7 直光アンバー
走って着いた店の前、そこには黒鶫さんが立っていた。だが、いつもの彼女とはなにか違う。
私服だ。
普段見慣れた作業着ではなく、初めて目にする私服姿。すごく新鮮だ。
無邪気だったり落ち着きがなかったりする彼女をなだめるかのように、ひらり淑やかな夏の服。いや、これも内包される彼女の一面、その現れなのかもしれない。
「私服、初めて見ましたけど、可愛いですね」
「そうかな、ありがとね。できれば浴衣が着たかったんだけど、なかった」
「そうなんですか。確かに浴衣姿も見てみたかったですけど、その格好も良いと思います。妖精みたい」
「あはは! 妖精だって! あたし28だよ」
黒鶫さんは照れ隠しに笑いをこぼす。何歳でもいい、可愛いことに変わりはない。
会場へと続く大通りに出ると家族連れやカップルがちらほらと見えた。
同じように並んで歩く俺達は、傍から見れば恋人同士に見えるだろうか。邪な理想を抱えてほくそ笑む。
「花火見たい人がこんなにいるんだね~。みんなして光に集まって、なんか虫みたい」
あたしの店でも花火上げたら来てくれるかな、と呟く黒鶫さんの悪意なき横顔を眺める。山火事は否めない。
「わーすごい! 人がいっぱい!」
お祭りの会場に着くと人、人、人の海。いや森か、山か、ともかく形容し尽くせないほどの人の数。いったいどこからこんなに人が集まって来たのかと尋ねたくなるほどの大勢でひしめき合い、熱気が立ちこめていた。それに負けじと立ち並ぶ屋台、光や香りや自由に飛び交う声。近付くだけで五感が忙しい。
「予想以上の賑わいですね。どうします? 花火が始まるまでまだ時間あるみたいですし、どこかまわってーー」
パシャリ。
ふと気が付くと黒鶫さんはケータイを構えて写真を撮っていた。何を撮っているんだろう? この人混みのどこを撮影したかったんだろうか。
俺に写真のセンスはない。きっとなにか良い構図が彼女には見えたのだろう。
「黒鶫さん、向こうに色々売ってますよ。見に行きませんか」
「うん、いいね。行こう行こう」
人混みをかき分けて進んでいると、カラフルな色が目に留まり足を止めた。
「あ、チョコバナナだ。ずいぶんおっきいサイズだね。琥珀くん食べる?」
「俺ですか? 別にいらな……」
はっ。
いやいや、何を心の中で「チョコレートが掛かっただけのバナナなんていらん」とか思ってんだ。今おまえのバナナに対する好感度だの好き嫌いだのくだらない事情は聞いてない。
せっかく彼女と遊びに来てるんだ、イベント起こしたもん勝ちだ、積極的にいけ、俺。
「カラフルでおいしそうだしそのトッピングがたくさん乗ってるのを食べようかな! 黒鶫さんはどれにします?」
「ん? あたしはいらないよ」
そんなバナナ。
「ふふ、琥珀くん最初いらないって言いかけたじゃん。別に無理することもないんじゃないかな」
なんだか背伸びしてるのを見透かされてる感じがして、少し恥ずかしくなる。彼女から見ればまだまだ俺は子供だろうか。まあ現に俺の方が年下なんだけど。
「でもやっぱり1本貰おうかな。せっかくのお祭りだしね。楽しまないともったいないよね!」
黒鶫さんはチョコバナナを1本手に取ると、またしても写真を撮った。ひょっとして俺が知らないだけで、けっこう写真家なのか?
「半分こしよ、半分こ。それならお互い食べられるでしょ?」
半分こ。音の響きがすでに恋人みたいだ。
「だいぶ大きいですし名案ですね。でもどうやって半分にしましょう」
「どうやって? こうやって、手でぼきっと……だめか。手がべたべたになっちゃうね、チョコで」
「あ、じゃあ俺紙皿かなんか貰って――」
「かじればいっか」
はい?
「あたしが半分食べて、残り半分は琥珀くんにバトンタッチ」
それでいい? と提案してくる黒鶫さん。それは俺のセリフだ。それでいいの? いやっ、だってそれ、間接……。
「俺は別に構わないです、けど」
「そっか。じゃあ先にいただきます」
かぷりと豪快にかぶりつく。口の端にチョコが付くのに気付かないでいる。そんなお茶目なところも可愛い。
「おいしいけど、やっぱり1人で食べるには大きすぎるね。はい、タッチ」
黒鶫さんは自分が食べた残り半分を、気に留めた様子もなく俺の方へずいと差し出した。
差し向けられた食べ跡を嫌でもまじまじと見つめてしまう。嫌じゃないけど。嫌じゃないけど! ……駄目だ、よそう、そういうことを考えるのは。黒鶫さんはそんなこと考えてないぞ。
半分のチョコバナナをわざとらしく大口で食らう。バナナにチョコを掛けたみたいな味がした。
「あ、ねえねえ琥珀くん。見てあれ」
きょろきょろと辺りを見渡していた黒鶫さんが何かを見つけ、写真を撮ると同時に指を差した。その方角を目で追う。
屋台前に置かれた青のプールの中でゆらゆらと水を煽る赤の斑点。金魚すくいだ。
「あたし実物見るの初めて。一緒にやろ?」
俺は子供の頃にしかやった記憶がない。それもおぼろげな記憶だ。今やってもできる自信はない。
「じゃあまずは琥珀くんから、どうぞ」
だが、できるかできないかはどうだっていいのだ。やろう、なんでも。別にできなくたっていい、できたってたかが金魚すくい、金魚なんか取ったって――
「かっこいいとこ見せてね!」
絶対取ろう。
道具を手に取り、いざ水槽の前に臨んでみると、遊びとはいえどこか緊張感が漂うのを感じた。
ポイ(すくうやつのこと、らしい)に張ってあるこの紙はできるだけ水と触れない方が破れにくいんじゃないか。ならば金魚を取るときだけ水にさっと入れ、さっと出す。これでいこう。
なんて軽く作戦を立てて、金魚にざっと目を通す。どれか取りやすそうな奴はいないものかと思ったが、金魚の個体における取りやすさの難易なんてものは素人目にはわからなった。適当に近くにいたのに目星を付ける。
ポイを構え、さっと水の中へ。
一瞬の緊張。
そしてさっと引き上げる。
手にはわずかな重み。対象をおよそ中央に捉えている。
「よし、取っ――」
――た、と思った瞬間、手に感じていた重みはするりと下へ抜けていった。水槽の中に落ちたそいつは嘲笑うかのように再び悠々と泳ぎだした。思わず、くそ、と声が漏れる。
「――ぷっ! あはは、あはははは!」
肩を落とす俺を余所に、横で見ていた黒鶫さんが吹き出した。失笑を買った覚えはない。というか人の失敗をこんなに堂々と笑うのは良くないと思う。
「あー、ごめんね、大笑いしちゃって。違うの、バカにしてるわけじゃないの。琥珀くん、きり! って顔したと思ったらもうしょんぼりしてるからさ、なんか可笑しくって。琥珀くん意外と表情豊かなんだね」
目尻に浮かべた涙を拭いながら弁明する。てかそんなに見られてたのか、俺。嬉しいような、恥ずかしいような。
「よーし! じゃ、次はあたしの番だね! 琥珀くんと同じおしりを踏まないようにしなきゃ」
黒鶫さん、尻じゃないよ、轍だよ。
意気込んで構えてみせた彼女だったが、道具をじっと見つめて固まった。どうしたんだろう?
「あたし思うんだけど、これさ」水面に従うようにポイをはべらせ、全体を均等に濡らして言う。
「重さには弱いけど、水そのものにはそこそこ強いんじゃないかな。だからこうやって、水の重さに負けないようにできるだけ水平な角度で全部入れちゃえばほら、すぐには破れない」
そのまま金魚の頭の方から体の真下まで持っていく。
「あとは破けるとしたら、ぴちぴち跳ねる尻尾のせいだよね。だからこうやって破れやすい中央には頭を、元気な尻尾は外側に――えいっ」
手首をくるんと返し、椀の中に見事に収めてしまった。思わずその流れるような手つきに見とれてしまう。
「やったっ! できたできた!」
子供みたいに無邪気にはしゃぐ彼女。可愛い。この人は本当に年上だろうか。
「すごいですね! このまま何匹でも取れそうな勢いですよ」
「あはは、ありがと。でもやっぱり素人にはこれが限界みたい」
そう言って俺に見せたポイには小さな穴が空いていた。
それでも、初心者なのに一発で成功させたのはやっぱり見事だ。素人とは思えぬ手捌き、やはり器用な人だ。
水槽から椀の中に収められた金魚は、今度は手の平大の透明な袋の中で彼女の腕の下を泳ぐことになった。
***
「……あたしね」
腕に提げた袋の中の金魚を眺めながら黒鶫さんが言う。
「お祭りに誘われたとき、ちょっとびっくりしたんだよ。あたしのお店でお手伝いしたい、って言い出した時から思ってたから。琥珀くんって、わー、わーく……わーきんぐぷあな人だなって」
やめてくれ。シャレにならん。
あと俺ワーキングプアじゃなくてただのフリーターだから。プア以前にちゃんとワーキングしてないから。
ていうかもしかして、ワーカホリックのこと? あの店で手伝いをしてるのはただの仕事熱心だと思われてたのか……。
それもそうか。突然タダ働きさせてくれと願い出てくる奴なんて、よほどの物好きに決まっている。
だってあくまで、俺と彼女の関係は、お客さんと店主さん、なんだから。
……いや、何を気弱になってるんだ。だから今日、その関係を終わらせにきたんだろ。俺は今日、彼女の恋人になってみせるんだ。
参考までに、『ワーキングプア』という言葉を簡単に説明いたしますと、正規雇用の労働に従事しているにもかかわらず、その収入が生活における支出を下回るがために困窮している人々のことです。嘆かわしいですね。