2 微光アンバー
まだ醒めない酔いと吐き気を胸に抱えて迎えた次の日の朝。そこにもはや嫌悪感はなく、一周回って清々しさすら覚える。
「うっ……んん、おはよう、紫苑」
「おぅおはよう。昨日は飲んだね」
紫苑は散らかった空き缶やら空き瓶やらを片付けていた。
ふと大学時代を思い出して にやついた。酒盛りをしたその部屋でそのまま雑魚寝して、先に目覚めた方が飲み散らかした残骸をなんとなく始末し始めるのだ。
「琥珀はこのあとどうするの?」紫苑が空のアルミ缶を潰しながら俺に尋ねる。
「今日は1日分時間あるし、せっかくだから実家行ってみようかな。チャリで」
「お、アルバム見てくんの? また連絡してくれな! 車持ってないの?」
「持ってない。ていうか免許もない。どうせバイト先はどこも徒歩圏内だし」
「まじか、おれは職場遠いし持ってるよ。なんかあったら任せて」
もし遠出する機会があったら紫苑にお願いしよう。たぶんないけど。
実家に向かう前にいったん自分の家に戻り、シャワーを浴びた。汗と一緒にアルコールも流れていったような気がする。
「親に連絡はしなくてもいいか。日曜の午前だし、いるだろ……って、うわっ!」
出発する前にちょっとひと休みと思って椅子に腰掛けたところ、支える足のひとつがボッキリと折れて体ごと床に投げ出された。
「あちゃあ……。直すのは難しいかなあ……古いし」
実のところ椅子だけではない、他の家具も、床も壁も、家まるごとすべてに年季が入っている。それも当然のこと、なにせ築何十年と経つ木造建築なのだ。
というのも、この家は元々じいちゃんとばあちゃんが生前住んでいた家だからだ。その昔、持っていた土地に2人が建てたそうだ。
大学を出た俺は一人暮らしのための家を探していたのだが、もったいないから使ったらどうだ、とそのまま残っていたこの家を親に勧められた。ちょっとボロいなとは思ったけど、家賃がいらないと聞いたら拒む理由はなくなった。
ちなみに俺がこれから戻ろうとしている実家は普通の一軒家で、取り立てて言う特徴もない。
自転車を走らせて到着したのは、広がる住宅地の中にある2階建ての一軒家。少年・学生時代は俺も親と一緒に住んでいた家だ。 今は両親が2人だけで住んでいる。
「……はい、どちら様……。って、琥珀……!」
チャイムを鳴らすと出てきたのは父だった。目の前に立つ俺を幻でも見るかのように眺めてくる。
実家なのに他人の家に上がるような気分だった。
それもそうか、バイトが重なって去年は年末年始も帰らなかったし、実質長いこと訪れていなかった。
「母さん、琥珀にお茶を。……どうしたんだ突然。最近、どうなんだ」
「別に……変わんないよ」
「何の用があって来たんだ? まだ朝だぞ」
「たいした用事じゃない、すぐ終わる」
お茶を淹れた母が戻ってくる。写真類の管理は母がしていたはず。
「母さん、アルバムあるかな。できるだけ昔のやつ」
「へ……ええ、あると思うけど……」
母から受け取ったアルバムに片っ端から目を通していく。紫苑の言っていた女の子が写真に残っているかどうか探すためだったが、眺めているうちに面白く思えてきた。
大学の入学式、高校の学園祭、中学の大会、小学校の合唱コンクール、雪だるま紅葉狩り川遊び花見……。
記憶にあるものとないものとあるけど、こんなこともあったっけなあ。懐かしい。
ページをめくってある程度昔に遡れば、じいちゃんとばあちゃんの姿がちらほら現れてくる。2人は俺が中学に上がる前に他界してしまったため、一緒に写っている写真は少ない。
「……ん? なんだこれ?」
1枚の写真に目が留まる。
この家の前の夜道を、手を繋いで2人で歩くじいちゃんと幼き俺の後ろ姿。どういう状況なんだ?
「なあ、母さん。これ何の写真?」
「ん? ああ、これはあれよ、おじいちゃんとあんたが夜の散歩に出掛けた時のよ。懐かしいわねえ。私が後ろから撮ったのよね」
夜の散歩? 俺がじいちゃんと、2人で?
「え……なんだそれ」
「あら、覚えてないの? あんた小さい頃、週末の夜になるとおじいちゃんに連れられてどっか行ってたのよ」
週末の夜……。ああ、そういえば。
じいちゃんとばあちゃんは昔からあの家に、つまり現在俺が住んでいるあの木造建築に2人で住んでいた。でもばあちゃんがいなくなってしまってからは、じいちゃんは週末になると時々こちらに遊びに来るようになった。両親と俺のいた、こちらの家に。
今思えば、じいちゃんは寂しかったのかもしれない。
「少し思い出した気がする……でもどっかって、どこに?」
「えーと……あそこよ。あの、景色が綺麗な……。そう、色彩の丘、だったかしら」
色彩の丘。聞き覚えがあるようなないような。
「それっていつ頃の話?」
「あんたが小学校に入る前後じゃないかしら。何回も行ってたのよ?」
言われてみればうっすらと覚えているような気もする、だけどはっきりとは思い出せない。無理もない、ほぼ20年も前の話なのだ。
その後、当初の目的である謎のお姉さんを探してアルバムの写真を洗いざらい調べたが、それらしき影は見当たらなかった。
俺が写っているのはもちろんのこと、父さん、母さん、時にはじいちゃん、ばあちゃん、あるいは親戚、紫苑やご近所さん……と様々な人間が確認できたものの、年上のお姉さんなんてどこにもいなかった。
念のため父と母にも尋ねてみたが、やはり知らないとのこと。
「はあ、ほんとにいるのか?」
実家を離れ、自転車を押しながらひとりうなだれる。
ひたい姉ちゃん。
俺がずっと一緒にいたいと願った人。
そんな人が小さい頃の俺に? やっぱり、紫苑の勘違いなんじゃないか。
でも確かに紫苑の記憶力は良いのだ。その記憶とぴたり合う人でなくても、いくらか条件の一致する似たような誰かがいるとか。
何はともあれ、結果報告はしておこう。
「もしもし、紫苑?」
『おぅ琥珀か! アルバムどうだった?』
「まったく見つからなかった。結局、わからず終いだよ」
『アルバムにない、ってことは家族とか学校とは全然繋がりがない人なのかな……。いやそれより、おれの記憶が他のなんかと混じってる、って方が現実的か』
「んー……そうなのかなあ」
『まあ、この話はなかったことにしようよ。悪い、変なこと言って。そんなことよかまた飲もうな』
「……ま、そうだな。また誘ってくれよ」
俺の中でも、ある程度の諦めはついた。
だって手掛かりが他に何もない。たとえその人が存在したとして、見つけようがないんだ。
***
さてと、まだ昼だ。なにかしようか。
そうだ、じいちゃんと通ってたっていう『色彩の丘』に行ってみようか。まだあれば、の話だけど。
調べてみたところ、普通に健在だった。地図によればそれほど遠い距離でもなさそうだ。近いとも言えないが、紫苑に頼んでわざわざ車を出してもらうほどではない。歩いて行こう。
「この道をまっすぐか……」
どうやら丘に向かうルートは変な道を無理に通ったりしない限り1つしかないようだ。
だからこの道は、昔じいちゃんと歩いたであろう道。残念ながら覚えていないが、どこか感慨深いものがある。
一本道を歩き続けて見えてきたのは、一変して山、だった。アスファルトの道路はそこで途切れ、突如として木々が姿を現し、山の入り口のような区域へと続いていた。
いやしかし、山……であるはずはない。この町に山はないのだ。“丘”というのだから少し小高い場所なのだろう。
あちらこちらで写し鏡のように木々が生い茂り、道の左右でアーチの形を成していた。その間をくぐり抜けるように通る中途半端に舗装された坂を登る。舗装といっても気休め程度に木材が組まれているだけで、ほとんど山道だ。
しかし本物の登山ほど険しいということもなく、そう苦は感じない。これぐらいの傾斜ならじいちゃんにも登れただろうな。
高木層と低木層が織り成す階層構造が作る木陰、その合間を縫うように日が差し込み、地面の影が光とまばらになって美術細工みたいにキラキラ光って見えた。
なにか不思議な感じがした。
色彩の丘へと続いているだろうこの道はどこか幻想的で、この空間が見せる夢のまにまに誘われるような、そんな神秘を感じるのだ。
そして登っていくと、木陰に大きく光が差し込んでいる場所が見えてきた。あそこが出口だろう。
いや、出口ではない。入口だ。
「おお……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
開けた場所に丈の短い草原が広がり、その中に点々と花が咲いている。
風通しも良く、さらに開けた場所で日当たりも抜群という好条件。風に乗った種子なり鳥の糞なり伸ばした根なりが手伝ったおかげか、天然の芝と自然の花畑が完成していた。なるほど、この景色こそが『色彩の丘』たる由縁らしい。
そうは言えど、景観を阻害する雑草がないのは誰か人の手が加わっているからなのだろうか。
視界に映る景色の美しさにしばらく見惚れていた。
深く息を吸い込めば肺に満ちる緑の存在。
空は吸い込まれるような青さで、雲ひとつない。
「小さい頃の俺がじいちゃんと見てた景色も、こんな感じだったかな」
辺りを見回してみる。開けた丘とはいえ四方は木々に囲まれていたが、入り口正面を真っすぐに進んだ丘の縁にだけ、ぽっかりとくりぬかれたように木の生えていない部分があった。その場所に歩み寄る。
「おお、絶景……!」
色彩の丘はこの町では最も高い位置にあり、邪魔する木さえも存在しないこのポイントからは町全体を見渡すことができた。
草原と花々の美しさもさることながら、この見晴らしの良さもひとつの特長と言えるだろう。
町の建物ひとつひとつが小さく見え、まるで箱庭の世界を覗いているようだった。普段生活している日常と切り離されたような、そんな感覚。
「ふう……」
素晴らしい時間と美しい空間を充分に堪能した俺は、日々過ごしてきた現実の、心の不足を補えた気がした。
どこか座ろうか、と思ったら、街の方を向いて設置された木製のベンチが近くにあった。
でも、今の気分は――
「……こっちだな」
俺が選んだのは、この自然の上に直接寝転がるという選択肢だ。
鼻先に咲く花。
微かに聞こえる鳥の声。
暖かい……。
ああそうか、今は春なんだな……。
二日酔いの疑いがある場合、翌日の朝から自転車を運転するのは危険ですのでやめてください。