10 蜂
日が傾いてきた。
今俺は湖北の林を走っている。
深緑の木々の枝葉を揺らす優しげな南風が心地よい。
林を抜けると一面の花畑が広がっていた。
無限ともいえる数の花々が咲き乱れている。
お、黒い花もあるな。
「シア、ここで黒い花を摘みたい。手伝ってくれるか」
そう言ってフェリシアを降ろす。
「もちろんです」
フェリシアは頷くと、花を摘みはじめた。
俺はその傍らで、花を踏み潰して靴裏にまんべんなく液を付けていく。
ありがたい。
これで当分の間足が滑る心配をせずに済む。
しばらくすると甘い香りが漂ってきた。
にじみ出た花の液の香りだろうか。
「いい香りです。甘いものが食べたくなりますね」
フェリシアは緩んだ表情でつぶやいた。
「シアは甘いものが好きなのか。女の子だものな。やはり菓子が好きなのか」
「もちろんお菓子は大好きです。でも一番好きなのは、焼いたばかりのふわふわパンにはちみつを付けて食べることですわ」
お前、そういうことを言うと…
ブンブンブブブブブブブブブブ
腹に響いてくる重低音。
目を凝らして上空を見ると、薄赤く染まりつつある空を背にして、数多の異形が目に入る。
ほらきた。噂をすれば影だ。数十匹はいるだろうか。
こちらに近づいてくるな。
「これは何の音ですの」
「シアの大好きなはちみつを作ってくれる者達だ」
「それって、もしかして」
フェリシアも俺の視線を追うと、蜂を目にして青ざめた。
「お、お兄様、蜂です。すごく大きい蜂です」
「ああ、そうだな。シア、とりあえずそのコートを脱げ」
「お、お兄様、なぜ脱がなければいけないのですか。こんな時に何を考えているのですか」
フェリシアは顔を赤くしてわめきたてる。
「あの蜂どもは、黒い生き物を敵とみなして襲ってくる習性があるのだ。シアの黒いコートは俺が羽織って蜂を引き付けるから、シアは花畑に身を伏せて隠れていろ」
そもそも蜂は、熊をその天敵としている。
熊が蜂の巣を壊して蜂の子を食べるからだ。
それゆえ蜂どもは黒い毛皮を見ると熊と間違えて攻撃してくる習性があるのだ。
フェリシアのコートは黒。
蜂の攻撃対象だ。
俺はフェリシアの答えも聞かずにコートを引きはがすと肩に羽織った。
「戦闘経験を積む良い機会だ。蹴散らしてくる。シアは動くなよ」
フェリシアは納得したのか、おとなしく身をかがませた。花に隠れて上からは見えない。これなら大丈夫だ。
俺は黒いコートの袖を首に巻きつけてから少し走り、フェリシアから距離を取る。
蜂は進路を変え俺を追ってきた。
やはりこのコートを目指して押し寄せてくるようだ。
フェリシアを抱いて逃げる手もあったし、どこかに隠れる手もあるだろうが
なぜか俺自身が好戦的な気分になっている。
俺は蜂の群れをにらんで叫んだ。
「さあ、蜂どもよ、異界初日は驚いて逃げるしかなかったが、今は違うぞ。リベンジといこうかあ」
俺の筋力や腕力、皮膚の固さはこの世界では異常なものだろう。
それでも自分とさして違わぬ大きさの巨大蜂の針は危険だ。
物理的にダメージを受けるだけでなく、毒を刺し入れられる可能性が高い。
さらに相手が複数である。
本当ならその場に踏みとどまって拳を繰り出し続けたいのだが、
俺は筋力その他が規格外になっただけで思考速度が上がったわけではないので
瞬時に複数の敵を認識して、身をかわし続けることができるか不安だ。
現に牛を相手にしたときは、速度差があるにもかかわらず牛の攻撃を受けてしまった。
牛とは違い、蜂には毒がある。
一度たりとも刺されるわけにはいかない。
とはいえ今の俺はフェリシアを抱いていない。
フェリシアが傷つく心配をせずに、自由に動ける。
さらに俺の運動速度が蜂を大幅に上回ることは明らかだ。
だから俺はそのメリットを十分に生かすことにする。
群れの中心にいる蜂をしっかりにらむ。
両拳を握りファイテイングポーズを取る。
左足を前、右足を後ろにして、膝を軽く曲げ、跳躍に備える。
ブブブブブ、ブブブブブ
蜂があと数メートルにまで迫ってきたところで、一気に跳躍、狙った蜂の頭に右拳を叩き込む。
グシャ。
嫌な音が響く。
蜂の頭が飛び去る。
羽がまだ動いているのがグロテスクだ。
そのまま群れを突っ切って後方へ抜け、着地。
すでに数百メートルは蜂の群れから離れている。
振り返って確認すると蜂どもは俺の位置をつかめずうろうろ飛び回っている。
再び跳躍し、そのうちの一匹に拳を叩き込み、また群れを突き抜け着地する。
思った通りだ。
蜂は全く俺の速さについてこられない。
俺も全く蜂に刺される危険を感じない。
この方法なら、速さで圧倒しつつ一匹一匹を確実に仕留められる。
後は単純作業のようなものだ。
遠方から跳躍し神速で接敵、一撃を加え離脱。
これを繰り返すたびに蜂の数は減っていった。
そして残り数匹になったところで、蜂どもは俺を襲うのをあきらめたらしく、元の方角に飛び去って行った。
あの方角に巣があるのだろうな。
ん、そういえば巣には蜂蜜があるんじゃないか。
あれだけ巨大な蜂ならば、蜂蜜もさぞやたくさんあるだろう。
蜂の子もいるだろうな。
蜂の子は、たいていの人は気味悪がって食べないけれど、焼くとウナギのかば焼きに似た味で美味いのだ。
蜂と戦って負けないことはわかったから、この機会に巣を襲って蜂蜜と蜂の子を頂戴しよう。
戦闘経験をさらに積むこともできるしな。
俺はフェリシアのところに戻ると、黒いコートを返してやる。
視線は小さくなりつつある蜂に向けたままだ。
「お兄様、本当にお強いのですね。…どうしたのですか。もう蜂は行ってしまったのでしょう」
「あの方向に巣があるはずだ。巣にはシアの好きな蜂蜜がある。蜂の子もいるはずだ。今日の夕飯にしよう。今から奴らを追うぞ」
そう言ってフェリシアを抱え上げる。
「でも、もうすぐ暗くなります。それに巣にはたくさんの蜂がいるのではないですか」
「暗くなるからいいのだ。夜は昼とは逆に、黒いコートを着ていれば、闇にまぎれることで、シアの安全を確保できるからな。それに俺は戦闘経験を積みたい。さらに、蜂を警戒しながらでは、明日花を摘むのも難儀だからな。今日中に巣ごと潰す」
答えて走り出す。
「花、花はどうするのです」
「そのままでいい。蜂蜜を手に入れてから、取りに戻るさ。花は逃げないからな」
蜂を追い続けて体感で十数分。
星々の輝きが鮮明になりつつある頃、ようやく巣を発見した。
見上げるような巨木の枝をまたいで、巨大な巣が作られている。
全高数十メートル。
まあ想像していた通りだが、それにしてもでかいな。
おびただしい数の蜂がうごめいている。
周囲が完全に闇に染まる前に、巣と蜂のおおよその数を把握できてよかった。
「シア、その黒いコートをかぶって隠れていろ。かなり時間がかると思う。もしかしたら夜明けごろになるかもしれないが、蜂を倒し尽くして戻るのでおとなしくしていろよ」
蜂の巣に近寄ると紺の制服を脱ぎ、白いシャツを晒す。
白い姿の俺は、星明りに映えてよく目だつはずだ。
蜂がうなりを上げ始めた。
俺に気付いたな。
さすがにこれだけの数だとうなりも大きい。
ブブブブブブブブ
大地を揺るがすようだ。
俺は制服を左脇に挟んで両手を開けると、大きめの石をいくつか拾い、巣に向かって投げ始める。
一発、二発、三発。
的が大きいから面白いように当たる。
む、出てきた出てきた。
激怒しているな。すさまじい数だ。こちらに向かって一直線に飛んでくる。
俺は蜂に背を向け走り出す。
蜂の羽音が俺を追ってきた。
俺は蜂の群れを引き離しすぎないよう、適度な速さで逃げ続ける。
白いシャツは良い目印なのだろう。
蜂は俺を見失うこともなく執拗に追ってくる。
いいぞ、追ってこい、もっと追ってこい。
俺はハーメルンの笛吹きだ。
お前たちを地獄にいざなってやる。
俺は湖に沿ってもと来た道を南下した。
そろそろ最初にブラックシーを目にした丘だ。
あそこは湖側から見ると結構な高さの絶壁になっている。
あれなら理想的だ。
走る速度を上げ蜂との距離を引き離す。
丘の絶壁が見えてきたな。
一気に加速したのち、渾身の力で絶壁を殴りつけた。
ゴオ
轟音が響き土煙が上がる。
やがて視界が晴れると黒い洞穴がぽっかりと空いた。
よし、いい感じだ。
先日、座ったまま地面に正拳突きしただけでかなり深い穴が開いたのだ。
今回は加速を加えて殴りつけたのだから、さらに深く広い洞穴が開いたはずだ。
俺はシャツを脱ぎ、脇に抱えた制服を着る。
制服は紺だから闇に紛れて蜂どもには見えないはず。
そして大きめの石を拾った。
蜂が近づくのを見計らって、白いシャツを左右に大きく振って蜂の注意を引く。
そして蜂に背を向け、石をシャツで包むと、洞穴へゆっくり投げ入れた。
すぐに全速で走り去る。
髪は黒、制服は紺。夜の闇の中では俺の後ろ姿は分かるまい。
洞窟からは数キロ離れた。
蜂どもには、俺が洞穴に入ったとしか見えないだろう。
しばらくすると、すさまじい勢いで蜂どもは洞穴に突入していった。
あとからあとから突入する。
巣を襲われたことによほど激怒しているのだろう。
お、速度が徐々に弱ってきた。
ここまでか。
洞穴は蜂でいっぱいのはずだ。
まだ外に少しいるがあまり欲張りすぎてもいけない。
一気に加速して洞穴に接近、洞穴の上側の絶壁を渾身の力で殴りつける。
ドガン
一発だけではない。間髪を入れず殴る殴る殴る。
ガンガンガンガンガンガン
やがてすさまじい音を立てて丘が崩れ始める。
ゴゴゴゴゴ ゴゴゴゴ ゴッゴゴゴ
ズズズズズーン
もうもうと立ちこめる砂煙。
丘は完全に崩れた。
中の蜂は身動きも取れず息絶えたはずだ。
俺は振り返り残りの蜂に笑顔を向けた。
「では、ラストダンスのお相手、よろしく頼む」
蜂の黄色い姿は闇の中でもそこそこ目立つ。
対して俺は紺の制服。
顔を伏せ上目遣いをしている限り、上空の蜂どもには俺がほとんど見えないはず。
逆に俺には蜂どもが見える。
そして蜂どもは速さで俺にかなわない。
跳躍、加速、接敵、殴打、離脱、着地。
跳躍、加速、接敵、殴打、離脱、着地。
ひたすらに蜂を殴り続ける。
楽しい。
生き物としての攻撃本能が全開になっているのだろうか。
この戦いの目的は、
蜂蜜や蜂の子を得ることと俺の戦闘経験を高めることなのだが
今ではそんなことはどうでもよくなってしまっている。
圧倒的な力で敵を蹂躙するのが快感なのだ。
相手が蜂なので罪悪感もわかない。
今の俺の姿は醜いかもしれない。
しかしこの高ぶりを抑えることができないのだ。
あははははははは
誰の目をはばかる必要もないのをいいことに、俺は一時、力に酔いしれた。
蜂を倒した俺は、夜の湖を横手に見ながらゆっくり走って戻ってきた。
とはいえ夜だから元の場所に戻れたか若干不安だ。
「シア、いるか」
大声で呼びかける。
「お兄様ぁ」
フェリシアが立ち上がり、駆け寄ってきた。
そのまま飛びつかれる。おお、腰の入ったいいタックルだ。まあ全然振動を感じないが。
なんか涙でぐしゃぐしゃになっている。
「お怪我はありませんか」
「ああ」
「心配したのですからね」
「ああ」
「もうシアを置いて危ないことをしにいかないでください」
「ああ、悪かった。心配かけたな」
正直、これほど心配されるとは思わなかった。ちょっと驚いている。
わんわん泣き続けるフェリシア。
制服が濡れまくるのだが…まあ仕方がないか。
頭をそっとなでてやる。
本当の兄になった気がした。
フェリシアが落ち着いたところで、俺は跳躍して木から巨大な巣をもぎ取ってくる。
うん、脚力といい腕力といい、やはりすごいね俺。
見上げるほどの巣を持ってくることができるなんて。
子供の背丈ほどもある蜂の子を巣から一匹取り出し、
フェリシアに頼んで炎のブレスで丸焼きにしてもらう。
好い香りだ。
それにこれだけ大きいと虫という感じがしなくていいな。
フェリシアから短刀を借りて切り分ける。
味はどうかな…思ったより淡泊だ。
たしかにウナギに似ている。
たれがほしい。切実にそう思った。
フェリシアは巣から蜂蜜をかき出して、木の葉に取り、舐めている。
目じりが垂れ下がっている。よほど気に入ったのだろう。
「あれほどの数の巨大蜂を一体どうやって倒したのですか。たとえお父様が竜体化しても、あの数の蜂をすべて倒し尽くすのは至難の技だったでしょう」
「なに、たいしたことはない。蜂を洞穴におびき寄せて生き埋めにしただけだ」
そう答えるとフェリシアは微妙な表情になる。
「なんといいますか、あまり格好の良い戦い方ではありませんね。お兄様は強いのですから、もっとこう、華麗にして鮮烈な、見る者を感動で震わせるような戦い方をしてくださるとうれしいのですが」
「誰も見ていないからあれでいいのだ。大体俺は、魔法を使えるわけでも、シアのように火を噴けるわけでもないのだ。足が速く身が軽く腕っぷしが強いだけの人間に過ぎないのだよ。だからこうした戦い方をするしかない。これからもいろいろ考えて、せこくずるく卑怯に立ち回るつもりだぞ」
「そんなことを胸を張って言わないでください。まったくもう、お兄様は、もっと言動に気を配りさえすればとても魅力的ですのに。だいたい語尾に『だ』とか『のだ』、『ぞ』とか『だぞ』が多すぎるのです」
「…それは今までの話と全然関係ないだろうが」
「はっきり言っておじさんっぽいのです」
「…わかった。これからは語尾に気を付けるよ。何しろシアの兄だもの。流麗な言動で人々を魅了しないとね。なに俺が本気を出せば簡単さ。きっとシアを満足させてあげるから」
「…すみませんお兄様。正直気持ち悪いです。私が余計なことを言いました。今までのままで結構ですので。それはともかく、これでお兄様は、戦闘経験を十分に積めたのではないですか。やり方はともかく、あれほどの数の巨大蜂を倒したのですから。お父様レベルの格闘戦能力はあると思いますわ。それはすなわちドラゴニアでも最強クラスの戦闘能力があるということです」
「そうか。ならばこの平原でやるべきことはもうないな」
あれだけの数の巨大蜂を倒したことは俺の中で大きな自信になった。
今の力がある限り、大軍に囲まれても簡単には敗れないと思う。
「ならドラゴニアへ急ぎましょう。国がどうなっているか、一刻も早く知りたいのです」
そうだな。俺も一刻も早く重い防具を身に着けたい。今の力を維持するために。
「よしわかった。明日から飛ばすぞ。シアも覚悟をしておけ」