実験
白い部屋にいた。風も吹かないし、匂いもない。ときおり遠くから金槌の音が聞こえる。一回、いや今日は二回だ。
ここではまともな食事はいっさい与えられない。動物の餌皿のような器に、指に絡みつく山が盛られる。僕は両手を使ってそれを呑む。合図も指示も命令もない。僕の首には鉄の輪がはめられていて、服はここに入れられるときにすべて奪われた。その人は——細長い手足があって、真上から乗せられたような頭がある。まるで子供が作った紙粘土の人形みたいだ——銃と思われる相手を脅すための道具をずっと僕に向けた。与えられた食事は完食せねばならない。それが僕に求められたゆいいつの行為であった。
僕は両手で皿の中身をすくい上げ、重い手を口元まで運び、頭を傾けて塊を喉に落とした。激しく拒絶する喉に鞭を打ってなんとか呑みくだす。むせて飛んでいった唾液には糸くずのようなものが浮いていた。僕はそれをとっさに手首でこすり消した。その人は高い位置から僕を見下ろし、からになった器を回収すると無関心に振り返り、部屋の外に出ていった。
言うまでもなく、僕は何も悪いことなんてしていなかった。飼育していた金魚一匹まともな最期を迎えさせてやることができなかったが、このような神経症的な空間に閉じ込められるような罪を犯したとは、どうしても思えなかった。つややかな石材で作られた床は、どこに手をついてもひやりと冷たかった。
僕は壁に背中がつかないように膝を抱えて座り、深く沈黙した。まるで水の中にいるように静かだ。僕の周囲はずっと脅迫的な白色で照らされている。それがあの人たちの存在を不明にするためならば、完璧に成功しているだろう。僕はその人を前にして、その人が以前と同じ人なのか、はたまた男性なのか女性なのか、どのくらいの年齢なのか、太っているのか痩せているのか、何もわからなかった。底が見えない池をずっと覗き込めばいずれ飽きがやってくるように、彼らに対する僕の思考もだんだんと失われていった。
彼らは同じように扉を開け、かたまりが乗った皿を床に置き、見慣れた武器を向ける。僕は皿まで這って、両手を器にして口元に運び、顎を突きだして喉を上下させる。すべてが同じだ。僕はそれを何度も繰り返しているうちに、ついには過去と未来の時間が入れ替わり、あたかも何度も彼らから生まれたような錯覚すら信じてしまいそうになった。
そしてあるときふと気がついた。僕は水の渇きに飢えることもなければ、排泄という行為すら嘘のように消え失せていた。思えば髪も伸びていない。爪は指先の弧をなぞる位置でぴたりと静止している。
僕は不眠のすえに、なんだか妙にその人に親近感を抱いた日があったので、思い切って咳払いをして声高らかに、「すみません。体がいっさい成長していないんですよ。これっておかしいですよね?」と声をかけようとした。「す」と小さな空気が狭い口から漏れた。言葉になりそこねた音は宙に浮かぶ小石がように姿を消した。
僕は子供のように取り乱し、自分の手のひらを交互に見た。その人はゴムが擦れるような音を立ててゆっくり振り返ると、僕には理解できない言葉を発した。あらゆる音を混濁させたような、もぞもぞとした低い音。大量の虫がうごめく音に似ている。その人はもう一度こちらを見ると、普段よりも早めに姿を消した。
長い時間が経つと、僕は自分を責めることも、また誰かを強く恨むこともできなくなっていた。とても惨めで目を覆いたくなるような状況が、常に僕の身に起こっているのだ。過去に起きたこと、そしていま起きていることに対してもなおさら不感になっていく。早い話、心が死んでいった。
海面が蒸発して雨が降り大地を水浸しにするのと同じように、僕は体を自由に動かせない狭い空間に閉じこめられ、ほとんど呑むことだけに意識を集中した食事を取らされている。覚醒していても世界に霧がかかったようで、内外の境界線が見えなくなっていく。「いまなんじ」とか、「そとどうなってる」とか、思い浮かんだ疑問はすぐさま溶解した。あとには何も残らなかった。枠のない無だ。彼らは僕をこんな目に遭わせて、いったい何を望んでいるんだろう。もし仮にここから出られたとしても、僕の居場所はどこにもないだろうな、と僕は思った。おそらく僕はこのまま誇りや記憶や感情や秘密を、花や太陽や鳥を、根こそぎ奪われてしまうのだろう。目からこぼれ落ちた雫が音を立てた。
前触れもなく、その人が二人に増えた。僕は毎度のように与えられた食事を呑み終り、口元を手の甲でぬぐっていたときだった。はっとして顔を上げると、その人が二人に増えていたので、思わず何度もまばたきをした。片方はこちらに銃を向けている。それでいてもう片方は腕を(というか長い触手を)持ち上げて、隣の人に何かを懸命に訴えかけていた。僕は事の成り行きを見守ることしかできず、彼らに対する願いはすでにない。僕は床の境目をしつこく指でなぞって時間を潰した。
「でていい」と唐突に告げられる。僕は首をかしげた。「でていい」とはいったい何を意味しているのだ?
長い腕を持った人がずけずけと中に入り、腕を鞭のように振り上げた。そして僕と部屋を繋ぐ鎖を叩き壊した。破壊は僕の頭のすぐ横で行われた。一歩間違えば僕の頭は粉々になり、中から僕が食べてきたような脳ミソだかが飛び散ったかもしれしれない。僕は呆然として彼らを見つめた。彼らはお互いの意見が合わず、言葉を上書きし合っていた。実験を終えた僕の存在は当然のように忘れられた。いないも同然だ。
僕は自分の手のひらをじっと見た。いつの間に付いたのか、黒い線のような汚れがあった。僕はその線を反対の指でこすって肌に馴染ませた。立ち上がって歩いて、言い合いを続けている彼らの横を通り抜ける。白い部屋の外は真っ暗だった。腕を伸ばしても、伸ばしたという感覚が得られないほどの深い暗闇だった。首輪から垂れる鎖が胸に触れて、染みるような硬さを僕の肌に走らせた。




