三十二
「傷口を押さえたのは、お前さんか?」
「メイエル」
ハルージャが、後ろ脚を少し上げて、後ろへと下がる。馬の脚の部族の中で、それは尊敬に値する者の前で、行われる。人間でいう、こうべを垂れるのと同等の行為だ。
「カインを殺した者の仲間だぞ。みなの話を聞いたか? まったく訳のわからんことをしおって……非難轟々だぞい」
「メイエル、あなたでも助けられないのか」
「かなりの出血量だ。止血剤になるカヤの葉で押さえてあるが、あとはこの子の生命力にかけるしかないの」
真っ白い髭を口元に蓄えた老人が、タオルで手を拭き、そしてもう一度ハルージャを見る。ハルージャも、医師メイエルをじっと見た。メイエルの白衣はミランの血液で、真っ赤に染まっている。
「あっちの翼人のお嬢ちゃんは、気を失っとるだけだから大丈夫だ」
顔をくいっと部屋のドアへとやる。ドアの向こうにはもう一部屋寝室があり、とりあえずという体で、ティアはベッドに寝かせられている。
「どうして助けた?」
メイエルの強い口調をそのまま飲み込むようにして、ハルージャは顎を打った。
「……それが、このミランが、」
ハルージャが口を噤んだ。だが、メイエルの厳しい視線を認めると、降参した、というようにハルージャは両手を上げた。
「ミランが言ったのだ。俺たち、馬の脚の部族の弱点は、空中からの攻撃に対処できていないことだ、と」
「なんだと?」
「彼女が俺の背中に乗った時、他のみなには聞こえぬように、俺に進言してきたのだ」
「空中からの攻撃?」
「ああ、そうだ。まさに、それをミランがやってのけた。どうやら、俺の背後はがら空きだと、言いたいようだった」
「だが、お前らは弓矢を持っているではないか。空からの攻撃でも、矢を放ってやれば、」
「振り向くのに時間がかかるのだ」
「なに?」
「俺たちは、四つの脚を駆使して走る。それは直線上では、疾風のごとく速く走れるのだが、それが接近戦ではまるで活かせない」
「ミランとやらが、そんなことを?」
怪訝な顔を浮かべながら、メイエルは白い髭の毛並みを手で整えた。
「ああ。弓矢をもっと短くするか、もしくは短刀を持て、と」
「なんだと?」
「敵に背後に回られた時、俺たちは鍛え上げられたこの脚で、相手を蹴り殺せるが、空中ではそれが届かない。その敵に対応するためには、武器を変えていくしかない、とな」
「弓矢は古来からの、伝統ある武器だ。これを変えるとなると、批判が出るぞ」
ハルージャは、眠るミランを見た。血液が失われているからか、顔色がぞっとするほど悪い。だが、後ろを取られた時のその声。自分たちはミランの敵だというのに、その敵に向かってアドバイスを送るミランに、ハルージャは面食らってしまったのだ。
「とにかく、肝の座った女だ」
「……ふうん、なるほどな」
メイエルは、何かを含んだように、口をもごもごさせると、部屋から出ていった。部屋に残されたハルージャは、ベッドに眠るミランに近づいた。
(それに、まだある。あの翼人の代わりというには、あまりに簡単に命を投げうった……それはいったい、どうしてなのだろうか)
色の褪せた唇を見つめる。その唇は乾燥していて、かさかさとした砂漠のようだ。
(なぜ、そのようなことができるのだ。その理由を知りたい)
手を伸ばす。そっと、曲げた人差し指で、その唇をなぞった。
(……水を含んだら、どのように潤んだ唇になるのだろう)
当分の間、ハルージャはミランの寝顔を見下ろしていたが、心を決めると踵を返して部屋を出た。




