三十八
「殺せ」
リンドバルクがまだ若い、血気盛んな頃のことだった。
容赦のないその言葉にメナスは半ば呆れながら、それでも慇懃に頭を下げた。
「リンドバルク様、相手は近衛兵団の団長ですよ。そのような暴挙が許されるわけがありません。それに、ハリアを倒すことのできる者は、このリの国を探しても、そうそうおりますまい」
「では、解任しろ」
「何を言っておいでです。あの荒くれ者の集団をまとめ上げることができる適任者は、彼しかいません。どうか、御心をお鎮めになってください」
「それならば、今後二度と、ヤツをティアに近づけるなっっ‼︎」
荒い息を吐きながら、怒声を上げる。怒りももちろん、嫌悪感が背中から湧き上がってきて、リンドバルクは玉座の肘掛を握った拳でどんっと叩いた。
眉をひそめていたメナスが一礼して部屋を出ると、苛々とした気持ちにさらに拍車がかかり、足で椅子を蹴り上げる。
椅子はガガッと音をさせて、後ろへと倒れた。
「くそっ、くそっっ‼︎」
顔を両手で覆うと、数時間前に偶然にも見かけてしまった場面が脳裏に浮かんでくる。
それは、宮廷の警備を任せてある近衛兵団を率いる猛者、ハリアとティアの二人の姿だ。
ハリアは近衛兵の中でも人一倍、大きな体躯を持ち、剣はもちろん武器なしの接近戦でも、その右に出る者がいないような、優秀な男だ。
もちろん、団長としての人望も厚く、内外からの信頼も勝ち得ている人物だった。リンドバルクもハリアを信頼し、近衛兵団を大船に乗った気で任せていた。
けれど。
ティアを誰にも見せまいと、宮廷の奥の部屋に半ば幽閉状態にしていたはずなのに、そのティアが近衛兵団を配置している宮廷の玉座の間近くまで出てきたことで、その騒動となった。
リンドバルクは、ティアとハリアが話し込んでいる場に遭遇してしまったのだ。
(なんだ、どうしてこんな場所に、)
ティアのくすくすという笑い声が聞こえてきて、すぐに身を翻し、物陰に隠れた。
もちろん、すぐにでも二人の前に出ていって、ティアを連れ戻したい気持ちがあった。けれど、一度止まった足は見事にすくんでしまい、全くと言っていいほど動かない。
リンドバルクはもう一度、二人を見つめた。
ティアが何かを持っている。手にしているのが何かは、はっきりと見えないが、小さな籠のようなものだとわかる。
(……な、何をしているのだ)
心臓が、早鐘のように打ち始めた。顔の火照りにも気付かずに、リンドバルクはその二人の光景を見続けた。
すると。
ハリアが手に持っていた何かを、ティアに渡した。
(は、花、)
それは、花束といえば大袈裟だが、野の花を集めたような質素なものだった。
心臓が、どっと鳴った。後から後からどす黒いものが湧き上がってきて、リンドバルクを覆っていく。そしてとうとう、嫉妬という闇にすっぽりと包まれてしまった。
ティアが、貰った花を見て、嬉しそうにはにかんでいる。
ハリアがティアの肩に見える真っ白な翼に手を伸ばした時、リンドバルクの理性は引きちぎられた。
「何をしている」
二人の前へと躍り出て足を進め、リンドバルクは腹の底から声を出した。
その声で、二人が振り返る。ティアが浮かべていた笑顔は、さあっと潮のように引いていき、そして恐れを含む顔となってしまった。
ハリアはすぐに片膝をつき、胸に腕を当て敬礼をする。
「リンドバルク様」
「に、兄様、」
ティアの手元には、植物のツルで編んだ花籠。そして、その中にはハリアから受け取った花がこんもりと盛られている。
「ティア、こっちに来い」
俯いて動かないティアの腕を掴んで引っ張る。ティアの手首はリンドバルクの指が一周するほど細く、そしてか弱い。その腕を折れるのではと思うほど、力強くぐいっと掴んだ。
その場から離す際、ティアがハリアを気遣ってか、何度も振り返ったのも、リンドバルクの逆鱗に触れた。
何も言わずに長い廊下を引きずり、宮廷の奥の部屋へと向かうと、ドアを開けてそこへとティアを放り込んだ。
ティアは花ごと床へ倒れ込み、野の花が床へと散らばる。花籠は倒れた拍子にティアの腕の下敷きになり、ぐちゃりと潰れてその形を崩した。
「あ、お花が、」
倒れたティアは、そっと花に手を伸ばした。
その時。
リンドバルクの理性はついに焼き切れてしまったのだ。
「そうか、そんなにあの男から貰った花が大事か」
冷ややかな目を、床に倒れているティアへと落とす。ずかずかとティアに近づいていくと、散らばる花を足で踏みつけた。
「に、兄様っ」
「こんなみっともないものを、よくもまあ、俺の妹に贈れたものだ」
足を左右に動かして、さらに踏み潰す。壊れた花籠も、足で蹴り飛ばした。
「お前も、お前だ。ここから出るなと言わなかったか? 俺の言うことが守れないなら、鍵をかけるしかない」
「……兄様、お許しください。どうか、外出の許可を、」
「何を言っているっっ。俺の話を聞いているのかっっ」
「お花を摘みに行きたいだけです。どうか、」
「花だとっっ‼︎ 花なら俺がいくらでも用意してやるっっ‼︎ しかも、その花籠はなんだっっ、勝手にそんなものを作りおってっ‼︎」
はあはあと息を荒げながら、リンドバルクは踵を返した。
「花ならいくらでもくれてやる。お前は、二度とこの部屋から出てはならぬ」
「兄様、お願いでございます」
「そんなにあの男がいいのかっっ‼︎」
リンドバルクは唇を噛み締めて、怒りを抑えようとした。背中で、ぐすぐすと泣き声が聞こえる。
「……ハリアには罰を下す」
「兄様っっ、違います、お花を頼んだのは私です。罰するなら、私を罰してください‼︎」
頬の筋肉がぴくりと引きつった。
「はっ、言い寄られてその気にでもなったか」
「兄様、私はただお花を、」
「その翼を触らせるな」
「兄様、」
「二度と、ハリアとは会うなと言っている‼︎」
抑えた声に震えが含まれていることに、ティアは気付かない。それほど、リンドバルクの怒りを恐れている。ぶるぶると震える身体は、リンドバルクから見ても大げさにもわかるほどだった。
噛んだリンドバルクの唇には、血が滲んでいた。けれど、それはもう萎縮しきってしまったティアの目には届かないし、知る由もない。
リンドバルクは背中を向けたまま、部屋を出た。
✳︎✳︎✳︎
(兄様は、私の翼だけが大切なのですね)
床に散らばった花を一つ一つ、歪んだ花籠に拾い上げていく。この花籠は、試行錯誤を繰り返して、自分で作り上げたものだった。
(この花籠をお花でいっぱいにして、兄様のお誕生日にお渡ししたかっただけ)
涙がぽろぽろと溢れていく。
(私は一生、この鳥籠の中で生きていく。それでもいいと思っていたのは、側にいつも兄様がいらっしゃってくれたから)
「でももう、……辛い」
花は、リンドバルクに潰されて花びらが全て千切れて散っている。その一つ一つをも拾おうと、ティアは指を伸ばした。
幼い頃の思い出が蘇る。毎日のようにリンドバルクはこの部屋を訪れ、そしていつもティアにプレゼントを持ってきた。
「兄様、いつもありがとうございます」
受け取ったクツを前に、幼いティアは靴下だけの足をもじもじと動かした。
「いいんだよ。でも小間使いのリナに盗られないようにするんだよ」
「はい、大丈夫です。私、とてもいい隠し場所を知っているの」
「それはどこなんだ?」
ティアが嬉しそうな顔をして、リンドバルクの腕を引っ張った。
「こっちです」
ティアは天蓋付きのベッドの側によると、ベッドと壁の隙間に手を入れ、そして袋を引っ張り出した。
「リナはここにはホコリが溜まらないからって言って、お掃除しないのです。だから、見つかることはないの」
頬を紅潮させて、幼いティアはリンドバルクを見つめる。
「……そうか、それはいい所を見つけたね」
「いただいたクツもここに、」
袋の中に入れようと、口を開ける。
「その袋の中には、何を隠しているんだい?」
リンドバルクが覗き込むと、そこにはリンドバルクが今までに渡した宝石や靴下などが入っていた。その中に、使いかけであげたペンや庭で拾ったただの小石なども、ごちゃ混ぜになっている。
リンドバルクは苦笑し、呆れながら言った。
「ティア、こんなものまで取っておかなくていいんだよ」
中からただの小石を取り出して、手のひらに乗せる。ティアがそれを大事そうに手に取り握ると、にこっと笑って言った。
「兄様にいただいたものは、ティアにはどれも宝物なのです。……でも、」
「なんだ? どうした?」
「……私も兄様になにか差し上げたい、」
リンドバルクはにこっと笑い、そしてティアの頭に手を乗せた。
「そんなものは要らないよ」
「でも、私も兄様を喜ばせたいのですが」
「いいんだ、俺はお前が、……ティアがいるだけでいいんだよ」
幸せだった。小間使いから虐められても、この部屋から出られなくても、兄様と一緒にいられるなら、と。このままずっと、一緒にいられるなら、と。
けれど。
リンドバルクは大人になるにつれ、自分から離れていった。
時々会う時にはいつも、次の宴席での衣装を持ち寄り、そしてリの国と他国の友好の役に立てと言う。
そして、極めつけは。
「リンドバルク様ったら、また新しい恋人をお作りになったらしいわ。これで何人目かしら」
「何言ってるの。同時に十人なんてこともザラだから。もう女たちの争う姿が見てられないくらい哀れっての」
小間使いの間で交わされる噂話。
ティアはそれを聞くと、いつも耳を塞ぎたい気持ちになった。
(兄様はもう、私に何の興味もない……)
虚ろな瞳で、ベッドの上に拾った花と花籠を置いた。
(私の……この翼に用があるだけ。きっと愛情も、もう……)
唇が、ふるっと震えた。
(愛情など、最初から……)
ティアは首を振った。
ベッドと壁の合間には、リンドバルクから貰ったものが袋にたくさん詰まっている。その袋が膨らむ度、ティアはリンドバルクからの愛情を感じ、幸福感で満たされていた。
けれどもう、それすらも遠くに感じるようになってしまった。
「きっと、……私が兄様の本当の妹ではないから」
ティアは知っていたのだ。口さがない小間使いの噂話で、自分とリンドバルクが本当の兄妹でないことを。
それでも、その袋にあるものだけは、兄からの愛の証であると信じたい。ティアはベッドに置いていた花籠を、拾い上げて抱き締めた。




