三倍
通知は、火曜日の午後三時十二分に届いた。
市役所の総務課で、紙の稟議書をスキャンしていた最中だった。複合機の読み取り音に紛れて、内ポケットの端末が短く震えた。仕事中に私用端末が鳴ることは珍しくないが、その振動は設定したものではなかった。最初から入っている、公的通知専用の波形だった。
嫌な予感がした。
画面を見る前に、心臓が先に理解していた。
差出人は、内閣府倫理均衡局・近畿第二区審査課。
件名は一行だけ。
**一殺権申請に関する事前審査結果通知**
喉の奥が乾いた。
その文字列を、私は半年、待っていた。
待っていた、という言い方は正確ではない。待っていないふりをしていた。朝起きて、顔を洗い、駅まで歩き、満員電車に揺られ、総務課で判子を押し、昼にうどんを食い、帰って、コンビニでビールを買い、テレビもつけずに風呂に入り、眠る。その繰り返しの底に、沈殿物みたいに沈んでいたものが、それだった。
複合機のガラス面に映る自分の顔は、思ったより老けて見えた。三十四歳。独身。公務員。大阪市北区在住。年収四百六十万。持病なし。前科なし。家族は妹一人、死亡。
妹の名前は、遥。
その名前を、私はもう三年、口にしていない。
「椎名さん、これ今日中に回ります?」
後ろから係長が声をかけてきて、私は端末を伏せた。
「あ、はい。いけます」
「助かる」
係長は去った。私は笑っていたらしい。口角が引きつっているのが自分でもわかった。
通知は未開封のまま、ポケットの中で熱を持っていた。
勤務中に開くべきではないと理性は言った。開けば、そのあとまともに仕事ができなくなる。もし不許可なら、今日一日が終わる。もし許可でも、終わる。
どちらにせよ、終わる。
私は定時まで待った。
待てたことを、あとで少しだけ誇りに思った。
*
天満橋の川沿いは、風が強かった。
四月の終わり、昼のぬるさが引いたあとの風は、まだ少し冷たい。遊歩道のベンチに座り、私は端末を開いた。川面は濁っていて、観光船の尾が鈍く光っていた。犬を散歩させている老人、ランニングをしている若い女、制服のままコンビニの袋を下げた高校生。誰も、他人の通知を気にしない。
私は指紋認証を二度失敗した。
三度目で開く。
本文は、簡潔だった。
**申請番号:K2-1174-44**
**申請者:椎名 直人**
**対象者:黒瀬 誠司**
**事前審査結果:不許可**
そこで一度、画面が滲んだ。
風のせいか、涙か、わからなかった。
私は唇を噛み、続きを読んだ。
**不許可理由:純善値要件未達**
**申請者純善値:217**
**対象者純善値:91**
**許可基準値:273以上**
数字が、三つ。
私の値。黒瀬の値。足りない値。
私は声を出さずに笑った。
九十一。
黒瀬誠司が、九十一。
妹の人生を壊した男が、九十一。
裁判で執行猶予がつき、会社を辞めたあと、名前を変えて保険代理店をやっている男が。酔った帰りに遥を車ではねたあと、救急車も呼ばずにその場を離れた男が。翌朝になって、ドラレコの映像が消えているのを「故障」と言い張った男が。遺族の前で頭を下げながら、目だけが冷えていた男が。
あの男が、九十一。
私は、二百十七。
足りない。五十六。
わずか五十六で、私は妹を殺した男を殺す資格がない。
通知の末尾に、再申請に関する案内があった。
**再申請可能時期:六か月後**
**申請者は倫理改善プログラム(任意)を利用できます**
任意。
ふざけるな、と思った。
だが、その「任意」の文言が、夜になっても頭から離れなかった。
*
この国では、生涯に一度だけ、合法的に人を殺せる。
制度ができたのは、私が小学生の頃だった。テレビでは連日、識者が喧嘩していた。宗教家は文明の終わりだと言い、法学者は私刑の制度化だと言い、精神科医は抑圧された報復感情の安全弁だと言い、総理は「現実的な暴力管理の一環」とだけ言った。
結局、制度は通った。
正式名称は、特定生命終止許可制度。
誰もそんな名前では呼ばない。
一殺権。
それで十分だった。
制度の理念は単純だ。人間の殺意はなくならない。ならば、地下に潜らせるより、条件つきで表に出した方がいい。対象を一人に限定し、申請者の純善値が対象者の三倍以上であること。本人が直接手を下すこと。実行後は善行ポイントが三割減算されること。権利は生涯一度きり。違法に殺せば悪行ポイントが大幅に加算され、未使用の権利も失う。
復讐は、違法ではない。
ただし、資格がいる。
それだけの話だ。
この国の人間は、驚くほど早く慣れた。
ニュースで有名人の一殺権行使が報じられれば、ワイドショーは「妥当か」「感情的には理解できる」と二日ほど騒ぎ、三日目には別の話題に移る。選挙のたびに制度見直しを公約に掲げる候補は出るが、たいてい落ちる。国民の大半は、使わない。使わないまま死ぬ。だから制度は、自分には関係ないと思っている。
関係ができるまでは。
*
倫理改善プログラムの受付は、京橋駅前の古い雑居ビルの七階にあった。
もっともらしい名前のNPOが運営しているが、実態は半官半民だ。私は土曜の朝、スーツではなく、くたびれたシャツとジーンズでそこへ行った。受付の女は、私の顔を見る前に申請番号を確認し、慣れた調子で説明を始めた。
「椎名さんは純善値要件の未達ですね。任意プログラムは、違法なポイント操作ではありません。ご安心ください。あくまで日常生活の中で、継続的に善行行動を増やすための行動設計支援です」
カウンセラーの男は、三十代後半くらいだった。ネームプレートには、野上とあった。柔らかい声で、柔らかい目をしていたが、その奥に職業的な鈍さがあった。人の殺意を見慣れている目だ。
「黒瀬さんに対する申請、でしたね」
私は頷いた。
「理由は話したくありません」
「構いません。こちらは理由を評価しません」
「評価しないのに、こんなところに来させるんですか」
「理由を評価しないことと、あなたが今どの状態にあるかを見ることは、別です」
腹が立ったが、帰らなかった。
野上は端末を置き、机の上に一枚の紙を出した。今どき珍しい、紙だった。そこには、項目が並んでいる。
地域清掃、献血、介護補助、通学路見守り、災害備蓄支援、保護犬一時預かり、遺品整理補助、病院付き添い、里親登録説明会、夜間巡回。
「こういうことをやれって?」
「やるかどうかは自由です。ただ、善行ポイントは基本的に“結果”ではなく“継続”に強く反応します。一度大きな寄付をするより、週に一度、誰かの生活を支える行動の方が伸びやすい」
「ずいぶん詳しいんですね」
「仕事ですから」
「どうせ、正確な数値は教えない」
「はい」
苛立ちが口をついた。
「五十六足りないんです。五十六。半年で埋まると思いますか」
野上は少しだけ黙った。
「制度上、数値の推移予測はお伝えできません」
「予測じゃなくて、あなたの感想を聞いてる」
「感想を言うと、依存が生まれます」
「便利な仕事ですね」
野上は反論しなかった。
「一つだけ、個人的なことを言います」
私は顔を上げた。
「善行ポイントを稼ぐ、という言い方をすると、たいてい失敗します。あれは、たぶん、そういうふうにできていない」
「たぶん?」
「誰も仕組みを知りませんから」
この世界のポイントは、国家が管理しているが、国家が作っているわけではない。そこが、この制度の根本的な気味悪さだ。
善行ポイントと悪行ポイントは、ある日突然、世界に現れた。
正確には、可視化された。出生時から全員に付与され、どんなデータベースにも存在し、どんな国でも参照できる。誰が、どういう原理で、何を基準に算定しているのかは、わからない。国家はそれを利用しているだけだ。昔は宗教が飛びつき、科学者が解析し、陰謀論者が騒いだ。今はもう、みんな飽きた。
飽きたが、従っている。
野上は紙を私に差し出した。
「半年あります。やるなら、徹底的にやってください」
「それで足りなかったら?」
「そのとき考えましょう」
私はその紙を、ひったくるように受け取った。
*
最初の一か月は、ただの作業だった。
平日は仕事。土曜の朝は河川敷の清掃。日曜は老人ホームの配膳補助。水曜の夜は子ども食堂の片付け。月に一度の献血。通勤時には駅の階段でベビーカーを持つ。コンビニで募金箱に小銭を入れる。信号待ちのあいだに落とし物を拾う。迷子の子どもに声をかける。
自分でも、吐き気がした。
こんなもののために。
遥、お前のために、俺はこんな偽善をやってる。
そう思っていた。
だが、二か月目の終わり、老人ホームで一人の女に声をかけられた。
「お兄ちゃん、あんた、前も来てた?」
九十を超えているらしい。背中が丸く、目だけが妙に澄んでいた。
「ええ、何回か」
「うちの息子は来んのよ」
そう言って、女は笑った。
「忙しいからなあ。ええ仕事してるんやろうし」
私は曖昧に頷いた。女は、湯呑みを両手で持ちながら、私を見た。
「あんたは、なんで来てんの」
私は答えなかった。
答えられなかった。
「なんでもええけどな」
女は笑ったまま言った。
「来てくれたら、それでええ」
その日の帰り、京橋の駅で、私はしばらくホームの端に立っていた。電車が入ってくる風が、頬に当たる。何も変わっていないはずなのに、妙に疲れていた。
偽善で誰かが助かるなら、それは善なのか。
そんなことを考えた自分に、腹が立った。
遥は死んだんだぞ。
お前は何を揺らいでいる。
*
三か月目に、黒瀬を見た。
梅田の地下街だった。
向こうは私に気づかなかった。いや、気づいても、気づかないふりをしたのかもしれない。黒瀬は以前より痩せていた。髪が短くなり、眼鏡をかけていた。紺のスーツに、安っぽいネクタイ。横には、中学生くらいの女の子がいた。手をつないでいる。
娘か。
私はその場で足が止まった。
黒瀬が、しゃがんで、女の子の靴紐を結んだ。女の子は何か言って笑った。黒瀬も、笑った。
世界が、ぐらりと歪んだ。
あの男が。
遥の血をアスファルトに放置した男が。
あんな顔で笑うのか。
私はあとをつけた。
地下街から地上へ。阪急東通の外れ。小さな文房具店。黒瀬は女の子にノートを買い、店を出た。女の子は跳ねるように歩く。黒瀬は少し離れてついていく。父親の歩幅だ。守るための距離だ。
私は、路地の角で立ち尽くした。
その夜、私は初めて、善行を休んだ。
ビールを二本飲んで、吐いた。
こんな世界は間違っている、と思った。
だが、何が間違っているのか、うまく言えなかった。
黒瀬の純善値が九十一あることか。娘がいることか。笑うことか。生きていることか。
あるいは、私がそれに動揺していることか。
*
四か月目、野上との面談で、私は黒瀬を見たことを話した。
「娘さん、だと思います」
「そうですか」
「娘がいたら、善行ポイントが上がるんですか」
「子育ては継続行動ですから、上がることはあります」
「ふざけてる」
「制度は、感情を見ません」
「見てるでしょう。動機とか、そういうのを」
「少なくとも、一殺権の審査は見ません」
野上はそこで言葉を切った。
「ただ、ポイントそのものが何を見ているかは、誰にもわかりません」
私は笑った。
「便利ですね、その言い方」
「便利じゃありません。だから皆、苛立ってる」
珍しく、野上の声が少しだけ硬かった。
「人は、善悪に説明を求める。明確な基準を欲しがる。でも、この世界はそれをくれなかった。だから、せめて制度の方だけでも、形式にするしかなかった」
「形式」
「三倍、という数字です」
「誰が決めたんです」
「国会です」
私は鼻で笑った。
「じゃあ、三倍じゃなくてもよかった」
「そうですね。二倍でも、五倍でも」
「なのに三倍」
「人間は、意味があると思いたがるから」
その言葉は、妙に胸に残った。
意味があると思いたがる。
遥が死んだことにも。
私が今、ゴミ袋を持って河川敷を歩いていることにも。
*
五か月目、私は、老人ホームの帰りに、あの女の息子に会った。
会った、というより、乗り込んできた。
受付で怒鳴っていた。五十代くらいの男。高そうな時計をして、声だけが大きい。
「何回言わせんねん! 延命措置はするな言うてるやろ!」
職員が困った顔をしている。
私は、盆を片付ける手を止めた。
「親父のときもそうやったやろ、あんたら勝手に――」
そこまで聞いて、気づいた。
親父のときも。
つまり、この男は、あの女の夫も見送ったのだ。
私は職員に目で合図され、男の前に立った。
「すみません、面会時間、もう――」
「なんやお前」
酒の匂いがした。昼間から飲んでいるらしい。
「職員ちゃうやろ。ボランティアが口出すなや」
私は一瞬だけ、拳を握った。
その瞬間、はっきりとわかった。
ここで殴れば、悪行ポイントが積まれる。
その計算が、反射みたいに頭をよぎった自分に、うんざりした。
だが私は、拳を開いた。
「お母さん、待ってますよ」
男は舌打ちして、私を肩で押しのけ、奥へ行った。
私は壁にぶつかった。痛みは軽かった。だが、そのあと、奥から聞こえてきた女の声に、足が止まった。
「あんた、来たんか」
嬉しそうだった。
あの声を聞いて、私は動けなくなった。
それでも、来たことを喜ぶのか。
あんな息子でも。
その日の夜、私は黒瀬のことを考えた。
もし、黒瀬の娘が、黒瀬を待っていたら。
私が黒瀬を殺したあと、その子は、どんな声を出すだろう。
考えるな、と自分に言った。
それは関係ない。
遥には、誰も帰ってこなかった。
*
六か月目の終わり、私は再申請した。
同じ対象。
黒瀬誠司。
理由の記入欄は、今回も空白にした。
面談で、野上は何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
通知は、前回と同じく火曜日に届いた。
今度は、職場のトイレで開いた。
個室に入って、蓋を閉め、手を震わせながら画面を見る。
**申請番号:K2-1174-44R**
**申請者:椎名 直人**
**対象者:黒瀬 誠司**
**事前審査結果:許可**
息が止まった。
続き。
**申請者純善値:304**
**対象者純善値:100**
**許可基準値:300以上**
**執行可能期間:通知日より30日間**
ぎりぎりだった。
私の純善値は、三百四。
黒瀬は、百。
九十一から百に増えていた。
それでも、届いた。
私は個室の中で、便器に手をついて、しばらく頭を下げていた。
吐きそうだった。
嬉しいのか、怖いのか、わからなかった。
許可された。
私は、黒瀬を殺せる。
国家が、それを認めた。
その日の夜、私は川沿いを歩いた。
風はなかった。
水面は黒く、街の光だけが歪んでいた。
ポケットの中の許可証コードが、鉛みたいに重かった。
*
一殺権の執行方法は、細かく定められている。
刃物でも銃でも、毒でも、首でも、構わない。ただし、最終的な致死行為は申請者本人が直接行うこと。第三者の委託は不可。事故偽装は無効。執行時には、認証端末を対象に接触させ、許可コードを同期させる必要がある。同期後、十分以内に致死行為が行われなければ、執行は失敗として扱われる。期間内なら再試行は可能だが、対象は逃亡可能。
要するに、逃がすな、ということだ。
私は包丁を買った。
通販ではなく、商店街の刃物屋で。店主は何も言わなかった。最近は、一殺権の期間中に刃物を買う人間の情報が、店側には表示されるらしいという噂がある。本当かどうかは知らない。店主は、よく切れる家庭用の三徳包丁を紙に包んで渡した。
「気ぃつけてな」
その一言が、どこに向けられたものか、わからなかった。
私は黒瀬の帰宅ルートを調べた。
保険代理店の事務所。梅田から地下鉄。千林大宮。そこから徒歩。娘は週の半分、元妻のところにいるらしい。探偵を使ったわけではない。半年のあいだに、自然とわかった。尾行が、生活の一部になっていた。
執行日は、雨の予報の日を選んだ。
人通りが少ない。傘で視界が切れる。
言い訳がましい、と自分で思った。
*
当日、雨は夕方から降り出した。
黒瀬は事務所を出て、コンビニでビニール傘を買った。私は二十メートル後ろを歩いた。駅を出て、住宅街に入る。街灯が少ない。水たまりに、白い光がぼやける。
曲がり角の先、小さな公園の脇。
そこでやる、と決めていた。
私は歩幅を速めた。
「黒瀬」
声をかけると、男は振り向いた。
最初は、誰かわからない顔をした。次に、目が見開いた。
「……椎名」
私の名前を覚えていた。
当たり前だ。遺族だ。
私は傘を捨てた。雨が肩を叩いた。
「話がある」
黒瀬の顔が、わずかに強張る。
「こんなところで?」
「ここでいい」
「……何の話や」
「お前、覚えてるか」
黒瀬は、すぐには答えなかった。
「遥を」
その名前を言った瞬間、喉の奥が焼けた。
「椎名遥を」
黒瀬は目を伏せた。
「……忘れるわけないやろ」
私は笑った。
「よく言う」
「忘れてへん」
「じゃあ、なんで生きてる」
黒瀬は顔を上げた。雨が眼鏡に粒をつくる。
「それは……」
「なんで、お前が、娘と笑ってる」
その瞬間、黒瀬の顔色が変わった。
「見たんか」
「見たよ」
「……つけてたんか」
「半年な」
黒瀬の口元が、引きつった。
「お前……」
「一殺権、取った」
私は端末を出した。
画面の許可コードが、暗い中で白く浮いた。
「お前を殺せる」
黒瀬は、一歩下がった。
それが、滑稽だった。
逃げるのか。
今さら。
「待て」
「待たない」
「話を――」
「話は裁判で聞いた」
「ちゃう」
「違わない」
私は距離を詰め、端末を黒瀬の胸に押し当てた。
短い電子音。
同期完了。
十分。
私は包丁を抜いた。
黒瀬の顔が、青ざめる。
「椎名、待て」
「待ったよ。三年」
「聞け」
「何を」
「俺が、救急車呼ばへんかったのは」
「知ってる。逃げたからだろ」
「違う!」
黒瀬が叫んだ。
その声に、私は一瞬だけ止まった。
「違うんや」
雨の音が、急に大きくなった気がした。
「俺は、呼んだ」
私は、眉をひそめた。
「……は?」
「呼んだんや。すぐに。事故のあと、すぐ」
「嘘つけ」
「ほんまや!」
黒瀬は、震えていた。恐怖だけではない。何か別の、長く抱えてきたものみたいに見えた。
「俺、飲んでた。怖かった。逃げたんは事実や。最低や。せやけど、電話はした。公衆電話から。名前も言わんと」
「裁判で、そんな話は」
「弁護士に止められた」
「は?」
「飲酒が重なる。ひき逃げの印象が悪くなる。黙っとけ言われた」
私は、包丁を持ったまま、立ち尽くした。
「ドラレコは」
「壊れてたんやない。消した」
「……」
「せやけど、あれには、俺が電話してる声も入ってた。公衆電話の前で、パニックで叫んでた。弁護士が、出したら終わる言うた」
「だから消した?」
「そうや」
胃の中が、冷たくなった。
それは、より悪い告白のはずだった。なのに、私の頭は別の一点に引っかかっていた。
電話した。
公衆電話から。
すぐに。
私は、裁判の記録を思い出していた。事故発生時刻。発見時刻。通報時刻。現場近くの公衆電話。たしかに、匿名の通報が一本あった。だが、証拠不十分で結びつかなかった。
黒瀬は、息を荒くして言った。
「俺は、クズや。せやけど、全部やない」
その言葉が、私の胸に刺さった。
全部やない。
それは、言い訳だった。醜い自己弁護だった。だが同時に、この世界のポイント制度そのものみたいな言葉だった。
全部やない。
善と悪は、相殺される。
人間は、一つの行為で決まりきらない。
だからこそ、黒瀬の純善値は百あったのか。
だからこそ、私は、三百四必要だったのか。
「……遥は」
私の口が、勝手に動いた。
「遥は、助かったかもしれなかった」
黒瀬は、目を閉じた。
「わからん」
その答えが、一番残酷だった。
「わからん。でも、俺が、逃げんかったら……名前言うて、救急車ついて、ちゃんと……」
言葉が途切れる。
「わからん。でも、俺は、それをせんかった」
雨が、包丁の刃を伝って落ちた。
同期から、何分経った。
あと何分ある。
私は、黒瀬の喉元を見た。包丁をあと二十センチ前に出せば、届く。
合法だ。
私は、このために半年、人を助けた。
ゴミを拾い、皿を運び、老人の手を引き、子どもに飯を配り、駅でベビーカーを持った。
このために。
遥のために。
なのに。
今、私の頭に浮かぶのは、あの老人ホームの女の声だった。
**来てくれたら、それでええ。**
黒瀬の娘の笑い声だった。
黒瀬の肩を押しのけた息子を、それでも待っていた母親の顔だった。
そして、遥の顔だった。
十七の、春の顔。
コンビニの新作アイスを勝手に食って、しれっとしていた顔。
大学のパンフレットを机に広げて、「大阪から出たい」と笑っていた顔。
病院で見た、最後の顔ではなく。
生きていた顔。
遥は、私に、人を殺してほしいだろうか。
その問いが、遅すぎることに、私は笑いそうになった。
「……椎名」
黒瀬が言った。
「お前が俺を殺すんは、たぶん、正しい」
私は顔を上げた。
黒瀬は、震えながら立っていた。
「せやけど」
眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「お前が、そんなんになる必要はない」
私は、息を呑んだ。
その台詞を、お前が言うのか。
そう思った。
思ったのに。
包丁を握る手から、力が抜けた。
刃先が、わずかに下がる。
黒瀬の喉が、遠ざかる。
端末が、短く鳴った。
**同期時間終了まで一分。**
一分。
たった一分。
この国は、私に一分だけ、合法をくれた。
私は、その一分の中で、何者にもなれなかった。
復讐者にも。
善人にも。
ただ、立っていた。
雨の中で。
黒瀬も、動かなかった。
逃げようと思えば逃げられたはずだ。だが、逃げなかった。たぶん、あの男も、あの瞬間だけは、何かを待っていた。
許しではない。
判決でもない。
ただ、自分の人生に、一つの結末が来ることを。
私は包丁を、ゆっくり下ろした。
端末が鳴った。
**執行認証失効。今回の執行は不成立です。期間内であれば再試行が可能です。**
機械音声は、驚くほど静かだった。
私は笑った。
笑ってしまった。
こんなものか。
半年積み上げて、三十日待って、雨の中で、人を殺せなくて。
それで終わりか。
終わりではなかった。
次の瞬間、黒瀬が膝をついた。
泥水が跳ねる。
男は、頭を下げた。
アスファルトに額がつくほど深く。
「……すまん」
その声は、今さらだった。
遅すぎた。
安すぎた。
でも、嘘ではないように聞こえた。
それが、腹立たしかった。
「すまん……」
私は、包丁を握ったまま、しばらく立っていた。
それから、刃を閉じ、コンビニの袋に戻した。
「顔を上げろ」
黒瀬は、上げなかった。
「上げろ」
二度目で、ゆっくり上げた。雨でぐしゃぐしゃになった顔だった。
「次はない」
私は言った。
「お前を殺す権利は、まだ三十日ある」
黒瀬の瞳が揺れる。
「でも、たぶん、もう使わない」
自分で言って、胸のどこかが裂ける音がした。
「……なんでや」
私は答えなかった。
答えられるほど、きれいな理由じゃなかった。
許したわけじゃない。
納得したわけでもない。
ただ、ここで殺したら、遥の顔が、最後に見た病院の顔に戻ってしまう気がした。
それが嫌だった。
それだけだった。
「娘に」
私は言った。
「ちゃんと帰れ」
黒瀬は、何も言えなかった。
私は背を向けた。
雨の中を歩き出した。傘はもう、どこかへ流れていた。
*
執行可能期間が終わるまで、私は黒瀬を見なかった。
見ようと思えば見られた。尾行の癖は残っていた。だが、しなかった。
三十日後、内閣府倫理均衡局から、簡潔な通知が届いた。
**申請番号:K2-1174-44R**
**執行期間終了**
**権利未行使につき失効**
それだけだった。
生涯一度の権利が、終わった。
私は端末を閉じ、机の引き出しにしまった。
不思議と、喪失感はなかった。
代わりに、ひどい疲労があった。
半年分、あるいは三年分の疲労。
*
その後、私は善行をやめなかった。
理由は、自分でもうまく説明できない。
やめる理由も、なかった。
土曜の河川敷清掃は、なんとなく続けた。老人ホームの配膳も、月に二度だけ残した。子ども食堂は、人手が足りない日に呼ばれるようになった。献血カードのスタンプが、じわじわ増えた。
野上には、一度だけ会った。
「失効しました」
「そうですか」
「驚かないんですね」
「珍しくはありません」
私は眉を上げた。
「使わない人、いるんですか」
「許可まで取って、最後にやめる人は、一定数います」
「なんで」
野上は少し考えた。
「いろいろです」
「便利な言い方だ」
「本当に、いろいろです」
それから、野上は珍しく、少しだけ笑った。
「ただ、一つ言えるのは」
「何です」
「最後まで行った人は、自分が何をしたいのか、だいたいわかってしまう」
私は黙った。
何をしたいのか。
殺したいのか。
終わらせたいのか。
罰したいのか。
わかってほしいのか。
自分でも、まだ整理はついていない。
*
冬の初め、老人ホームの女が死んだ。
穏やかな最期だったらしい。息子は、来ていた。最後までいた。泣いていた、と職員が教えてくれた。
私は、通夜には行かなかった。
代わりに、河川敷で、落ち葉を拾った。
風が冷たかった。
ビニール袋が、かさりと鳴る。
その音が、妙に澄んで聞こえた。
*
翌年の春、私は天満橋の川沿いを歩いていた。
ちょうど一年前、不許可通知を開いたベンチの前を通る。桜は半分散っていて、川に花びらが流れていた。
端末が震えた。
今度は、ただのメッセージだった。
差出人は、見覚えのない番号。
短い文面。
**突然すみません。黒瀬誠司の娘です。父が先月亡くなりました。病気でした。**
**父の遺品の中に、あなたの名前と連絡先、それから手紙がありました。お渡ししたいです。**
私は、その場で立ち止まった。
川の流れが、やけに遅く見えた。
手紙。
あの男が、何を書く。
会うべきか。
無視するべきか。
私は、しばらく画面を見つめていた。
それから、ふと、自分の手を見た。
あの雨の日、包丁を握っていた手。
今は、コンビニの小さなゴミ袋を提げている。さっき拾った、空き缶が二本入っていた。
滑稽だ、と思った。
だが、悪くなかった。
私は返信画面を開いた。
指が止まる。
何を書くか、わからない。
わからないまま、私は、ひとまず一文だけ打った。
**会います。**
送信。
それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
川の向こうで、観光船がゆっくり進んでいく。春の客を乗せて、鈍く、静かに。
この世界では、人は生まれた瞬間から、善と悪を数えられている。
誰が数えているのかは、いまだにわからない。
何をもって善とし、何をもって悪とするのかも、誰にも説明できない。
国家はそれを利用して、人に一度だけ、殺す権利を与える。
その制度が正しいのかどうか、私にはまだわからない。
たぶん、一生わからない。
ただ、一つだけ知っている。
人を殺す資格を得るために、私は半年、人を助けた。
そして、結局、殺さなかった。
その順番だけは、たぶん、間違っていなかった。
風が吹いた。
散った花びらが、川面でくるりと回った。
私はベンチに座り、しばらくそれを見ていた。
端末の画面は、もう暗くなっていた。




