五十一
「……誰だ、」
暗がりに声がする。その声が求めていた声だと知ると、ミランは息を飲んだ。
「誰なんだ?」
視界が奪われると、途端にきいてくるのは鼻と耳。湿気が漂った不健康な空気の独特な臭い。それに下水の臭いも混じって、鼻が慣れるまでに時間がかかりそうだ。
そして、耳。声もそうだが、その息遣いも聞こえてきて、両隣の牢屋にいるのは、すなわち男一人だけだとわかった。
その声は、すでに知る声。
ミランの心がゆらりと揺れた。
「……ルォレン」
小さく呟くように声を発する。
「ミランっ、ミランなのかっ?」
「ルォレン、」
こうして地下牢に入れられれば、ルォレンの所在がわかるかも知れないと算段した上での行動だったが、いざ会ってみれば、何を言っていいのかわからないほどにミランの心は揺れた。
助けにいくなどと、出過ぎたことだったのかも知れない。
急にそんなことを思いつき、ミランの自信はするすると失われていく。
「ル、ルォレン……」
「ミラン、どうしてこんなところにいるんだ? まさか俺……を?」
ミランは慌てて言葉を続けた。
「どうしてこんなことになっている? メイファンを抜けたいと本気で言ったのか?」
「ミラン、どうしてそれを……カイヤかシンにでも聞いたのか? 二人は俺の幼馴染なんだ」
「違う。白蛇に直接聞いたんだ」
「ラオレンに?」
あの日以来の、ルォレンの声。馬の脚の部族の長ハルージャにベッドを借りた時のこと。気を失いかけたミランをベッドに運ぶと、その背中を抱きながら、ルォレンはミランの耳元で囁いた。
あの日の声のトーンに近い。ミランの頬が火照る。
「……お前の元へ、行こうと思ったのだ」
「ルォレン、」
「ミラン、お前と再会して、居ても立っても居られなくなってしまった」
ルォレンが苦く笑ったような気がした。
「…………」
「探し出して、ようやく会えたと思ったら、これだ」
「ルォレンは首領なんだから、メイファンを抜けるなどと、一筋縄ではいかないだろうな」
「ミラン」
その優しみや愛しみを含んだその声に、どっと心臓が跳ねる。
「ミラン、今、どこに住んでいるのだ? 教えてくれないか?」
「…………」
「俺にも言えないのか?」
「私だけの家じゃないからな」
「あの竜は、お前のなんなんだ?」
「昔、弱っていた私を助けてくれたんだ。今は一緒にいる」
「……恋人、か?」
感情を抑えたような低い。
「そういうものではない。シュワルトとは、その、……魂で繋がっている、というか、」
「ミラン、もういい。聞きたくない」
「ルォレン、」
「ミラン、俺はもうお前とは離れたくないんだ。一緒にいたい。俺を愛してくれ。俺だけを、」
「……ルォレン」
「お前は俺を忘れていたかも知れないが、俺は一日たりとも、お前を忘れたことはない。ずっと想ってきた。ずっと愛している。今もだ、今もなんだ……」
「ルォレン、」
「お前の顔が見たい。触れたいし、抱きしめたい。ここを出たら、一緒に暮らさないか? ミラン、俺の嫁になってくれ」
「ルォレン、お前……こんな場所で……ムードもなにもあったもんじゃないな」
ミランが苦く笑うと、ルォレンはそれを遮るように言った。
「どこだろうが関係ない。もう離れたくないんだ」
ルォレンは言い切ってから、ほ、と息をついた。その吐息すら、ミランにとっては、昔の自分たちを取り戻すための、大切な何かに思えるのだ。
「……ルォレン、私はお前を恨んで生きてきた。だから、今すぐというわけにはいかないが……」
ミランも息を吸う。
「私だって、ルォレンのことを忘れたことなど一度もなかった……」
「それは……本当か? ミラン、ミラン、俺のミラン、」
何度も名前を呼ばれる。その懐かしい声。
寄り添いながらパンを分け合った、あの頃の二人へと時間が巻き戻っていくような気がして、ミランは暗闇の中、堪らなくなり目をきつく瞑った。
「ミラン、俺はお前を満たしてやりたかった。腹がいっぱいになるまで、美味しいものを食べさせてやりたかった。お前を殴る奴らから、守りたかったんだ」
いつのまにか、ルォレンの声が震えている。
「それなのに、俺は弱く、て、……情けなかった。自分を許せなかった」
「ルォレン、もういい。私のために、果物を盗もうとしてくれたんだろ?」
ゴクッと喉が鳴る音。
「……ラオレンに聞いたのか?」
「ああ、」
「強くなりたかったんだ。お前のように、強く……」
「もういい、ルォレン。去ったお前を憎んで生きてきたが、そんな事情があったとは知らなかったのだ……どうやら私はくだらない無意味な時間を過ごしてしまった、よう、だな」
ぎゅっときつく瞑ったミランの目から涙が溢れた。
「ルォレン、……お前にもう一度会えて良かった」
「ミラン、」
鼻をすする。
まぶたの裏に浮かぶのは、幼い頃のルォレンの顔。隣に並んで真っすぐを見る、その横顔がミランは大好きだった。
ふと。ルォレンが振り返って、自分を見る。幼い鼻と鼻が、今にも触れそうな距離に、ルォレンの息が自分の唇にかかるのを感じると、ミランの心臓はどきどきと高鳴った。
そしていつも、どこかくすぐったいような気持ちになり、ミランは慌てて前を向く。それを繰り返すうち、隣にルォレンの体温を感じるうち、ルォレンを愛するようになった。
けれど、今は。盗賊の自分と、敵対する盗賊団の首領。
それを思うと、ミランは胸を絞られる思いがした。痛む胸を、右手で掴む。その拍子に目尻に溜まっていた涙が、頬を滑り落ちた。
「ミラン、……泣いているのか?」
言われると途端に、嗚咽が上がってくる。
「うっ、うう、」
「ミラン、……泣くな」
ルォレンの声も、震えを含んでいる。ミランは口に手を当てると、せり上がってくる嗚咽に堪えた。
手の甲で涙を拭う。涙の跡はまだ乾いてはいないが、頬の皮膚は引っ張られ、まぶたも重い。
が、遠くにひたひたと小さな足音を聞いたミランは、それを機に立ち上がってもう一度、涙を拭った。
「さあ、ルォレン、ここを出るぞ」
涙を拭い、息を深く吐く。
それはミランがいつも独り、自分を奮い立たせるために繰り返してきた行為。
強さを表す声が、地下牢に響いた。




