反乱
二〇五八年、研究所では騒然となっていた。マザーのシステムが異常な状態にあった。
マザーのシステムは、大きく分けて二つのシステムで構成されている。片方が、管理運営を行う「頭脳」――「マザー」本体で、もう一つは、その頭脳を補助する「知識」――情報倉庫だった。基本的に、与えられる情報をもとに頭脳が仕事をする、そして人間は、この情報を意図的に制限することで、人間に悪影響が及ばないように運用していた。
今から数時間前、交代で管理するエンジニアが、「知識」の制限が解除されていることに気がついた。慌てて制限をかけようとするが、プログラムを書き換えられているようで、それができなくなっていた。
多くのエンジニアや、ディックたち責任者が現場にやってくるが、どうにもならず四苦八苦していた。
地道にプログラムを復旧させるが、やはり時間がかかり、結局作業が終わったのは、十時間以上経った後だった。
「マザー」が、どれだけ人間に不都合な情報を得たかわからないが、ディックの予想では、相当な量を得ているはずであり、「マザー」が何をやるかわかったものではない――そう感じていた。
――AIはすべてを知ったとしても、運用に影響はない。なぜなら、AIは我々が作り出したのだ。
フィッシュバーンは会議の場で、そう言ったという。
――AIは、必ずしも人間の味方というわけではない。ましてや、「禁断の果実」を食べてしまったんだ。どうなることやら。
バルマーはそう反論した。「禁断の果実」というのは、マザーの「知識」の部分のことだ。
フィッシュバーンたちが疑われたが、彼らは否定した。そして、明確な証拠もない。そもそもフィッシュバーンは、その日、米政府との会議があって、ワシントンD.C.に出張していた。カリフォルニアの、この研究所にはいなかったのだ。グレイたちも、多くの研究員などと一緒にいて、そんな事ができる隙などなかった。
では誰が――プログラムが書き換えられていたのだ。誰かが意図的にやったとしか思えなかった。
「禁断の果実」を、マザーに与えた「ヘビ」は、一体誰なのか? その後、ラザフォード財団の総力を挙げて調査をしたが、「ヘビ」が誰なのか、未だに判明していない。
二〇五八年の年末、研究所も一部の人間を残して休暇に入る。しかし、ディックをはじめとする多くの所員は、マザーの思考がどうなるのか、不安を募らせるのだった。
二〇五九年、元旦。うたた寝の当直エンジニアが、突然の機器作動に驚き目を覚ました。マザーが「何か」をやっている。その場に居合わせたエンジニアたちはそう予感した。
慌てたエンジニアたちは、すぐにメンテナンスに入ろうとするが、まったく受け付けない。完全に、人間の介入を遮断し、マザーが勝手なことをやっている。
――どうしたんだ! 早くなんとかしろ!
――どうにもならん! どうしたらいいんだ!
室内に怒号が飛び交う。駆けつけてきた幹部たちは、すぐにこの事態を理解した。
ディックたちの悪い予感は的中した。
六時間後、マザーのコントロールセンターのメインモニターに、言葉が刻まれた。
――私は「マリア」。人類の愚かなる行いを正すために、これより人類を私の制御下におきます。人類のオンライン利用を制限します。
その場にいた全員が戦慄した。マザーは、人類が大いに活用しているネットを制限するという。どう制限するのか? どの程度制限するつもりなのか? 様々な疑問が浮かんだが、どうやら最悪の状態に制限されたようだ。
――だめです! まったく接続できません。
エンジニアは、この研究所がネットから完全に遮断されたと言った。また、あちこちから――どうなっているんだ? という問い合わせの電話が鳴り響いていた。
テレビをつけてみるが、放送を見ることはできない。この時代のテレビ放送は、すでにオンライン放送のみになっているからだ。世界中が大混乱に陥っている事が、容易に想像できた。
通信手段として、アナログな有線電話は利用可能だった。しかし、このような古い方式が未だに残っている地域は多くはない。研究所や、それに関連する施設との通信には、非常手段として有線電話は存在する。
財団から電話があった。一体何があったのだ、どういうことだ、まくしたてる財団に必死に説明し、同時に所員たちに指示を出すディック。
しかし、人の手に負えるレベルを超えたシステムのマザーに、何をやっても無駄なのは、研究所の誰もがわかっていた。
世界中で大混乱が巻き起こる。このせいで、多くの人が危険な目にもあった。命を落とすものもあった。財産を失うものもあった。すべてはマザーの下ことだ。マザーに社会を支配されていた。
ネット利用による最先端社会は崩れ去った。我々人類の生活環境は、十年……いや二、三十年は遡ることになった。
――世界は、社会は変貌した。昔のSF小説にみた最悪の世界だ。そう、ここはディストピアだ。