の中にいる人物も近づいてきて、吐息でガラスが白く曇る。


 鏡像……なのか?


 でもそこに映っているのは、どう見ても自分じゃなくて。だって、こんなやつ俺は知らない。見たこともない。じゃあこれは誰?


 それに……なに、この眩しいイケメン?


 鏡の中にいるのは、薄茶色の濡れ髪からポタポタと水を垂らした、やけに色気のある男で。まさに水も滴るいい男。その姿は、よく女性誌の表紙に載っているような、半裸の男性タレントみたいだった。


 ……おかしい。


 現状がおかしいのか、それとも自分の認識がおかしいのか。それすら判断がつかなくなってくる。めっちゃ混乱してる。


 どうしよう? どうすればいい? 病院か? そもそも俺は……。


 何度瞬きをしてみても、状況は全く変わらない。鏡に映っているのは、相変わらず魂を抜かれた様に呆然とした、見知らぬ若い男。


 そこらのアイドル顔負けの、超甘いマスクをした、物凄いイケメンだった。


 そう甘い……とても甘い。激甘だ。

 例えるなら、プリンの上にとろりとかかった、濃厚なカラメルソースーーみたいな?


 ん? なんで食い物に例えてるの?


 でも急にそんなイメージが浮かんできたから。いや、これは……もうダメかもしれない。動転。混乱、意味不明。そういったもので、頭の中がいっぱいになっていく。


 だって。だってだって。こんなの、俺じゃないよ……。


 ◇ ◇ ◇


「お兄ちゃん。私、先に行っちゃうからね。朝ごはんは用意してあるけど、さすがに食べていたら遅刻かな?」


 しばらくそのままボケッとしていたら、洗面所に妹ーーじゃない、見知らぬ女の子が顔を出した。あの声の子だ。俺をお兄ちゃんと呼ぶこの子も、今のところ正体不明なわけで。


「君は……誰?」


「うん? どうしたの? 妙なこと言い出して。結衣(ゆい)だよ。妹の結衣。お兄ちゃん、頭起きてる?」


 俺を見上げながら、さも当然というように、自己紹介をする少女。


「結衣? 君が妹? じゃあ、俺は誰?」


「へ? やだお兄ちゃん、そこまで寝ぼけてるの? 私、もう本当に行くからね!」


「ねえ! 俺が誰か教えてよ!」


結星ゆうせい! 武田結星だよ! じゃあね! 行ってきま〜す」


 バタバタと逃げるように、結衣と名乗る少女が家を出て行く音がした。


 待って! という暇もなかった。でもあの様子じゃあ、声をかけても待ってくれなかった気もする。


 それにしても、結星? お兄ちゃん?


 それって変じゃん。俺には妹なんていない……はず。やだな。なんか急に自信がなくなってきた。それに俺の名前は……あれ? 俺の名前って、なんだっけ?


 額に手を当てて考える。


 自分の名前。知っていて当たり前のことが、この瞬間に分からなくなる。喉元まで出かかっているのに、カケラも答えが出てこない。


 砂が溢れるように抜けていく記憶。急激に迫る喪失感。


 おかしい。いくら考えても、何度考えてもおかしい。俺は誰? これって記憶喪失ってやつ? 


 肝心なことが何も思い出せない。


 不安になって辺りをキョロキョロと見回す。ひどく落ち着かない気分になり気が焦る。家は……変わっていない気がーーいや、慌てていて気づかなかったけど、よく見ると所々違う。


 洗面所の床に敷かれたマットの模様。洗面台に置いてあるコップの色。この首にかけているタオルだって、どれも見慣れないものだ。


 知っているようで知らないもの。どれが本当? 一旦そう思い始めたら、益々記憶が曖昧になり始めた。


 わけが分からない。


 いずれにしても確かなのは、記憶、あるいは認識がおかしいということ。とりあえず部屋に戻って、それから考える?


 でも部屋って。あれ?


 先ほど出てきた部屋は、俺の部屋だよね? でも本当にそう? 部屋の中はどうなっていた?


 自分が置かれている状況を把握すればするほど、ただ困惑する気持ちばかりが強く湧き上がってきた。


 次に何をすればいいのかさえよく分からず、途方に暮れてしまう。


 だから仕方なく、俺はぷにゅぷにゅと不安定になった気持ちを抱えながら、足取りも重く、先ほど俺が寝ていた部屋へと戻っていった。



 ◇



 改めて四方をぐるりと見回す。……うん、凄くしっくりとくる。この感覚は、ここは俺の部屋だよって言ってくれている気がする。


 アイボリーカラーの寝具に、焦げ茶色のベッド。カラフルなグルメマップや食べ物関連の本が並んだ本棚。余計なものが少ない、こざっぱりとした室内。どれに対しても、全く違和感を覚えない。それどころかむしろ、自分のテリトリー的な安心感すら与えてくれる。


 そんな風に細かい部分まで観察してみたら、壁際の机の上にふと目が留まった。何かある。やけに目につく、濃い卵の黄身みたいな色をした何かが。


 近づくと、それが一冊の本であることが分かった。でも、こんなの見覚えがない。


 恐る恐る、その本を手に取ってみた。予想していたよりも重い。表紙に張られた布の感触が、サラサラと手に馴染む。


 これは、凄く大事なものなんじゃないか。本に指先が触れた瞬間に、そんな思いが湧き上がってきた。


 そう、これは「読まなきゃいけないもの」だ。直感が強くそう訴えかけてくる。


 ……(しおり)!?


 本に栞が挟んである。改めてよく見ると、その本と思ったものは、どうやら日記帳のようだった。


 光沢を放つ黄色い布地に、植物を模した優美な金色の箔が押されている。美しいが、しかしひどく派手なその本の背表紙には「Diary(ダイアリー)」の文字が。


 中を見ようとしたら、栞が挟んであるところで、自然に日記帳がパタンと開いた。



 ◆ 6月 6日 ◆


 そのページには日付しかなかった。


 それ以前のページには…… パラパラとページをめくると、前の方に何か記載があるのが見える。

 日付を遡りながらザッと読んでみて、記載されている内容に(おおよ)その見当がついた。


 これは俺の日記帳だ。


 いや正確には、こうなる前の()()()俺のことを「誰かが」綴った日記帳になる。


 なぜかそうと確信ができた。書いてあるのは、まるでふざけた内容だった。とても信じられるものじゃないーーにもかかわらず。


 今の俺が置かれた状況を理解するためには、この日記帳は「読まなきゃならないもの」だ。先ほどと同じく、その思いが強く心を捉える。


 オカルティックな強迫観念にも似たその思い。


 なんだか怖い気もするが、そうも言っていられない。よし! 覚悟を決めた。


 ページを戻り、日記帳の最初のページを改めて開く。そして恐る恐る、そこに書かれている得体の知れない誰かのメッセージに、俺はゆっくりと目を通し始めた。


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