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特定生命終止許可制度  作者: 御影のたぬき


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三倍

 通知は、火曜日の午後三時十二分に届いた。


 市役所の総務課で、紙の稟議書をスキャンしていた最中だった。複合機の読み取り音に紛れて、内ポケットの端末が短く震えた。仕事中に私用端末が鳴ることは珍しくないが、その振動は設定したものではなかった。最初から入っている、公的通知専用の波形だった。


 嫌な予感がした。


 画面を見る前に、心臓が先に理解していた。


 差出人は、内閣府倫理均衡局・近畿第二区審査課。


 件名は一行だけ。


 **一殺権申請に関する事前審査結果通知**


 喉の奥が乾いた。


 その文字列を、私は半年、待っていた。


 待っていた、という言い方は正確ではない。待っていないふりをしていた。朝起きて、顔を洗い、駅まで歩き、満員電車に揺られ、総務課で判子を押し、昼にうどんを食い、帰って、コンビニでビールを買い、テレビもつけずに風呂に入り、眠る。その繰り返しの底に、沈殿物みたいに沈んでいたものが、それだった。


 複合機のガラス面に映る自分の顔は、思ったより老けて見えた。三十四歳。独身。公務員。大阪市北区在住。年収四百六十万。持病なし。前科なし。家族は妹一人、死亡。


 妹の名前は、遥。


 その名前を、私はもう三年、口にしていない。


「椎名さん、これ今日中に回ります?」


 後ろから係長が声をかけてきて、私は端末を伏せた。


「あ、はい。いけます」


「助かる」


 係長は去った。私は笑っていたらしい。口角が引きつっているのが自分でもわかった。


 通知は未開封のまま、ポケットの中で熱を持っていた。


 勤務中に開くべきではないと理性は言った。開けば、そのあとまともに仕事ができなくなる。もし不許可なら、今日一日が終わる。もし許可でも、終わる。


 どちらにせよ、終わる。


 私は定時まで待った。


 待てたことを、あとで少しだけ誇りに思った。


     *


 天満橋の川沿いは、風が強かった。


 四月の終わり、昼のぬるさが引いたあとの風は、まだ少し冷たい。遊歩道のベンチに座り、私は端末を開いた。川面は濁っていて、観光船の尾が鈍く光っていた。犬を散歩させている老人、ランニングをしている若い女、制服のままコンビニの袋を下げた高校生。誰も、他人の通知を気にしない。


 私は指紋認証を二度失敗した。


 三度目で開く。


 本文は、簡潔だった。


 **申請番号:K2-1174-44**

 **申請者:椎名 直人**

 **対象者:黒瀬 誠司**

 **事前審査結果:不許可**


 そこで一度、画面が滲んだ。


 風のせいか、涙か、わからなかった。


 私は唇を噛み、続きを読んだ。


 **不許可理由:純善値要件未達**

 **申請者純善値:217**

 **対象者純善値:91**

 **許可基準値:273以上**


 数字が、三つ。


 私の値。黒瀬の値。足りない値。


 私は声を出さずに笑った。


 九十一。


 黒瀬誠司が、九十一。


 妹の人生を壊した男が、九十一。


 裁判で執行猶予がつき、会社を辞めたあと、名前を変えて保険代理店をやっている男が。酔った帰りに遥を車ではねたあと、救急車も呼ばずにその場を離れた男が。翌朝になって、ドラレコの映像が消えているのを「故障」と言い張った男が。遺族の前で頭を下げながら、目だけが冷えていた男が。


 あの男が、九十一。


 私は、二百十七。


 足りない。五十六。


 わずか五十六で、私は妹を殺した男を殺す資格がない。


 通知の末尾に、再申請に関する案内があった。


 **再申請可能時期:六か月後**

 **申請者は倫理改善プログラム(任意)を利用できます**


 任意。


 ふざけるな、と思った。


 だが、その「任意」の文言が、夜になっても頭から離れなかった。


     *


 この国では、生涯に一度だけ、合法的に人を殺せる。


 制度ができたのは、私が小学生の頃だった。テレビでは連日、識者が喧嘩していた。宗教家は文明の終わりだと言い、法学者は私刑の制度化だと言い、精神科医は抑圧された報復感情の安全弁だと言い、総理は「現実的な暴力管理の一環」とだけ言った。


 結局、制度は通った。


 正式名称は、特定生命終止許可制度。


 誰もそんな名前では呼ばない。


 一殺権。


 それで十分だった。


 制度の理念は単純だ。人間の殺意はなくならない。ならば、地下に潜らせるより、条件つきで表に出した方がいい。対象を一人に限定し、申請者の純善値が対象者の三倍以上であること。本人が直接手を下すこと。実行後は善行ポイントが三割減算されること。権利は生涯一度きり。違法に殺せば悪行ポイントが大幅に加算され、未使用の権利も失う。


 復讐は、違法ではない。


 ただし、資格がいる。


 それだけの話だ。


 この国の人間は、驚くほど早く慣れた。


 ニュースで有名人の一殺権行使が報じられれば、ワイドショーは「妥当か」「感情的には理解できる」と二日ほど騒ぎ、三日目には別の話題に移る。選挙のたびに制度見直しを公約に掲げる候補は出るが、たいてい落ちる。国民の大半は、使わない。使わないまま死ぬ。だから制度は、自分には関係ないと思っている。


 関係ができるまでは。


     *


 倫理改善プログラムの受付は、京橋駅前の古い雑居ビルの七階にあった。


 もっともらしい名前のNPOが運営しているが、実態は半官半民だ。私は土曜の朝、スーツではなく、くたびれたシャツとジーンズでそこへ行った。受付の女は、私の顔を見る前に申請番号を確認し、慣れた調子で説明を始めた。


「椎名さんは純善値要件の未達ですね。任意プログラムは、違法なポイント操作ではありません。ご安心ください。あくまで日常生活の中で、継続的に善行行動を増やすための行動設計支援です」


 カウンセラーの男は、三十代後半くらいだった。ネームプレートには、野上とあった。柔らかい声で、柔らかい目をしていたが、その奥に職業的な鈍さがあった。人の殺意を見慣れている目だ。


「黒瀬さんに対する申請、でしたね」


 私は頷いた。


「理由は話したくありません」


「構いません。こちらは理由を評価しません」


「評価しないのに、こんなところに来させるんですか」


「理由を評価しないことと、あなたが今どの状態にあるかを見ることは、別です」


 腹が立ったが、帰らなかった。


 野上は端末を置き、机の上に一枚の紙を出した。今どき珍しい、紙だった。そこには、項目が並んでいる。


 地域清掃、献血、介護補助、通学路見守り、災害備蓄支援、保護犬一時預かり、遺品整理補助、病院付き添い、里親登録説明会、夜間巡回。


「こういうことをやれって?」


「やるかどうかは自由です。ただ、善行ポイントは基本的に“結果”ではなく“継続”に強く反応します。一度大きな寄付をするより、週に一度、誰かの生活を支える行動の方が伸びやすい」


「ずいぶん詳しいんですね」


「仕事ですから」


「どうせ、正確な数値は教えない」


「はい」


 苛立ちが口をついた。


「五十六足りないんです。五十六。半年で埋まると思いますか」


 野上は少しだけ黙った。


「制度上、数値の推移予測はお伝えできません」


「予測じゃなくて、あなたの感想を聞いてる」


「感想を言うと、依存が生まれます」


「便利な仕事ですね」


 野上は反論しなかった。


「一つだけ、個人的なことを言います」


 私は顔を上げた。


「善行ポイントを稼ぐ、という言い方をすると、たいてい失敗します。あれは、たぶん、そういうふうにできていない」


「たぶん?」


「誰も仕組みを知りませんから」


 この世界のポイントは、国家が管理しているが、国家が作っているわけではない。そこが、この制度の根本的な気味悪さだ。


 善行ポイントと悪行ポイントは、ある日突然、世界に現れた。


 正確には、可視化された。出生時から全員に付与され、どんなデータベースにも存在し、どんな国でも参照できる。誰が、どういう原理で、何を基準に算定しているのかは、わからない。国家はそれを利用しているだけだ。昔は宗教が飛びつき、科学者が解析し、陰謀論者が騒いだ。今はもう、みんな飽きた。


 飽きたが、従っている。


 野上は紙を私に差し出した。


「半年あります。やるなら、徹底的にやってください」


「それで足りなかったら?」


「そのとき考えましょう」


 私はその紙を、ひったくるように受け取った。


     *


 最初の一か月は、ただの作業だった。


 平日は仕事。土曜の朝は河川敷の清掃。日曜は老人ホームの配膳補助。水曜の夜は子ども食堂の片付け。月に一度の献血。通勤時には駅の階段でベビーカーを持つ。コンビニで募金箱に小銭を入れる。信号待ちのあいだに落とし物を拾う。迷子の子どもに声をかける。


 自分でも、吐き気がした。


 こんなもののために。


 遥、お前のために、俺はこんな偽善をやってる。


 そう思っていた。


 だが、二か月目の終わり、老人ホームで一人の女に声をかけられた。


「お兄ちゃん、あんた、前も来てた?」


 九十を超えているらしい。背中が丸く、目だけが妙に澄んでいた。


「ええ、何回か」


「うちの息子は来んのよ」


 そう言って、女は笑った。


「忙しいからなあ。ええ仕事してるんやろうし」


 私は曖昧に頷いた。女は、湯呑みを両手で持ちながら、私を見た。


「あんたは、なんで来てんの」


 私は答えなかった。


 答えられなかった。


「なんでもええけどな」


 女は笑ったまま言った。


「来てくれたら、それでええ」


 その日の帰り、京橋の駅で、私はしばらくホームの端に立っていた。電車が入ってくる風が、頬に当たる。何も変わっていないはずなのに、妙に疲れていた。


 偽善で誰かが助かるなら、それは善なのか。


 そんなことを考えた自分に、腹が立った。


 遥は死んだんだぞ。


 お前は何を揺らいでいる。


     *


 三か月目に、黒瀬を見た。


 梅田の地下街だった。


 向こうは私に気づかなかった。いや、気づいても、気づかないふりをしたのかもしれない。黒瀬は以前より痩せていた。髪が短くなり、眼鏡をかけていた。紺のスーツに、安っぽいネクタイ。横には、中学生くらいの女の子がいた。手をつないでいる。


 娘か。


 私はその場で足が止まった。


 黒瀬が、しゃがんで、女の子の靴紐を結んだ。女の子は何か言って笑った。黒瀬も、笑った。


 世界が、ぐらりと歪んだ。


 あの男が。


 遥の血をアスファルトに放置した男が。


 あんな顔で笑うのか。


 私はあとをつけた。


 地下街から地上へ。阪急東通の外れ。小さな文房具店。黒瀬は女の子にノートを買い、店を出た。女の子は跳ねるように歩く。黒瀬は少し離れてついていく。父親の歩幅だ。守るための距離だ。


 私は、路地の角で立ち尽くした。


 その夜、私は初めて、善行を休んだ。


 ビールを二本飲んで、吐いた。


 こんな世界は間違っている、と思った。


 だが、何が間違っているのか、うまく言えなかった。


 黒瀬の純善値が九十一あることか。娘がいることか。笑うことか。生きていることか。


 あるいは、私がそれに動揺していることか。


     *


 四か月目、野上との面談で、私は黒瀬を見たことを話した。


「娘さん、だと思います」


「そうですか」


「娘がいたら、善行ポイントが上がるんですか」


「子育ては継続行動ですから、上がることはあります」


「ふざけてる」


「制度は、感情を見ません」


「見てるでしょう。動機とか、そういうのを」


「少なくとも、一殺権の審査は見ません」


 野上はそこで言葉を切った。


「ただ、ポイントそのものが何を見ているかは、誰にもわかりません」


 私は笑った。


「便利ですね、その言い方」


「便利じゃありません。だから皆、苛立ってる」


 珍しく、野上の声が少しだけ硬かった。


「人は、善悪に説明を求める。明確な基準を欲しがる。でも、この世界はそれをくれなかった。だから、せめて制度の方だけでも、形式にするしかなかった」


「形式」


「三倍、という数字です」


「誰が決めたんです」


「国会です」


 私は鼻で笑った。


「じゃあ、三倍じゃなくてもよかった」


「そうですね。二倍でも、五倍でも」


「なのに三倍」


「人間は、意味があると思いたがるから」


 その言葉は、妙に胸に残った。


 意味があると思いたがる。


 遥が死んだことにも。


 私が今、ゴミ袋を持って河川敷を歩いていることにも。


     *


 五か月目、私は、老人ホームの帰りに、あの女の息子に会った。


 会った、というより、乗り込んできた。


 受付で怒鳴っていた。五十代くらいの男。高そうな時計をして、声だけが大きい。


「何回言わせんねん! 延命措置はするな言うてるやろ!」


 職員が困った顔をしている。


 私は、盆を片付ける手を止めた。


「親父のときもそうやったやろ、あんたら勝手に――」


 そこまで聞いて、気づいた。


 親父のときも。


 つまり、この男は、あの女の夫も見送ったのだ。


 私は職員に目で合図され、男の前に立った。


「すみません、面会時間、もう――」


「なんやお前」


 酒の匂いがした。昼間から飲んでいるらしい。


「職員ちゃうやろ。ボランティアが口出すなや」


 私は一瞬だけ、拳を握った。


 その瞬間、はっきりとわかった。


 ここで殴れば、悪行ポイントが積まれる。


 その計算が、反射みたいに頭をよぎった自分に、うんざりした。


 だが私は、拳を開いた。


「お母さん、待ってますよ」


 男は舌打ちして、私を肩で押しのけ、奥へ行った。


 私は壁にぶつかった。痛みは軽かった。だが、そのあと、奥から聞こえてきた女の声に、足が止まった。


「あんた、来たんか」


 嬉しそうだった。


 あの声を聞いて、私は動けなくなった。


 それでも、来たことを喜ぶのか。


 あんな息子でも。


 その日の夜、私は黒瀬のことを考えた。


 もし、黒瀬の娘が、黒瀬を待っていたら。


 私が黒瀬を殺したあと、その子は、どんな声を出すだろう。


 考えるな、と自分に言った。


 それは関係ない。


 遥には、誰も帰ってこなかった。


     *


 六か月目の終わり、私は再申請した。


 同じ対象。


 黒瀬誠司。


 理由の記入欄は、今回も空白にした。


 面談で、野上は何も言わなかった。私も、何も言わなかった。


 通知は、前回と同じく火曜日に届いた。


 今度は、職場のトイレで開いた。


 個室に入って、蓋を閉め、手を震わせながら画面を見る。


 **申請番号:K2-1174-44R**

 **申請者:椎名 直人**

 **対象者:黒瀬 誠司**

 **事前審査結果:許可**


 息が止まった。


 続き。


 **申請者純善値:304**

 **対象者純善値:100**

 **許可基準値:300以上**

 **執行可能期間:通知日より30日間**


 ぎりぎりだった。


 私の純善値は、三百四。


 黒瀬は、百。


 九十一から百に増えていた。


 それでも、届いた。


 私は個室の中で、便器に手をついて、しばらく頭を下げていた。


 吐きそうだった。


 嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。


 許可された。


 私は、黒瀬を殺せる。


 国家が、それを認めた。


 その日の夜、私は川沿いを歩いた。


 風はなかった。


 水面は黒く、街の光だけが歪んでいた。


 ポケットの中の許可証コードが、鉛みたいに重かった。


     *


 一殺権の執行方法は、細かく定められている。


 刃物でも銃でも、毒でも、首でも、構わない。ただし、最終的な致死行為は申請者本人が直接行うこと。第三者の委託は不可。事故偽装は無効。執行時には、認証端末を対象に接触させ、許可コードを同期させる必要がある。同期後、十分以内に致死行為が行われなければ、執行は失敗として扱われる。期間内なら再試行は可能だが、対象は逃亡可能。


 要するに、逃がすな、ということだ。


 私は包丁を買った。


 通販ではなく、商店街の刃物屋で。店主は何も言わなかった。最近は、一殺権の期間中に刃物を買う人間の情報が、店側には表示されるらしいという噂がある。本当かどうかは知らない。店主は、よく切れる家庭用の三徳包丁を紙に包んで渡した。


「気ぃつけてな」


 その一言が、どこに向けられたものか、わからなかった。


 私は黒瀬の帰宅ルートを調べた。


 保険代理店の事務所。梅田から地下鉄。千林大宮。そこから徒歩。娘は週の半分、元妻のところにいるらしい。探偵を使ったわけではない。半年のあいだに、自然とわかった。尾行が、生活の一部になっていた。


 執行日は、雨の予報の日を選んだ。


 人通りが少ない。傘で視界が切れる。


 言い訳がましい、と自分で思った。


     *


 当日、雨は夕方から降り出した。


 黒瀬は事務所を出て、コンビニでビニール傘を買った。私は二十メートル後ろを歩いた。駅を出て、住宅街に入る。街灯が少ない。水たまりに、白い光がぼやける。


 曲がり角の先、小さな公園の脇。


 そこでやる、と決めていた。


 私は歩幅を速めた。


「黒瀬」


 声をかけると、男は振り向いた。


 最初は、誰かわからない顔をした。次に、目が見開いた。


「……椎名」


 私の名前を覚えていた。


 当たり前だ。遺族だ。


 私は傘を捨てた。雨が肩を叩いた。


「話がある」


 黒瀬の顔が、わずかに強張る。


「こんなところで?」


「ここでいい」


「……何の話や」


「お前、覚えてるか」


 黒瀬は、すぐには答えなかった。


「遥を」


 その名前を言った瞬間、喉の奥が焼けた。


「椎名遥を」


 黒瀬は目を伏せた。


「……忘れるわけないやろ」


 私は笑った。


「よく言う」


「忘れてへん」


「じゃあ、なんで生きてる」


 黒瀬は顔を上げた。雨が眼鏡に粒をつくる。


「それは……」


「なんで、お前が、娘と笑ってる」


 その瞬間、黒瀬の顔色が変わった。


「見たんか」


「見たよ」


「……つけてたんか」


「半年な」


 黒瀬の口元が、引きつった。


「お前……」


「一殺権、取った」


 私は端末を出した。


 画面の許可コードが、暗い中で白く浮いた。


「お前を殺せる」


 黒瀬は、一歩下がった。


 それが、滑稽だった。


 逃げるのか。


 今さら。


「待て」


「待たない」


「話を――」


「話は裁判で聞いた」


「ちゃう」


「違わない」


 私は距離を詰め、端末を黒瀬の胸に押し当てた。


 短い電子音。


 同期完了。


 十分。


 私は包丁を抜いた。


 黒瀬の顔が、青ざめる。


「椎名、待て」


「待ったよ。三年」


「聞け」


「何を」


「俺が、救急車呼ばへんかったのは」


「知ってる。逃げたからだろ」


「違う!」


 黒瀬が叫んだ。


 その声に、私は一瞬だけ止まった。


「違うんや」


 雨の音が、急に大きくなった気がした。


「俺は、呼んだ」


 私は、眉をひそめた。


「……は?」


「呼んだんや。すぐに。事故のあと、すぐ」


「嘘つけ」


「ほんまや!」


 黒瀬は、震えていた。恐怖だけではない。何か別の、長く抱えてきたものみたいに見えた。


「俺、飲んでた。怖かった。逃げたんは事実や。最低や。せやけど、電話はした。公衆電話から。名前も言わんと」


「裁判で、そんな話は」


「弁護士に止められた」


「は?」


「飲酒が重なる。ひき逃げの印象が悪くなる。黙っとけ言われた」


 私は、包丁を持ったまま、立ち尽くした。


「ドラレコは」


「壊れてたんやない。消した」


「……」


「せやけど、あれには、俺が電話してる声も入ってた。公衆電話の前で、パニックで叫んでた。弁護士が、出したら終わる言うた」


「だから消した?」


「そうや」


 胃の中が、冷たくなった。


 それは、より悪い告白のはずだった。なのに、私の頭は別の一点に引っかかっていた。


 電話した。


 公衆電話から。


 すぐに。


 私は、裁判の記録を思い出していた。事故発生時刻。発見時刻。通報時刻。現場近くの公衆電話。たしかに、匿名の通報が一本あった。だが、証拠不十分で結びつかなかった。


 黒瀬は、息を荒くして言った。


「俺は、クズや。せやけど、全部やない」


 その言葉が、私の胸に刺さった。


 全部やない。


 それは、言い訳だった。醜い自己弁護だった。だが同時に、この世界のポイント制度そのものみたいな言葉だった。


 全部やない。


 善と悪は、相殺される。


 人間は、一つの行為で決まりきらない。


 だからこそ、黒瀬の純善値は百あったのか。


 だからこそ、私は、三百四必要だったのか。


「……遥は」


 私の口が、勝手に動いた。


「遥は、助かったかもしれなかった」


 黒瀬は、目を閉じた。


「わからん」


 その答えが、一番残酷だった。


「わからん。でも、俺が、逃げんかったら……名前言うて、救急車ついて、ちゃんと……」


 言葉が途切れる。


「わからん。でも、俺は、それをせんかった」


 雨が、包丁の刃を伝って落ちた。


 同期から、何分経った。


 あと何分ある。


 私は、黒瀬の喉元を見た。包丁をあと二十センチ前に出せば、届く。


 合法だ。


 私は、このために半年、人を助けた。


 ゴミを拾い、皿を運び、老人の手を引き、子どもに飯を配り、駅でベビーカーを持った。


 このために。


 遥のために。


 なのに。


 今、私の頭に浮かぶのは、あの老人ホームの女の声だった。


 **来てくれたら、それでええ。**


 黒瀬の娘の笑い声だった。


 黒瀬の肩を押しのけた息子を、それでも待っていた母親の顔だった。


 そして、遥の顔だった。


 十七の、春の顔。


 コンビニの新作アイスを勝手に食って、しれっとしていた顔。


 大学のパンフレットを机に広げて、「大阪から出たい」と笑っていた顔。


 病院で見た、最後の顔ではなく。


 生きていた顔。


 遥は、私に、人を殺してほしいだろうか。


 その問いが、遅すぎることに、私は笑いそうになった。


「……椎名」


 黒瀬が言った。


「お前が俺を殺すんは、たぶん、正しい」


 私は顔を上げた。


 黒瀬は、震えながら立っていた。


「せやけど」


 眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを見ていた。


「お前が、そんなんになる必要はない」


 私は、息を呑んだ。


 その台詞を、お前が言うのか。


 そう思った。


 思ったのに。


 包丁を握る手から、力が抜けた。


 刃先が、わずかに下がる。


 黒瀬の喉が、遠ざかる。


 端末が、短く鳴った。


 **同期時間終了まで一分。**


 一分。


 たった一分。


 この国は、私に一分だけ、合法をくれた。


 私は、その一分の中で、何者にもなれなかった。


 復讐者にも。


 善人にも。


 ただ、立っていた。


 雨の中で。


 黒瀬も、動かなかった。


 逃げようと思えば逃げられたはずだ。だが、逃げなかった。たぶん、あの男も、あの瞬間だけは、何かを待っていた。


 許しではない。


 判決でもない。


 ただ、自分の人生に、一つの結末が来ることを。


 私は包丁を、ゆっくり下ろした。


 端末が鳴った。


 **執行認証失効。今回の執行は不成立です。期間内であれば再試行が可能です。**


 機械音声は、驚くほど静かだった。


 私は笑った。


 笑ってしまった。


 こんなものか。


 半年積み上げて、三十日待って、雨の中で、人を殺せなくて。


 それで終わりか。


 終わりではなかった。


 次の瞬間、黒瀬が膝をついた。


 泥水が跳ねる。


 男は、頭を下げた。


 アスファルトに額がつくほど深く。


「……すまん」


 その声は、今さらだった。


 遅すぎた。


 安すぎた。


 でも、嘘ではないように聞こえた。


 それが、腹立たしかった。


「すまん……」


 私は、包丁を握ったまま、しばらく立っていた。


 それから、刃を閉じ、コンビニの袋に戻した。


「顔を上げろ」


 黒瀬は、上げなかった。


「上げろ」


 二度目で、ゆっくり上げた。雨でぐしゃぐしゃになった顔だった。


「次はない」


 私は言った。


「お前を殺す権利は、まだ三十日ある」


 黒瀬の瞳が揺れる。


「でも、たぶん、もう使わない」


 自分で言って、胸のどこかが裂ける音がした。


「……なんでや」


 私は答えなかった。


 答えられるほど、きれいな理由じゃなかった。


 許したわけじゃない。


 納得したわけでもない。


 ただ、ここで殺したら、遥の顔が、最後に見た病院の顔に戻ってしまう気がした。


 それが嫌だった。


 それだけだった。


「娘に」


 私は言った。


「ちゃんと帰れ」


 黒瀬は、何も言えなかった。


 私は背を向けた。


 雨の中を歩き出した。傘はもう、どこかへ流れていた。


     *


 執行可能期間が終わるまで、私は黒瀬を見なかった。


 見ようと思えば見られた。尾行の癖は残っていた。だが、しなかった。


 三十日後、内閣府倫理均衡局から、簡潔な通知が届いた。


 **申請番号:K2-1174-44R**

 **執行期間終了**

 **権利未行使につき失効**


 それだけだった。


 生涯一度の権利が、終わった。


 私は端末を閉じ、机の引き出しにしまった。


 不思議と、喪失感はなかった。


 代わりに、ひどい疲労があった。


 半年分、あるいは三年分の疲労。


     *


 その後、私は善行をやめなかった。


 理由は、自分でもうまく説明できない。


 やめる理由も、なかった。


 土曜の河川敷清掃は、なんとなく続けた。老人ホームの配膳も、月に二度だけ残した。子ども食堂は、人手が足りない日に呼ばれるようになった。献血カードのスタンプが、じわじわ増えた。


 野上には、一度だけ会った。


「失効しました」


「そうですか」


「驚かないんですね」


「珍しくはありません」


 私は眉を上げた。


「使わない人、いるんですか」


「許可まで取って、最後にやめる人は、一定数います」


「なんで」


 野上は少し考えた。


「いろいろです」


「便利な言い方だ」


「本当に、いろいろです」


 それから、野上は珍しく、少しだけ笑った。


「ただ、一つ言えるのは」


「何です」


「最後まで行った人は、自分が何をしたいのか、だいたいわかってしまう」


 私は黙った。


 何をしたいのか。


 殺したいのか。


 終わらせたいのか。


 罰したいのか。


 わかってほしいのか。


 自分でも、まだ整理はついていない。


     *


 冬の初め、老人ホームの女が死んだ。


 穏やかな最期だったらしい。息子は、来ていた。最後までいた。泣いていた、と職員が教えてくれた。


 私は、通夜には行かなかった。


 代わりに、河川敷で、落ち葉を拾った。


 風が冷たかった。


 ビニール袋が、かさりと鳴る。


 その音が、妙に澄んで聞こえた。


     *


 翌年の春、私は天満橋の川沿いを歩いていた。


 ちょうど一年前、不許可通知を開いたベンチの前を通る。桜は半分散っていて、川に花びらが流れていた。


 端末が震えた。


 今度は、ただのメッセージだった。


 差出人は、見覚えのない番号。


 短い文面。


 **突然すみません。黒瀬誠司の娘です。父が先月亡くなりました。病気でした。**

 **父の遺品の中に、あなたの名前と連絡先、それから手紙がありました。お渡ししたいです。**


 私は、その場で立ち止まった。


 川の流れが、やけに遅く見えた。


 手紙。


 あの男が、何を書く。


 会うべきか。


 無視するべきか。


 私は、しばらく画面を見つめていた。


 それから、ふと、自分の手を見た。


 あの雨の日、包丁を握っていた手。


 今は、コンビニの小さなゴミ袋を提げている。さっき拾った、空き缶が二本入っていた。


 滑稽だ、と思った。


 だが、悪くなかった。


 私は返信画面を開いた。


 指が止まる。


 何を書くか、わからない。


 わからないまま、私は、ひとまず一文だけ打った。


 **会います。**


 送信。


 それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。


 川の向こうで、観光船がゆっくり進んでいく。春の客を乗せて、鈍く、静かに。


 この世界では、人は生まれた瞬間から、善と悪を数えられている。


 誰が数えているのかは、いまだにわからない。


 何をもって善とし、何をもって悪とするのかも、誰にも説明できない。


 国家はそれを利用して、人に一度だけ、殺す権利を与える。


 その制度が正しいのかどうか、私にはまだわからない。


 たぶん、一生わからない。


 ただ、一つだけ知っている。


 人を殺す資格を得るために、私は半年、人を助けた。


 そして、結局、殺さなかった。


 その順番だけは、たぶん、間違っていなかった。


 風が吹いた。


 散った花びらが、川面でくるりと回った。


 私はベンチに座り、しばらくそれを見ていた。


 端末の画面は、もう暗くなっていた。

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