4 純濁ネフライト
もはやどうでもいい話だが、俺が住むこの町は2つに分かれている。宗教的観念とか政治経済上とかそういう理由ではなく、地形がはっきりと分かれているのだ。
通称『上の町』と『下の町』。
その昔、元々この辺りは平たい土地であったが、地震か噴火か地殻変動か、ほぼ垂直に大きく隆起した場所ができたそうだ。それが今の『上の町』。残った部分が『下の町』だ。
ちなみに俺が今住んでいるのは上の町、俺の実家や紫苑の家があるのは下の町だ。
町の上下のアクセスは上の町の端から伸びる坂を利用するしかない。土砂崩れなどによる両町への被害を防ぐために、隆起して切り立った土地の側面は鉄筋コンクリートでガッチリ舗装されていて、それに沿って緩やかな坂が設けられている。
コンクリートをよじ登る以外は他に通行手段がないため、上の町は老後住みたくない場所ナンバーワンだ。
そのせいもあってかはわからないが、上の町には近代的で瀟洒な建物が林立し、現代人さながらの風体で人々がせわしなく行き交っている。俺のバイト先があるのもすべて上の町だ。
町の大きさを比較すると、面積だけで言えば下の町の方が大きいのだが、都市の規模という意味で捉えると上の町に軍配が上がる。
そんな中、上の町の片隅にはひっそりと佇む深い森が存在する。世俗から隔離されたかのような異質な空間。あるいは時間の流れさえもそこだけは止まっているのもしれない。
『色彩の丘』はそんな森の中にある。つまり上の町の一部なのである。
なぜか上の町から直接繋がる道はなく、下の町から伸びる、昔 作られたという1本の山道を通るしかない。
上の町の森側から進入しようとしても、整備もされていなければ明かりもないような鬱蒼とした森であるので、思うようには歩けない。そもそも上の町からその森への立ち入りは禁止だ。
樹海だとか霊峰だとか噂されるその場所は、色彩の丘を知らない者にとっては未知であり、普通にホラーである。
余談だが、前述の理由から、上の町住まいの俺が色彩の丘に行くためには、一度下の町まで下りてから改めて目指さなければいけない。
***
先週、色彩の丘の奥にあった謎の店の件。
そこで椅子を買ったのだが、配送サービス的なものはやっていなかったので(じゃあなんで家具なんか置いてるんだ)、あの後俺は椅子を片手に夜道を歩いて帰った。頭の中で、何度も黒鶫さんの言葉を反復させながら。
『また来てね、琥珀くん!』
社交辞令であろうなんでもないそんなひと言が、俺の中の何かを揺さぶり、惹き付けた。
この歳から恋だなんて馬鹿馬鹿しいかもしれない。そんなことはわかってる。
だけど……好きになってしまったんだから、どうしようもない。
あれから1週間後の昼、俺は再び店に向かっていた。
一本道を進んでいくとアスファルトの道路がぷつりと途切れ、木々に囲まれた山道、その入り口が現れる。色彩の丘と彼女の店はこの先にある。
入り口から見上げてみたがなにも見えなかった。見えるのは風にそよぐ無数の木の葉ばかり。ここでは町の喧騒も届かず、耳に入るのは触れ合う木の葉の囁きや、歌う小鳥の囀りだけだ。
一歩踏み入れればこの空間は、いや時の流れも、元の世界とは異なるものだという気がしてならない。もちろん錯覚なのだが、時空が違う、どうしてかそんな思いに捕らわれるのだ。
森の中の山道、しかし実際は山だと思っていたものは山ではなかった。下の町から見上げた上の町の斜面がそう見えた。
隆起した上の町の側面はコンクリートで固められていたはずだったが、どうやらこの場所だけは施工されず、素のまま緩やかな土の坂道として残っていたらしい。
その道を登っていくと目の前に色彩の丘が見えてくる。開けた所だが、八方は森に囲まれている(展望のために木が生えていない箇所が一部あるので正確には七方、だろうか)。この深い森こそが上の町の片隅に存在する森である。
どうでもいいが、衛星写真とかで上空からこの辺りを見下ろしたら色彩の丘の地点だけぽっかり穴が空いて見えるのかもしれない。
さて、この森だが、本来なら上の町から直接の進入は禁止である。しかし、今俺が通ってきたように下の町から繋がる坂道を登ってしまえば、もうそこは森の中なのである。
立ち入り禁止の看板も、人畜を隔てる塀や柵も、抑止のためのロープもない。それどころか進入を禁じる法すらないのだ。つまりこのルートであれば、どうしてか半ば合法的に森に入れてしまうのだ。
さらに奥地へと足を踏み入れていくと、木と木の隙間から粛然と建物が立ち現れる。
一般家屋よりいくらか立派な造りのようだが、ひどく風化してしまった外観は木暗がりの物恐ろしさと相重なって、与えられる印象はまさにお化け屋敷、あるいはどこかのホラー映画の舞台となる古びた洋館といったところだった。
辿り着いたここが、これこそが、黒鶫さんの店だ。
店の前まで来たはいいが、なんとなく踏みとどまってしまう。1週間も前に来た客のことをいちいち覚えているだろうか?
自分の意識が過剰なだけではないかという思いが湧き起こり、なんだか急に恥ずかしくなってきた。やっぱり帰ろうか。
そう思って踵を返そうとした瞬間、
「あー、なんか見たことある顔!」
突然黒鶫さんの声が上から降ってきた。上?
「また来てくれたの? ありがとー! どうぞ入って!」
この建物はなんとも特殊な、というか変な構造をしている。建物1階の正面の扉を開けると地下へと続く階段があり、その奥に店の本体があるのだ。では外に剥き出た地上部分はと言うと、古びてぼろぼろでとても機能しているようには見えない。黒鶫さんはそんな2階部分にいた。
てっきり地上は廃れて地下しか使っていないのかと思っていたけど、どうやら健在のようだ。
それにしても俺の顔覚えていてくれたのか。これはちょっと、いやかなり嬉しい。
「よいしょ、いらっしゃいませー」
「こんにちは」
店内で黒鶫さんを待っていると、彼女は大きめの段ボールを両手で抱えて下りてきた。
「えーと、先週椅子買ってくれた人、だよね? 名前は確か……琥珀くん!」
名前を呼ばれてどきりとする。顔だけでも嬉しいのに、名前まで……!
「あの椅子使ってくれた? どう? 使い心地は」
「良かったですよ。しっくり、しっかりって感じで」
そういえばどこのメーカーなんだろうか。制作会社の名前書いてなかったけど。
「ほんと!? よかったぁ~がんばって作った甲斐あったよ~!」
……作った?
「え、まさかあの椅子……黒鶫さんが?」
「うん? そうだよ、ほら」
ずい、と前に差し出した段ボールの中には大量の木材が。
「す、すごいですね……」
「ふふ、ありがとー。椅子だけじゃなくて、このへんのアクセサリーとかも全部あたしが作ってるんだよ。さすがに商品全部はムリだけどね、本とかもあるし」
作れるものは全部作ってるのか、器用なんだなあ。それに物作りが好きなんだな。
「そうだ、コーヒー淹れるよ。待ってて」
彼女は両手を合わせてジェスチャーで思い出した仕草を取ると、いそいそとレジ横の部屋へと入っていった。
「はいどうぞ。きり……なんだっけ、きりたんぽ?」
きりたんぽ?
「……キリマンジャロ?」
「ああ! それそれ! 博識だね!」
もしかしてこれ毎回やるのか?
「うん、おいしいです」
苦味と酸味のバランスが調和のとれた見事な味だ。
「いいんですか? 今日は何も買ってないのに」
「やだなあ、なんか買ってくれたからとか、そういうのじゃないよ。愛想が良いお客さんにはみんな出してるの」
愛想が良い? って、ああ、なんとなく嫌な客も来るって意味かな。俺はそう思われてないみたいで安心した。
優しい店……もとい、優しい人だな。
「ここには他に従業員はいないんですか?」
「うん、いないよ。人手はあたしで足りてるしね」
首を動かして店内をぐるりと見渡してみる。こぢんまりとしてあまり広くはない。部屋の広さだけでの判断になるが、別段人手が足りないということはないのだろう。
ただ、ここが地下だということもあってか……いやに静かだ。
「ここでは黒鶫さんは1人、なんですか」
「ん……。……うん、そだね。1人かな」
……ん……?
「でも、お客さんがたくさん来てくれるからそのおかげでお店の雰囲気は明るいよ。だから琥珀くんもいっぱい来て? 別に何かを買うためじゃなくても、遊びに来るだけでもいいからさ。ほら、あたし話すの好きだし」
「そう、ですか。ならお言葉に甘えて、また来させてもらいます」
「うん、ありがとね」
ちょっと冷めてしまった珈琲を飲みきる。その後は少しだけ雑談をして帰った。
こうして店に行ける口実ができただけでも俺は嬉しい。
だけど……なんだろう。あんな山中で、あんな地下の部屋で、寂しくないのかと暗に訊いたつもりだった。その瞬間、黒鶫さんの表情が変わったように見えた。
でもそれは、親の帰りを待つ甘えたがりの子供のような、寂しさで曇った顔……ではなかった。孤独だとするなら、そういう顔をするかと思った。
むしろその逆、家に子供を待たせたまま仕事をしなければならない親のような、悲しげに大人びた顔だった。
それが何を思っての表情だったのか……俺がすべてを理解するのはもう少し先の話だ。
***
「……うん、また来てくれたよ。うん、わかってる。最後の判断は、任せるよ……」