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特定生命終止許可制度  作者: 御影のたぬき


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3/6

清廉値

 最初に死んだのは、閣僚経験のある男だった。


 朝の情報番組は、その映像を何度も流した。都内の住宅街。初夏の陽射し。街路樹の影。選挙区まわりのために、秘書と二人で歩いていた元経済再生担当大臣・鷹野誠司が、路地の角から現れた男に腹を刺され、その場で倒れる。警護は、いなかった。


 護衛の不在は、異常ではない。


 申請が受理された対象者には、公的護衛をつけてはならない。


 特定生命終止許可制度の運用規則第十九条。施行から十四年、国民のほとんどが暗唱できる条文だ。


 「許可対象者の生命は、国家の防衛対象から一時的に除外される」


 平たく言えば、殺していいと国が認めた相手は、その瞬間から、警察もSPも守れない。


 逃げることはできる。隠れることもできる。国外に出ることも、理屈の上ではできる。だが住民基本情報、移動履歴、決済履歴、通信履歴の閲覧許可は、受理者に限定的に開示される。追う側に国家が一枚噛む。法の建前は、「正当な機会の付与」だった。


 番組の女性キャスターが、痛ましげな顔をつくって言った。


「鷹野元大臣は、制度の見直しを求める議員連盟の発起人でもありました」


 その直後、画面の端に小さく表示されたテロップが、あまりに静かに流れた。


 ——鷹野誠司氏は、一殺権の対象者として受理されていました。


 スタジオの空気がわずかに変わったのがわかった。コメンテーターたちの眉が、揃って、ほんの少しだけ上がる。受理。三倍条件を満たした、ということだ。申請者が、それだけ制度上「善い」人間だった、ということだ。


 弁明するように、元官僚の評論家が口を開いた。


「受理された以上は、条件を満たしていたということです。申請者が相当な純善値を持つ人物だったということでしょうが——」


 隣のタレントが、被せるように笑った。


「狙われるってことは、それだけのことをしてきたってことじゃないですか?」


 それで終わりだった。


 鷹野誠司の死は、昼までに「自業自得」に変換された。


     *


 国家清廉庁第三審査局、特例受理課。


 古川透は、窓のない執務室で、七件目の申請書を読んでいた。


 机は狭い。端末は二枚。左に申請者、右に対象者。年齢、戸籍、就労履歴、納税履歴、介護記録、寄付、通報、救助、ボランティア、訴訟、交通違反、軽犯罪、SNS投稿傾向、匿名通報の信頼度補正、教育歴、懲戒歴、反復的な小悪、反復的な小善。生涯にわたる行為が、加点と減点の連なりとして並んでいる。


 人間の一生を、数字にすると、驚くほどつまらない。


 古川は、そう思うたびに、少しだけ安心した。つまらないからこそ、公平だ。少なくとも、そういうことになっている。


 端末の左。申請者。


 片桐沙織。三十二歳。元看護師。現・在宅介護職。純善値、六百八十一。


 高い。


 同年代女性の上位一・二パーセントに入る。夜勤。介護。骨髄バンク登録。災害時の自主支援。家族の長期介護。交通事故現場での救命補助。細かな善行が、地層のように積み上がっている。


 端末の右。対象者。


 衆議院議員・大槻修一。五十六歳。与党政調会長経験者。純善値、百九十八。


 平均に近い。だが政治家としては高くない。むしろ、よく持っている方だ。政治資金パーティー。利益誘導。便宜供与の疑義。違法と断定できない灰色の行為。匿名での誹謗的発信。公設秘書への恫喝。直接は証明困難な小悪が、補正付きで積み重なっている。


 六百八十一は、百九十八の三倍を超える。


 条件は満たす。


 一殺権における受理条件は、基本的に二つだけだ。


 一、生涯一回。

 二、申請者の純善値が、対象者の純善値の三倍以上。


 復讐は、禁止されていない。むしろ制度の起源は、そこにあった。


 法ができた当初、メディアは「善人の最後の権利」と呼んだ。


 古川は、その言い方が嫌いだった。権利というより、排水口に近い。人間が持て余した怨みを、どこかに流すための穴だ。


「古川」


 背後から声がした。上司の塩見課長だった。細い体に、年齢不詳の顔。いつもネクタイが少し曲がっている。


「大槻案件、どうだ」


「要件は満たしています」


「感情じゃない。書式で答えろ」


「未行使確認済み。純善値条件、充足。申請者の精神鑑定、適格」


 塩見はうなずいた。


「なら通せ」


 古川は一拍置いた。


「……通すと、また騒ぎます」


「騒ぐのはあいつらの仕事だ。俺たちは通すのが仕事だ」


「大槻は、先週の鷹野の件で、法改正の会見をしていました」


「だから?」


「制度を疑問視する政治家が、制度で狙われる」


「美しいじゃないか」


 塩見はそう言って、笑いもしなかった。


     *


 片桐沙織が面談室に入ってきたとき、古川はまず、背筋の癖を見た。


 介護職の人間に多い、少しだけ前に折れた姿勢。肩をかばうように、胸をすぼめる立ち方。だが目はまっすぐだった。化粧は薄い。爪は短い。年齢より少し上に見える。疲れている人間特有の、肌の乾き方をしていた。


 面談は録画される。必須手続きだ。


「片桐さん。最終確認です。あなたはこの申請が受理された場合、対象者に対して一回限り、致死を目的とした実力行使を行う権限を得ます」


「はい」


「その結果、対象者が死亡しても、特例の範囲内であれば刑事責任は問われません」


「はい」


「ただし、善行ポイントは消費されます。行使後、善行ポイントの三割が消失します。今後の社会的信用、職業継続、住宅契約、婚姻審査、親権審査、あらゆる局面に影響します」


「はい」


「それでも申請しますか」


 片桐は、古川の目を見て、言った。


「はい」


 声に迷いがなかった。


 こういうとき、古川はいつも気味が悪くなる。人間は、本当に迷わないときほど、静かだ。


「申請理由を、あなたの言葉で述べてください」


 片桐は、少しだけ息を吸った。


「父が死んだのは、二年前です。脳梗塞でした。要介護4でした。私は看護師を辞めて、父を見ていました。訪問介護と、デイサービスと、短期入所を組み合わせて、なんとか」


 そこで一度、言葉が止まった。


「大槻議員は、介護保険の給付基準を変えました。制度上は"適正化"です。でも実際には、うちの区では訪問回数が減った。ショートの枠も減った。父は、転倒して、夜間に四時間床で動けなかった。私はそのとき、別の高齢者の家にいた。父はそれで悪化して、肺炎を起こして、三か月後に死にました」


 古川は、淡々と訊いた。


「大槻議員個人と、あなたのお父様の死の間に、直接の法的因果は認められません」


「知っています」


「ではなぜ、大槻議員を対象に?」


「顔があるからです」


 古川は、少しだけ視線を上げた。


 片桐は続けた。


「制度は、顔がない。国は、顔がない。票を集めて、テレビで、削ると決めて、必要だと言って、誰かの生活を切った人には、顔がある。父は死んだ。私は、毎日、誰かの親を風呂に入れて、食べさせて、下の世話をして、笑ってる。なのに、切った人は、会食して、握手して、先生って呼ばれてる」


 声は荒れていなかった。泣きもしない。


「私が大槻議員を殺しても、父は戻りません」


「……」


「でも、父が死んだことを、誰か一人の体に、ちゃんと届かせたい」


 録画ランプの赤が、古川の視界の端で点いていた。


 条件は満たしている。それだけで、通る。制度は理由を問わない。問わないからこそ、人は自分で理由を作る。片桐の理由は、古川には、まっとうに聞こえた。だがそれは関係ない。


「最後に確認します。対象者には、受理後七十二時間以内に通知が行われます。以後、対象者は逃走・潜伏・国外退避が可能です。あなたに対して対象者情報の一部開示が行われます」


「はい」


「この制度は、決闘ではありません。対象者が逃げ切れば、権限は失効します」


「知っています」


「それでも?」


「逃げるなら、逃げればいい」


 片桐は言った。


「逃げる姿を、国中に見せればいい」


     *


 大槻修一は、通知を受けた翌日から、ホテルを転々とした。


 テレビはそれを、逐一追った。


 政治家が狙われる。受理された。護衛なし。逃げるしかない。


 ワイドショーにとって、これほど視聴率の取れる題材はない。


 コメンテーターは、口々に言った。


「法の欠陥が露呈した」

「民主主義への挑戦だ」

「感情で政治家を殺していいのか」


 しかし街頭インタビューは、別のことを言った。


「受理されたってことは、それだけの申請者がいたってことでしょ」

「国民の生活をちゃんとしてたら、狙われない」

「自分で関わった制度でしょ?」

「逃げるって、後ろめたいんじゃないの?」


 大槻の支持率は、むしろ下がった。


 古川は、昼休みに庁舎の食堂で、無音のニュース映像を見ていた。テロップだけが流れる。


 ——大槻議員、一殺権制度の改正案を準備中

 ——与党内から慎重論

 ——SNSでは「#逃げるな大槻」がトレンド入り


「見たか」


 塩見がトレイを持って隣に座った。


「ええ」


「面白いな。法を変えたいなら、もっと善く生きろって言われる」


「平均二百の国で、百九十八はそこまで低くない」


「でも政治家だ。期待値が違う」


 塩見は味噌汁をすすった。


「古川。お前、制度を信じてるか」


 唐突だった。


「……信じているから、ここにいます」


「嘘だな」


 古川は答えなかった。


 塩見は続ける。


「俺は信じてない。だが必要だと思ってる」


「違いはありますか」


「大いにある。信じてるやつは、壊れたときに自分も壊れる。信じてないやつは、ただ片づける」


「課長は、壊れないんですか」


「とっくに壊れてる」


 塩見はそう言って、揚げ物に箸を入れた。


     *


 受理から四十八時間後。


 片桐沙織に開示された情報は、限定的だった。大槻の当日移動予定、宿泊候補、使用カードの最新利用、同行者の有無。違法な盗聴や位置追跡は許可されない。だが合法の範囲だけで、追うには十分だった。


 古川は、本来なら関与を終えている。受理後の実行は、執行監察局の管轄だ。


 それでも、その夜、彼は端末の監察モニタを見ていた。見てはいけないわけではない。見なくていいだけだ。


 大槻は、都心の会員制ホテルを出て、裏口からタクシーに乗った。帽子。眼鏡。マスク。誰が見ても、逃げている人間の格好だった。


 片桐は、三十分後に同じホテル前を通過し、別のタクシーに乗った。


 追跡は雑だった。いや、雑に見せているのかもしれない。プロではない。元看護師だ。当たり前だ。だが、制度に背中を押された素人ほど、恐ろしいものはない。


 大槻は、郊外の自宅には戻らなかった。愛人宅でもない。議員宿舎でもない。党本部でもない。


 向かった先は、地元の小さな後援会事務所だった。


 古川は、画面の前で眉をひそめた。


「なんでそこだ……」


 塩見が背後に立っていた。いつからいたのかわからない。


「票だよ」


「え?」


「追い詰められた政治家は、最後に票のある場所へ行く。支援者に囲まれれば安全だと思う。人間ってのは、死ぬ間際まで、自分を選んでくれた数字にすがる」


 事務所前には、すでに人が集まり始めていた。どこから漏れたのか。スマホを構える野次馬。配信者。反対派。支持者。警察はいる。だが介入できない。交通整理だけだ。


 片桐が現れたのは、その二十分後だった。


 白いシャツに、黒いパンツ。髪を結んでいる。手には何も持っていないように見えた。


 だが、古川は知っている。合法殺害の手段は、銃器に限られない。刃物でも、薬物でも、鈍器でもいい。法は結果しか見ない。


 片桐は、人垣の外から、後援会事務所のガラス扉を見た。


 中に大槻がいた。顔色が悪い。ネクタイを外し、支援者に囲まれている。テレビカメラもいた。生中継だ。


 誰かが叫んだ。


「来たぞ!」


 群衆が割れた。


 スマホが、一斉に向く。


 片桐は、歩いた。走らない。叫ばない。静かに、まっすぐ。


 その静けさが、群衆の熱を冷やした。皆、声を失った。


 ガラス扉の前で、支援者の一人が立ちはだかった。中年の男だ。後援会幹部らしい。


「やめろ! ここは——」


「どいてください」


 片桐は言った。


「合法です」


 男は、固まった。


 その一言は、この国で、あまりに強い。


 合法です。


 善い人間にだけ与えられる、殺す権利。そこに立つ人間は、少なくとも数字の上では、自分よりずっと善い。そう思った瞬間、人は道を空ける。


 男は、半歩下がった。


 扉が開く。


 中で、大槻が叫んだ。


「待ってくれ!」


 生放送のマイクが、その声を拾った。


「話をしよう! 君の事情は聞く! 補償も——」


 片桐は、初めて表情を変えた。


 笑ったのだ。ほんの少しだけ。呆れたように。


「補償?」


 その声は、小さかったのに、やけにはっきり聞こえた。


「父はもう死んでます」


 片桐が袖から出したのは、包丁でも拳銃でもなかった。


 介護現場で使う、細身の医療用剪刀だった。


 古川は息を呑んだ。刃は短い。だが頸動脈には届く。


 支援者が動く。警察が身構える。だが止められない。止めれば、公務執行妨害に近い。法が、彼らの体を縛る。


 大槻は後ずさった。机にぶつかり、よろめく。無様だった。テレビの中で見る「先生」ではない。腹の出た、息の荒い、ただの中年男だった。


「やめろ!」


 大槻が叫ぶ。


「この法はおかしい! こんなのは法治じゃない! 感情の——」


 片桐は、一歩踏み込んだ。


「あなたたちが、そうしたんでしょう」


 剪刀が、喉に入った。


 悲鳴。血。ガラスに飛沫。支援者の叫び。誰かが吐く音。カメラが揺れる。画面が乱れる。


 だが、生中継は切れなかった。


 切れなかったのではない。切らなかったのだ。誰かが、視聴率を選んだ。


 片桐は、二度目を入れなかった。


 一回で十分だと、最初から知っていたように。


 大槻は、喉を押さえ、崩れた。血が指の間から溢れた。口をぱくぱくさせる。言葉にならない。床に広がる赤が、支援者の革靴を濡らす。


 片桐は、その場に立ったまま、動かなかった。


 逃げもしない。


 剪刀を床に置き、両手を見えるように上げた。


「行使終了です」


 そう言った。


 執行監察局の職員が、群衆の向こうで、端末に何かを打ち込んだ。


 合法行使、完了。


     *


 翌日、国会は騒然となった。


 野党は「制度殺人」と叫び、与党は「個別事案」と逃げた。だが数時間後には、与党内からも一殺権制度見直しの声が相次いだ。議員たちは、ようやく自分の喉元に刃が届く距離を知ったのだ。


 しかし世論は、冷たかった。


 世論調査。


 ——一殺権制度を支持する 六十三%

 ——見直しが必要     三十一%

 ——廃止すべき       六%


 街頭インタビュー。


「怖いけど、ちゃんとした政治家なら狙われないでしょ」

「善い人なら三倍条件に引っかからない」

「制度を使ったのは、善い人なんですよね?」

「逃げた議員が悪い」


 片桐沙織が一殺権の行使者として公的記録に登録されたのは、翌朝だった。


 ネットは、また別のことを言い出した。


「介護で父親を亡くした人が申請できたってことは、相当な善行を積んでたはず」

「制度は正しく機能した」

「善い人がここまで追い込まれたんだろ」


 事実は少ない。でも物語はすぐに完成する。


 古川は、端末の表示を見つめた。


 人を一人殺して、なお行使者として記録された女。


 それは片桐が善人だった証明なのか。それとも、この国の制度が持て余した何かを、うまく流しただけなのか。


 塩見が、背後から言った。


「満足そうな顔だな」


「していません」


「嘘つけ」


「……少しだけ、制度が機能したと思いました」


「どこがだ」


「切られた側に、ちゃんと顔があった」


 塩見は、しばらく黙った。


「お前は向いてないよ、古川」


「何にです」


「この仕事に」


「でも辞めません」


「だろうな」


 塩見は、古い紙煙草を咥える仕草だけして、思い出したようにやめた。庁舎は全面禁煙だ。


「じゃあ、次を見ろ」


 新着申請。


 古川は、左の端末を開いた。


 申請者。五十一歳。中学校教諭。純善値、五百十二。


 対象者。参議院議員。純善値、百五十七。


 理由。学校統廃合に伴う通学路事故と、その後の答弁。


 古川は、思わず笑いそうになった。笑える話ではないのに。


「もう来たんですか」


「来るさ。人間は、使える穴を見つけると、そこに流れ込む」


「議員連盟は、法改正案を出すそうです」


「通らん」


「なぜです」


 塩見は、食えない顔で言った。


「国民の平均純善値が、二百くらいだからだよ」


「……」


「二百の人間は、自分より下を裁ける制度が好きだ。自分が上だと思えるからな。議員が死んだ程度じゃ、その快感は手放さない」


 古川は、画面の中の数字を見た。


 五百十二。

 百五十七。


 条件は、満たしている。


「課長」


「なんだ」


「この国は、どこまでいくと思いますか」


 塩見は肩をすくめた。


「どこにも行かない。ずっとここだ」


「変わらない?」


「変わるさ。もっと上手に残酷になる」


     *


 数日後。


 古川は、業務とは関係のない回り道をして、拘置医療棟の面会室に向かった。一殺権の行使者は、一定期間の精神観察が義務づけられる。罰ではない。建前の上では。


 片桐沙織は、透明パネルの向こうにいた。


 服は支給品に変わっていたが、姿勢は同じだった。少しだけ前に折れた背中。


「なぜ来たんですか」


 第一声がそれだった。


「確認です」


「何を」


「あなたが、後悔しているかどうか」


 片桐は、しばらく考えた。


「していません」


 古川はうなずいた。予想どおりだった。


「でも」


 片桐は続けた。


「救われてもいません」


 古川は、何も言わなかった。


「ニュースで、見ました。大槻議員が死んだあと、他の議員が法改正って言い出したの」


「ええ」


「遅いですよね」


「そうですね」


「私がやったことは、正しかったんですか」


 その問いに、古川は初めて、答えに詰まった。


 この制度の職員は、正しさを扱わない。条件だけを扱う。正しいかどうかを問われた瞬間、職務は壊れる。


「合法でした」


 結局、そう言うしかなかった。


 片桐は、少しだけ笑った。


「みんな、そう言う」


「……」


「でもね」


 彼女は、透明パネル越しに、自分の指先を見た。


「父の喉を拭いていた手と、同じ手で、人を刺したんです」


 その言葉だけが、古川の胸に残った。


 数字にならない言葉だった。


「私はたぶん、あの日の前には戻れません」


「ええ」


「でも、戻る場所も、もうなかったんです」


 面会時間終了のランプが点いた。


 古川は立ち上がった。


「片桐さん」


「はい」


「あなたは、まだ制度の外では普通に生きられます」


 言ってから、自分で、その言葉の醜さに気づいた。


 慰めのつもりだったのか。評価のつもりだったのか。社会の言葉を、そのまま口にしただけではないか。


 片桐は、しかし怒らなかった。


「そうですか」


 ただ、それだけ言った。


「じゃあ、この国では、まだ善人なんですね」


 古川は、返せなかった。


     *


 その年の秋、一殺権制度の改正案は、国会で継続審議となった。


 実質的な棚上げだった。


 議員は死んだ。もう一人、狙われた。さらに数件の申請が続いた。だが支持率は落ちなかった。むしろ微増した。


 ニュース番組では、連日、一殺権の行使事例が特集された。政治家、芸能人、医師、教師、弁護士、警察官。人々は他人の行使履歴を見て、勝手に納得し、勝手に軽蔑した。


 国は平穏だった。


 少なくとも、数字の上では。


 古川は、夜の庁舎で、一人、申請書を読んでいた。


 申請者の欄。

 対象者の欄。

 理由の欄。

 数字、数字、数字。


 どこかで誰かが生き、どこかで誰かが死に、そのあいだに必ず、説明可能な物語が一つだけ選ばれる。


 古川は、ふと、端末の隅に表示された自分の職員情報を開いた。


 古川透。三十七歳。国家清廉庁第三審査局。

 純善値、二百十一。


 平均より、少し上。


 思っていたより低く、思っていたより高かった。


 人を何人も、合法的に殺させてきた男としては、妙に中途半端な数字だと思った。


 画面を閉じる。


 新着申請を開く。


 また政治家だ。


 古川は、静かに、書類を読み始めた。


 この国では、善人だけが人を殺せる。


 だから誰も、自分たちを残酷だとは思わない。


 それがいちばん、救いがなかった。

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