四十
「なんという回復力だ」
医師メイエルは、感心したのか呆れたのか、どちらとも取れるような唸り声を上げた。着替えをし、最後に上着を羽織っているミランをじろじろとねめつけながら、真っ白に伸びた髭を触っている。
目尻に皺の寄った目が大きく見開いているのを見て、ミランは苦笑した。
「世話になった、と言うべきか」
「いや、そんなのはどうでもいい」
メイエルは手を振って、ミランの言葉を払った。
「ただ、わしが見てきた中でも、ダントツの回復力だ」
「そうか。私は幼い頃から、傷をよくこしらえていた。だから、身体がそれに順応しているのかもしれないな」
パンを盗んではよく殴られた記憶が蘇る。ルォレンを思い出しそうになり、ミランは頭を振って上着のボタンを留めた。
「もう行くのか?」
その低い声に振り返ると、開けられたドアの側にハルージャが立っている。
ハルージャが入ってくると同時に、ニヤニヤと笑みを浮かべたメイエルが部屋から出ていった。
ドアが閉まる。静かな部屋にハルージャの蹄の音が鳴った。
「さあ、ようやく邪魔者が消えたぞ」
もちろんそれは、メイエルではなく、シュワルトとモニのことだろう。二人はティアを連れて、先に翼人の領地へと向かい、今頃は、地上からゆけば険しいとされる山越えをしているはずだ。
「……お前も、懲りない男だな」
ミランが大刀を取ろうと伸ばした手を、ハルージャにパシッと掴まれた。
「これを取られると、俺の分が悪くなる」
後ろからぐいっと手首を掴まれたため、ミランは折っていた腰を伸ばした。すると、ハルージャが自分の胴体をミランの腰に押しつけてくる。
よろっと体勢を崩したミランが、壁際に寄った。
「おい、」
不服を口にする。だが、ミランの身体はハルージャの四つ脚の頑丈な胴体によって押され、ついには身体が壁に張り付いてしまった。背後から、ハルージャがぐいぐいと押してくる。右手の手首は掴まれているので、ミランの自由になるのは左腕のみとなってしまった。
「やめろ」
ミランがハルージャの胴を押しのけようとする。背中や腰に力を入れて、もちろん残った左手を壁についてでも、力の限り押した。だが、力の差は歴然で、四つ脚の重い身体はビクともしない。ミランは病み上がりということもあり、力では敵わないと降参し脱力した。
「このままここに残れ」
後ろから耳元に囁いてくる声。ハルージャは首筋に唇を這わせながら、言い含めるように言った。
「俺の嫁になれ」
その言葉に、ミランは呆気に取られてしまった。
「……なにを言っているのだ。正気か?」
「もちろん、これほどきちんと口説くのは、お前が初めてだぞ」
「お前の女性遍歴を訊いているのではない」
ハルージャは、ちゅ、ちゅ、と這わせていた唇で音をさせた。それをくすぐったいとでも言うように、ミランは身体を揺らした。
「ちょ、っと待て、ハルージャ、おいっっ」
「結婚してくれ」
「待て、やめ、ろ」
空いた左手で頬をぐいっと掴まれ、後ろへと向かされる。唇が斜め後ろから重ねられて、ミランは唇をぐっと閉じた。
「それ以上やったら殺してやるぞ」
それはミランの声ではなかった。
ハルージャがすぐに振り返ると、ドアの前に一人の男が立っている。ハルージャの身体でその姿はミランには見えないが、聞き覚えのある声に、ミランはぞくっと身体を震わせた。
「る、ルォレン、」
ハルージャがミランから身体を離す。すぐに近くにあったミランの大刀を掴むと、両手に持ち真っ直ぐに構えた。
「誰だ」
蹄の音が、一段と高い音で、カツっと鳴る。
「誰だと訊いている」
身じろぎ一つしないミランが気になって、ハルージャは後ろに目をやった。
ミランはすでに腰に差していた短剣の柄に手を掛けている。その様子で、ミランを助けにきた仲間というわけではないということを、ハルージャは察知した。
だが、男の声。言葉。その表情。
「ミランの追っかけか」
ハルージャがおどけて言おうものなら、ルォレンは短剣を引き抜いて、鋭い眼光を放つ。
「二度とミランに触れるな」
「悪いが、俺は今、ミランに求婚しているところだ」
「ミランと話がある。邪魔をするな」
「それはこっちのセリフだが?」
その瞬間、ルォレンががっと間合いを詰めてきた。一瞬だった。その動きに反応してハルージャが大刀を上げる。その大刀を見事かわすと、ルォレンは斜め前から向かっていき、どんっと胴に体当たりをした。だが、馬の胴体は思うより体重がある。
ビクとも動かない身体を見て、ルォレンは次には膝で胴の側面を蹴り上げた。
「ぐう、」
膝が脇腹に深く入った。これにはさすがのハルージャも、よろとよろける。ルォレンはすかさずその脚を払うと、どんっと大きな音を立てて、ハルージャは横向きに倒れた。
ミランはハルージャの身体と壁との間に挟まれそうになるが、ひらっと身をかわした。その壁を蹴ってルォレンの前に飛び出ると、短剣をルォレンの喉元に突きつけて、その動きを止めた。
「ルォレン、やめろ」
倒れたハルージャのとどめを刺そうと振り上げた剣が、ぴたりと止まる。そして苦く笑うと、振り上げていた剣を下ろした。
「……やはり、生きていた」
じり、と前に出る足。その動きを止めるように、ミランは短剣をルォレンの喉元に近づけた。
ミランの後ろでは、倒れたハルージャが体勢を直そうと、半身を起き上がらせている。
「生きていた」
眉を寄せながら目を伏せ、ほっとしたのか、それとも苦しいのか、わからないような表情で言う。その声に引っ張っていかれるような感覚に陥りながらも、ミランはそれに耐えた。
「それがどうした」
ミランが言う。それを無視して、ルォレンは目を開いた。
「……首を切られた、と」
ルォレンの視線は、ミランの喉元に釘づけになっている。そのミランの首には、白い包帯が何重にも巻かれていた。
「そんな風に伝わっているとは……」
ちら、と後ろを見ると、倒れたハルージャが苦く笑っている。
「……自分で切ったのだ、」
「ミランっっ‼︎ そんなことはもうやめてくれ」
すかさず、ルォレンが言葉をかぶせてくる。
寄せられた眉はそのまま固まってしまったかのように動かない。その顔を真近で見て、ミランの心が揺れる。
「ルォレン、お前に裏切られて、生きる希望を失った。だからもう生きていたくない、……そう思って今の今まで生きてきた」
ミランがそっと口角を上げた。微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見える、その表情。
「裏切ってなどないっっ‼︎」
激昂した声、震える唇。ルォレンは声を荒げて、そして言った。
「メイファンに連れ去られたんだ、あれは不可抗力だった‼︎ ミラン、俺はお前と離れてからも、ずっとお前を想って生きてきた。お前をずっと、心の支えに……」
その時、ミランの後ろではハルージャがその体勢を立て直し、大きな身体を起こすとその後脚に力を入れ、今にも飛びかかろうと前脚を大きく上げていた。
「くそっっ、邪魔をするなっっ」
その様子をいち早く察知したルォレンが横へと飛び、ごろりと身体を一回転させた。それによって、ハルージャの前脚は、空を切った。
「思い出話も結構だが、お前はミランに嫌われているようだぞ。さあ、潔くミランを諦めて、帰れっっ‼︎」
掴んでいたミランの大刀を振り上げる。それをルォレンは真正面で受け止めた。
けれど、大刀を受け止めたルォレンの剣が。
やはり、竜の尾の骨で作られたミランの大刀には勝てなかった。びきっと甲高い音がして、砕け散る。そして、大刀がルォレンの額を割ろうと、そのまま振り下ろされた時。
「ルォレンっっ‼︎」
身体を滑り込ませたミランが、その短剣で大刀を受けた。
ぎんっと音がして、その後カチャカチャと小刻みに柄が震える音が響いた。
その時。
「……ミラン、お前を愛している」
ルォレンの口から発せられた言葉。
ミランの耳から入り、そして全身を駆け巡っていく。その言葉は、かつてミランがルォレンを魂から必要としていた頃の、愛しさを連れてくるのだろうか。
ミランは混乱して、その場に倒れ込んだ。その喉元に巻かれている真っ白な包帯に、じわりと血が滲んでいる。
「ミランっっ」
それがルォレンの声なのか、それとも剣を引いたハルージャの声なのか、遠くの方で呼ばれたような気がして、ミランは意識を失った。




