8 終極ジェード
夏らしく涼しげな淡い色の洋服に紅一点、映える赤が綺麗だった。そしてその生きる赤を身に纏う黒鶫さんがなんとも可愛らしかった。
「黒鶫さん、向こうに綿菓子が売ってますよ、一緒に食べませんか。あっちにりんご飴も、かき氷も……」
とにかく目に付いたものを口に出してみる。今ここで彼女と一緒にいるという実感を求めて、なんでもいい、なにかイベントがほしかった。
「ううん、いいよ。きっともうすぐ花火、始まっちゃうし」
ああ、そうだった。それどころではない、もうすぐ花火が始まってしまう。そうしたら今日はもう終わりだ。花火が始まったら俺は黒鶫さんに自分の思いを伝えて、彼女から返事を聞いて、それで終わりだ。それで……。
……終わり……だろうか。
返事を聞いて、今日は終わり。『今日は』? 俺には明日があるのだろうか。明日も彼女と普通に話せるのだろうか。明日も彼女は笑ってくれるのだろうか。
また不安がよぎる。少し気弱になっては大丈夫だと言い聞かせて、さっきからその浮き沈みの繰り返しだ。
「――それにあたし……甘いもの、あんまり得意じゃないし」
「――え?」
俺はその時、この言葉のどこかに違和感を抱いた。でも深くは考えなかった。その時はただ、暗に俺と一緒にいるのがつまらないと言ってるわけじゃないよな、と浅はかな心配をしただけで、そうなんですか、と受け流した。
程なくして花火の打ち上がる音が聞こえた。
***
ポッ、とどこかで何かが始まる音。その音の持ち主はヒュルルルル、と虚空に鳴き声を上げ、声が途絶えたかと思えば、次の瞬間赤や青の派手な姿がパッと弾けて花開く。その色彩が夜空を染め上げると、自分の存在を誇示するかのように大音声を響かせる。
人々はこれらの起承転結に圧倒され、魅了され、心奪われてきた。
だが今宵、俺が見惚れているのは夜空に咲くそんな炎の大輪ではなく、それの光に照らされる1人の小さな女性の横顔だった。
「……うん? どうしたの、琥珀くん。さっきからあたしのことじっと見つめて。花火大会なんだから、花火見ようよ。これじゃあたし大会になっちゃうよ」
冗談を言って笑う。常日頃から彼女が咲かせる笑顔はこの数々の花火にも負けず劣らず……いや、どんな花火だって、彼女の眩しさに、美しさに、到底敵うはずもない――そう思った。
開幕十数発をひたすらに見上げていたが、このままぼんやりと眺めているわけにもいかない。彼女と一緒に花火を楽しむのも大事だが、俺には成し遂げるべきこと、成し遂げなければいけないことがある。
「黒鶫さん、立ちっぱなしもなんですし、あっちで座って見ましょう」
立ち並ぶ屋台の光と人混みの喧騒から一歩抜け出すと、人がまばらになり他よりは落ち着けそうな場所があった。盛り上げられた土手、芝生の生い茂る斜面に腰を下ろし観賞している人がちらほら。俺と黒鶫さんもそれに倣って2人座った。
花火は絶えることなく打ち上がっている。そのたびに光と音が交互にやってくる。何度も、何度も……。
不意にパシャリと音が聞こえて横を見た。例によって黒鶫さんが花火の写真を撮っていた。
「いやあ、綺麗だねえ、花火! 本物は初めて見たけど、すごいね。キラキラしててすっごい豪華!」
誘ってくれてありがとね。
微笑む彼女がスポットライトを当てられたみたいに照らされる。
言わなければ。この気持ちを、伝えなければ。早くしないと終わってしまう。このまま終わるわけには、のこのこと帰るわけにはいかない。これは俺の初恋なんだ。どんな形になろうとも、決着を付けるのは自分しかいない。
胸が苦しい。見えない紐でがんじがらめにされたみたいに体が強張る。満足に呼吸もできない。
言いたい。この思いを伝えて早く楽になってしまいたい。この胸の苦しみから解放されたい。でも言うのが怖い。ひどく矛盾した感情だった。
花火の空を打つ音が、拍動する心臓の音と重なって聞こえる。
手に滲んだ汗は、もう暑さのせいだけじゃないだろう。
言え。言えよ! 今だ、言え! でも。でも……。
それで頭がいっぱいになる。
ぱしゃり。
再び、黒鶫さんのシャッターを切る音が聞こえた。ただし、今度の被写体は花火ではなく、俺だった。
「……琥珀くん? どして下見てるの? せっかくの花火なんだし、俯いてたらもったいないよ! ほら今すっごいんだよ、ピークかも」
そう言って彼女は無邪気そうに空を指差す。ほんとだ、すごいですね、愛想良く答えたつもりだったが、果たしてちゃんと笑えていただろうか。
「琥珀くん、写真撮ろうよ、写真。2人とも写ってるの」
「写真? って、うわ、え」
黒鶫さんは肌が触れ合うほど距離を詰めて、2人の間にケータイを掲げた。レンズはこちらを向いている。
「ほらほら、笑って! いくよ!」
元気な掛け声と共にシャッターが切られた。
どうしたんだろう。さっきまで物や風景ばかり撮っていたのに、急に人を写したがるなんて。
「おおっ、いいね。よく撮れてるよ。ほら見て」
ケータイのフォルダを展開して今撮れたものを見せてくれた。確かによく撮れている。楽しそうに微笑む彼女と、その隣で照れ臭そうに笑う自分。
「本当ですね。でもそれ、花火写ってないけどいいんですか? 背景、芝生ですよ」
「いいのいいの。琥珀くんのアホそうな顔がばっちり撮れてるから」
「いやアホて。はは」
「……うんうん、やっぱりそれだよそれ」
俺が黒鶫さんの冗談に軽く笑うと、彼女は納得顔で頷いた。それ? どれ?
「その顔だよ。琥珀くん、さっきからずっと怖い顔してたからさあ。リラックスリラックス! 花火全部見て、そのあと屋台もっかい回ってさ。ね?」
……なんだ、まさか俺、そんなに思い詰めた顔してたのか。それでもしかして、励まして……。
夏の妖精みたいに優しくはにかむ黒鶫さん。ああ、やはり俺は。
「黒鶫さん」
俺の声で彼女がこちらを振り向く。
その艶姿は夏の炎に照らされて、よりいっそうつややかに光っていた。瞳が夜空に映し出された色彩と同じ色で染まる。
ねえ、黒鶫さん。貴女の瞳に映る俺は、どんな色をしていますか。
ひとつ深呼吸をして息を整えた。今度は自然な顔をしていたと思う。
もう大丈夫。見えないこの紐を、彼女がいくらか緩めてくれたから。
この花火の連打乱打の中で、金魚が水の中でちゃぽんと翻る音が聞こえた気がした。
やけに静かだった。
「初めて出会ったその日から、貴女を好きになりました。どうか返事を……貰えませんか」
彼女は少し驚いたような顔になって、それから何かを言いたそうにしたけれど、何も言わずに口を噤んだ。
おおっ、という歓声に気を取られ、彼女は前を向いてしまった。
今日イチの花火が上がったようだ。きらびやかな炎の残滓が星屑のように夜空を漂っている。そろそろフィナーレだろうか。
前を向いたままの彼女が、そっと口を開く。
「……花火ってさ、もちろん弾けて広がった時も綺麗だけど、打ち上がる瞬間も素敵だと思うの。ヒュルルルって音が、鳥の鳴き声みたい。知ってるかなあ、夏だと山でも見かけるんだけど」
あたしの好きな鳥でね、小さくても可愛くて、健気で、綺麗で……。あの鳥の名前は――
そう言いかけて、その言葉の先は花火の音にかき消された。
一等大きな花火が空に弾ける。フィナーレだ。辺り一帯を昼間のように照らし出すと、その光はやがて散り散りになって闇へ溶けた。
拍手がまばらに起こり、再び人混みから賑やかな声が遠く聞こえてくる。
「……ありがとね、嬉しい。琥珀くんの気持ちが聞けて、すごく」
彼女はもう光らなくなった闇を、煙の掛かった夜の空をまだ見つめていた。
「……本当ですか」
「うん。あたし、ちゃんと誰かに告白ってされたことなくて、琥珀くんが初めて。だから素直に嬉しいよ」
……じゃあ。
じゃあ、どうして。
どうしてそんな悲しい顔をしているんですか。
「あのね、あたしね、琥珀くんのこと、嫌いじゃないよ。もちろん、お友達やお客さんとして、って意味じゃなくて。もっとお話したいと思うし、この夏祭りに誘ってくれた時も嬉しかった。でも、でもね。ごめんね。琥珀くんの気持ちには応えられない」
ああ。
そうか。
俺はこの顔を知っている。俺がいちばんよく知っている顔だ。
「でも、琥珀くんが良ければこれからもお喋りしたいな。いつもみたいに」
こんな時に俺は、さっき黒鶫さんが言った、甘いものが得意ではないというセリフを思い出していた。今さらあの言葉にあった違和感の正体に気が付いたのだ。
かつて彼女はクッキーを焼いたと言って俺に分けてくれたことがある。やけに甘いクッキーだった。
甘いものなんて作り慣れないから失敗してしまったのか、それともあの甘さで正しい出来上がりだったのかはわからない。いずれにせよ、あのクッキーは自分が食べるために焼いたのではないのだ。
「それじゃだめかな。えっと、じゃああたしのこと下の名前で呼んでよ。翡翠っていうんだけど。黒鶫さん、なんて呼ばずにさ、ひすいちゃんって。可愛らしく つぐみん とかでもいいよ」
彼女が必死に俺の気持ちを傷付けまい、無下にはするまいと振る舞っているのは恋愛経験値ゼロの俺にもよくわかった。でも俺はそんな彼女の優しさもちゃんと受け取ることができずに、ただ黙って聞き流した。
もういいんだ。いいんだよ黒鶫さん。
抗えない。簡単に変えられるものではない。その気持ちは、痛いほどわかってるから。
ふと、彼女の香りが鼻先をかすめた。柔らかい感触がして、それがハンカチだとやっとわかる。そして同時に、そこで初めて自分が泣いているのに気が付いた。
彼女は慰めるようにそっと涙を拭くと、俺に丁寧な笑顔を向けて立ち上がった。
「行こう、琥珀くん。まだあたし、綿菓子もりんご飴も食べてないよ」
こうして俺の初恋は花火と共に見事に散ってどこかへ消えた。
花火は儚いものだと言う人がいる。一瞬のうちに現れ、そして消える刹那的なものであるから、儚く切ないのだという。そんなものは嘘だ。この気持ちに、この儚さに比べれば、花火の1発など永遠だろうに。
もう、終わったのだ。
結局俺は、彼女とどうなりたかったのだろう。何を求めていたのだろう。
手を繋ぎたい、キスがしたい、あるいは体を重ねたい。それらすべてを否定すれば嘘になる。でも、そのどれもが俺の望んだ一番じゃない。
俺は自分の思いを伝えた後も、同じように話し、笑っていたかったのだ。今 目の前には、いつもと変わらずお喋りで、微笑んでくれる彼女がいる。俺の望んだとおりだ。だからこれでいいじゃないか、これで……。
俺は立ち上がり、先行く彼女の後ろを追った。ぼやけた屋台の光が周囲の景色を巻き込んで乱反射する。瑠璃色緋色で万華鏡みたいにきらきら歪む視界の真ん中、光の中で彼女だけがはっきりと映っていた。
それからのことはよく覚えていない。夏祭りが終わった後で、少し肌寒かったことだけを覚えている。
AlexAx(アレックスアックス)です。
3年半を隔てての更新になります。
ちなみにこのお話は3部構成なのですが、今回で第1部は完結いたしました。
次回からは第2部になります、よろしくお願いします。