存在していたことの証
一
夏野氷は空を見ていた。首を思いきり反らして、空へと顔を向き合わせている。八月も目前の蒸し暑い日だったので、立っているだけで汗がとめどなく流れた。じりじりと肌の焼ける音すら聞こえてきそうだ。しばらくすると彼は、何も言わずに顔を戻して、家の縁側へと歩いていった。日光で白金色に輝いている障子が目にとまる。廊下にずらりと並んだそれは、彼を拒んでいるようでもあったし、温かく迎え入れようとしているようでもあった。
日陰に入ってしまうと、途端に熱が引いていった。腰かけると同時に、生暖かい風が優しく吹きつけてくる。その風だけではとても足りなかったので、彼は手元に置いてあったうちわで体を扇いだ。これで暑さをしのぐしかない。ここには扇風機さえないので、古くから伝わるこの冷却方法に頼るしか術がなかったのだ。
彼の通う中学校は、一週間ほど前に夏季休業に入った。何の変哲もない、ごく普通の学校である。期末試験が終わり、成績表が返されたり、無理やり組み入れられたようにしか思えないその他ごたごたした行事がすんだあとは、淡々と夏休みを迎えた。
そして彼は、休みに入った次の日に、両親によってここへと連れてこられた。夜はネオンがきらめき、人々の活気であふれる都会から、蛍が飛び交い、ひっそりとした生活の続いている田舎へと移動させられたのだ。彼はいちおうの反対を示したが、両親はまるで聞いてくれなかった。ここには彼の父方の祖父母がいる。彼らのもとで、夏休みを満喫しなさいと両親は言うのだ。車を三時間ほど走らせて氷をこちらに送り届けたあと、二人はすぐに都会へと帰ってしまった。彼らは気まぐれに任せて、夏になると彼を田舎へ送る。そのタイミングに規則性はなく、予測ができない。去年は都会で過ごさせられたが、一昨年とそのさらに前の年は田舎に送られた、といった感じだ。そうして一人息子を置き去りにしておいて、自分たちは二人きりで各地を旅行したりしている。そのことについて、氷はとくに何も感じはしない。旅行に行きたければ行けばいいのだ。彼の不満は、ここでの生活だった。極端に娯楽の少ない環境。刺激のない静かな風景。それはまだ十四歳の彼にとっては耐えがたいものだった。
彼はどちらかといえば問題児だった。学校ではしょっちゅうトラブルを起こしていた。そのせいで両親からも煙たがられている。友人と呼べる者もほとんどおらず、だいたいがその場限りの関係か、あるいは他校の不良グループとの喧々した付き合いだけだった。学校にいるあいだは常に不機嫌な顔をした。意識してやっているわけではなく、自然とそうなってしまうのだ。その表情を見て、同級生は彼を遠ざけ、上級生からは鋭い目で睨まれる。彼としてもとくにほかの連中と連れ合う気はなかったから、周りの反応はどうでもよかった。
けれども、彼としても、もし友人と夏を過ごすことができたらどんなに楽しいだろうかと思うときがある。田舎に送られてからはそう思うことが多くなった。気の合う仲間たちと、河原でバーベキューをやったり、馬鹿みたいに花火を買いこんできてそれらに一斉に火をつけたりするのだ。仲間がいないこと自体にさみしさは感じないが、やはり心のうちでは気兼ねなく話すことのできる関係に憧れていた。つまるところ、何かしらの変化が欲しかったのだ。ここで生きていると、ふやけてどろどろになってしまいそうだったのだ。祖父母は退屈で、よく怒る。農具一つ握らせてくれない。トラクターをこっそりいじったこともあったのだが、それが判明したあとはずいぶんとしかられた。さすがに彼らに暴力を振るえないから黙ってじっとしていたが、もうあんな目に会うのはたくさんだった。いろんなものごとが制限されている。何もすることができないため、こうやって空を眺めたり縁側でくつろいだりするしかないのだ。今年はとくに暑いため、外を出歩くこともしたくなかったから。
祖父母の持っている本を、手持ちぶさたに読んでみたりもした。だが、内容はまったく頭に入ってこなかった。まず日本語が読めないのだ。現代の仮名遣いではなく旧仮名遣いで書かれているものばかりだったので、それだけでうんざりしてしまった。文字を辿っているだけで疲れてきて、気がつくと目をつぶっていることもあった。祖父母は彼が本を読んでいることに少なからず感心しているようだったが、実際に何も読んでいないということまでは知らなかった。
太陽に姿をさらして青空を見たり(たまに鳥が飛んでいくのを見ることができ、それは少し面白かった)、家に戻って涼んだりを繰り返した。気がつけばもう昼の三時を迎えていた。
彼は一つあくびをして、縁側に寝転がった。こんな日々があと一か月も続くのかと思うと、氷はやりきれない気持ちになった。刺激が欲しかった。この際ぜいたくは望まない。ささいなことでもいいから、退屈な時間を突き破ってくれるようなことが起こってほしい。そう、願っていた。
少しだけ太陽の勢力が落ちてきた。彼はふと、外へ歩きに出てみようかと思った。これまでは家の周辺しか歩いたことがなかったけれど、今回はうんと遠くの方まで行ってみるのだ。もしかしたらその先に退屈な日常を覆すような何かが見つかるかもしれない。ここにいたって何も変わりはしないのだ。変化を起こすなら自分から動くしかない。そう決意してしまうと、彼は何だか元気が湧いてくるような感じがした。暑いのは我慢するしかない。我慢するに足るものが、歩く先にきっと見つかる。
祖父母に断わっておこうとも思ったが、どうやら家にはいないようなので、何も言わずに家を出ていった。彼は何も身につけない。歩いているときに邪魔になるだろうと思っていたから。しかし、そういう考えを抱くことは大きな間違いだった。彼はそのことをのちにひどく後悔することになった。
まっさらな田園風景を歩いていく。すれ違う人はほとんどいなかった。三人ほど出くわしたが、すべて腰の曲がった老婆だった。そのうちの一人は彼の顔を知っていたようで、親しげに挨拶をしてきた。氷はそういった付き合いに慣れていなかったので、もごもごと何かをしゃべったあと、間違えて女性下着売り場に来てしまったときのようにそそくさと逃げていった。
景色の半分は果てしない青空だった。雲は服についた食べ物の汚れのように淡く、小さい。そこに向かってがなり立てるような蝉の鳴き声がする。やつらは、と夏野氷は思った。蝉というのは確か、夏のあいだだけしか生きられないんだっけか。そのことを意識していると、案外違ったふうに聞こえるものなんだな。前までは騒々しい生き物くらいにしか思っていなかったんだが――。彼はだんだんとその声に秘められた悲しみを感じることができるようになってきた。落とした墨が紙に染みこんでいくみたいに。
途中、小川をまたぐちんまりした橋を渡った。造りも雑で、いかにも古臭い感じだったのだが、そこには何とも言えないさみしさが漂っていた。彼はどきどきしながらその橋を渡っていった。底が抜けて落ちるのではないかということを心配していたのではない。今まで味わったことのない高揚感で心が奮い立っていたのだ。向こう側まで渡ったあと、川の中を覗いてみた。小さい魚が群れをなして泳いでいるのが見える。岩のあいだを巧妙にすり抜け、ぐにゃぐにゃとした隊列で水中を駆けまわっている。氷はだんだん楽しくなってきた。何だ、自然というやつもなかなかできるじゃねえか、と無言のうちに思っていた。彼はこれまでの鬱憤を晴らすみたいにして、各所を練り歩いていった。
林に囲まれた祠のようなところにも行った。厳かな空気で満たされていたので、氷は戸惑いを覚えた。本来ここへ来てはならなかったかのような場違い感だ。だが彼はその思いを振り切って、祠に近づいた。そして、その正面で手を合わせる。この夏を楽しく過ごせますように。こんな野郎の願いを叶えてくれる神なんているはずもねえか、などと考えていたが、彼は本気で願った。頭上からは木々に遮られた光の名残りが点々と降り注いでいた。
古い小屋も発見した。あちこちが破壊されていて、まるで見捨てられた大型犬みたいだった。中を覗いてみると(鍵はかかっていなかった)、農作業に使ういろんな道具が置かれていた。床を踏むごとに埃が舞い上がる。長いあいだ人の出入りのなかった場所らしかった。ちょうど西の窓から太陽が射しこんできて、舞った埃を照らし出す。むせ返ってしまうような空気ではあったが、ゆらゆらと浮かぶ埃が何だか雪のように見えた。彼は隅の方に立ってその光景を眺めつづけた。いつまでも時間をつぶすことができそうだった。だがずっとここで座っているわけにもいかないので、彼は三十分ほどで小屋を出た。
本当に新しい発見ばかりだった。視野を広げれば、周りにはたくさんの面白いものが転がっているのだ。都会で培われた毒素がみずみずしい思い出で浄化されていくような気がした。ゲームもないしパソコンもない世界だが、その代わりに多くの愉快な楽しみを提供してくれる。今年の夏はいつもとは一味違うものになりそうだった。これが人生の転換期とやらかもしれないな、と夏野氷はぼんやりと考えていた。
歩くうちに、いつのまにか数時間が経っていた。空がもう赤く染まっている。熱された鉄の球が泥に沈んでいくみたいにして、太陽は地平線の底へ落ちていく。カラスの鳴き声が遠くの方で聞こえた。彼らもきっとねぐらに戻るのだろう。俺もさっさとねぐらに戻るとするか。彼はそう思い、急ぎ足でもと来た道を走っていった。
しかし途中から、いったい自分がどこから来たのか、どの道を通ってきたのかがわからなくなってしまった。道を覚えるということをしないままに進んできてしまったのだ。どの方向を見ても似たような風景しか見えなかった。古臭い小屋や、林の奥の厳かな祠も、どこにあったのかをすっかり忘れている。かろうじて南に歩いてきたということだけはわかったので、とりあえず北に進んでみた。だが状況は一向に良くならなかった。
周囲に民家でもあれば助かったのだが、不幸にも家一つ建っていなかった。そのくらい遠くまで来てしまっていたということだ。辺りは大きくひらけており、大地が丸見えになっている。木々が自由に繁り、道端には色とりどりの花が咲いている。それはそれで素晴らしかったのだが、今は帰路を見つけることが先決だった。
そのあと三十分ほど歩いたり走ったりしていたが、未だに帰るあてを見つけられないでいた。本格的に迷ってしまったのだ。進む方向が間違っていたのではないかと途中で引き返したりもした。途方に暮れて原っぱに座りこんだりもした。もちろん、それで問題が解決することは絶対になかった。
辺りはどんどん暗くなっていく。赤い空がだんだんと黒く塗りつぶされる。ここ一帯に光の宿るところはない。夜になってしまえば何も見えなくなってしまうだろう。そうなったらもう移動はできそうにない。月の明かりだけをたよりに進むのは、あまりに危険なことに思えたからだ。
幸いというべきなのだろう、いろいろと回ったおかげで、彼は一つの小屋を発見した。日が完全に沈む直前のことだ。今日のところはここで休むことにしよう――彼はそう決めた。
前にも一度小屋を見ていたが、それとは違うものだということは一目でわかった。大きさがまず違う。今度はもっと小さな造りになっている。そして誰かの手によって傷つけられた形跡もない。中に入ってみると、その様相もだいぶ違っていた。農具が収納されているという点では一致しているが、それらの配置場所においては何の共通点もない。ここが自分の知る小屋だったらよかったのにと彼は思う。そうであれば順調に祖父母の家に近づけているということだったのだ。しかしこの小屋は以前見たものとは異なっている。彼は埃っぽい床の適当な場所に寝転がり、体を脱力させた。
目の前が暗くなっていくのが実感できる。眠りに入ろうとしているのではない。夜がもう目前にまで迫っているからだ。彼はもう眠ってしまいたかったのだが、どうしても眠れなかった。体が思っていた以上に興奮しているのと、そういえば腹が減ったなということを思いだしたからである。
このままじっとしているのもつまらなかったので、彼は立ちあがった。周囲を探索することにしたのだ。もしかしたら保存食料の見つかる可能性がある。ろうそくなどの明かりをつける道具もあるかもしれない。何も見えなくなってしまうまでに、何とか探索を済ませておきたい。先んじて必要だったのが、明かりと、食べ物だった。それらがないと、今夜を安心して過ごせそうになかった。
壁には何本かの鍬が立てかけられてある。どれも立派なもので、ずいぶんと大きい。やたらめっぽう振り回すだけで驚異的な武器になりそうだ。それらの刃先についた泥はどれも古くて硬くなっている。この小屋とここら一帯は、おそらく人間に見捨てられた最果ての土地なのだ。そう思うと彼は不安に襲われた。見捨てたということは、見捨てなくてはならない理由があるはずである。彼はどんよりとした恐怖も感じた。彼の脳裏には、牙をむく獰猛な動物が群れになってのそのそ歩く光景が映し出されていた。
結局、食料は見つからなかった。その代わりなのかはわからないが、彼はあるものを発見した。
まずはろうそくだ。箱に詰めてあるものが、床に無造作に置かれていた。その近くにはろうそくを立てるための皿も見つかった。これで明かりの心配はないだろう……と思っていたのだが、肝心の火をつける道具がなかったので、役に立ちそうになかった。
そして最後に見つかったのは、なぜかブレスレットだった。銀色の高価そうなもので、太くて丈夫な造りをしている。埃がついていたが、それほど古いものではないみたいだった。服で埃をとると、まるで購入したばかりのような輝きを見せた。彼の発見したものは、とりあえずこの三つだった。時間があればもっといろんなものが見つかったのかもしれない。
そんなふうにして日が暮れていき、夜になった。月の明かりすら届かない。窓の位置だけがかろうじて確認できるだけで、あとは何も見えなかった。
蒸し暑い夜だ。じっとしていても汗がじんわりと出てくる。これまでの散策ですでに大量の汗を噴出させていたので、服はもうびしょびしょだった。脱いでしまおうかとも思ったのだが、肌を直接床に触れさせるのも嫌な感じだったので、服は着たままにしておいた。ぐっしょりと濡れた衣服を身につけているのはつらかったが、仕方がない。変な虫に刺されでもしたら大変なことになる。
何の音も聞こえなかった。外は静けさに包まれている。世界そのものが死んでしまったようだった。窓から景色を眺めてみても、明かり一つ灯っていない。本当に一人も住んでいないのだ。
何もすることがないので、彼はしきりに体を動かしたり、それにも飽きると床に寝そべったりしていた。そのうちに疲れて眠ってしまうだろう……と思っていたのだ。明日になれば状況は良くなるさ。それまでは辛抱するしかない。そう気楽に考えていた。ぽつんと取り残されたさみしさと、ぐるぐると鳴りつづける腹だけはどうしようもなかったのだが。
どうしても落ち着かなかった。小屋の中に、自分を見張る一対の目があるような気がした。もしくは、床の隙間から毒を持つ虫が自分を狙っているような気がした。暗闇は彼の想像力を悪い意味で刺激していたのだ。彼はたまらなくなって、寝かせた体を勢いよく起こした。いつのまにか息が荒くなっている。頭を振るが、嫌な妄想は離れてくれない。
彼は外に出てみようと思った。このままでは気持ち良く時を過ごせそうにない。一旦気持ちを入れ替える必要がある。手探りで扉を見つけ、彼は小屋の外に出た。自分を見張る目などない、毒を持つ虫も存在しない……。そう言い聞かせながら、小屋の周囲をうろうろと歩く。こんなとき、二十歳以上の人間は煙草でも吸って気分を鎮めるんだろうなと彼は思った。一人孤独に煙草を吹かす光景は憧れるものがある。だが、彼はまだ十四歳だったし、煙草も持っていないし、火もなかった。それで彼はさらに無力感に襲われた。今の自分には何もない。このまま誰にも見送られることなく死んでしまうかもしれない。そんな負の感情が高まってしまった。小屋の中でも外でも、変なことを考えてしまうという点では似たようなものだった。
どんよりとした気持ちを抱えて、彼は小屋に戻ろうとした。こうなったら意地でも寝てやろうと思ったのだ。しかし、帰る途中、不自然な物音がしたので彼は立ちどまった。
それは近くで聞こえた。何かが飛んだり跳ねたりする音だ。小さい動物のものではない。もっと大きな生き物の出す音だった。当然彼は恐怖した。人間がここを出ていかなければならなかった原因――獰猛な生き物がついにやってきたのかと戦慄した。だが同時に、彼はそれほど恐怖していなかった。大きな虚無感に浸っていたから、自分が殺されようと構わないという思いがあったのだ。彼はにやりと笑って音のした方を向く。そして、道に落ちていた石を拾い上げ、その方向へと投げた。相手をどうしてやろうとしたのか、それは自分でもわからなかった。ただ、もし石を投げたことで何らかの反応が返ってくるなら、それほどうれしいことはないと考えていたのも事実だった。つまるところ、彼は退屈していたのだ。その結果自分がひどい目に会うことになろうとも構わないという魂胆でいた。
手ごたえがなかったので、彼は何回か石を投げた。音は布がこすれるようにして連続して響いている。そこに伴奏のようにして石の地面にぶつかる音が響く。四投目にして、ついに違った反応が返ってきた。「きゃっ」という声がしたのだ。
それで彼は呆気にとられてしまった。それは明らかに人間の声だったからだ。とすると、俺は人間の、それも(おそらく)女に向かって石を投げていたことになる。そのことを思うと、彼は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。男との喧嘩は上等であったが、女性を傷つけることは彼の信条に反していたのだ。
悲鳴が聞こえたあとは何の物音もしなくなった。彼は不安になって、声のした方に近づいていく。自分の想定していた獣でないことがわかったので、恐怖はすっかりなくなっていた。「大丈夫か……?」と彼は声を出す。こちらに敵意のないことを相手にわからせるために。
しばらく歩いていくと、道端で誰かがうずくまっているのを見つけた。それは明らかに人間だった。髪は長く、体つきは華奢だ。顔は脚に埋もれて見えない。彼は思いきって触れようとした。「おい……」と小さな声で呼びかけながら。だが、伸ばした右手は空中で静止してしまう。
さっきまでそこにいたはずの女が、いつのまにかいなくなっていたのだ。ほんの一瞬の出来事だった。気がついたときにはもういなくなっていた。おかしいな、と彼は首をかしげた。まさか幻でも見ていたわけではあるまい。声ははっきりと聞こえたはずだし、その姿も確かにこの眼で見た。なのに、そこにはもう誰もいなかったのだ。
「お前か……」
後ろから声がした。彼はびくりとして体を硬直させる。まさか、今の一瞬で俺の背後に回ったのか? 彼は最初にそう思った。だとすれば、そのスピードは人間のものではない。とすると女は人間ではないのか……? そんな論理式が彼の中で生まれるが、自分の左肩に置かれた手を認識した瞬間、その論理はたやすく崩壊した。
おそるおそる後ろを向いた。するとそこには、彼とそう背丈の変わらない女の子が立っていた。ぼさぼさの髪、みずぼらしい衣服。見たところ、彼女は靴も履いていない。射殺そうとせんばかりに彼を凝視している。その目ははっきり言って、人間のものではなかった。どちらかと言えば獣に近かった。
「この、くそ野郎が!」
彼女に体を向けたそのとき、彼は腹に強烈な攻撃をくらった。ドリルみたいな一撃だった。女性の力ではもはやない。自分の体がだんだんと沈んでいくのがわかる。彼は必死になって手を伸ばした。どうしてかはわからない。殴ってきた相手に助けを請うていたのかもしれないし、あるいは目の前の少女が他の誰かに見えたのかもしれない。その手は女の子の左脚に届いた。ちょうど脛のあたりをつかんでしまった。「わっ!」という少女の声がする。そのまま彼は地面に伏してしまった。
二
次に目を覚ましたとき、彼は小屋の中にいた。仰向けに寝ていたので、背中からは苔でも生えたかのような気持ち悪さを感じた。体を起こすと、背中にまとわりついた服が離れる。べりべりという音すら聞こえてきそうだった。
「お、ついた」
女の子の声がすぐそばで聞こえた。半分眠ったままそちらの方を向く。すると突然、その方向からまぶしい光が飛びこんできた。「うおっ」という声が、無意識のうちに出てしまう。慌てて目をつぶり、腕で光を遮る。だが、しばらく経って、その光がさほど強いものではなかったことに気づいた。そっと腕をどかして目を開けてみると、光はほんの瞬き程度のものだった。その正体は女の子の点火させたマッチだった。
女の子はろうそくに火をつける。皿に乗ったそれを、彼女は近くのテーブルに置いた。決して明るいとはいえないが、それでも何もかも見えないという状況に比べたら何倍もましだった。どこからマッチを見つけてきたのかが気になったがその質問は控えることにした。たぶんあのときの小屋の探索で見落としがあったのだろう。
この光によって、女の子の顔がほのかに照らし出される。髪はあちこちねじれたりほつれたりしてひどいものだったが、顔つきはとても整っていた。薄汚れてはいるけれど、よく見てみると美しい顔立ちをしていた。年齢はうまく把握できない。十代半ばでも通用しそうだったし、二十代後半だと言われても驚きはしないだろう。陶器のような正確さを持つその顔にはうっすらとあどけなさも残っており、それが年齢の特定を妨げているようだった。目はぱっちりとしていて、鼻から口にかけてのラインが異常なほどの完璧さを提示していた。
体つきはほっそりしている。だが皮と骨だけ、というわけでもなく、肉のつくべき部分はしっかりと膨らんでいた。胸はそれなりに大きく、服の裾から覗く腿も適度な太さだ。全体のバランスは少し悪いのだが、それでも十分魅力的な女性であるように彼には思えた。
彼は自分が気絶する前に起こったことを思いだす。彼女に腹部を殴られたことは確実だ。だが、どうしてこの女の子にあれほどの力が出せたのか、彼にはよく理解できなかった。ほとんど腹を貫いてしまいそうな一撃だったはずだ。よほど突きのセンスに優れているのか、あるいは拳でない別のもので殴られたのか……。後者の方が圧倒的に信憑性があるように思える。
彼女は彼の方をじいっと見ていた。猫が不審な動きの人間を警戒するみたいに。こちらが下手な真似をしたら、すぐにでも噛みついてきそうな雰囲気だった。氷は両手を振って、何もするつもりもないことを示す。
「やめてくれよ。俺はあんたに危害を加えるつもりはまったくないから。そんな怖い顔をしないでくれよ」
「……でも、さっき私に石を投げたでしょ」
「それは、あんたが獣だと思ったからだ。ここは人間が住んでいないだろ? だからここには人間が去らなくちゃいけないほど恐い動物がいると思って、そいつが現れたと思ったんだ。それで、とっさに石を投げてしまった。あれは謝るよ」
すると女の子は興味深そうにこちらに少し近寄ってきた。「あなた、ここの住民じゃないよね」
「ん? ああ、そうだ」と彼は言った。「俺は都会生まれの都会育ちだ。ここにはじいちゃんたちが住んでいて、夏のあいだだけこっちに来てるんだよ。毎年来てるってわけでもないけど」
「そう」と女の子は彼から目を離さずに言った。ぺたりと床に座り、おとなしそうな格好でじっとしている。先ほどまでの警戒心は嘘のように薄らいでいた。
「どうして、俺がここでない別のところから来たってわかるんだ?」と彼は訊ねた。着ている服やら何となく感じる雰囲気から推測したのだろうか?
すると彼女は、「もう、知っていたから」と小さな声でつぶやいた。顔にはさみしげな笑みが浮かんでいる。氷は彼女の言ったこととその笑みについて、まったく理解できなかった。俺のことを知っているのか? 初めて会ったのに、どうして? 彼は気になってその真偽を確かめたかったが、なぜか言葉は引っ込んでしまった。彼女がこれ以上のことは訊かないように、という空気を漂わせていたからかもしれない。それで彼は別の話題へと移った。
「……というか、俺をここまで連れてきてくれたんだな。あんたに石を投げつけた男だってのに」
「それは」と女の子は彼から顔をそらして言った。「あんなところに放っておくわけにはいかないでしょ。それに、見たところ、あまり危険な人だとは思えなかったし」
彼は、自分の人相がそこまで良かったのだろうかと首をひねった。彼は学校ではいつも顔をしかめて生活していたから、そういう顔つきであることがいつのまにか普通になっていた。だからあのときも、あまり見栄えのいい顔ではなかったはずなのだ。どうやら暗闇がそういった欠点をしっかり包み隠してくれたみたいだった。「ありがとうな」と礼を言っておいた。彼女は若干顔を赤くして「ふん」とつぶやいた。彼女はもしかすると自分よりも年下なのかもしれないと彼は思った。
「俺は夏野氷」と彼は自分の胸に左手を置いて言った。「学校嫌いな中学生だ。喧嘩が好きで、毎日の日課にもなってる。勉強は好きじゃない。人付き合いもあまり好きじゃない。両親からは煙たがられている。面白くもなんともない、ただの餓鬼だ」
「なつの、こおり」と彼女は彼の名前を繰り返し言った。まるでそこに隠された重要なメッセージでも探ろうとするみたいに。「変な名前。それ、本名?」
「本名だよ」と彼はため息をついた。「もしあんたが男だったら、今ので速攻殴りかかっていたところだけどな。あんたは女だから、今の侮辱は許してやるよ」
「ごめん」と女の子は謝った。案外素直な子であるようだった。「でも、一度聞いたらずっと忘れないような名前だよね」。彼女はまた寂しそうに笑った。
「あんたのことを教えてくれよ」と彼は慌てて言った。この場を取り持つために無意識に出た質問だ。どうしてそんな表情を浮かべるのかはわからないが、彼はもう彼女にそんな顔をしてほしくないと思った。この笑みを見るたびに、全身がむずがゆくなる奇妙な感覚が自分の中で起こるからだ。
「私は……」と彼女は言いかけた。だが、そこで彼女は話すのをやめてしまう。いったいどうしたというのだろう? 彼は首をかしげた。「あれ? どうした?」
「静かに!」
女の子は突然鋭い声を出した。鋭いが、極めて小さな声だ。彼女は指を口に当て、目を別の方向に走らせた。何かに耳を澄ませるようにして、体を硬直させている。漂う緊張感に、氷もそれ以上話すのをやめた。
彼女の動きは素早かった。まず、彼女はろうそくにふっと息を吹きかけ、その火を消した。それと同時に、彼女は氷の体に覆いかぶさってきた。なすがままにされ、彼は床に倒れる。文句を言おうとしたのだが、暗闇でもわかる彼女の真剣さに、彼は息を飲んで黙った。彼女の体の感触が直に伝わってくる。彼の頭は真っ白になっていた。
ゆるやかに時間が流れていく。時計でもあれば、針の進む音がいやに大きく響いていたはずだ。だが時計はなく、辺りには何の音もしない。いや――と彼は思った。耳をよく澄ませてみれば、外の方で何かの音を感じる。何かが歩き回っているような足音だ。かすかにしか聞こえないが、確かに音がする。それを知って、彼は体に力を込めた。彼の頭には、妄想によって生み出された大きな図体の化け物が外をうろつく光景が映し出されていた。
ようやく女の子は彼の体を解放した。小さく息をつき、そっと立ちあがる。音を立てないようにこっそりと窓の方へと近寄って、外の景色を眺めた。単なる風景の観察でないことはいちいち確かめなくてもわかった。
彼女が窓から離れ、再び火をともしたころになってやっと、氷も緊張を解くことができた。彼の目は、女の子だけに集中していた。彼女は首を振って、ろうそくの近くに腰を下ろす。一粒の汗が、こめかみのあたりをつたっていた。
「感謝」と彼女は言った。そしてそのあとで、気の利いた脚注を添えるみたいにして、「生きていることに」と彼女は付け加えた。
「今のは何だったんだ……?」と氷は訊ねた。彼の心臓はまだ鳴り止まない。小屋の外から感じた間接的な恐怖と、女の子と密着したという直接的な興奮によって。
「あれは、人間を食べてしまう恐ろしい怪物よ」と彼女は真面目な声で言った。冗談半分で言っているわけではないのだ。
「怪物?」
「そう。狙うのは人間だけで、他のものには一切手を出さない厄介な獣。熊みたいな躰をしていて、全身は赤い毛で覆われている。いつも血走った目をしていて、一対の巨大な牙を持っている。その大きさに似合わない素早い動きで、獲物を一瞬で捉えてしまう。ここに住んでいた人間のかつての天敵」
「ちょっと、待ってくれ」と氷は慌てて言った。「まさか、俺にそんな話を信じろって言うのか? 人間を食べる化け物が、今、俺たちのすぐ近くまで来ていたってことを」
「信じられないなら、それでもいい。もともと期待もしていないし」
「いや……」と氷はたじろいだ。正直、彼はほとんど信じ切っていた。彼女の説明を受ける前から、彼はそういった普通でない獣の存在を予想していたのだから。ただ、本当にそうであったということを確かめたかっただけなのだ。「信じるよ。とりあえずだけどな」と彼は言った。
「あれは夜のあいだだけ行動するの」と彼女は続けた。「明るいうちは山の深いところで眠っているんだけど、夜になると移動を開始する。で、目に入った人間を、片っ端からむしゃむしゃと食べていたの。数年前まではね」
「それ以降はそんなことはなくなったのか」
「人間はみんな、ここを離れていったからね。それで被害は激減した。当然、化け物も行動範囲を変えるだろうって考えられていたんだけど、なぜかあれは自分のテリトリーを頑なに守り続けた。理由は今でもわかっていない」
「そんなことが、日本でまだ起こっているなんてな」
「私たちは幸運だった。火を消すのがあと少しでも遅かったら、小屋を突き破って襲いかかってきていたかもしれない」と彼女は当たり前のように言った。それを聞いて氷は鳥肌が立った。
結局、そのあとはほとんど会話をすることができなかった。女の子は周囲を警戒しつづけていたし、氷にしたところで話を盛り上げる自信が持てなかった。そのまま彼らは、どちらから言うわけでもなく、火を消して横になった。
長いあいだ、二人は一言もしゃべらなかった。一言もだ。それはとても気詰まりな時間だった。どうしてだかわからないのだが、氷の胸はひどく苦しんだ。何とかして話さなくてはならないという思いがあるのに、言葉はどうしても出てきてくれなかった。外にいる魔物のことが気になってうまくしゃべれなかったのかもしれない。あるいは、すぐ近くで眠っている(もしくはただ目をつぶっている)彼女への想いがあまりに強すぎて、具体的な言葉にまで至れなかったのかもしれない。その想いにはさまざまなものが含まれていた。その中核をなしていたのが、彼女という存在に対する好奇心だった。彼女はいったい何者なのか? どうしてこんなところに来たのか? なぜ汚い服装をしているのか? 家はあるのか? そんな疑問が沸々と湧き上がってくる。だが、それらを口に出して言うことはできない。まるでそこに言ってはいけない呪いの単語でも含まれているみたいに。
十二本ほどのアイス・バーが溶けて液体になるころになってようやく、氷は言葉を紡ぐことができた。
「……寝てるのか?」
意味のないくだらない問いかけだ。だが、今の彼には、試運転をするようにいくらかのつなぎとしての言葉がどうしても必要だった。そうでもしないと次の言葉が出てきそうになかった。
「……眠ろうとしているところ」と返事が聞こえた。同時に、体をうごかすもぞもぞした音も聞こえてきた。
「人間を食べてしまう恐ろしい怪物ってのは、もういなくなったのか?」と氷は言った。
「いいえ。まだ近くにいる」と少女は答えた。「周辺に人間のいる気配を察知しているみたい。うろうろと小屋の周りを歩き回っているわ。襲われる危険はだいぶ減ったけど」
氷は小屋の外にいる怪物を想像した。それはあまりにも鮮明な形をとって想像の世界に現れた。熊のようにでっぷりした躰、赤い目、長くて鋭い牙。まるで自分がおとぎ話の世界にでも入りこんでしまったみたいだった。そのことを少女に告げると、彼女はどうしてか黙ってしまった。
「どうした?」と氷は、極力声を抑えて言った。
「……幻想世界」と少女は言った。まるでその言葉に対して個人的な恨みでも持っているみたいに。「ねえ、あなたはどうしてこんな危険なところまで来てしまったわけ? 何か用事でもあるようには思えないけど」
「気まぐれだよ」と氷はつぶやいた。「家にいてもつまらなかったからさ、そこから離れてずーっと遠くまで行ってみたいって思ってたんだよ。で、人間の住まない危険な土地まで来てしまったってわけだ。まったくの偶然だよ」
「でも、何かを求めていたのは事実でしょ?」
「だろうなあ。ちゃんとした目的はなかったけど、でも何かを探していたんだと思う。今になって気づいたことだが」
話すうちに、氷はだんだん不思議な気持ちになってきた。この少女は何が言いたいのだろうか? おそらく何かを伝えたいに違いない。だが、果たしてどういうことを伝えたいのかがはっきりしない。それはもしかすると自分のせいかもしれない、と氷は思った。届けられたメッセージを自分がうまく解釈できていないだけなのかもしれない。
「幻想って響き、私は好きだな」と少女は唐突に言った。「そこでは何もかもが叶えられる。何もかもが受容される。いわば世界で一番優しい世界。いろんなことが起こるし、いろんなことが消えもする。消滅は仕方なく発生してしまう。それは抗いようがない。でも、その消失もまた優しい消失なの。後悔をあとに残さないというか、後腐れの一切ない別れというか。美しい消失――その本質を言葉で説明するのはひどく困難で、私にはうまく話せない。理屈ではなく、直観で理解するしかない。ものごとにはそうしなくては理解できないものがたくさんある。幻想の消失もその一つ。たぶん、あなたはこれからその理解を推し進めることになる。これは抗いようのない運命だから。抵抗しようとしてもできないことなの。観念的に言ってしまえば、神様の意志によってそれは行なわれるから。消えることは間違ったことじゃない、むしろ正しいこと。あなたと私は幻想世界でしか言葉を交わせない。優しい世界でしか私は生きられない。今までもずっとそうだったから。でも……もしも、すべてを包んでくれるここでなくても、私たちが面と向かって出会えるのなら、それはそれで素敵なことだとも思う。それは憧れもする。だからね。あなたは私をここから救いだしてほしいの。解き放ってほしいの。方法は指定しないから、幻想と現実のはざまをどうにか埋めて、二つの世界をつないでほしいんだ。私の言ったことは全部聞いてた?」
いきなり何の話だ? 氷はわけもわからないままにうなずいた。そのあとで、暗闇であったことに気づき、「聞いてたよ」と返事をした。
「今回は期待してるからね? 頼りにしてるから」
以降に続く言葉はなかった。体を動かす音がしたあと、再び静かになってしまった。「おい……」と氷は呼びかけてみたが、もう少女の声は聞こえなくなった。
今の長い話は何だったんだろう、と氷は頭を悩ませる。そこに重要な意味が込められていることはわかる。でも、その話を聞かせて自分に何をさせようとしているのか、まったく理解できなかった。優しい消失? 理解を推し進める? 正直に言って、彼女の言葉はあべこべに聞こえた。語ってくれた文句の一つ一つが頭のあちこちを行ったり来たりしていた。
ただ一つわかるのは、彼女が自分を頼っている、ということだった。そして彼自身も、それに何とかして応えようとしている。そういう心の動きがある。どうも彼女には普通でない親近感を抱いてしまうようだった。出会ったときには気がつかなかったのだが、激しい魂の揺れ動きが彼に何かを訴えかけているような気がしている。
もしかすると、俺は彼女のことを知っているのではないか? 彼はそのように推測した。どうも彼女には初めて会ったという感覚がない。初対面であるにもかかわらず、言葉はずいぶん速やかに出てきていた。信憑性はないに等しいのだが、この思いを捨てきることはできなかった。
突然、彼はポケットにしまいこんでいたブレスレットのことを思いだした。探索中に偶然見つけたやつだ。ズボンのポケットをまさぐって、銀色のそれを表に出す。手触りはつるつるして滑らかだ。「あんた、もしかしてこのブレスレットのこと知ってるんじゃないか?」と氷は訊ねた。その声は思っていたよりも大きく響いた。外で待機する獣に感づかれたかもしれない。だが、それでも構わなかった。それよりも、彼女がこれの持ち主であるかどうかの方がより重要だった。
しかし、半ば予想していたことではあったが、答えは一向に返ってこなかった。まるでもう、彼女がここにはいないみたいに、小屋の中は沈黙ばかりが充満していた。
三
いつのまにか眠ってしまっていたようだった。気がついたら朝になっていた。眩しい光が窓から差し込んでいる。気持ちの良い目覚めだ。
少女はもういなかった。彼女がいたという名残りすら消え失せていた。注意していないと、初めから自分が一人であったと勘違いをしてしまいそうなほどだ。それくらい、彼女という存在が薄く、淡泊になっていた。
目覚めてから一時間ほどは小屋で待機していた。ひょっこり少女が戻ってくるかもしれなかったからだ。だが、そんなことは起こらない。起こる気配すら見せない。そのうちに彼は、彼女はもう戻ってこないんだろうなという確信を抱いた。昨日彼女の言ったことを思いだす。「あなたと私は幻想世界でしか言葉を交わせない。優しい世界でしか私は生きられない」。長い科白ではあったが、彼はなぜかはっきりと覚えていた。それらを思いだしながら、彼は小屋を出て、北へ向かって歩き出した。
歩いているうちに日は高くなっていった。つられるように気温も上昇していく。だが彼にとって、それは別に構わないことだった。暑くなるのは当然のことだったし、多少の我慢も通用する。彼が問題にしていたのは、食料だった。ほぼ一日、何も食べていないということになる。自分の腹を見てみると、べっこりとへこんでいることが確認できた。明日まで何も食べられなかったら、自分の胴は卒業証書を入れる筒みたいに細くなっているかもしれない。そのようになった自分を想像しながら、気力を振り絞って歩きつづけた。
そしてようやく、一軒の民家を発見した。木々に囲まれた古風な家だ。彼は体が急激に楽になる感覚を覚えた。無心でその家に駆け寄る。立派な門をくぐって、少し歩いた先にある玄関へと向かった。うれしくて涙が出そうだった。
「誰かいないかー! 誰かー!」と叫んだ。もう躊躇などできない。左手で玄関をがしゃがしゃと鳴らしながら、住人がこちらに気づくのを待っていた。
その音を聞いて、誰かが彼のもとに近づいてきた。家の裏からだ。彼はすぐさまそちらに目を向ける。寄ってきたのはおばさんだった。太り気味で、いかにも溌剌な顔をしている。大きく膨らんだ服を着て、頭には白いタオルを巻いている。どうやら農作業の途中であったらしい。彼女は彼の姿を認めると、ずいぶん驚いた顔をした。ひどくやつれた顔をしていたからかもしれない。彼女はおずおずと忍び寄り、小さく声をかけた。
「あんた、大丈夫かい?」
彼は、いや、と答える。「大丈夫じゃないです。腹が減って死にそうなんです」
「いつから食べていないんだい?」
「昨日の昼から何も」
「まあ、そいつは大変だ!」とおばさんはそう言って、大慌てで玄関の扉を開けた。ずいぶん急いで動いたから、危うく手を滑らせて転倒しそうになる。が、彼女は何とか体勢を持ち直し、「さ、入んな」と彼に向かってぶんぶんと手招きをした。彼は迷うことなく家の中に入った。
おばさんの案内で和室へと通された。どこからか煮物のいい匂いがする。今日の昼食にでも作っておいたのだろう。その匂いで彼の腹はさらに痛みを増した。
「ここには一人で住んでるんですか?」と氷は訊ねた。何となく、家の雰囲気からそういう気配がしていたからだ。しかしおばさんは首を振った。
「いいや。奥に寝たきりの亭主がいるよ。息子たちはみんな数年前にここを出ていってしまったけどね」と彼女は言った。数年前? 何やら入り組んだ事情がありそうではあったが、氷はそれ以上の追及は避けることにした。他人のプライバシーに突っ込んでいくのは彼としてもあまり気の進まないことだった。
おばさんはもう二言ほど彼に告げると、どたどたと走り去ってしまった。廊下を小走りに移動する足音が響いている。氷は座布団に座って脚を伸ばし、くつろいだ。思っていたよりもかなり疲れていたようで、眠たくなりさえした。彼は目をつぶらないよう耐えるのに精いっぱいだった。
おばさんはすぐに戻ってきた。お盆の上に、ホカホカと湯気を立てる白飯、煮物、ほうれん草のおひたし、味噌汁、そして親密な色をした茶を載せて走り寄ってくる。バランスを崩さずにいられるのはさすがだった。運ばれてきた食事を見て、氷はただごくりと喉を鳴らした。テーブルに置かれると、彼は何も言わずに食べ始めた。
「ちょっと待ってておくれよ」とおばさんは言った。「今、魚を焼いているところだからね。それまでは煮物で我慢するんだよ」
「ありがとうございます!」と氷は心からの感謝をこめて礼を言った。もしかすると今までの人生の中で最も気持ちの入った感謝だったかもしれない。
おばさんは、氷がとんでもない速度で飯を胃の中に収めていく様子をにこにこしながら見ていた。彼女が親切心にあふれた人格者であることは間違いのないことだった。田舎では、と氷は食べながら思う。ここらへんでは、困っている人を助けるのが当たり前のことになっているのかもしれない。都会ではまさか見知らぬ人を家に入れるなど考えもしないだろう。ここの住人は、みんなではないにしても、お互いに助け合って生活しているんだろうな、と彼は考えた。それで氷はますます田舎が好きになった。
あとでテーブルに並べられた焼き魚もきれいに食べ終え、すべての皿が片づけられた。ごちそうさまです、と氷は手を合わせて礼を言った。
「本当に助かりました。あなたがいなかったら今ごろ死んでたはずだ」
「そんなおおげさな。でも、あたしもうれしいよ。元気になってくれて何よりだ」とおばさんは和やかな笑みを浮かべながら言った。彼女もまた座布団に座った。
「ここにはずっと住んでるんですか?」と氷は質問する。
「まあ、そうさね」と彼女は答えた。「あたしは先祖代々この地域に住んでいる。結婚する前は違う家にいたんだけどね。もういつのことだったか正確には記憶していないんだけど、今の亭主と出会って、この家に住むようになったんだ。あの人の両親は、そのときには病気で死んでいたから、残った家をあたしたちが譲り受けたってわけさ。今も昔も、ここらはまったく変わらない。あのころみたいに豊かな自然に囲まれてずっと生きてきたんだ、あたしたちは」
「俺は都会から来たから、そういう生活はうらやましいですよ」
「そうかい? あたしからすれば、都会での生活もまた違った面白さがあると思うけどねえ」
「そんなことはないですよ。いろんなものがあるけど、その代わりにいろんなものがなくなった場所です」
おばさんは氷の言ったことについてしばらく考えていた。そして、よく理解できなかったのか、人当たりの良い笑みを再度浮かべた。
「ところで、夏野って人の家は知ってますか?」と氷は訊いてみた。そもそもこの質問がいちばん重要なのだ。
「ああ、夏野さんね」と彼女は何度かうなずいた。「よおく知っているよ。あそことは仲良く付き合っているからね」
「俺は夏野氷って言うんです。夏野庄三と夏野久美子は俺の祖父母なんです。夏のあいだだけこっちに遊びに来て、彼らの家に泊まらせてもらっていて」
「ああ、あんた、お孫さんだったんだねえ。なるほど……」
その説明を受けて、おばさんはさらに氷に対して優しくなったようだった。彼が、祖父母の家までの道のりを教えてくれないか、と頼むと、彼女は快諾した。すぐに立ちあがると、どこからか地図と紙とペンを持ってくる。ここ一帯の地図を参照しながら、おばさんは氷に親切に道を教えてくれた。紙にも簡単な略図を書いてくれた。どうやらここから四十分ほどのところにあるらしい。
「しかし、どうしてまたこんなところまで来てしまったんだい? それも食べ物も持たないで」とおばさんは質問した。彼女が気になって当然のことだ。
「戻れるかと思っていたんです」と氷は昨日のことを思いだしながら言った。「ずっと遠くまで行ってみたいと思って、実際に遠くまで行ったんですけど、つい通ってきた道を忘れてしまって。それで迷ってしまったんです。近くには一つも民家のないところだったから、誰かに道を尋ねることもできない。ちょうど使われていない小屋があったから、そこで昨日は寝泊まりをしたんです」
おばさんは黙って聞いていた。ちょっと首をかしげているようにも見える。
それから彼は、そこで不思議な少女に出会ったこと、その周辺には恐ろしい怪物がいるということ、そのせいで人のいなくなってしまったことなどを話して聞かせた。眠りにつく前に少女から聞いた、幻想世界についての奇妙な話はさすがに控えることにした。あれは誰かに語るべきものではない。
「おかしいねえ」と、すべてを聞き終えたあとでおばさんは口を開いた。「あたしはここの地域にずっと住んでいるけれど、そんな怪物がいるなんて話は一度も聞いたことがないんだよ」
「え?」
「それに、そのせいで人がいなくなった、なんて話も初耳だよ。その女の子はどこか別の地域の話をしていたのかもしれないねえ」
「いや……」と彼は言い返そうとした。あのとき確かに得体の知れない化け物が外をうろついていたような雰囲気を感じていたし、あの女の子が勘違いをしていたとも思えない、と。しかし、実際にそれらの言葉が口に出されることはなかった。おばさんが嘘をつく理由なんて何一つない。この人の言っていることの方がよほど信用のあるものだ。彼女はここに長年住んでいるのだから。少女の言っていたことをふと思いだす。幻想についての事実と考察。優しい世界、消滅、幻想と現実のはざま。
おばさんの書いてくれた地図は詳細でわかりやすかった。そこまでの道のりの説明もすんなりと頭に入った。これでもう迷うことはないはずだ。彼は訊きたかった。もしかして、昨日自分が体験したことはすべて幻だったんじゃないかと。家を出て南に進み、そこで通りがかった川。木々に囲まれた怪しげな祠。古びた農具の置かれた小屋。それらはもしかして、現実には存在していないのではないか。彼女ならきっと答えるのはたやすいことだろう。この地域のことを熟知しているのだから。
しかし、それらもまた、言葉にすることができなかった。おそらく知ることが恐かったのだ。もしそれらもまったくの幻想だったとしたら、昨日の夜に出会った少女の存在がまた薄くなっていくような気がしたからだ。いや、もうすでにだいぶ薄くなっている。彼女が現実にはいないのだという事実を認証しはじめている。彼はそのことで苛立った。彼女がいたというのは本当のことなのだ。どうしてそれを自分自身で否定しようとしているのだ。あのときに話したことは、彼の記憶にはっきりと残っている。あれをでたらめだと決めつけることは絶対にできないし、してはならない。けれども、その決意がだんだんと揺らいできている。優しいおばさんに見送られたあとも、彼は自分の中で葛藤を行ない続けていた。
だが、ふと気づいたとき、彼は右ポケットに手を置いていた。そこには何かが入っている感触がある。何だろうか? 彼は気乗りしないままに中のものを取り出す。
そこで彼ははっとした気持ちになった。これまでずっと悩み続けていたことが、一気に解消した。世界全体を吹き飛ばすような強い風によって雲が払われ、真っ赤な太陽が姿を見せるみたいにして、彼は真理を会得することができた。
彼女は本当にいたのだ。それはこのブレスレットが証明してくれる揺るぎない真実だった。
帰り道はむしろすがすがしい気分だった。彼は四十分の道のりを、その半分ほどの時間で歩き(あるいは走り)、無事に祖父母の家に到着した。通ってきた風景はやはりどこかが違っているようにも見えた。具体的にどこが違うと指摘はできないのだが、拭い去ることのできない違和感がずっとつきまとっていた。
あの細長い川はかろうじて残っていた。昨日と同じ橋を渡っていくと、何だか懐かしいような気持ちに襲われた。つい昨日のことだったのに、何年もの時が経ってようやく戻ってくることのできたような疲労感が全身に滲んでいる。この川も嘘だったのではないかという疑念があったのだが、これだけはちゃんと現実にもあったので、彼は安堵の気持ちでいた。そこからの歩みはさらに軽やかなものとなった。
こっぴどく叱られるかとも思っていたのだが、帰宅すると、祖父母は泣きながら彼を迎えてくれた。よく戻ってきたな、と肩を叩かれた。そのときに彼は、祖父母がどれだけ自分のことを心配してくれていたのかを知った。彼らがいつも叱るのは、俺のことを愛しているがゆえだったんだ。本当はとても心の優しい人たちで、だからこそ厳しくしていた。田舎のことをこの二日間でだいぶ知ることのできた彼は、そのことにすぐに気がつくことができた。
それからの時の流れは早かった。あっというまに夏休みが終わった感じだ。そのあいだ、彼はたびたび外へと出て、川を渡って遠くまで歩いた。少女との再会を期待しながら。しかし、彼女には二度と会うことができなかった。少なくとも、この夏は、ということだが。夏休み最後の日、ついにあの女の子に会えなかったことを知った彼はしかし、別段絶望的になることはなかった。今年が駄目なのなら、来年にまた来ればいいじゃないか。彼女には絶対に会える。いつになるかはわからないが、必ず再会ができる。彼にはそんな強い思いがあった。また会うことになっているのだ、きっと。
学校が始まり、両親に都会へと連れ戻された。そのあとの生活は、彼にとってひどくつまらないものだった。あの少女と過ごした時間があまりにも濃密だったせいか、ほかの物事がひどくつまらなく見えてしまったのだ。夏野氷は一段と孤独になって学校生活を送った。これまで熱中していたゲームにも興味が失われ、ほとんどの時間をしんとした部屋の中で過ごした。やることがあまりになかったので、彼はその時間を勉強に費やすことにした。おかげで彼の成績はぐんと伸び、十二月に行なわれた期末試験では学年で八位をとることができた。もちろん、その結果に対しても彼はとくに何の感想も抱かなかったのだが。
彼は次の夏を待っていた。冬にはおそらく会えない。彼女のあの恰好は、雪の降る外を歩くには厳しすぎる。彼女は夏のあいだだけしか姿を見せないのだ。何の根拠もない空論だったのだが、彼にはそのことが潜在的に理解できていた。誰に教えられずとも息の吸い方がわかっているみたいに。
彼は寝る前に必ずブレスレットを眺めた。それと同時に、彼女との最後の会話も思い出す。いくら考えても、彼女と初めて会ったという思いを抱くことができなかった。過去に何度か会っているはずなのだ。彼は推測する――たぶん、それは本当のことなのだろう。彼女と俺は、以前にも会ったことがある。そういうつながりのようなものが感じられたし、俺が彼女に強く惹かれている説明にもなる。しかし、今までは、彼女の存在を肯定するような証拠物がなかったのだ。そのせいで、いつのまにかその記憶がなくなってしまった。空に昇った煙がだんだんと消えてなくなっていくみたいにして。実際、今だって彼女の記憶がなくなってしまいそうなのだ。毎日彼女のことを思いだすことで何とか保ってはいるが、油断するとすぐにでも消えてしまうだろう。
けれども、彼にはあのときの思い出をずっと忘れない自信があった。今回はこのブレスレットが手元にある。これのおかげで、俺と彼女とのつながりが目で見る形になり、記憶をたどることが容易になっている。毎日こつこつと思いだし続けていれば、永遠に忘れることはないだろう。彼には確信があった。
ブレスレットの表面はほんのりと温かかった。握りしめていると、何だか彼女の手を握っているような錯覚に陥るほどだ。もしかすると、彼女は消える前に、これを強く握ったのかもしれなかった。その温かさがこの銀色の肉体に宿って、今もこうして熱を発しているのかもしれない。ずいぶん突飛な考えではあったが、彼女の言っているように、幻想世界では何でも起こりうるのだ。この想像が当たっていたとしても、何ら不思議なことではない。
そういえば、名前を聞くのを忘れていたな、と彼は思った。どうしてこのことにもっと早く気がつかなかったのだろう? 名前がわかれば、こうして彼女のことを想っているときに呼びかけることができたというのに。だが、そこまで考えたあと、それはあまりにロマンチックで俺には似合わないことだな、と考え直し、彼女が存在していたことの証をぐっと握りしめるだけに留めておくことにした。




