エピローグ
メイファンの首領が相変わらず、黒蛇と呼ばれているとの噂を耳にしてからも、ミランはその小径をよく歩いた。
「ミラン、もうあそこには行くなよ。僕とモニが一緒なら、ミランはそれで良いだろ?」
ぶうたれたシュワルトをなんとか宥め、森の入り口までその背中に乗せてもらう。
森の中へ入る小径。覚えている。幼い頃ここを通って、ルォレンに会いに行った。市場からの帰り。服の中には、盗んだパンや果物。
(懐かしい)
小径を歩くたびに思う。
木漏れ日が、チラチラと頬を差し、ミランが進むたび、足元ではパチリパチリと小枝を踏む音がする。
腰に下げた大刀が、ゆらりゆらりと、振り子のように揺れる。
そして少し進むと、目の前に見えてくるのは、あの大木。
幼い頃は本当に、大きな大きな木だと思っていた。けれど、大人になった今、こうして見上げてみるその木は、確かに他と比べると一回りは大きさが違っていたが、けれど突出して大木、と言うわけでもなかったのだ。
ミランは苦笑した。
(あの頃は、生きることに必死だったからな。他の木と比べたりする余裕はなかったのだな。それに……)
ミランがほっと息を吐く。
(あの頃は、ルォレンのことしか見えてなかった)
手を大木へとそっと添わせる。
二人が肩を寄せ合った根元の空間は、今や大人一人がようやく入れる場所となった。
ミランはその空間に身を沈めた。気持ちの良い緑陰と木漏れ日を感じながら、幼い頃を思い浮かべるように目を瞑った。
「ルォレンには、いつ会えるのだろうな……」
いや、もう会えないかも知れない。交わしたものは、ただの口約束。
ミランは、空を見上げる。青い空はところどころ。大きな木が伸ばした枝に、緑の葉。その葉が、風に揺れていた。
✳︎✳︎✳︎
「ミラン、ミラン」
目を開けると、ルォレンが怪訝そうな顔を浮かべながら、覗き込んでいる。
「……ルォレン」
「ミラン、こんな所で寝ていると風邪をひくぞ」
(ようやく会えたと言うのに、それが最初の言葉か……)
苦く思ったが、ミランは身体を避けた。ルォレンが隣に入り込んでくるからだ。
「ルォレン、無理だ。狭い」
ルォレンは笑って、けれど、ぐいっとミランの隣に入り込んでくる。
「大丈夫だよ、まだ並べる」
そして、感じるルォレンの体温。お互いに見つめ合えば、息がかかるほどの距離。頬に、その息を感じながら、肩に、その呼吸する動きを感じながら、ミランはルォレンを愛しく思った。
「ルォレン、遅かったな」
「ああ、ずいぶん時間がかかってしまった」
「髪が真っ白だ」
「ふは、もう年寄りだよ」
目尻の皺を深くして、ルォレンは笑った。
「ミランは相変わらず、美人だ」
「私だって、歳を取った」
白髪や皺のありかを確認するかのように、二人は見つめ合った。皺のたくさん寄った顔のそこかしこに、気の遠くなるような長い年月が経ったことを感じたが、ミランの心はそれでも穏やかに凪いだ。
「こんなにも、年月が経ったというのに、まだ俺を待っていてくれたんだね」
「まあな。けれど、ずいぶん待たされた」
「遅れてすまなかった」
「いや、いいんだ」
ルォレンが優しげに囁いてくるのを、ミランも同じような口調で返事を返すと、ルォレンの肩に頭を持たせかけた。
「ずっと、待ってた」
「ミラン、」
「気の遠くなるような長い時間、ずっと」
「ミラン、」
(ずっと……)
ミラン。
名前を何度も呼ばれて、ミランはそのルォレンの声を堪能した。ゆらりゆらりと揺れる緑陰の中。水に漂うような気持ちの良さ。
「ミランっ」
けれど、そのたゆたうような世界から、急に腕を引っ張られるように、名前を呼ばれて正気を取り戻した。
ミランは、真っ直ぐを見た。
そこには、やはり懐かしいルォレンの顔。
「……ルォレン?」
「ミラン、ようやく会えた。ミラン、ミラン、」
ぐいっと前から抱き締められ、そしてルォレンの肩口に顔を埋めた。
「ルォレン、若返ったのか?」
まだ、意識が朦朧としている。そんな中、ルォレンの熱い体温に、身体が火照り出す。
「何を言っているんだ? 夢でも見ていたのか?」
背中に回った腕に力が入る。頬に頬が擦り寄せられ、ミランはようやく腕を回した。
「ルォレン、」
「ミラン、俺はようやく自由だ。約束しただろう。自由になって、必ず迎えにいくと。この大木の下で、待っていてくれと」
身体を離す。けれど、お互いの顔は近づいていく。
ルォレンが眉根を寄せ、堪らないというような表情を浮かべると、ミランの唇はそっとルォレンのそれに奪われた。
唇を重ねると、どちらともなく乾燥した唇が、ざらっと擦れた。
ルォレンがミランの唇をぺろっと舐める。すると途端にしっとりと潤い、ミランは堪らなくなって、ルォレンの唇を求めた。
深く、深く重なり合う。
息が苦しくなり、ようやく離す。ミランの目には大きな涙が溜まっている。
「……ルォレン、もうどこへも行くなよ」
この時。
ミランはようやく、未来というものを感じることができた。
生きていたくない、ずっとそう思っていたその気持ちが音を立てて壊れ去っていく。
「……もう、どこにも行かないでくれ」
涙声が、震えて響く。
その声に反応するかのように、 ルォレンがもう一度ミランの唇を吸ってから、そっと耳元に囁いた。
「ああ、どこにも行かないよ。これからはずっと、ミランの側にいる」
ルォレンがミランを起こし抱き上げると、次には自分が先に木の根元に入り込んだ。腕の中にミランを抱きかかえる。
そして、二人はお互いの体温を感じたまま、そっと目を閉じた。




