三十六
「この男、以前私たちから魔鏡石を奪った者です」
明るくなり死んだ男の身元がわかると、馬の脚の部族の間で、わっと歓声が上がった。
「ハルージャ、よく仇を取ってくれた‼︎」
「よくやったぞ」
「さすが、長だっっ」
「馬の脚の部族は、決して泣き寝入りはしないっっ‼︎」
嵐のような賞賛を手を上げて抑え、ハルージャは部族を鼓舞した。
「これでようやく、殺されたカインの魂も安らかになろうっっ‼︎」
みなで殺されたカインのためにしばし黙祷をすると、ハルージャはまだ興奮冷めやらぬ仲間を置いて、一人ミランの部屋へと向かった。
戻る途中に、一つ手前のテントから涙声が聞こえてきて、足を止める。耳をすますと、口元を手で押さえているようなくぐもった声で、さめざめとした泣き声が漏れ聞こえてきた。
(翼人の女か)
ハルージャは足音に気づかれないように注意を払いながら、それに耳を傾けた。
「……兄様が、私をこ、殺そうとしたのですね」
「それは、わからないけど……」
わからないと言いつつ、沈黙が暗黙の了解となっている。
その声で翼人の話の相手がミランの小さな相棒モニだと、ハルージャにはわかった。ハルージャにいつも食ってかかってくる、ネズミともリスとも言えるような、ミランのペットだ。
(あの男が、ミランや翼人を狙った暗殺者だと、口を滑らせた者がいるのか)
ハルージャは苦く笑った。口さがない者はどこにでもいる。もちろん、ハルージャ率いる馬の脚の部族も例外ではない。
「私は、……そんなに、も、兄様に疎まれていた、のですね……」
啜り上げる声。
(疎んでいるならば、……魔鏡石なぞ、手に入れようとしないのだがな)
ハルージャはその場を離れた。モニの耳が異常に良いということを、ハルージャは知っているからだ。こうして忍んだつもりの足音も、実は筒抜けなのだろう。
(では、俺とミランとのことも聞かれているな)
ふんと、鼻で笑う。
(いいだろう、たっぷりと聞かせてやる)
ミランの部屋の前で足を止める。ドアをそろりと開けると、ハルージャは中へと滑り込んでいった。
✳︎✳︎✳︎
「ミラン、具合はどうだ?」
虚ろな目でハルージャを見ると、ミランは眠そうな表情を浮かべてから目を瞑った。
「そうだな、少しだけまだ身体がだるい」
「治ってからにしようと思ったが、」
手を伸ばして、ハルージャはミランの頬を撫でた。
「なんのことだ?」
ミランが頬を撫でられたのを気にもとめず、そうさせているとハルージャの手がそろりとミランの髪へと伸びた。栗色の髪に指を忍び込ませる。その指で髪の根元をぐいっと引っ張るとあごが自然と上がり、そしてそのままミランは顔を仰け反らせた。
「いっっ、なに、を……」
抗議の声を上げようとしたが、すぐにすくい取られる。ハルージャの唇が重なり、ミランの口を塞いだ。咄嗟のことで、されるがままだ。
「ん、むぅ、」
ミランが息苦しさに喘ぐ。正気を取り戻し、腕を伸ばしてハルージャの肩口を押さえようとするが、その腕もハルージャの太い腕によって押さえつけられ、ミランは身体を微塵も動かすことができなかった。
ようやく、ハルージャが唇を離す。はあっっと息を吐くと、ミランのその唇をべろりと舌で舐めた。
「ミラン、これでお前は俺の女だ」
ハルージャが、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、濡れた唇をぺろっと舌で舐めた。吐息が顔にかかるほど、顔が近い。
「どういうことだ」
ミランが真顔で問う。
「口説いているのだが?」
「ならば、相手を違えているぞ」
「間違えていない」
「私では役不足だろう。お前の前で、このように情けない姿を晒している女では、部族の仲間に示しがつかない」
「お前を気に入ったのだ。ミラン、俺の女になれ。いい思いをさせてやれるぞ」
ハルージャがさらに顔を近づける。ハルージャが鼻を、ミランのそれにすりっと擦りつけた。ミランはハルージャの目をじっと見た。ハルージャの瞳は、その髪の色と同じグレーに縁取られている。
(髪も目も、綺麗な色だ)
けれど。浮かぶのは、ウェーブのかかった黒髪。子どもの頃にはなかった頬の傷。そして、黒い瞳。
(ルォレン……)
その途端、ハルージャの顔色が曇った。
「俺の前で他の男のことを考えるのはやめろ」
「考えてなどない」
「お前が首を縦に振らないなら、あの翼人がどうなるかわからんぞ」
「なんだと? お前がそのように部族の者に顔向けのできないような、卑怯な男だったとは、」
ミランがぎりっと歯ぎしりし、不服を申し立てようとすると、ハルージャは降参の手を上げて、後ろへと退がった。蹄の音が鳴り響く。
「おっと怒るなよ……冗談だ。どうやら翼人はリンドバルクの元へは帰りたくないようだぞ。お前の言うことを聞いて、彼女は大人しくお仲間の元へとお返ししよう。いい子だろ? それでどうだ?」
「ああ、そうだな。頼む、と言いたいところだが、」
ミランが半身を起き上がらせる。ぐいっと口元を手の甲で拭くと、ミランはベッドの脇にあるイスの上から大刀を掴んで引き寄せた。
「ティアは私が連れていく」
「……俺は、フラれるということか?」
ミランが唇を片方だけ上げて、笑ってみせる。
「まあ、そういうことだな」
ハルージャが腰に腕を当てて、馬の前脚を軽く上げた。トトンと軽い音がして、床が軋む。
「俺は諦めの悪い男だぞ」
軽く笑うと、ハルージャはドアを開け、部屋の外へと出た。その拍子に風がすうっと入ってきて、ミランは身体を震わせた。




