それは、邂逅(3)
昼の一件のせいでとても昼食を取れるような雰囲気ではなくなってしまったため、その場で儚と別れてから三時間程度。
あれから啓護との間に流れる空気がなんとも重くなっているため、奏多はとりあえず荷物運ぶことで距離をとっていた。おそらく、あちらとしても同じことを考えているようで、午後からは顔を合わせる回数が減っていた。
彼は、心底アースガルズが嫌いだ。より正確に言うなら、アースガルズに媚びる輩も嫌いだ。そしてこの嫌いというのは、程度の差こそあれ誰もが持っているはずの考えでもある。
だが奏多には、今の地上の人類のほとんどが抱いているこの感情が、よく理解できていなかった。
アースガルズは確かに嫌いだが、それでも殺したいほどというものでもない。
いやそれ以上に、それこそ殺したいほど嫌いなものがあるために、アースガルズへのそういった感情が必然的に低くなっているのだ。
「いっつもここで摩擦が起こるんだよなぁ……どうしたもんか」
どうしようもないとは、自分でも理解しているが。
奏多はぼやきながら腕の中の荷物を抱えなおした。
奏多が歩いているのは十階の通路。二桁の階は儚が言っていたようにアースガルズ人が多く、奏多のような人間は全くいない。逆に彼らはといえば、すれ違うたびにこちらのほうを見てはこそこそと何かを話している。面白いときには、肩をぶつけてくれることもある。
当然目立っているせいもあるのだが、こういう面倒なことがあるからこの階にはあまり来たくなかったのだ。しかし、それならばなおさら啓護を遣すわけにも行かなかった。
それに、一階ではリアードが散らかしたお片付けをユグドラシル職員がやっているため、あまり行きたくもない。
そういった事情が重なり合ってしまったせいで、奏多はここにいる。
(同じ人間だろうに。何がおかしいんだか)
つい十年前までは人種差別が由々しき問題とされていたらしいが、これはもはや人類差別と言ってもいい域だろう。
そんな下らないことを考えていると、また前から二人組みが歩いてくる。儚と同じ制服を着ているので、ここの職員だろう。
しかも、首からかけるネームプレートが青い。アースガルズ人、と言う意味だ。
アースガルズ人の職員。面倒なコンボだった。
ニヤニヤとこちらを見てくるのは、この階に来てからは既にご愛嬌にすらなっている。
これまでと同じように、なるべく目を合わせないように軽く会釈をしてその場を通り過ぎるようとする。卑屈と言われれば終いだが、要領のいいやりかただ。
今回だけは、そうもいかなかったが。
「ああ、キミキミ」
ふざけた口調で、無精髭を生やした細長い背丈の男が呼び止めた。もう一人の少し太った方は、吹き出しそうになるのをこらえているのか顔がさらに丸くなっている。
近くには奏多以外の人間がいなかったため、ごまかしようが無い。
「……なんでしょう」
溜息を腹の中に押し込むのには、結構苦労した。
「キミ、通路の真ん中を通ってたでしょ。ダメだよ、アースガルズの職員が通るときは地上人のキミは隅で小さくなって道を譲らないと」
アースガルズの、地上人の、というところでいやに強調してきた。
こういうことで地上の人間をこきおろす者は少なくはないが、この男はその典型のようだ。
殺されることはないと根拠もないのに踏んでいる、哀れな羽虫の典型。
現にここで、自分が手を伸ばせばーーーー
そこで我に返る。
(……いかんいかん。啓護のことは言えんな、これじゃ)
久しぶりにアレが出てきてしまった、と奏多は自分を戒めていると、怒声で意識を引き戻される。
「おい、聞いてるのか!?」
呆けて黙っていたのを無視と捉えたのか、小太りの男は苛立ちを表しはじめた。
「え、ああ、聞いてます聞いてます。それで、他に何か?」
「ッ、なんだと……!」
敢えて挑発的に言ってみたのだが、意外なほど効果はあった。男はもう一方の制止も聞かずこちらへと向かってくる。
「今のが自分の身分を弁えた上での言葉なら、教育が必要だな」
そう言って奏多の胸倉を掴んでくるが、頭一つ分の差がある己の背丈で一体どんな教育を施してくれると言うのか。
かませ犬。そんな言葉がふと頭に浮かんだ。
「す、すいません。気をつけます」
(アースガルズの人間相手に、正当防衛ってオーケーだっけ)
反省を口にしつつも既に言葉での解決が選択肢に入れていないのは、いまだ落ち着きを見せない、『呪い』のせいか。
そして、体がごく自然に臨戦態勢へ向かおうとしたそのとき
ーー視界が暗転した。
急明暗の落差が、前の二人の姿を闇へと消す。
「なんだ!? 停電か!?」
「そんなバカな……このユグドラシルでか?」
「くそ……おいお前! そこで待ってろ!」
随分な無茶を言われると、二人分の足音が遠ざかっていった。一応、職員と言うことで、こういうときには真っ先に動かなくてはいけないらしい。
ユグドラシルの全ての照明がダウンしているようで、四方から動揺や焦りの声が聞こえてくる。
職員の中でコンピューターを使ってデスクワークをしていた人間は、残らず泣きを見ていることだろう。
「儚も大変だろうな、っと」
待っていろとは言われたが、別に馬鹿正直に待ってやる義理はない。奏多はもう一度荷物の位置を変えると、仕事に戻ることにした。暗いとはいえ、目が慣れてくれば指定された部屋を探すのは難しくはないだろう。
しかし今朝の仕事の変更から始まり、昼の騒ぎ、そしてこの停電と、今日は何かがおかしかった。
「やっぱ礼也の言うことは聞くもんじゃないな。……ん?」
暗闇に慣れ始めてきた奏多の眼が、突き当たりにこぼれる、柔らかい光を捉えた。
それは周りに他の光源があれば埋もれて消えてしまいそうなほど、脆く優しい明かり。だが、それでも確かに見える強い光。
(どっかの電気が生きてたのか?)
予備電源すら起動していないこの状況でそれはないだろうが、無難な考えに行き着く。
吸い寄せられるようにして足が動いていたのは、単なる好奇心だった。奏多は誘蛾灯に群れる虫のように、唯一の光源目指して歩いていく。
……いや、訂正しよう。好奇心だけではない。
なぜだか、そこに行かなければいけないような気がしたのだ。
足をとられないように壁に寄りかかりながらたどり着いたのは、他と比べてかなり大きいドアの部屋だった。
「ここから漏れてたのか」
折れ曲がった通路の奥にあるその部屋は、隙間から差す僅かな光によって、闇に埋もれていた輪郭がはっきりとしている。言い過ぎかもしれないが神々しいと言うか、神聖な空間のような気さえした。
他の部屋とは違ってカード認証を必要とする電子錠がかけられたそこには、間違っても他と同じような電子機器や食料が入っているわけではないだろう。
この向こうには、『何か』がある。
そして今の自分は、その『何か』を見ることができる。
そう考えると、柄にも無く興奮が湧き上がり、奏多にさらなる前進という選択肢を選ばせた。
「まさか、ここで使うことになるとはな」
奏多は荷物を床に降ろし、ポケットから青いネームプレートを取り出した。そこには、先程つっかかってきた男の顔写真が人相悪く載っている。
胸倉を掴まれた際に、少々拝借しておいたのだ。
手癖が悪いと常日頃から同僚に怒られている奏多にとっては、冷静さを欠いた人間からものを盗ることなど造作もない。
しかしもちろん最初はイタズラ程度のつもりで、これを利用してどうこうなどということは考えていなかった。停電などが無ければ彼らが去ったあとでそこらにでも捨てておく気でいたのだが、結果としてプラスに働いたのは偶然としかいえない。
とはいえあまり時間もないだろう。あの男とて(恐らくは)馬鹿ではないのだから、気付いて戻ってくる前にことを済ませなければならない。
恐らくこれがバレれば、昼間の少年のようになるのは必至。
だがだからこそ、止まらない。止めることができない。
緊張と焦燥に手が汗ばむのを自覚しながらもなんとかプレートをリーダーに通そうとするが、何度かその狭い溝に通し損ねる。そこで、奏多は自分の手が震えているのに気がついた。
心臓の早鐘を楽しみつつ、もう一度ゆっくりと、スライドさせる。
そして高い電子音が、ドアの開放を短く告げる。
空気が抜けるような音とともにドアが開くのと、再び照明が戻ったのは、ほぼ同じ。
そして、
「ッーーーー!?」
それを見たとき、呼吸の仕方を、一瞬とはいえ忘れた。
繭に閉じ込められた、輝く胎児。
混乱した頭の中で、その少女の適当な表現を探すとするならば、そう形容するのが妥当だろうか。
むかしに転々とした医療機関で自分も世話になった、部屋の高さに合わせて取り付けられた培養カプセルの中で、よくわからない液体に抱かれ彼女は目を閉じていた。十五、六に思われる年齢に相応の身体を縮める姿は、母胎での胎児にそれに似ている。
呼吸をしているのか度々口から気泡が浮いていくのがなければ、ホルマリン漬けと思ってしまいそうなほどその肌は白い。
「はは……こいつは、すげぇな、おい……」
自分でも意味の分からない笑いを上げるには、口の中は乾きすぎていた。もはや鼻での呼吸では、細胞が酸欠を起こしてしまいそうだ。
さらに、一歩。奏多の足は踏み出される。
生物としての本能はすでに逃走のアラートをかき鳴らしていたが、それを聞かない彼の足は、もう少し、あと一歩だけ、と胎児の少女へと進ませる。
そして忘我から覚めれば、己の右手は無機質な繭に触れていた。
可憐だ。
一糸すらまとわぬその姿に劣情を催すよりも、そんなことを考えてしまう。
しかし繭の中で浮く少女の美しさは、間近で見るほどに、どこか人形的な印象を受ける。人間味が限りなく薄い、雑味がなさすぎる、とでも言うのだろうか。とにかく余計なものが欠落しすぎていて、これほどの美しさを目にしているというのに、感動が沸いてこない。
それでも、奏多は見続けていた。その少女のオブジェを。
許されるなら、このままこうしていたいと願いながら。
だが、世の中には悪い偶然と言うものがたしかに存在する。
「おい、貴様そこで何をしている!!」
意識が茫漠としていたせいで、その声への反応が遅れた。
足音が二つ、こちらへと近づいてくる。
「動くな!! 手を後ろで組んでこちらを向け!!」
手を組むまでは、大人しく奏多は従ってみせる。そして自分の迂闊さに奥歯をかみ締めていた。
考えてみれば当然の事だろう。停電のさなかで、ここの一角だけ照らされていれば人は気付く。
(さて、どうしたもんかね)
警備員の武装は、歩く音から察するに拳銃が各一丁に警棒が一本。場合によっては手に持っているライト。それに職業柄、格闘技も嗜んではいるだろう。
制圧するのに、特に問題はない。
面倒なのはこの二人を始末するときだ。中途半端にやろうとすれば顔を見られ、ここから逃げおおせたとしても報復を受けることは必至。だが、殺すというのも後々のことを考えれば賢明とはいえない。
ならば、と奏多は考える。
(顔を見られないように、やるしかないよなぁ!!)
奏多の選択は、単純にして最も難しいものであった。
いつまでも相対しようとしない奏多にしびれをきらしてか、警備員が肩を掴んでくる。
「おい、何をしている! 早くーー」
「悪い」
一言の断りをいれてから、後ろに強引に引かれるのと同時に奏多は裏拳を見舞う。
顎の先端を掠めるようにして当たったそれは、男の意識を頭部の外へと弾き飛ばし、床へと崩れさせる。
「なっ!?」
抵抗は予想していたのだろうが、実際にやるとは考えていなかったのだろう。回転する視界が、もう一人の男の驚愕を捉えた。
(残り一人!!)
顔を見られないように姿勢を低くし、即座に突撃の構えを取る。
「くそッ!!」
それを受けて男のほうも、腰から抜いた黒光りする得物をこちらへと向けるが、銃口が震えている。まともな照準はつけられまい。
それでも人間の反射速度と言うのはなかなかどうして侮れないもので、コンマ何秒か、男の引き金が引かれたほうが早かった。
亜音速の銃弾が奏多の頬を皮一枚傷つけ、後ろへと抜けていく。だが、走る痛みは威嚇にもならず、拇指球へと移動された体重は止まらない。
ゆっくりと時が過ぎるのを錯覚しながら、ついに全身が前へと放り出されーーーーーーなかった。
寸でのところ、パキ、という音に邪魔されたのだ。
体が、自然と振り向く。
「……あっちゃー」
言葉こそふざけてはいたが、内心で奏多はかなり動揺していた。
少女の眠るカプセルに開いた、円形の穴。そこからは彼女を包む液体が、漏れ出ている。
当たってやればよかった、と奏多は妙な反省をした。
「待って、待ってくれ……」
男は不審者の捕縛を忘れたように、そう呟く。
しかしながら無機物に願いが通じることがあろうはずもなく、男をあざ笑うようにピシピシと危うい音を鳴らす。
やがて内側からの圧に負け、儚い音を奏でながら、繭は壊れる。蜘蛛の巣のごとく亀裂が張り巡らされたそれが砕けるのには、意外にも数秒かかっていた。
よく分からない液体が、ガラスの破片が、飛び散る。
だが、そのどれもが、いまの奏多にはどうでもよく映っていた。
長く鮮やかな空色の髪が、胸に降ってくる。その事実だけが、頭を満たしている。
自分でも驚けるほど冷静に、そして丁寧に、奏多は淡い光を帯びる少女を抱き留めた。
そして触れた瞬間に、感じる。
肉体の奥で、何かが繋がるのを。精神の奥で、何かを掴み取るのを。
次に起こることを、奏多は理解するよりも早く、感じた。
ーー大きく雄雄しく、そして美しい二枚の翼が、空色の少女の背に現れる。
昼間のディルフォリアとかいう男のそれを羽とするならば、この少女が持つのはまさしく翼。形容を比する価値もないほど、その差は歴然としている。
光の翼が花開くと、少女の色素の薄い瞳も共に開かれた。ガラス球のようなそれは、自分のおかれた現状を把握しようとあたりを見回す。
そして、こちらを見つける。
瞳は恐れも、驚きも、疑問も浮かべることなく、ただ真っ直ぐに、見る。
見る、だけだ。
「こ、こちら巡回三班!!十階の『保管庫』にて例のあれがーー」
男は報告の言葉を我鳴っていたが、腕の中の彼女は、男の言葉を最後まで終えることを許さなかった。
翼が一つ、震える。
それによって巻き起こる風の暴力は叫ぶ男を吹き飛ばし、狭い通路で反響しあってさらなる風を生み出す。
そして一泊遅れてくる、浮遊感。
「え?」
間抜けた声は、奏多のもの。自らの状態を認識した結果の声だった。
相馬奏多は、飛んでいた。
より具体的に言うならば、少女によって飛ばされていた。胴体に細腕をまわされ、掴まれた状態で、彼女ごと飛翔しているのだ。
「おいおい、マジかよ……」
地に足が着いていないだけで、ここまで人間とは開放的になれるのか。わずか数センチ上から望んだ世界は、ここまで清々しいのか。
そんな場合ではないと分かっていながらも奏多の頭から爪先までは興奮と快感に満たされていた。
だが、飛翔が飛行へと移行したとき。
「え、ちょ、ぅうをおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
急激に世界が流れた。
彼女と自分は、一直線に狭い通路を天翔けていった、のだと思う。見える景色は一瞬にして過去のものとなり、『今』がどこなのか分からなくなってしまっているのだ。
不思議とGが押し寄せてくる感覚は無かったが、それでも高速で動くというのはそれだけでプレッシャーとなって圧迫してくる。
それだけではなく、今度はジェットコースターよろしく移動する方向が九十度、縦に直角に曲がる。
横から縦移動と、目まぐるしい視界の変化をなんとか脳内で処理していく。どうやら今は、通路を抜けてユグドラシルの吹きぬけている部分を飛んでいるらしい。だが、今の自分たちを見た者は一体どんな目を向けているのかはわからない。
せめて心の安寧を求めて唯一動かない視点、つまりは真上を見たとき、奏多は再び叫ぶ羽目になった。
「ーーーーッ!? 待て! わかった!! 落ち着こう!!」
そう言ってみるが、当然と言うか翼を思い切り伸ばすその少女に、声は届いていない
さらに上へ、上へ、上へと、ユグドラシルを飛翔、いや飛昇していく。
「待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待てお願いだから待ってぇ!!」
叫んでも、止まりはしない。
「待っーーーー」
ガキャン。
ガラスの天蓋を突き抜いて、二人は世界樹よりも高く昇った。
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