第5話「立ち入り禁止区域のワックスがけ」
ダンジョンの入り口は、今日も多くの探索者たちで賑わっていた。
重厚な鎧に身を包んだ戦士たちや、華麗な法衣を纏った魔術師たちが、それぞれの目的を持って地下へと降りていく。
その喧騒の中、サトウは作業着姿で、誰の目にも留まらないように隅を歩いていた。
「おい、見ろよ。またあの掃除屋だ」
「懲りないよな。こんなところを箒で掃いて、一体何になるんだか」
通りすがりの探索者たちが、冷ややかな視線を投げかける。
彼らにとって、ダンジョンは命を懸けた戦いの場であり、掃除などという卑近な作業は、無能な者の逃げ道にしか見えなかった。
サトウは、そんな陰口を気に留めることすらなかった。
彼らの靴の裏についている泥が、せっかくの入り口の石畳を汚していることの方が、よほど腹立たしかった。
サトウは地下2層を通り過ぎ、さらに奥へと進んだ。
やがて、鋼鉄の格子で閉ざされた重い扉が姿を現す。
そこには「危険・立ち入り禁止」の赤い文字が刻まれ、封印の魔法が施されていた。
地下3層。
公式には、Bランク以上のパーティーのみが入場を許可される「上級区域」の始まりだった。
だが、サトウの持つFランクライセンスは、ある意味で万能だった。
「清掃員」としての職務権限は、探索者としての制限を超えて、あらゆる場所への立ち入りを可能にする裏道のようなものだった。
彼は慣れた手つきで、管理用のマスターキーを取り出し、鍵穴に差し込んだ。
ギィ、という重苦しい音が響き、扉が開く。
そこから漏れ出してきた空気は、地下2層とは比較にならないほど濃密な死の気配を帯びていた。
湿度は高く、壁一面には青白い粘液を出す苔がびっしりと張り付いている。
それは魔物たちの活動によって生じた、不浄の極みだった。
「……これは、ひどいな」
サトウは思わず口元を覆った。
彼にとって、この光景は地獄そのものだった。
この美しくない空間を、一刻も早く浄化しなければならない。
使命感に燃える彼は、背負っていた球体を取り出し、空中に浮かべた。
「記録開始。地下3層、壁面及び床面の全面清掃」
彼が宣言すると同時に、球体は眩い光を放ち、全世界へと映像を送り始めた。
昨夜の熱狂冷めやらぬ視聴者たちが、一斉に画面に釘付けになる。
『おい、始まったぞ! 例の掃除屋だ!』
『待て、あそこ地下3層じゃないか? 嘘だろ、一人で行く場所じゃない』
『あの苔、猛毒を出す「キラーモス」だぞ。触れただけで皮膚が溶けるって……』
『あ、あいつ! 素手で触りやがった!』
コメント欄が絶叫に包まれる中、サトウは平然と壁の苔を素手で引き剥がしていた。
彼の手のひらには、極薄の魔力膜が張られており、毒素を通さない。
それは彼が無意識に編み出した「究極のゴム手袋」代わりの防護術だった。
「この苔、根が深いな。少し酸性洗剤を混ぜた方がよさそうだ」
サトウは腰のバケツから液体を取り出し、壁に霧吹きで吹きかけた。
シュッ、という微かな音が響く。
通常、魔力の結晶体であるキラーモスを溶かすには、高位の爆裂魔法が必要とされる。
しかし、サトウの作った自作洗剤は、その組織を原子レベルで分解し、ただの水へと変えていく。
ドロドロと溶け落ちる不浄を、彼は迷いのない動作で拭き取っていった。
一歩、また一歩と進むたびに、暗鬱だった通路に「清潔」という名の光が灯っていく。
サトウの動きは、昨夜よりもさらに洗練されていた。
壁を拭く動作と、足を運ぶ動作が完全に同調し、流れるような円舞を奏でている。
視聴者たちは、その圧倒的な機能美に、言葉を失って見入っていた。
しかし、地下3層の静寂は、長くは続かなかった。
壁の不浄が取り除かれたことで、この階層に潜む「掃除を嫌う者たち」が、異変を察知して集まり始めていたのだ。
闇の奥から、無数の赤い瞳がサトウを見つめていた。
「ふむ……。少し、風通しを良くした方がよさそうだな」
サトウは、迫りくる危機に気づきながらも、ただ「空気のよどみ」を解消することだけを考えていた。




